2020年6月28日日曜日

年間聖句「いつも主のわざに励め」Ⅰコリント15:50~58

 皆様は「サザエさん」というテレビ番組をご存じでしょうか。1969年に始まったテレビ版「サザエさん」は現在に至るまで50年以上親しまれている国民的長寿番組と言われます。例え熱心な視聴者ではなくても、サザエさんを始めとする磯野家の家族構成やそれぞれの顔など、多くの人は思い浮かべることが出来るのではないかと思います。

 意外なのは磯野家のメンバーの年齢設定です。公式ホームページによれば主人公のサザエさんは24歳、お婿さんのマスオさんは28歳、サザエさんのお父さんの波平さんは54歳。いくら原作が1950年代初期の時代設定とは言え、今の私たちの感覚からすると、磯野家の人々は実年齢より貫禄があるというか、老けているというか。相当な違和感を覚えます。

 尤も当時会社員の定年は55歳、男子の平均寿命は63歳ですから、波平さんの貫禄もその頃としてはごく普通のことだったのかもしれません。それから70年が経ち、日本人の平均寿命は男子81歳、女子87歳。20年後には男子が84歳、女子が91歳に伸びるとの予測もあります。昨今は人生100年時代、人生設計は100年を目途にと言われるようにもなりました。

 果たして皆様はこれを聞いてどう思うでしょうか。長寿の時代に喜びを感じるでしょうか。それとも、健康、経済、孤独など、労苦多き人生が延びることは大変だと感じるでしょうか。しかし、いずれにしても、どれ程医学が発達し、寿命が延びたとしても精々が二けたの後半か、三桁の前半。遅かれ早かれ、人が皆死に直面しなければならないという現実に古今東西変わりはありません。

「生まれては 死ぬるなりけり 釈迦も達磨も 猫も杓子も」とは一休禅師の歌です。宗教家も知者も、猫も杓子も、命あるものは誰も彼も等しく死に呑まれてゆく。人生の無常、虚しさを歌っています。旧約の昔、賢者として知られたソロモン王も同じことを述べています。

 

 伝道者の書2:14,16~17「知恵のある者は頭に目があるが、愚かな者は闇の中を歩く。しかし私は、すべての者が同じ結末に行き着くことを知った。事実、知恵のある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、一切は忘れられてしまう。なぜ、知恵のある者は愚かな者とともに死ぬのか。私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだからだ。確かに、すべては空しく、風を追うようなものだ。」

 

3:19~20「なぜなら、人の子の結末と獣の結末は同じ結末だからだ。これも死ねば、あれも死に、両方とも同じ息を持つ。それでは、人は獣にまさっているのか。まさってはいない。すべては空しいからだ。すべては同じ所に行く。すべてのものは土のちりから出て、すべてのものは土のちりに帰る」

 

学問をつんだ者もそうでない者も同じく死んでゆく。努力して仕事をした者もそうでない者も皆死んで忘れられてゆく。この地上で労苦することは虚しく、風を追うようなものだ。同じく死んで土に帰るという点からすれば、人間は獣にまさるものではない。徹底した悲観主義です。

他方、悲観主義への反動から徹底した快楽主義も生まれてきます。その生き方はこの手紙の15章の前半に使徒パウロ自身の言葉として記されていました。

 

コリント15:31~32「兄弟たち。私たちの主キリスト・イエスにあって私が抱いている、あなたがたについての誇りにかけて言いますが、私は日々死んでいるのです。もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。」

 

投獄、迫害、暴力、病。使徒は日々死の危険と隣り合わせの人生を生きていました。「この労苦と危険多き地上の人生がすべてだとしたら、死をもってすべての働きが無駄になるのだとしたら、思いのまま快楽を貪る生き方に私も賛成する。」とパウロは言うのです。

悲観主義か快楽主義か。この地上の人生がすべてであるなら、悪が栄え善が廃れるこの世界がすべてであるなら、知恵を積んでも積まなくても、努力をしてもしなくても、死をもってピリオドが打たれる人生がすべてであるなら、人間が選ぶ生き方はこの二つしかないのかもしれません。そして、もし悲観主義者ではないとしても、生きている限り誰もが悲観的な気分に陥ることがあります。もし快楽主義者ではないとしても、人間なら誰しも快楽主義に誘惑される瞬間があるのです。

しかし、パウロはここに「死は勝利にのまれた」と凱歌をあげています。死に対する観念でもなく、死に対する屈服でもない。死の征服、死に対する勝利の宣言です。

コリント人への手紙第一の15章は復活論として有名です。キリスト者としてさすがに主イエスの復活は信じるものの、死者の復活についてはあやふやなコリント教会の人々に対し、使徒パウロが復活のイロハを順番に教えるところ。復活についてキリスト者が熟読すべき章とされてきました。

