2020年10月25日日曜日

「良い管理者として」Ⅰペテロ4:7~11

 キリスト教は歴史宗教です。歴史上の出来事は偶然に起こるのではなく、神様との関わりでそれぞれ意義があると説く宗教。聖書が示す歴史観は、時間を超越、支配する神様が歴史の舞台である世界を創造し、導き、歴史の目的・終末へと進ませる全歴史を直線とみなします。この全歴史の中心に、神様が遣わされた救い主イエス・キリストの生涯、特に十字架での死と、死からの復活があると観て、そこに歴史を解く鍵を見出します。

このようなキリスト教歴史観が登場した二千年前のローマ地中海世界でよく知られた歴史観には、歴史の意義を一切認めない不可知論、宿命や偶然が支配する運命論、神々が関わる場合でもギリシャ神話のように神々でも歴史に支配されるものがありました。その多くは、歴史は大きなサイクルで繰り返されると考えるものです。

これらの歴史観の共通点は、時間を超越した神の存在を認めないこと。起こりくる出来事に意味があるとは認めないこと。歴史には目的があり終わりへ向かって進んでいるとは認めないことです。そしてこのような歴史観を持つ人が多くいるのは、何も二千年前のローマ地中海世界だけのことではなく、今の日本でも同様でしょう。多くの人が、歴史を支配する神を認めず、出来事の意味を認めず、終わりへ向かっていることを認めず生きています。その中で私たちはどのように生きていくのか。

目的がありゴールがある世界にあって、私たちは何を大切にしつつ生きたら良いのか。皆様とともに考えたいと思います。

 Ⅰペテロ4章7節

「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」

 

 聖書の第一声は「はじめに神が天と地を創造された。」というもので、この世界には始まりがあることが明言されていました。始まりがあれば終わりもある、この世界は終わりへと進んでいる。終わりの時については旧約聖書で予告され、イエス様も語りました。終わりの時が近いというのはペテロだけでなく、パウロもヨハネもヤコブも告げています。「万物の終わりが近づいた」、緊張感ある言葉です。

 

 ところで、この終わりの時には何が起こるのか。ペテロは「万物の終わりが近づきました」という直前に次のように記していました。

 Ⅰペテロ4章5節~6節

「彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。」

 

 終わりの時の一つの側面、重要な側面は、人間は全てのものを裁かれる方の前で申し開きをする時となること。私たちはやがて、人生の大小表裏、すべての申し開きをしなければならないと教えられています。

かつては、どうせ死んだらそれで終わりと考えていた。行いの悪であろうとも、心の中の悪であろうとも、他の人に知られなければ悪ではないと思っていた。しかし終わりがあること、裁き主の前で申し開きをする日があることを知ると生き方が変わります。それも、必ずその日が来ると聖書で教えられて、真剣に生きるようになるのです。

 私たちの信仰告白、ウェストミンスター信仰告白の最後の最後の告白は次のようなものでした。

 ウェストミンスター信仰告白 第33章 3項

「キリストは、すべての者に罪を犯すことを思いとどまらせるためにも、逆境にある信者の大いなる慰めのためにも、わたしたちに審判の日のあることを確実に信じさせることを欲すると同時に、その日を人に知らせずにおかれる。それは、彼らがいつ主が来られるかを知らないから、一切の肉的な安心を振り捨て、常に目をさまし、いつも備えして、「来たりませ、主イエスよ。すみやかに来たりませ」と言うためである。アーメン。」

 この世界には目的がありゴールがあることを覚えることの大切さが如実に教えられる告白の言葉です。

 

 さてペテロは「万物の終わりが近づいた」と言いました。すべての者が裁き主の前で申し開きをする時が近づいた。それでは私たちはどのように生きたら良いのかと言えば、祈るように。心を整え、身を慎み、祈るように。第一に祈ることが挙げられます。世の終わりが近いと気勢を上げる、騒乱するのではなく、静かに祈る。

 イエス様が告げられた終わりの時のしるしは、「民族は民族に、国は国に敵対し、戦争、飢饉、地震、疫病が起こり、多くの偽預言者が現れ、不法がはびこり、愛が冷え、裏切りや憎み合いが起こる」というものでした。世界が大騒ぎ、大混乱する。その中でキリスト者は祈るようにと教えられる。

 これがペテロの勧めであることも印象的です。ペテロと言えば動の人。沈着冷静というより血気盛ん。イエス様が十字架を予告すれば「そんなことはない」と直言し、イエス様を捕えに来た者には剣を振るい、復活のイエス様だと気づけば湖に飛び込んで馳せ参じる。あのペテロが、心を整え、身を慎み、祈るように勧めている。落ち着いて祈ることが、キリストの到来を待つ信仰者にとって、いかに大事なことであるのか教えられます。私たちは祈りの生活をどれほど大切にしているでしょうか。

 万物の終わりが近づいた。祈るように。まずは神様に向くように。続いて私たちは何に取り組んだら良いのか。

 Ⅰペテロ4章8節

「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」

 

 祈りに続いて勧められるのは、互いに愛し合うこと。「何よりもまず」と最優先事項として互いに愛し合うことが挙げられます。祈る者、神に向き合う者、神を愛する者は、隣人を愛する者となる。イエス様が最も大切な戒めとして、神を愛し、隣人を愛することを挙げたことが思い出されます。

 また「愛は多くの罪をおおう」とも言われています。美しい表現。罪を贖うのは、救い主のなすこと。私たちが互いに愛し合うことで、誰かの罪が赦されるわけではありません。しかし罪の結果の痛み、傷、損害は、互いの愛で覆うことが出来る。人の罪の結果、傷ついた世界、傷ついた者たちを、互いの愛で覆っていく。神様の愛を受けた者として、愛し合うことこそ、再臨のイエス様をお喜ばせする姿とみます。

 万物の終わりが近づく。この世は狂騒、混乱を増す中で、静かに祈り、熱く愛し合う者たち。暗闇が増す中で光を灯す者たち。私たちはかくありたいと思います。

 

 このように万物の終わりが近づいた際に私たちがすべきこととして、祈ること、互いに愛すること、神を愛し隣人を愛することを命じたペテロは、続けて愛することの具体例を挙げていきます。

 Ⅰペテロ4章9節~11節

「不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。」

 

