2021年3月28日日曜日

レント④

 今朝はイエス様の復活をお祝いするイースターの一週間前、受難週の礼拝です。金曜日の夜には聖餐礼拝をおこないます。皆様と一緒にイエス様の十字架の苦しみを思い巡らし、聖餐を通して、十字架の恵みを味わうひと時がもてたらと願っています。この様な状況ですので、無理をなさる必要は全くありませんが、可能な方はぜひご参加ください。聖餐礼拝では、大竹海二先生が説教をしてくださいます。

また、来週のイースターの礼拝では、二人の姉妹が受洗、森家の常喜さんが幼児洗礼、伊藤節郎兄が転会されることになります。私たちとともに、イエス様に従う人生を歩み始める方々、歩んでこられた方を心から歓迎し、祝福する時になればと願っています。

さて、今年の受難節の礼拝では、イエス様が十字架上で語られた七つの言葉を取り上げ、説教してきました。今朝取り上げるのは十字架上の第四の言葉です。

 

15:33,34「さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」

 

イエス様が十字架につけられたのは紀元30年の春、ユダヤ人が最も大切にしていたお祭り、過越しの祭りが始まる前の金曜日午前9時のことでした。3時間の苦しみの後、12時に突然全地が暗くなり午後3時まで続きました。その時暗闇に包まれた十字架から、イエス様が大声で叫ぶ声が聞こえて来たんです。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」

実はこの言葉、人々に戸惑いをもたらしてきた言葉でもあります。キリスト教会の歴史には殉教したクリスチャンが沢山います。しかし、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死んでいった殉教者は記録にありません。クリスチャンがこのように叫んで、死ぬことがあるでしょうか。もし、あったとして、人はそれを記録に残し語り伝えるでしょうか。ある人々が言うように、イエス様は弱音を吐き、悲鳴を挙げて人生を終えたということになるのでしょうか。

ギリシャの哲学者ソクラテスは、イエス様と同じように不当な裁判を受けて死刑にされました。しかし、少しも慌てふためくことなく、「悪法と言えども国法なり。」と言って、自ら毒杯を仰いで死んでゆきました。このソクラテスの見事な最後に比べて、イエス様の最後は何と未練がましいことか。そう言ってキリスト教を批判する人もいます。しかし、本当にそうなのでしょうか。

イエス様が地上に来られた理由、それは父なる神が創造されたこの世界が、人の罪のゆえに堕落した状態に落ち込んでいたからです。本来礼拝されるべき神を礼拝する者は僅かしかいない。本来愛し合うべき人間が憎み合う。本来平和であるべき世界から争いが絶えない。本来皆が豊かな生活を送れるはずなのに、貧富の差は広がるばかり。

しかし、罪の中に陥ったこの世界を、父なる神は決してあきらめたりはしなかったんです。その神の思いを知っておられるイエス様は、ご自分が神の御子であるという栄光を捨ててでも、人となることを選ばれたんです。人々がみな神のことばに従う世界になるように、私たちが罪から救い出されるように、一生懸命福音を伝えて歩かれました。泊まる家がなく、石を枕に眠ることがあっても、疲れ果てて船底で眠りながらも、飢え渇くことがあっても、それでも病人を癒し、福音を語り、人々を罪から救い出すために、イエス様は仕えて来られたんです。

しかし、その労苦のすべてをイエス様は否定されました。ユダヤの指導者も、宗教家も、民衆も、ローマの総督も兵士たちも、十字架につけられていた犯罪者も、みながイエス様を嘲ったんです。「お前が本当に救い主なら、十字架から降りてみろ。自分を救え。俺たちのことを助けてみろ。」イエス様はご自分が愛した者たちによって、ご自分が仕えた者たちによって裏切られ、馬鹿にされ、罵られたんです。こんなに悔しいことがあるでしょうか。

しかし、そうなることをご存じで、イエス様は地上に来てくださったんです。人々から捨てられ、十字架につけられる道が父なる神のみ心であると知り、その道を進みゆく覚悟を持たれていたんです。それは、弟子たちが「あなたは神の子、キリスト」と告白した時のことでした。