これまで主イエスの復活の事実と証人たち、復活の意味、復活の体の有様、復活の出来事の順番について語ってきたパウロ。その頂点が今日の個所となります。そして、この復活論が悲観主義か快楽主義か、二つに一つであった私たちの人生観、世界観を大きく変えることになるのです。

 

15:50~51「兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。」

 

主イエスを信じる者は神の国を相続できる、とパウロは宣言しています。それでは、主イエスを信じる者、私たちが相続する神の国とは何でしょうか。

聖書によれば、神が創造した最初の世界はすべてのものが良い状態にありました。神と人間は親しく交わり、人間は互いに愛し合い、自然も美しく、豊かだったのです。しかし、人間の罪によって良い世界は傷つけられました。けれども、神はこの世界を見捨てず、神の御子が自ら十字架に死ぬという代価を払って人間の罪を贖い、救いの道を開きました。そして、主イエスはやがてこの世界に戻り、すべての被造物を新しくし、苦しみと死を終わらせ、この世界に平和、正義、喜びを回復する、と聖書は語るのです。

再臨の主イエスによってもたらされる新しい世界、平和と正義と喜びが回復した世界こそ、主イエスを信じる者が受け継ぐ神の国です。しかし、私たちが地上で持っている血肉の体は朽ちるもの、腐敗するものなので神の国を受け継ぐことができません。新しい世界には新しい体、死によって朽ちることのない体が必要なのです。私たちが相続する神の国は永遠の世界だからです。

 この復活の体がどのようなものか。これまでパウロは説明してきました。ヒマワリの種が地上の体だとすれば、ヒマワリの花が復活の体。土にまかれた種が死んで花と変わるように、同じヒマワリでも種と花とではその美しさ、豊かさ、力強さがまったく異なること。それと同じく地上の体に比べて、復活の体が格段に美しく、豊かで、力強い命で満ちていること。様々な具体例を通して使徒は述べてきたのです。

 けれども、この説明を聞いたコリント教会の中に、再臨の時に与えられる復活の体については分かったけれど、その日生きている者はどうなるのか。再臨の時生存している者は地上の体のまま神の国に入るのか。そんな疑問の声が上がったのでしょう。

 それに対して使徒は答えます。「私たちは皆が眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。」再臨の日地上に生きてある者はその体を新しい体に変えられるのです。朽ちる体が神の国での生活にふさわしい体へと造り変えられると言うのです。

 その変化の有様を述べるパウロの言葉は、まるで実際に見ているかのように直接的でした。

 

 15:52~53「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。」

 

 「講釈師見てきたような嘘を言い」という言葉があります。張り扇で台をたたき、テンポよく語る講釈師の話に面白いと感心する人はいても、それを本当だと思う人はいないでしょう。まして、その話に命を懸ける講釈師とかその話によって人生を変えられた人などいるわけもありません。

 しかし、パウロも他の使徒たちも主イエスの復活と死者の復活を伝えることに文字通り命をかけた人々でした。どんなに苦しめられても、例え命を失うことになっても、彼らは復活を伝えることをやめなかったのです。その福音によって多くの人が主イエスに従い、人生を大きく変えられたのです。それは、死者の復活が嘘でもなければ、単なる人間の予測や願望でもなかったからです。死者の復活は世界を導く神のご計画であり、旧約聖書に預言されていたからです。

 

 15:54「そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」」

 

 「死は勝利に呑み込まれた」という言葉はイザヤ書にあります。直接的にはイスラエルの民がアッシリア軍の攻撃から救出されることを語ったものですが、神に信頼する者が死の力から救出されることをも意味していると解釈されてきたのでしょう。この預言は私たちの心にも、来るべき神の国での喜びの生活を思わせてくれます。

 

イザヤ25:6~9「万軍の【主】は、この山の上で万民のために、脂の多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多い脂身とよくこされたぶどう酒の宴会を開かれる。この山の上で、万民の上をおおうベールを、万国の上にかぶさる覆いを取り除き、永久に死を吞み込まれる。【神】である主は、すべての顔から涙をぬぐい取り、全地の上からご自分の民の恥辱を取り除かれる。【主】がそう語られたのだ。その日、人は言う。「見よ。この方こそ、待ち望んでいた私たちの神。私たちを救ってくださる。この方こそ、私たちが待ち望んでいた【主】。その御救いを楽しみ喜ぼう。」