 互いに愛することは、互いにもてなし合うこと。家を開放し招くこと。食事を用意し歓迎すること。寝床を用意し休んでもらうこと。ペテロもパウロも、旅先でもてなしを受けた人でした。聖書の中には自宅を開放する、旅人をもてなすことで活躍した信仰者も出てきます。パウロは長老の資質の一つに、もてなす人であることを挙げています。もてなすことで、特に印象的な聖句に「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました。」(ヘブル13章2節)があります。イエス様も終わりの日に「あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸した」(マタイ25章35節)と言われる幸いを教えていました。愛することの具体的な表れの一つはもてなすこと。自分の生活を分かち合うことでした。私たちはどれだけもてなすことが大切なことだと思っているでしょうか。どれだけもてなすことに取り組んできたでしょうか。

 また互いに愛することは、互いに仕え合うこと。神様から頂いた良いもの、賜物を他の人のために用いること。無理をしたり、背伸びしたりするのではなく、すでに与えられている賜物で仕え合うように。

大事な点の一つは、私たちはみな、賜物が与えられていると明言されていることです。隣人を愛するように、隣人に仕えるように私たちに教える神様は、命じるだけでなく、その力も与えて下さっている。このように考えますと、自分には他の人に仕える良いものはないと言ってはならないのです。

 また良い管理者となるようにも教えられていることも重要です。所有者と管理者は違います。私たちの賜物の所有者は神様。私たちは委ねられた賜物を管理する者。管理する者は、所有者の意向に沿ってそれを用いるのです。自分のために用いるのではなく、他の人のために用いる。それが隣人を愛することであると教えられるのです。

 

 ところで、賜物といっても様々なものがあります。ペテロ自身、ここで「様々な恵み」と表現していました。しかし具体例としては二つ選ばれています。神の言葉を語る賜物と、奉仕をする賜物の二つ。「語る」と「奉仕する」。これは、ペテロが教会を意識しているのではないかと考えられます。

 もてなすという個人的、家庭的な事柄も、教会を建てあげるという公的、共同体的な事柄も、賜物を用いて他の人に仕える。生活のあらゆるところで、隣人を愛することに取り組む。それこそ、万物の終わりの時に相応しい歩みであると教えられます。

 

 この世界は始まりがあり、終わりがあります。目標がありゴールへ向かう世界です。今や終わり、ゴールが近づきました。全ての人が、裁き主である神様の前に立つ時が近づいています。この世界は狂騒、混乱を増します。しかし、あなたがたは身も心も整えて祈りに専念しましょう。互いに愛し合いましょう。互いにもてなし合いましょう。互いに仕え合いましょう。家庭においても、教会においても、賜物の良い管理者として、自分の人生を他の人のために用いましょう。その生き方こそ、イエス・キリストを通して、神があがめられる生き方です。

 手紙を書いていたことを忘れたかのように、いきなり「すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。」と賛美を口にするペテロ。キリスト者が、神を愛し隣人を愛する時、どれほど神様のすばらしさを表すことになるのか。胸を熱くするペテロの姿が印象的です。

 

 このようにペテロの勧めを聞きまして、皆様は熱心に祈りたいと思えるでしょうか。もてなしたい、仕えたいと思えるでしょうか。賜物の良い管理者として、自分に与えられた情熱や賜物を、教会を建て上げるために用いたいと思えるでしょうか。思えるとしたら幸いなこと。喜びつつ祈りに専念し、喜びつつ隣人を愛することが出来るほど幸いなことはありません。しかし、そうしたいと思えない時。聖書の勧めを素直に受け取れない時、どうしたら良いのか。

 私たちの信仰生活は愛に基づくもの、愛に導かれることが大事であると聖書は繰り返し教えていました。しかし、「認められたい、尊敬されたい、好意を得たい。あるいは義務感を感じながら。あるいは正しく生きないと悪いことが起こるのではないという恐怖に駆り立てられて。」という「愛」以外の理由で信仰生活を守ろうとすることがあります。それは、どれほど苦しく、重く、つらい歩みとなるのか。しかもそれはつらいだけでなく、意味のないもの、価値のない歩みとまで聖書は明言します。

 Ⅰコリント13章1節~3節

「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」

 

 隣人を愛する行為として、持っている者を全て分け与える、からだを引き渡すというのは、これ以上ない行為。それ以上、取り組みようがない愛し方です。しかし、それが愛に基づくものでなければ、価値がない、何の役にも立たないと言われる。衝撃的な言葉。今日のペテロの手紙に合わせて言えば、身も心も慎み祈りに専念し、互いに愛し合う、互いにもてなし合う、互いに仕え合うとしても、愛がなければ何の意味もないということです。それでは、どうしたら私たちの信仰生活は愛に基づくもの、愛に導かれる歩みとなるのでしょうか。

 

 イエス様がパリサイ人シモンの家に招かれ食事をした時のこと。そこに招かざる客の罪深い女が来て、泣いてイエス様の足を濡らし、髪の毛でぬぐい、口づけして香油を塗ります。その場面でイエス様が言われたこと。

ルカ7章47節

「ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」

 

 「多くの罪を赦された者は多く愛する。赦されることの少ない者は愛することも少ない」と出てきます。私たちの信仰生活が愛に基づくものであることの秘訣が、ここにあるように思います。

 私たちはイエス様によって、全ての罪が赦されました。その全ての罪を、多いと見るのか、少ないと見るのか。どこかで自分のことを立派な人間だと思っている。どこかで自分のことを罪人と言ってもたいしたことはないと思っている。それでは、私を救うイエス様の愛が正しく分からないのです。多く赦された者として生きるということは、自分がいかに罪深いか十分に味わうということです。

 

以上、目的がありゴールがある世界にあって、私たちは何を大切にしつつ生きたら良いのか、考えてきました。ペテロは万物の終わりが近づいたと宣言しています。私たちも、漠然といつかはイエス様が来られるだろうと思うのではなく、今日なのか、明日なのか、いつイエス様が来られても良いように備えていきたいと思います。しかし、その備えるというのは、浮足立ち、騒ぎ経つような歩みではない。むしろ地に足をつけ、毎日の生活を大切なものとして生きることでした。身も心も整え、祈りに専念する。互いに愛し合い、互いにもてなし合う、互いに仕えある歩みをすること。自分に与えられた良いもので他の人に仕える。自分の人生を他の人のために用いていく。教会を建て上げることに取り組む。

 これらの取り組みのおおもとに、神様への愛があるように。そのために、自分の罪深さをよく味わうように。「神様、どうぞ私の罪深さと、それを救うイエス様の愛の大きさを教えて下さい。」と祈る大切さを覚えます。