 

マルコ8:31「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」

 

けれども、人々から捨てられ、十字架につけられる苦しみを受けとめ、覚悟を決められたイエス様にも、受け入れがたい神のみこころがありました。それは父なる神に捨てられること、罪人として神の裁きを受けることでした。この世界が創造される前から、父なる神と子なる神イエス様は愛の交わりの中にありました。神のみこころに従って、イエス様はこの世界に下り、人々を愛し、仕え、十字架への道を選ばれたんです。

しかし、その十字架において、人々に否定され、嘲られる、その苦しみには耐えられるとしても、愛する天の父から捨てられる苦しみには耐えがたい。それが最後の最後までイエス様の悩みでした。天の父のみこころには従いたい、しかし、天の父から裁かれることは耐え難い。悩みに悩むイエス様は十字架前夜、ゲッセマネの園で祈りを捧げています。

 

14:3236「さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

 

「この杯」と呼ばれた苦しみ、天の父から捨てられ、裁かれるという苦しみが、どれ程イエス様を悩ませていたことかが伝わってくる場面です。いつも天の父に従うことを喜びとして来られたイエス様が、十字架を前に「この杯だけは取り去ってください」と祈られた。これほど悲しみもだえるその姿に、神に捨てられ、裁かれることの底知れない恐ろしさを、私たちは覚えます。

そして、翌日の昼12時全地が暗闇に包まれました。聖書において、暗闇は神の裁きのシンボルです。イエス様があれ程恐れ、悲しんでおられた神の裁きが、この時イエス様に下りました。イエス様は捨てられたのです。

私がクリスチャンになって三年目のクリスマス。キャンドルライトサービスで一人の兄弟が証しをしてくれました。立派な社会的な肩書をお持ちでありながら、いつも教会の玄関で来会者に気を遣い、そっとスリッパを差し出す奉仕を黙々とささげる兄弟でした。そんな兄弟がですよ、「イエス様が十字架でこの叫びを叫んでくださらなければ、僕の罪は赦されなかった。」と告白したんです。残念ながらその時の私にはよくその意味が理解できませんでしたが、今なら分かる気がします。

本当なら、罪人である私たちが裁かれて、神様に捨てられなければなりませんでした。それが、罪のない神の御子が人となられ、私たちの罪をすべて背負って、私たちに変わって裁きを受けられました。世界で最大の罪人として神様に捨てられたんです。もし、イエス様があの叫びを叫んでくださらなければ、私たちの罪は赦されることはなかったということです。

イエス様が罪人の一人として苦しまれたところ、そこは底なしの暗闇です。一筋の光さえさすことのない闇の世界です。しかし、その様な暗闇の世界から、イエス様はご自分を見捨てた神に向かって、「わが神、わが神」と叫ばれました。これ以上はないという絶望的な状況の中にありながら、それでもなお神様を「私の神」と呼び、神様への信頼を捨てることはなかったのです。

イエス様の地上の生涯は神様に従う歩みでした。神様のみこころから外れることのない、完全な歩みでした。その完全な従順は十字架の死の瞬間、神様に見捨てられるという状況においても変わることはありませんでした。つまり、イエス様だけが神様から見てただ一人の義人だったんです。

ただ一人の義人であり、神様の祝福を受けるにふさわしいイエス様が、何故自ら神様の裁きを受けられたのでしょうか。聖書はこう教えています。

 

コリント第二5:21「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」

 

罪のないイエス様が、私たちの代わりに、罪人として神様に捨てられるという苦しみを忍び通してくださいました。神様は私たちに下すべき裁きをイエス様に下し、イエス様にこそふさわしい義の祝福を私たちに与えてくださいました。だからこそ、私たちは罪あるままで神様に義と認められ、そんな資格は全くないのに、神様の家族に迎えられたのです。