 

 こうして遥かイザヤの昔から主イエスの再臨に向かう遠大な神のご計画を示した使徒は、次に旧約の預言ホセア書を引用しつつ、この世界に死をもたらしたのが人間の罪であること、その人間の罪を主イエスが取り除き、死に完全勝利されたことを指摘します。

 

15:55~57「「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」

 

 勝利、勝利、勝利と三度にわたる勝利宣言、人間を苦しめてきた死に対する凱歌です。私たちの死に対する勝利は私たちの知識によるものではありません。私たちの努力や宗教的な行いによるものでもありません。十字架の死に至るまで神の御心に従うことによって、主イエスが父なる神から受けた勝利を私たちに与えられたのです。主イエスによって罪を贖われ、神に義と認められた私たちにとって、死は恐るべき神のさばきではなく、神の国への門出となったのです。

 最後にキリスト者はこの地上の人生をいかに歩むべきか。パウロはこう勧めています。

 

15:58「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」

 

 私たちは家庭において家族に仕えます。教会において教会の働きに仕えます。社会の一員として隣人に仕えます。あらゆるところで主イエスの福音を伝えてゆくのです。家庭でも教会でも職場でも社会でも、なすべき主のわざがあるのです。主イエスのために、主イエスの恵みによって労苦すべきわざが私たちにはあるのです。若くても年老いても、富む時も貧しい時も、賜物や状況は異なっても、励むべき主のわざが私たち一人ひとりにあるのです。今ここで私がなすべき主のわざは何か。そのことを考え続け、行い続けるのがキリスト者の歩みだとパウロは言うのです。

 しかし、悲観主義に陥らず、快楽主義に走らず、主のわざをなし続けるのは決して容易なことではありません。困難と苦しみ多き地上の人生、誘惑と失望多きこの人生を、いかにして主のわざに励んで送ればよいのか。復活の希望こそ弱き私たちの助けであり、支えなのです。この言葉に励まされ、宗教改革の大事業を成したカルバンの言葉を聞きましょう。

 「復活の望みがあるからこそ、私たちは弛むことなく主のわざに励むことが出来る。神の国での生活を思い、それによって神への畏れの中に引きとめられていないなら、かくも多くの躓きや苦しみのさ中にあって勇気を失うことなく、道に迷わずにすむ人が誰かあるだろうか。事実死者の中から復活し、神の国を相続するという望みがとりさられてしまうなら、なおも主のわざに励もうという意欲は冷めるばかりか、全くうしなわれてしまうのである。」

 この一年何をもって私は家庭で仕え、教会で仕え、社会で仕えるのか。誰に主イエスの福音を伝えるのか。この四日市キリスト教会がいつも主のわざに励む者として、この年度の歩みを進めてゆきたいと思うのです。

2020年6月21日日曜日

一書説教(58)「ヘブル書~目を離さないで~」ヘブル12:1~3

 聖書の中には様々な「たとえ」が出て来ますが、私たちの信仰生活、神の民の歩みは何にたとえられているでしょうか。色々な表現がありますが、聖書に繰り返し出てくる表現は「旅」です。主イエスを救い主と信じる私たちは旅人として生きる者。聖書の色々な箇所に出てくる表現ですが、たとえば詩篇にはこのようにあります。

 詩篇119篇19節

私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。

 

 信仰者は旅人。これはどのような意味でしょうか。今いるところが定住の場所ではない、目的地がありそこに向かって進んでいる者。地上のことだけに集中する者ではない、天上を目指して生きている者という意味です。皆様は旅人としての自覚を持って生きてきたでしょうか。

 ところで旅人として生きる、天を目指して生きるというのは具体的にはどのような生き方になるでしょうか。色々なことが考えられますが、そのうちの一つは、神様の仰せをよく聞くこと、聖書に親しむことです。私たちがこの地上で大事に思うものの多くは、この地上だけのもの。しかし神の言葉はこの地上だけでなく天国でも価値のあるもの。この地上のことだけに集中するのではない、天上を目指して生きる者の具体的な取り組みの一つは、神のことばに親しむことです。

 

 私たち一同で聖書に親しみたいと考えながら取り組みを続けてきた一書説教の歩み。しばらく一書説教に取り組めていませんでしたが、今日は通算五十八回目、新約篇の十九回目となります。

 新約聖書には二十一もの手紙が収録されていますが、そのうちの半数以上はパウロが書いたもの。前回のピレモン書で、パウロ書簡は終了となり、ここからはパウロ以外の著者が記した手紙に入ります。