 私たち一同で、ペテロの勧めを前にして、どのように身も心も整えるのか。何を祈るのか。誰をもてなすのか。どのようにもてなすのか。自分に与えられた賜物は何なのか。それを用いて人に仕えるとはどうすることなのか。教会を建て上げるために何が出来るのか。真剣に考え取り組む歩みをしていきたいと思います。

2020年10月18日日曜日

一書説教(63)「ヨハネの手紙第二~真理と愛のうちに~」Ⅱヨハネ1:1~6

 私が小学生の時のことです。離任式にて、別な学校に移る何名かの先生方が児童の前で挨拶をしました。その中の一人の先生が言われたこと。「マザーテレサは素晴らしい人。病気、貧困、身寄りのない人を受け入れる施設を造り、最後を看取ることで、多くの人から称賛を受けています。ところでヒンドゥー教徒の人は、ガンジス川がとても大切です。あるヒンドゥー教徒の人が病気になり死を覚悟して、最後はガンジス川に行きたいと願いました。何とかガンジス川に着き、川のそばで死を待っている。そこにマザーテレサの施設の人が来て、その人を施設に運び入れ、身体をキレイにし、看病しました。その人は最後、施設で死ぬことになりました。この場合、マザーテレサや施設の人は、良いことをしたことになるのでしょうか。ガンジス川で死ぬことと、ベッドの上で看取られるのと、どちらが良いのか。誰が決めるのでしょうか。世界には様々な価値観があります。多くの人から称賛されているから、だから素晴らしいと思うのではなく、皆さん一人ひとり、何が良いことかよく考える人になって下さい。」というものでした。(実際にマザーテレサの施設の人が、本人の意思とは関係なく施設に入れていたかどうか、私は把握していません。)当時の私は、小学生なりに考えました。自分がヒンドゥー教徒の人であれば、川で死にたい、施設に運ばれるのは嫌なこと。しかし川で死にそうな人がいるのを見る側だった場合、そのまま放っておくことは出来ないのではないか。難しい問題です。皆様はどのように考えるでしょうか。

 この問いは、世界には様々な価値観があり、何が正しいことなのか、何が幸せなのか、簡単には決められないこと。自分が正しいと思っても、他の人にそれが当てはまるか分からないことを示しています。さらに言えば、皆に共通する「正しさ」とか「善」というのは、存在するのかという問いを投げかけています。「正しい」とか「善」というのは、歴史や文化に依存している。普遍的な「正しさ」や「善」などないと考えるのか。歴史や文化に依存している正しさや善もあるが、だからと言って普遍的な正しさや善がないわけではない。全ての人に共通の正しさ、善、いわゆる「道」とか「真理」と言われるものはあると考えるのか。

離任式で挨拶された先生のことは名前も憶えていないのですが、巨大なテーマを小学生に考えさせるのに、とても良い投げかけだったように思います。

 全ての人に共通の正しさ、道とか真理と言われるものはあるのか。この問いについて、聖書は明確に「ある」と答えています。いくつもの箇所を挙げることが出来ますが例えば、

 詩篇86篇11節

「主よあなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。」

  詩人の祈り、願いに示されているのは、普遍的な正しさ、普遍的な善はあるということ。それは神様が持つもので、私たちは神様に聞かなければならない。自分一人ではなく、皆で真理を知り、道を歩みたいと歌われます。

 偶然の積み重ねでこの世界があると信じるならば、普遍的な正しさ、普遍的な善はないと考えるのが妥当でしょう。正しさとか善というものは、歴史や文化が造り出すもの。しかし世界を造られた神様がおられると信じるならば、普遍的な正しさ、普遍的な善があるというのは当然のこと。創造主を信じるというのは、道や真理があると信じることにつながります。

  聖書は道や真理があると教える書。しかしそれだけでなく、道や真理がないと考えることの危険性、それぞれの考える正しさを追求する世界は悲惨なものになることも教えていました。

 士師記の終幕に記された悲惨な事件をご存じでしょうか。事件は神に仕える特権を与えられたレビ人が逃げた妾を追いかけるところから始まります。レビ人に妾がいた、しかも逃げられた妾を実家まで追いかけるというありさま。このレビ人は、妾を連れ帰る途中、ベニヤミンの町で襲われそうになると妾を犠牲にします。悲惨極まりない女性。逃げ帰った実家から連れ戻される最中で殺された。不条理で暴力的な世界です。生き残ったレビ人は殺された妾の遺体を切り刻み、イスラエルの各部族に送り付け、凄惨な事件があったことを告げます。連絡を受けた各部族はベニヤミン部族に戦いをしかけ、最終的にベニヤミン部族は大減少。この一連の事件の最中、各部族はベニヤミン部族に娘を嫁がせないと誓いを立てました。人数が減り、結婚相手もいなく存続の危機に陥ったベニヤミン部族。しかし、このままベニヤミン部族が消滅するのは良くないと考えた各部族は、ベニヤミン部族は女性を誘拐して妻にしても良いというルールを定めます。一体何なのか、目を覆いたくなるような、混乱に混乱を重ねたような記録。この悲惨な事件を聖書は次のようにまとめていました。

 士師記21章25節

「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」

皆が悪を行おうとしたとは書いてありません。それぞれが自分の目に良いと見えることを行った結果が、聖書の中でも最悪な事件を引き起こしたとまとめられています。それぞれの考える正しさを追求する世界は悲惨なものになる、この世界には共通した正しさ、道や真理が必要であることを物語る出来事です。

  長い前向上になりました。聖書は真理があることを教え、私たちに真理を追い求め、真理に生きるように教えています。では、その真理とは何なのか。真理に生きるとはどのような生き方なのか。聖書からともに考えたいと思います。

 断続的に取り組んできました一書説教、今日は通算六十三回目となります。聖書の中には一章だけの書が五つありますが、今日扱う第二ヨハネはそのうちの一つ。使徒ヨハネが記した美しく小さな手紙。ヨハネと言えば詩的表現を多く使う人でした。福音書も第一の手紙も、単語や文法としては比較的簡単な言葉で記しつつその意味するところは深遠でした。この第二の手紙も同じ特徴を持ち、「真理」「愛」という言葉が多く出てきます。今日はイエスに愛された弟子であるヨハネの言葉に注目します。