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」今朝、私たちはこの主の言葉を静かに思い巡らしたいと思います。今朝だけでなく、生涯をかけて思いめぐらすべき言葉でしょう。多くの人が言うように、この言葉に込められたイエス様の思いを理解しつくすことは、人間には不可能とも思えます。

しかし、そうであったとしても、この言葉は私たちの罪の深さを示しています。私たちが自分の罪を軽く見ることを戒める言葉です。たとえ、私たち人間の目にはどんなに小さな罪に思えても、イエス様の血が流されねば、罪の赦しはありません。同時に、この言葉は天の父の愛、イエス様の愛を教えてくれます。愛する御子を見捨てた天の父の苦しみ、愛する父に捨てられたイエス様の苦しみ。人間には測り知ることのできない苦しみを伴う愛が、今朝礼拝に集う私たちに注がれていることを、確信したいと思います。

最後に確認したいのは、今朝このイエス様の叫びを聞いた私たちの生き方です。十字架への道を歩む決意を語った時、イエス様は弟子たちにこう教えています。

 

マルコ8:34,35「それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」

 

イエス様の歩まれた道、それは自分を捨てる道です。イエス様は神の御子としての栄誉を捨て、罪人の一人となりました。完全に神様に従った者が受けるべき祝福を捨て、それを私たちに与えてくださいました。イエス様は私たちにも「自分を捨ててみたらどうか」と勧めています。

私たちの人生を苦しめているものは何でしょうか。それは自分を巡る問題です。私たちはどれ程自分にこだわっているでしょうか。イエス様は「自分の命を救おうと思う者はそれを失う」と言われました。私たちは今日もいつも自分を巡る戦いをしています。自分がどうみられているのか。自分がこうあるべきと思うことをやらない人たちに腹が立つ。自分の思うように生きられないことに腹が立つ。この進路に進むことが出来ないなら、自分の人生はダメになる。家の子どもは最低現これ位の人生を歩んでくれないと、私が恥ずかしい。なぜ自分ばかりがこんな目に会うのか。自分の状況、自分の健康、自分の進路、自分の家族、自分の人生を自分で受け入れられないんです。

何故でしょうか。深いところで私たちは思っているんです。自分はこんな者じゃあないと。人から批判されると何故腹が立つのか。自分はそんなことを言われる人間じゃあないと思っているんです。自分が握りしめているプライドが、実は私たちの人生を損ない続けているんです。逆に自分の人生は意味がない、価値がないと落ち込んでいるとしても、私たちは自分の人生を無駄だと感じ、踏みにじっているんです。

イエス様は「そんな自分を捨ててごらん」と語ります。しかし、悲しいことに私たちは自分の努力で自分を捨てることはできません。一度は捨てたはずのプライドを、一度は捨てたはずのやり方を、もう一度拾って、また握りしめている自分がいます。だから「自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」。そうイエス様は命じておられるんです。

自分の十字架を負うとは、どういうことでしょうか。イエス様の様に十字架にかかって死ぬことでしょうか。違いますね。むしろ、イエス様に赦された命、与えられた命に生きることです。自分の十字架を負うとは、十字架の主の前に日々出てゆくことです。イエス様から愛され、赦されている喜びを味わいながら生きることです。

自分を捨てるとは何もなくなることではありません。自分を捨てる時、私たちはイエス様の愛に生かされている自分を見出すことができます。愛のない、人を赦せない、自分にだけ甘く、自分に取っての損得をすぐに考えてしまう私たちが、神の御子であることを捨ててまで仕えてくださったイエス様と共に歩む時、本当の自分が見えてきます。「わたしはあなたのために自分を捨てた」と言われる十字架の主の前に出る時、私たちは「ああこんなにも自分のことこだわらなくても良いのではないか」と思えてくるんです。もう自分の思い通りに生きてゆけなくても、自分の握りしめていたものを手放すことになったとしても、精一杯目の前にあることに生きてゆこう。背負うべき仕事、背負うべき家族、背負うべき生活を、向き合うことを避けてきたあの人との関係も、自分の弱さでさえも背負ってみようと思えてくるんです。十字架の主イエスの愛に包まれる時、私たちは自分に与えられた命の本当の使い方が、分かって来るんです。私たち皆で自分を捨て、自分の十字架を負う歩みを進めてゆきたいと思います。