パウロ以外の著者による手紙、その筆頭を担うのはヘブル人への手紙となります。手紙としては全十三章に及ぶ大著にして難解な書。読者である私たちからすると、パウロ書簡という大きな峠を越えたと思ったら、いきなりヘブル書という難所に行き当たることになるのです。旧約聖書の引用が実に多く、私たちには難解な書。しかし、多くの人に愛され、新約聖書の中で極めて重要な救い主についての理解を与えてくれる書。大きな山ヘブル書は、難所というだけではなく、宝を埋蔵した山でした。私たち皆で、ヘブル書に向き合うことが出来ることを喜びたいと思います。

一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。

 

 ヘブル人への手紙。手にとって読み始めますと、すぐに他の手紙との違いに気が付きます。当時の手紙は、誰から誰に宛てられたものか、冒頭に記されるもの。しかし、この書は挨拶文がなく、いきなり本論に入るのです。

 ヘブル1章1節~3節

神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。

 

 難解なヘブル書。その原因の一つは、著者不明、宛先不明な点にあります。著者が誰か、宛先が誰か分かれば、手紙が書かれた背景が分かり理解しやすいのですが、この書は著者も宛先も不明です。著者については様々な説があり、パウロではないか、バルナバではないか。ルカはどうか、シラスはどうか。プリスキラやアポロという案もあります。宛先も記されていなく、誰のために書かれたものか定かではありません。内容からすると、旧約聖書に精通した人から、旧約聖書を良く知っている者たちに宛てて記されたものであることは分かります。

 また「ヘブル人への手紙」と呼ばれていますが、一般的な「手紙」というよりも、説教のような印象です。旧約聖書の引用があり、その箇所の解説をし、それに基づく信仰生活の励ましがなされる。これが繰り返される。ヘブル書はいくつもの説教が収録された説教集という印象です。

冒頭で一息のうちにイエス様のことを「神様の言葉を語るお方、万物の相続者、世界の創造者、神の栄光をあらわす者、神の本質の現れ、世界の統治者、贖い主であり、今や神の右に座するお方。」と紹介した著者は、ここからずっとイエス様がどのようなお方なのか語り続けます。ヘブル書は、主イエスがどのようなお方なのか語る書。

 

 ところで、私は先ほどから実際の中身に触れないまま、難解な書と繰り返していますが、本当に難解なのか。どのように難解なのか。少し確認してみます。

 ヘブル2章6節~10節

ある箇所で、ある人がこう証ししています。『人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みてくださるとは。あなたは、人を御使いよりもわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、万物を彼の足の下に置かれました。』神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。

 

 いかがでしょうか。一読して著者が何を言おうとしているのか、分かりますでしょうか。聖書を引用し、解説をするスタイル。ここで引用されているのは、詩篇八篇の言葉です。詩篇八篇と言えば、神様が世界を造られた時、人を神のかたちに造り、世界を治める権威を与えて下さったこと。私たちに与えられている特権はどれほど素晴らしいものかと感嘆を挙げている詩です。

たしかに神様は人を造る時に「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」と言われました。ところが、人間は罪をおかし、堕落します。相応しく世界を治めることが出来ない状態になってしまった。このことをヘブル書の著者は「神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。」とまとめます。

万物を支配するのに相応しい存在がいなくなってしまった。この世界にあって、誰が万物を支配するのに相応しいのでしょうか。それは「ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。」としてイエス様が示されます。しかも、イエス様を指し示すのに「御使いよりもわずかの間低くされた方」と、詩篇八篇の言葉を使います。つまり、神のかたちに造られた人であり、しかし罪の支配のもとにいない方、この方がイエスであると言っているのです。

さらに、罪の支配のもとにない方、死とは関係ない方が、死の苦しみを受けられたこと。それは、多くの人を栄光に導くためであること。そのように、救い主が苦しむことを通して罪人を救うこと、その働きを全うする者と定めたことは、神様にとってふさわしいことだと言う。

「ムムム」と唸ります。短い言葉の中に凄い情報量。私のような者からすると、ついていくのに必死。もう少し丁寧に、もう少しゆっくりと論理展開してもらいたいと思うところ。しかしこの難解さがヘブル書は続きます。読者は覚悟が必要。

 