 一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。

  書き出しは次のようなものです。

 Ⅱヨハネ1章3節

「長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ。私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています。真理は私たちのうちにとどまり、いつまでも私たちとともにあるからです。父なる神と、その御父の子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安が、真理と愛のうちに、私たちとともにありますように。」

  ヨハネ文書の特徴が存分に表れている書き出し。真理、愛という言葉が溢れています。差出人は長老。ペテロも自分のことを長老と名乗ることがありましたが、ヨハネも自分を長老と記しています。教会を建てあげる者、教会を守る者という意識でしょうか。相手は選ばれた婦人と子どもたち。これはヨハネがよく知っていた相手で、名前を書かなくても問題なかったということなのか。それとも教会、全てのキリスト者を指して婦人と子どもたちと表現したのか。親しい者たちに宛てた個人的な手紙か。全てのキリスト者に宛てた普遍的な手紙か。どちらの可能性も考えられます。

 手紙の内容は大きく二つに分けられます。まずは前半。

 Ⅱヨハネ1章4節~6節

「御父から私たちが受けた命令のとおりに、真理のうちを歩んでいる人たちが、あなたの子どもたちの中にいるのを知って、私は大いに喜んでいます。そこで婦人よ、今あなたにお願いします。それは、新しい命令としてあなたに書くのではなく、私たちが初めから持っていた命令です。私たちは互いに愛し合いましょう。私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。あなたがたが初めから聞いているように、愛のうちを歩むこと、それが命令です。」

 言語や文化の問題がありますが、私たちからするとややこしい言い回しです。「御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。」と言いつつ、その直後に「愛のうちに歩むこと、それが命令です。」と言う。命令と愛は同じ。さらに命令のとおりに歩む者は、真理のうちに歩む者とも言われます。命令と愛と真理は同じ。

神様が命じた通りに生きること。それは互いに愛し合うこと。それが真理のうちに歩むこと。子どもたちが、神様の命じた通りに生きる者、互いに愛し合う者、真理のうちに歩む者となっていることが嬉しい。そして私たちも神様の命じた通りに生きる者、互いに愛し合う者、真理のうちに歩む者として生きましょう、という内容です。

 「真理」を、普遍的な正しさ、普遍的な善、全ての人に当てはまる幸いな生き方、人間としてのあるべき生き方として考えれば、ここでヨハネが教えていることは次のようにまとめられます。「神様は私たちに完全に正しく、良く、幸いな生き方を教えて下さいます。それは互いに愛し合うことです。これまでも互いに愛し合うことに取り組んできましたが、これからもますますそうしましょう。私たちだけでなく、子どもたちも互いに愛し合う歩みをすることを大いに喜びます。」神様の言われたように互いに愛し合うこと。それが私たちにとってどれだけ大切なことなのか。熱意をもって訴えるヨハネの筆です。

 イエス様は律法の中で最も大切な戒めは何かと聞かれた際、二つの戒めを上げました。「神を愛すること」と「隣人を愛すること」です。(マタイ22章)しかし山上の説教で語られた時には、これこそ聖書の教えとして一つだけ挙げています。

 マタイ7章12節

 「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」

 黄金律、ゴールデンルールと呼ばれるもの。神様が私たちに命じていること、その中心中の中心は隣人を愛することでした。

 ところで最も大切な戒めは何か問われた際、イエス様は二つ挙げていたのに、ここでは一つにしている。何故でしょうか。神を愛することと、隣人を愛することを比べれば、隣人を愛することが勝るのでしょうか。それではありません。本当の意味で隣人を愛するとは、神の愛をもって愛することであり、それは神を愛する者でないと出来ないことだからです。神を愛することと、隣人を愛することは一つのこと。

 ヨハネは、神の命令に歩むことが愛すること、愛することが神の命令を守ること言いました。それは神を愛することと、隣人を愛することは一つのことという意味です。つまり互いに愛し合う、隣人を愛するというのは、神様の愛を受けて為すことでした。

 聖書が繰り返し教え、命じる「神様の愛を受け取り、隣人を愛する」こと。それが私たちにとってどれほど大切なことか。自分の人生で取り組むべきこととして、隣人を愛することをどれだけ大事にしてきたのか。ヨハネの言葉を前に再確認したいと思います。

 手紙のもう一つの側面、後半は次のような内容です。

 Ⅱヨハネ1章7節~9節

「こう命じるのは、人を惑わす者たち、イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。気をつけて、私たちが労して得たものを失わないように、むしろ豊かな報いを受けられるようにしなさい。だれでも、『先を行って』キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていません。その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています。」

 惑わす者たち、反キリストに気を付けるように。前半で愛する者として生きるように勧めたヨハネは、後半で愛さない者とならないように勧めます。積極的表現の前半に対して、否定的表現の後半。しかし勧めていることは同じで、神の愛を受け取り、隣人を愛する者として生きるように。表からも裏からも繰り返し、神の愛を受け取り、隣人を愛する者として生きることが、私たちにとっての極めて大切であることを教えるのがこのヨハネの手紙第二でした。

普遍的な正しさ、普遍的な善、全ての人に当てはまる幸いな生き方、人間としてのあるべき生き方はあるのか。聖書は真理があることを教え、私たちに真理を追い求め、真理に生きるように教えています。では、その真理とは何なのか。真理に生きるとはどのような生き方なのか。考えながら見てきましたヨハネ第二の手紙。この手紙から真理とは何か、真理に生きるとはどのような生き方なのか、どのようにまとめられるでしょうか。

この手紙が示す真理とは「神様の愛を受け取り、隣人を愛していくこと」と言えるでしょう。これが正しいことであり、善であり、幸いな生き方、あるべき生き方。私たちが目指す生き方です。

しかし問題なのは、どのようにしたら真理のうちに歩めるのか。どのようにしたら、神様の愛を受け取り、隣人を愛することが出来るのか、ということです。この答えを、ヨハネは手紙の中で明確に記していません。何故なのか。既に伝えているから。既に知っている者に宛てた手紙だからでしょう。それでは、ヨハネは真理について、これまでどのように伝えていたでしょうか。

 ヨハネ1章14節

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

 イエス様の誕生の記録。「ことば」としてイエス様を紹介したヨハネは続けて、神の一人子の栄光を持つ方であり、恵みとまことに満ちていたと言います。この「まこと」と訳されているのが真理という言葉です。イエス様こそ真理に満ちている方であるというのがヨハネの主張です。