2021年3月7日日曜日

レント「十字架上の七つの言葉(1)」ルカ23:32~38

  早いもので、今年も教会の暦で数えると受難節に入りました。昔からキリスト教会は復活をお祝いするイースターまでの46日間を受難節としてきました。その生涯の最後、十字架の死に至る一週間の歩みについて思い巡らしてきたのです。大竹先生と相談をし、今年と来年の受難節は、イエス様が十字架上で語られた七つの言葉について一つ一つ取り上げ説教しようと考えています。

十字架上で語られた七つの言葉は四つの福音書に記されています。今日取り上げる「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)が最初の言葉。次に一緒に十字架につけられた犯罪人の一人に告げられた「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)。第三番目は母マリヤと弟子ヨハネに言われた「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です。…ご覧なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26,27)という言葉。第四番目は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という叫び。第五番目の「わたしは渇く。」(ヨハネ19:28)と第六番目の「完了した。」(19:28)はともにヨハネの福音書に記録され、最後は「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」と言うイエス様の叫び声で締めくくられます。

何故神の御子が十字架で苦しまねばならなかったのか。イエス・キリストは十字架の苦しみを通して私たちのために何をしたのか。各々短くはありますが、私たちは七つのことばの全てを、十字架の主イエスによる渾身のメッセージとして聞きたいと思うのです。

さて、十字架前夜の出来事を振り返ります。イエス様はゲッセマネの園で逮捕され、一晩中嘘の証言で固められた裁判に引きずり回されました。ユダヤの宗教指導者はイエス様を亡き者にしようと、十字架刑を主張します。集まっていた群衆も「十字架につけろ。」と叫びだし、その勢いに押されたのか、ローマの総督ピラトは心ならずも死刑判決を下しました。

兵士たちはイエス様に皇帝の様な着物を着せ、茨の王冠を被らせると、殴り、唾をかけ、からかい、あざ笑いました。イエス様は数えきれないほど鞭打たれ、傷ついた体で刑場までの道を歩かされたのです。刑場に着くと両手両足とも釘づけにされ、十字架の木に吊るされました。痛みと出血、呼吸さえままならぬ苦しみの中、残されたわずかな力を振り絞り、イエス様が語られた言葉、それが七つの言葉です。そして、イエス様の口から出た最初の言葉、それはご自分を苦しめる人々のための祈りでした。

 

ルカ23:32∼34「ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

 

イエス様が「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られましたが、「彼ら」とは誰のことでしょうか。イエス様が十字架の上からあわれみ見つめていた「彼ら」とは誰のことでしょうか。この時最も近くにいたのは二人の犯罪人です。マタイの福音書には、最初彼らは二人ともイエス様を罵っていたとあります。十字架の下では、ローマの兵士たちがイエス様の着物を分け合っていました。野次馬の様にこの出来事を眺めている民衆もいます。議員と呼ばれるユダヤの宗教指導者、政治指導者たちは「もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」とあざ笑っています。「お前がユダヤの王だと言うなら、自分を救ってみろ。」と嘲る兵士もいました。

イエス様は一体誰をあわれみ、誰のために祈られたのでしょうか。「自分が何をしているのかが分かっていない」人々とは、誰のことなのでしょうか。

イエスは無罪と確信しながら、保身のため意にそぐわない判決を下し、自分には責任がないと手を洗う総督ピラト。抵抗できない者をさらに痛めつけ、嘲るローマの兵士。自分の正しさを確信して、イエスの命を奪うためなら手段を問わない宗教指導者。救い主と期待したイエスが望み通りにならないと、あざ笑い、攻撃する民衆。自分の罪は横に置き、イエスを罵る犯罪人。ここに登場する人々は皆罪人です。「これは酷い」と私たちも感じる人間の姿です。