 また十字架直前、イエス様が次のように言われたこともヨハネだけが記しました。

 ヨハネ14章6節

「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。』」

 私たちが正しく、良く、幸いに、あるべき生き方を歩むのは、どうしたら良いのか。その答えはイエス様が持っている。神様の愛を受け取り、隣人を愛するために、どうしたら良いのか。その答えはイエス様が持っている。どのようにしたら真理のうちに生きることが出来るのか。その答えはイエス様が持っている。真理に関する問いの答えは、全てイエス様のもの。私たちの救い主は真理を教える方ではなく、真理そのものである方。

 神を神と思わず、人を人とも思わない。自分の考える正しさに沿って生きることが最上と思って生きてきた私たち。神様の愛を受け取り、隣人を愛することが幸いと言われても、それが出来ない私たち。その私たちのために、正しく生き、罪を背負い十字架で死なれ、復活された救い主。このイエス様を自分の救い主と信じるかどうかで、私たちの人生は決定的に変わるのです。

 以上、ヨハネの手紙第二の一書説教でした。美しい小さな手紙。ぜひともご自身で読んで頂き、ヨハネの情熱を味わって頂きたいと思います。

 イエス様を信じる者は真理を持つ者、真理のうちに歩む者。その生き方は隣人を愛する歩みでした。これからの一週間、自分は何を大切に生きるのか。何を中心に生きるのか。そのためにイエス様をどのように信じるのか。よくよく考えたいと思います。私たち一同で、真理そのものであるイエス様を信じ、互いに愛し合う歩みを全うしていきたいと思います。

2020年10月11日日曜日

世界食糧デー「手を閉じる人、手を開く人」申命記15:7~11

 一般的に作品は作者の素晴らしさを表します。音楽、絵画、彫刻、小説、映画…この世界には様々な作品がありますが、素晴らしいものに触れる時、私たちはその作者を称賛します。

聖書は、この世界は神によって造られたと教えます。キリスト教の基本的であり中心的な教えの一つ。神様によってこの世界は造られた。それはつまり、この世界は作者である神様のすばらしさを示すために存在しているということです。私たち人間含め、造られたあらゆるものは神様のすばらしさを表すもの。これを信じるかどうか、その人の人生に大きな影響があります。

「作者なし」としてこの世界があると考えれば、この世界がどれほど美しく、面白く、興味深いとしても、だからどうということもない。偶然によって自分が存在しているとすれば、自分の価値や生きる目的を見出すことも困難です。神様が世界を造られたと信じて生きる時、作者である神様のすばらしさ、恵み深さを知ることが出来る。私を造られた方がいると知って、私の価値や生きる目的を見出せることになります。

 

 また、世界を観て神様のすばらしさ、恵み深さを知るということは、人間にとっても世界にとっても重要なことでした。

 創世記1章27節

「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」

 

 「神のかたち」に造られた人間。それは神を知ることが出来る、神を愛することが出来る存在であるということ。この神様を知り、愛することが出来る存在がいることは、この世界にとって極めて重要なことでした。何故重要なのか。もし神を知ること、愛することが出来る存在がいなかったとしたら。この世界がどれほど素晴らしい世界であっても、素晴らしいと分かるものがいないことになる。この世界が、鑑賞者のいない博物館のようになってしまう。このような意味で全ての被造物にとって、「神のかたち」に造られた人間は重要な存在でした。

 

 ところで「愛することが出来る」というのは、選択出来ることを意味します。凶器で脅された人が「あなたを愛している」と言ったところで、愛していることにはならない。ロボットに「あなたを愛している」と言わせても、愛していることにならない。愛するというのは、愛することも出来るし、愛さないことも出来る者が、自分の意志で愛することを選びとることです。「神のかたち」に造られた人間は神様を愛することが出来るということは、神様を愛さないことも出来るということです。

神様を愛することも、愛さないことも出来る存在として、人間は造られた。そのため、聖書は繰り返し、私たちの前には二つの道があることを教えています。神様の愛を受け取る道と、受け取らない道。神様を愛する道と、愛さない道。私たちは日々、どちらの道を歩むのか選択する者として生きていると言えます。

 これまで自分は、どちらの道を歩んできたのか。今、私たちが神様を愛する道を進むとは、具体的にどのような生き方になるのか。皆様とともに考えたいと思います。

 

 世界が造られた時、神様は最初の人、アダムとエバに一つのことを禁じました。善悪の知識の木の実を食べてはならない、という戒め。何をしても良い状況で、一つだけ定められた禁止事項です。なぜ、神様はこのような戒めを定めたのでしょうか。これも「愛すること」と関係があります。「何をしても良い、何をしても神を愛することになる」というのでは、愛することにならないのです。神様を愛さないことを選択出来る状況の中で、それを選択しないことが、神様を愛することになる。このように考えますと、善悪の知識の木はとても重要な意味のあるものでした。

 この善悪の知識の木は、住まいとしたエデンの園の中央に植えられていたこと。しかし園の中央には、もう一つ木があったことが聖書には記されています。

 

 創世記2章8節~9節、16節~17節

「神である主は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。…神である主は人に命じられた。『あなたは園のどの木からでも思いのまま食べて良い。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」

 

 善悪の知識の木の実を食べるというのは、神様を愛さない選択をすること。それは人間にとって死を意味することが教えられています。この死を司る善悪の知識の木は園の中央に生えていましたが、同じところにもう一つ木が生えていました。「いのちの木」。園の中央には、いのちと死のシンボルがあったのです。

神様は園の中央にいのちと死を並べました。その結果アダムとエバは、園の中央に行く度に自分たちの前には二つの道があることを意識することになりました。神様を愛するいのちの道か。神様を愛さない死の道か。人間は造られた当初から、神様を愛するのか、愛さないのか、問われる存在だったのです。

 

 残念なことに、アダムとエバは善悪の知識の木の実を食べてしまう。神様を愛さない選択をしました。その結果、死ぬ存在となり、人間も世界も悲惨な状態になりました。

しかし、その後も人間の前には二つの道があることが示し続けられます。聖書の様々な箇所で確認出来ますが、例えばモーセを通して神の民は次のように言われました。

 申命記11章26節~28節

「見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福とのろいを置く。祝福とは、私が今日あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従った場合であり、のろいとは、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道から外れて、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行った場合である。」

 

 神の民の前には祝福とのろいという二つの道。主の命令に聞き従う、つまり神様を愛する者には祝福が与えられる。反対に、主の命令に聞き従わず、他の神々に従う者、つまり神様を愛さない者にはのろいが下される。

創世記では「いのち」と「死」と並べられた二つの道が、ここでは「祝福」と「のろい」として並べられます。私たちの前には二つの道。「いのち」か「死」か。「祝福」か「のろい」か。果たしてどちらを進みたいと思うのか。

 

 この二つの道は「詩」の中にも登場します。

 詩篇1篇1節~4節

「幸いなことよ、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。悪しき者はそうではない。まさしく風が吹き飛ばす籾殻だ。」

 

 神様を愛する者、幸いな者とは、悪から離れ、主の教えを喜び口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木と表現されます。片や、神様を愛さない者、悪しき者は、風が吹き飛ばす籾殻にたとえられています。「いのち」と「祝福」の道は、流れのほとりに植えられた木につながり、「死」と「のろい」の道は、風が吹き飛ばす籾殻につながります。自分は木と籾殻、どちらとして生きたいのか、考えたいと思います。

 

 いのちと死、祝福とのろい、木と籾殻と並べられれば、当然のこと「いのち、祝福、木」の道を選びたいと思うはず。しかし、イエス様は二つの道について次のように言いました。

 

 マタイ7章13節~14節

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」

 

 いのちと死、どちらを選ぶのか問われれば、当然いのちを選ぶはず。祝福とのろい、どちらを選ぶのか問われれば、当然祝福を選ぶはず。しかし、必ずしもそうではない。むしろ多くの人は滅びの道へ進んでいく。イエス様による恐ろしい言葉です。これは山上の説教の最後の段落。イエス様は私たちの前には二つの道があることを、狭い門と広い門、良い木と悪い木、岩の上に建てた家と砂の上に建てた家と三つの対比で語りました。

 大先輩カルヴァンが記したキリスト教綱要のタイトルページには(1561年版)、二つの門の絵がついています。一つは、入口に花が一面に咲き乱れている広々とした門ですが、その頂きには焔が燃え上がっている。もう一つは、いばらが生い茂った狭い門ですが、その頂きには冠が描かれている。このイエス様の言葉を絵にしたものですが、私たちの前には二つの道があるということこそキリスト教の「綱要」ということでしょうか。

いのちか、滅びか。私たちは、どちらかを選ばなければならないのです。

 

 このように私たちの前にある二つの道は様々な表現で繰り返し語られますが、神様にどのように向き合うかだけでなく、隣人にどのように向き合うかで比較されることもあります。

 マルコ10章42節~45節

「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。』」

 

 十字架直前、エルサレムに向かう途上。ここでもイエス様は二つの道を示します。

神を愛さない者、神様から離れた人間、異邦人の思いの一つは、自分を高くしたいというもの。人を従え、仕えられる立場に着きたいというもの。仕えるよりも、仕えられたい。自分を低くするとは考えない。神を愛さない歩みは、隣人に権力をふる、支配しようとする者となる。しかし神を愛する者の歩みはそうではない。地位がある、力があるというのは、仕えるためのもの。偉いというのは、仕える者であること。先頭に立つというのは、しもべとなること。

 私たちの前には二つの道。仕える者か、支配する者か。しもべとなるか、支配者となるのか。どちらを選ぶのか。

神を愛する者の歩みは、仕える者、しもべとして生きるということでした。ここは、とても大事な点です。

 いのちと死、どちらを選びたいか問われたらいのちと答えるでしょう。祝福とのろい、どちらを選びたいか問われたら祝福と答えるでしょう。木と籾殻、どちらを選びたいか問われたら木と答えるでしょう。それでは、人に仕える者となることと、人に仕えられること、どちらを選びたいか問われたら、皆様はどのように答えるでしょうか。自分の思い通りに人を支配することと、人のために徹底的に仕えること、どちらも出来るとしたら、どちらを選ぶでしょうか。

 

 ところで「仕える」と聞いて、皆様は具体的にはどのようなことをイメージするでしょうか。仕える者として生きることを願うとしたら、どのような生き方になるのでしょうか。

 申命記15章7節~11節

「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みの中ででも、あなたの同胞の一人が貧しい者であるとき、その貧しい同胞に対してあなたの心を頑なにしてはならない。また手を閉ざしてはならない。必ずあなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。あなたは心によこしまな考えを抱き、『第七年、免除の年が近づいた』と言って、貧しい同胞に物惜しみして、何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで主に叫ぶなら、あなたは罪責を負うことになる。必ず彼に与えなさい。また、与えるとき物惜しみをしてはならない。このことのゆえに、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからである。貧しい人が国のうちから絶えることはないであろう。それゆえ私はあなたに命じる。『あなたの地にいるあなたの同胞で、困窮している人と貧しい人には、必ずあなたの手を開かなければならない。』」

 

 ここにも二つの道が出てきます。手を開く者と手を閉じる者。手を開く者とは、自分の持っている良いものを他の人のために使う者。手を閉じる者とは、自分のものを他の人のためには使わない者です。ここに、仕える者と支配する者の姿が如実に表れていると思います。仕えるとは、自分の人生を隣人のために使っていくこと。神様が下さった良いものを、他の人のために使うこと。支配するとは、自分の持っている良いものは握りしめ、自分のために使うこと。他の人の状態よりも、私が生きたいように生きることを優先すること。

 私たちの前には二つの道。手を開く者と手を閉じる者。皆様はどちらの道を歩みたいと思うでしょうか。

 

 以上、二つの道について聖書が記す様々な表現を確認してきました。神様を愛する歩みは、いのちがあり、祝福があり、流れのほとりの木のようであり、狭い門へ続く細い道であり、仕える歩みであり、手を開く者としての人生。神様を愛さない歩みとは、死があり、のろいがあり、風が吹き飛ばす籾殻であり、広い門へ続く広い道であり、支配する歩みであり、手を閉じる者としての人生。

 このように見ていきますと、一つ一つの表現は神様を愛すること、また愛さないことの様々な側面を教えていることに気づきます。いのちがあり、祝福があるから、仕える者として手を開く者として生きることが出来ること。支配する者、手を閉じる者として生きるというのは、それ自体が本来の生き方ではない死の状態であり、のろいの状態であること。

神様を愛することも愛さないことも出来る存在として、人間は造られました。私たちは日々、神様を愛するのか、愛さないのか選択する者として生かされています。そして聖書は繰り返し、神様を愛する者として生きるように。仕える者、手を開く者として生きるようにと勧めていました。私たちは、この勧めにどのように応じるでしょうか。