しかし、ある人が、十字架を巡る人々の姿はこの世界の縮図だと言いました。私たちの社会、私たちの家庭の縮図であり、残念ながらキリスト教会の縮図でもあると言うのです。どうでしょうか、皆様はこの意見に賛成できるでしょうか。

この光景、観客の一人として眺めると、誰が罪人であるかは一目瞭然です。しかし、私たちはどれだけ、ここに登場するピラトや兵士のことを、宗教指導者や民衆、犯罪人のことを私自身だと思えるでしょうか。私たちは自分のこととなると、自分がどんな罪を犯しているのか、それ程わかっていないのではないかと思います。

私たちは普通、自分を中心にして世界を見ています。今日の個所で、イエス様はご自分を苦しめる者をあわれみ、とりなしの祈りをささげています。これを読むと私たちもイエス様のようにあの人、この人にあわれみ深く接し,祈ることのできる人にならなければと考えます。それは実に正しいことです。

それは正しいことなのですが、そうした時、実はこの私も赦されるべき罪を犯している罪人なのだとはなかなか思えないのです。「人を赦してあげる私」は見えていますが、「赦されて生きている私」は見えていないのです。「人に対してあわれみ深くあろうとする私」は見えていますが、「イエス様のあわれみに生かされている私」の姿は見えていないことが多いと思うのです。

自分を基点として周りを見る時、人の罪や欠点はよく見えますから、私たちは人の行動や欠点を非難します。その非難自体は間違ってはいないとしても、現実の問題と言うのは、人を非難するだけでは何一つ解決されません。それにもかかわらず、人を非難する時、私たちは自分の正しさを疑わず、何一つ問題を解決しない非難や攻撃を延々と続けてしまうことがあるのではないでしょうか。自分は間違ったことはしていない、少なくともこの人よりは正しい。そう思うがゆえに、人を嘲り、人を責め、人を赦そうとはしないということはないでしょうか。

私たちは時に心ならずも、意にそわない決断を下しながら、自分には何の責任もないと手を洗う総督ピラトのようです。時に抵抗できない者をからかう兵士のようです。時に自分の正しさを確信するあまり、相手を倒すため手段を問わない宗教指導者のようでもあります。期待をかけていた人が自分の思い通りにならないと、その人を非難、攻撃する民衆でもあります。時に自分のことは棚に上げ、言い返せない相手を罵る、あの犯罪人と同じことをしているかもしれません。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」これは二千年前、十字架のもとにいたすべての人のための祈りです。そして、今日礼拝をささげている私たちのための祈りです。大人も子どもも、男も女も、イエス・キリストを信じている人も、信じていない人も、すべての人が「イエス様は私のため、天の父に祈りをささげておられる」と知るための祈りなのです。二千年前の昔も、今朝も、イエス・キリストは私たちのため執り成しの祈りをささげてくださる救い主なのです。

それでは、イエス・キリストに祈られている者、赦された者として生きるとは、どういうことなのでしょうか。マタイの福音書にイエス様と弟子ペテロの赦しを巡る問答があります。

 

マタイ18:21∼35「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。

ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

 

イエス様と弟子たちは共同生活をしていました。寝起きを共にし、同じ釜の飯を食べて生活していました。どこまでお互いのことを赦すか、我慢するのかということは切実な問題だったと思います。私たちも一緒に過ごす時間が多くなればなるほど、相手の何気ない言動にイライラしたり、我慢できないと感じたりすることもあると思うのです。愛や赦しはこういう現実の中で問題になります。身近に生きる人々との関係においてこそ、愛や赦しが切実な問題となるわけです。

ある時、ペテロがイエス様のところに来て言います。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」当時ユダヤ教においては、三度赦せば立派なものと考えられていました。「七回まででしょうか」と尋ねたペテロはかなり頑張ったと言えます。三回で立派と言われていたところを七回までと言えば、イエス様から褒めてもらえると期待していたのかもしれません。