 どのようにしたら、神様を愛する者として生きることが出来るのか。仕える者、手を開く者として生きることが出来るのか。一つの鍵は、イエス様を見ることです。

 マルコ10章45節

「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

 

 イエス様はただ、私たちに仕える者となりなさいとは言われませんでした。まずご自身が仕える者となられた。それも贖いの代価として、自分の命を与える仕え方。つまり私たちの身代わりに十字架で死なれる。それ程まで徹底的に仕える。これ以上ないほど、低くなり私たちに仕えるというのです。

 聖書は、神様を愛する者として生きるように勧めます。しかしその前に、神様から愛されていることを受け取るように言います。仕える者として生きるように勧めます。しかしその前に、仕えられた者であることを覚えるように教えます。世界を造り支配されている王の王である方に、私は仕えてもらった。手を開くどころか、いのちまで下さった。このイエス様を皆で覚えたいと思います。

 私たち一同で、神様に愛された者として、イエス様に仕えてもらった者として、神様を愛する者、手を開く者として生きていきたいと思います。

2020年10月4日日曜日

使徒の働き(3)「神の大いなるみわざを語る者たち」使徒2:1~13

皆様は自分が何のためにイエス・キリストに救われたと思っているでしょうか。イエス・キリストが尊い命を犠牲にして私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださったのは何のためなのでしょうか。私たちが幸福な人生を送るためでしょうか。死後天国に行くためでしょうか。勿論、それも聖書の教える真理です。神は私たち一人一人が幸福な人生を送り、私たち一人一人と共に歩むことを願っているからです。

しかし、それだけではありません。主イエスが十字架の苦しみに耐え私たちの罪を赦してくださった意味、復活によって私たちに永遠のいのちを与えてくださった意味はそれにとどまりません。私たちキリスト者がこの地上に生かされているのは、この世界で果たすべき使命があるからなのです。神がこの地上で私たち教会に託された使命があるのです。その使命とは何なのか。今日の個所から考えたいと思います。

さて前回読み進めた使徒の働き1章では、主イエスが天に挙げられました。弟子たちは地上に残されたのです。その数僅か120人。キリストの使徒、キリストの弟子とは言っても、ほんの一握りの者たちにすぎず、吹けば飛ぶような存在でした。権力なく、富なく、肩書もなければ、正式な学問を修めた者もない。何の力もなき無名の人々の存在を気に留める者、この時ユダヤの国には一人もいなかったのです。

それに加えて、弟子たちのリーダー格である使徒たちは十字架前夜、ある者は権力者を恐れて主イエスから離れ去り、ある者はわが身を守るため主イエスとの関係を全面否定していました。そんな罪の痛みも心に抱えていたのです。そんな弟子たちに対し、主イエスはこう約束しました。

 

使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 

自分たちの様な力なき者がどうしたらエルサレムからユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで出てゆくことが出来るのか。自分たちの様な罪深き者がどうしたら主イエスの証人となれるのか。不安と恐れに包まれていた弟子たちの心は、彼らに力を与える聖霊へと向けられました。

こうして彼らは主イエスの聖霊を待ち望み、毎日心を合わせて祈る群れへと変えられたのです。主イエスの証人として立ち上がるその日に備えて、脱落したユダに代わりマッテヤを新たな12使徒の一人として補充し、体制を整えました。そして、ついにその日はやって来たのです。

 

使徒2:1~4「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」

 

五旬節の旬は一か月を上旬、中旬、下旬と三等分することから分かる様に10日のことです。旬10日が五つ合わさって五旬節、五十日祭とされました。ユダヤでは過ぎ越しの祭りの終わりの日曜日から数えて50日目。時に紀元30年5月の下旬と推測されます。ちょうど小麦の収穫が始まる季節に行われた収穫感謝祭であり、旧約の昔イスラエルの民が神から十戒を賜った記念日でもありました。五旬節は過ぎ越しの祭り、仮庵の祭りとともにユダヤの三大祭として重んじられていたのです。

なおこの日がペンテコステと呼ばれるのはギリシャ語のペンテが五、ペンテコステが五十番目を意味するからでした。季節柄天候の良い日が多く、収穫祭という喜びもあったからでしょう。国外に暮らすユダヤ人たちも、国内に住むユダヤ人もこの日を目指し、ぞくぞくと都エルサレムに集って来たのです。

弟子たちにとっても主イエスの復活から数えて50日目、主イエスが天に挙げられてから10日目のこと。主イエスの復活と昇天を記念する。そんな思いを抱いて皆が神殿に集まり、礼拝をささげていたその時でした。突然天から激しい風が吹いてきたような響きが起こり、炎の様な舌が分かれて現れ、一人一人の上にとどまったと言うのです。

風は聖書において聖霊を現し、炎は神の臨在を示しています。つまり、この日聖霊の神が弟子たちに下り、主イエスの約束は実現したのです。待望の聖霊がくだり、弟子たちは皆聖霊に満たされたのです。その結果、彼らは様々な外国語で話し始めたと言うのです。彼らは一体何を語ったのでしょうか。その話を聞いた人々はこう証言しました。

 

使徒2:11それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」

 

聖霊に満たされた弟子たちは神の大きなみわざを語ったのです。聖霊の力は彼らに主イエスの十字架と復活の福音を語らしめたのです。それにしても、何故聖霊は激しい風が吹いてきたような音とともに下ったのでしょうか。何故聖霊は炎の様な舌となり、彼らの上にとどまったのでしょうか。

どんなにぼんやりとした弟子も聖霊の存在を確信し、どんなに疑い深い弟子も聖霊の力を実感できるよう神が配慮されたのです。聖霊に助けられて、彼らはこれまで一度も習ったことのない外国語を用い、大胆に主イエスの福音を語ることが出来るようになったのです。

印象的なのは、弟子たちに与えられた力の内容です。以前彼らは復活の主にこう尋ねていました。「主よ、イスラエルのために(我が母国、我が民族のために)国を再興してくださるのは、この時なのですか。」(16節)彼らはイスラエル民族中心の世界の到来を願っていました。ですから彼らはすべての人の空腹をパンで満たすような力が欲しいと考えていたかもしれません。すべての人の病を癒すような力を求めていたかもしれません。ローマ占領軍を退け、母国を平和にする力を祈り求めていたかもしれません。