しかし、イエス様の言葉は驚くべきもの「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」と言われたのです。勿論、これは490回まで赦せばよいという意味ではありません。どこまでも際限なく赦しなさいという意味です。

続くイエス様のたとえ話「自分のしもべたちと清算をした王様」の意味は一見明瞭です。最初に来たのは一万タラントの負債があるしもべです。一万タラントというのは莫大な金額です。当時平均的労働者の一日の賃金が一デナリでした。一タラントが6,000デナリつまり6,000日分の賃金ですから一万タラントは6,000万デナリ、6,000万日分の賃金となります。一年365日一日も休まずに働いたとして、返済するのに16万年以上かかるというべらぼうな金額です。何度生まれて来たって、返済不能な借金です。

このしもべは「もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします。」と王様に弁明していますが、これはやけっぱちな答えで、どんなに待ってもらったとしても、到底返すことなどできない借金だったわけです。王様のあわれみによって、負債の全てを免除してもらう以外、このしもべが救われる道はありませんでした。

さて、赦されたしもべは大喜びで王様のもとを去りますが、ばったり自分に百デナリの負債がある仲間に会います。すると彼はその仲間の首を絞めて返済を迫り、すぐに返せないと分かると牢に放り込んでしまったというのです。しかし、「もう少し待ってくれたら、返すことが出来る」という仲間のことばは無理のない提案に思えます。百デナリは100日分の賃金ですから、生活費を差し引いても半年もあれば十分返済可能な金額だからです。

それなのに、莫大な借金を王様に免除されたしもべは承知しなかった。一部始終を聞いた王様は、このあわれみのかけらもないような男を捕らえると、獄吏に引き渡したというお話です。このたとえ話を聞くと、誰が悪いのか明々白々です。しかし、「七回までは兄弟を赦します」と意気込んで語るペテロに対して、イエス様は問いかけています。「ペテロよ。お前には兄弟を赦してあげる自分の姿は見えている。けれど、わたしに罪を赦されながら、人の罪を赦そうとはしない自分の姿は見えていないのではないか」と。私たちにも同じ問いかけをイエス様はしておられるのです。

一万タラントとは百デナリという金額の対比は大分誇張されています。一万タラントという莫大な金額に比べれば、百デナリなど何ほどのものでもありません。しかし、もし私たちが四か月分程の給料を人に貸したとしたら、どうでしょうか。私なら絶対に忘れません。私たちは人から言われた些細なことや、人からされた些細な事が赦せない時があります。私たちは自分が一万タラントを免除され、赦された人間であることを忘れ、自分に百デナリの負債がある人を赦すことが出来ず、その人の首を絞めているのです。

自分が莫大な罪を赦されていることを忘れて、家族や同僚、兄弟姉妹の首を絞めるようなことを思ったり、ことばにしたり、行ったりしている。そんな私たちの罪がイエス・キリストを十字架につけたのだと私たちは分かっていないのです。自分が何をしているのか分かっていないのです。

神様の目から見れば、社会や家庭や教会における私たちは、二千年前主イエスの十字架のもとにいた人々と同じではないかと思います。共に神様のあわれみによって生かされているのに、互いを責め、非難し、相手を赦せないと思っている。人を赦すのは難しい。罪人なんだからそんなことはできないと言いながら、自分のことは「神様、どうか赦してください」と祈る。私たちはたとえ話の悪いしもべと同じです。二千年前、十字架のもとにいた人々に優ってなどいないのです。

しかし、そんな私たちのために、イエス様は十字架に登り、本当なら私たちが受けるべき神の裁きを受けてくださいました。イエス様に罪赦されたにもかかわらず、今もなお心から人を赦すことのできない私たちのため、天の父にとりなしの祈りをささげておられるのです。この十字架の主が共におられるからこそ、心から人を赦すことのできない者であることを自覚しつつ、それでもなお私たちは赦しと和解の歩みを進めてゆくことが出来るのです。