しかし、ペンテコステの日、聖霊が弟子たちに与えたのは主イエスの福音を証しする力であり、主イエスの証人として生きる力でした。母国ユダヤの人々にも、隣国サマリヤの人々にも、地の果てに住む人々にもキリストの福音を宣教する力だったのです。

教会には他にも大切な働きがありますが、やはり最も大切な働きは主イエスが私たちのために行った救いのわざを伝えること、福音を証することだったのだと改めて心に銘記させられます。神は男も女も、牧師も信徒も、子どもも青年も年老いた者も、私たち皆がこのつたない舌をもって救いの福音を語り、証することを期待しておられる。このことを確認したいのです。

ところで、突然都を襲った物音に驚いたのは、世界の各地から集まってきた敬虔なユダヤ人と異邦人でありながら聖書の神を信じる改宗者たちでした。彼らは弟子たちが自分たちの国の言葉で話すのを聞いて、呆気にとられてしまったのです。

 

使徒2:5~11「さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。

私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」

 

当時ユダヤ国外に暮らすユダヤ人は大勢いました。ある者は先祖がアッシリアによって連れ去られ、ある者は先祖がバビロンによって連れ去られ、そのまま母国に帰らず異国の地に定着し、生活してきた人々です。彼らの中には、異教の文化や習慣に馴染み、聖書の神を捨て去った者もいました。異国での安定した生活を守るために神信仰を離れ、神の民としての心を失った者もいました。

しかし、そんな中にあって、神への信仰を守り、偶像礼拝に流されず生きてきた者たちが、世界の各地に存在したのです。彼らを通して聖書の神を知り、改宗した異邦人も存在したのです。そんな人々がこの日神殿に集っていたのです。

けれども、この紀元30年の五旬節は、彼らにとって特別な時となりました。生涯忘れることのない神の祝福を経験したのです。彼らは自分たちの国の言葉で、神の大いなるわざ、主イエスによる救いの福音について聞くことができたのです。

当時のユダヤ人の国語はアラム語です。ユダヤもギリシャローマの文化の影響を受けていましたから、ギリシャ語を話せるユダヤ人も相当いました。しかし、その日巡礼者たちが目撃したのペルシャ語、アラビア語等、自分達の国語を話す弟子たちの姿だったのです。

彼らはどこで暮らしていたのか。その地名のリストが示す広大な範囲に驚かされます。先ずパルティア人、メディア人、エラム人というのは、ユダヤから見て東に住む人々です。今のイランからインド国境近くまでの地域を思い浮かべてよいでしょう。次に西に回って、メソポタミア、シリアを含む広い意味でのユダヤ。それから北に向かってカパドキア、ポントスとアジア、フリュギアとパンフィリア。これらはほぼ今日のトルコにあたります。今度は南に下ってエジプト、リビア等北アフリカの人々が登場します。そこから、地中海を渡ると帝国の都ローマ、地中海に浮かぶ小島クレタ。最後に砂漠の地アラビアからも旅をしてきた人々がいたことをルカは記していました。

ルカは当時人々が世界と言って思い浮かべることのできる最大の範囲をここに示しているのです。ペンテコステ以降、聖霊に満たされた教会がエルサレムから初めて、世界中に救いの福音を伝え、世界中に教会が建てられる日が来ることをルカは確信していたのです。

主イエスもこの日あることを覚えて、神の国のたとえを語っていました。

 

マルコ4:30~32「またイエスは言われた。「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときは、地の上のどんな種よりも小さいのですが、蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」

 

世界の教会の最初のメンバーは僅か120人。からし種の様な小さな存在でした。しかし、このからし種の様に小さな教会が東に西に南に北に、世界中に福音に福音を伝え、枝を伸ばし、救いを求める人々のためにその木陰を提供する程の大樹となることを、主イエスは知っておられたのです。

そして私たち日本長老教会も、四日市と東京の松の木、済美が丘、たった三つの教会でスタートしました。1956年のことです。からし種の様な小さな群れでした。しかし、ペンテコステの聖霊は私たちをも導き、東関東にも、神奈川にも、埼玉にも、愛知にも、石川にも、大阪にも、奈良にも、四国にも、東北仙台にも、福音の枝を張り、長老教会は建てられてきました。

私たちの様な小さき群れも聖霊に導かれ、日本と世界の人々にささやかながら教会という恵みの木陰を提供してきたのです。そして今、三重中南勢地区にも教会をというビジョンが与えられ、これに取り組んでいるのです。主イエスはからし種の様な日本の教会にも、同胞のため、隣国のため、遠く世界の人々のため、宣教の使命を託しておられるのです。

しかし、キリストの教会が進みゆく道は決して平たんなものではありませんでした。すでにその兆候はこのペンテコステの日にも現れていたのです。

 

使徒2:12~13「人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。」

 

主イエスの福音を受け入れる者もいれば、当惑する者もいる。福音を信じる者もいれば、嘲る者もいる。昔も今も人間の心は自己中心で、神の前に自分の罪を認めようとはしません。自分の力により頼む人間は神の恵みを拒み、救い主等必要なしと主張してやまないのです。

事実、この日誕生したエルサレムの教会を恐れたユダヤの権力者たちは使徒たちを捕らえ、抹殺しようとしました。ユダヤ人の多くは福音を聞くと、それを拒み、拒むどころか異邦人に主イエスの福音を伝えようとする使徒たちを迫害しました。また、最初はキリスト教をユダヤ教の一派と見なし、容認していたローマ帝国も、やがて教会が皇帝礼拝を拒む時、激しい迫害をもって教会を苦しめたのです。

しかし、そうであっても教会は聖霊と共に前進し続けたのです。指導者が捕らえられても、殉教者が出ても、町から追放されても、それでもキリスト者たちは宣教をやめはしなかったのです。ユダヤの最高議会でも、ローマの裁判所でも、会堂でも、町の広場でも、人々が集う川辺でも、荒野でも、荒波に揺れる船の中でも、彼らは主イエスの福音を語ったのです。男も女も、使徒も信徒も、雄弁な者もそうでない者も、聖霊に導かれた人々は宣教をもって神に仕えていたのです。

そして、私たちも彼らと同じ道を行くのです。私たちに代わって十字架で神のさばきを受け、苦しみに耐えてくださった主イエス。復活によって私たちに罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださった主イエス。その救いの福音をもって、同胞に、隣国の人々に、世界の人々に仕える使命が、今この日本、この四日市で私たち一人一人に託されているのです。