 このようにヘブル書はイエス様がどのようなお方なのか、旧約聖書の引用とともに記される書。

どのようにイエス様が提示されているのか。以下に簡単にまとめますと、主イエスは、旧約時代の祭司よりも優れ(七章)、モーセよりも優れ(三章)、天使よりも優れ(一章)ている。それどころか神様と同質、同等である(一章)と言われます。主イエスはあらゆるものよりも優れた神である方。それと同時に、本当に人となられた方。主イエスは私たちと同じように弱さと苦しみを味わい、それにもかかわらず罪を犯すことなく神様に従い通した方と言われます(二章、四章、五章)。

 このようにヘブル書は、主イエスを、神である方、同時に人間である方と提示しているのです。主イエスの神的性質を強調しながら、同時に真の人間である弱さも強調する。だからこそ、イエスは神と人との間に立つことが出来る、仲保者となりうる、祭司の働きが出来るのだとまとめられます。

 ヘブル8章1節~3節

以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。この方は天におられる大いなる方の御座の右に座し、人間によってではなく、主によって設けられた、まことの幕屋、聖所で仕えておられます。大祭司はみな、ささげ物といけにえを献げるために任命されています。したがって、この大祭司も何か献げる物を持っていなければなりません。

 

 イエス様は私たちの祭司である。この思想は新約聖書の他の書にもみられますが、表現上、イエス様を祭司として示すのはヘブル書だけとなります。

神様から離れ、神の裁きの対象となった私たち。その私たちを神様のもとに連れ戻す。神様と交わることが出来る者とする。この仲保者、祭司としての働きをして下さるのが、私たちの救い主イエスである。難解なヘブル書ですが、このメッセージはしっかりと受け取りたいと思います。

 

 ところでここまでの要点として、イエスが大祭司であるとした著者は、大祭司も何か献げる物をもっていなければなりませんと言い、ここから大祭司イエスがささげる、ささげものに焦点を当てていきます。大祭司であるイエス様がささげるいけにえとは、一体何でしょうか。

 ヘブル9章11節~14節

しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。

 

 大祭司であるイエス様が、罪人のためにささげるいけにえとは何か。それはご自身の血、ご自身をいけにえとしてささげるお方なのだと言われる。大祭司にして、いけにえであるイエス。

つまり、私たちが罪から救われるために必要なことは、全てイエス様がして下さるということです。私たちはいけにえを用意する必要もない。いけにえをささげる祭司を探す必要もない。ご自身をいけにえとし、同時に祭司であるイエス様を私の救い主と信じるだけ。それだけ良いというのが、ヘブル書の重要なメッセージとなります。

 

 様々な聖書箇所を引用し、解説するヘブル書。幕屋や祭司の働きを詳しく記し、それをまくらにイエス様がどのようなお方か示すヘブル書。私たちのためにご自身をささげる大祭司であるイエス。このイエス様を罪からの救い主と信じる者は、この地上での生涯をどのように生きて行けば良いのか。ヘブル書のまとめにあたる一つの箇所を確認いたします。

 ヘブル12章1節~3節

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。

 

 このように多くの証人たちが私たちを取り巻いていると言うのは、この一つ前の十一章に記されていることです。旧約の信仰者の姿が記され、どのように生き方のか確認される、信仰者列伝と呼ばれる有名な十一章。この十一章では、信仰者の歩みが次のようにまとめられていました。

 ヘブル11章13節

これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

 

 信仰生活は旅にたとえられる。旧約の信仰者たちは、その歩みを通して、地上では旅人であることを告白してきたと言います。そして十二章になると、この旅がとても激しいものであることが分かります。休暇にのんびり行く旅ではない。信仰者の旅は、競走と言われるほどの激しいもの。走り続けるようなもの。

 この信仰生活を送る私たちは、どうしたら旅を続けることが出来るのか。どうしたら走り続けることが出来るのか。どうしたら、心が元気を失い、疲れ果ててしまわないのか。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないように。」と勧められます。私たちを救うためであれば、十字架の死すらものともされなかった方。それも、ご自身が救おうとされている罪人に反抗されても、その働きを全うされた方。このイエスから目を離さないように。

 私たちが罪から救われるために全てのことをして下さった方、信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さない。これが、私たちが地上の旅を全うする上で大事なこと。走り続ける上で大事なこと。イエスから目を離さない。この勧めを私たち一同で、しっかりと受け止めたいと思います。

 

 以上、ヘブル書の一書説教でした。是非とも、ヘブル書はイエス様をどのような方として示しているのか、ご自身で確認してもらいたいと思います。また、私にとってイエス様がどのようなお方なのか、考えたいと思います。また自分の心の目はどこを向いていたのか、確認したいと思います。この地上のもの、地上のことを見続けていなかったか。自分のことばかりを見ていなかったか。「イエスから目を離さないように」との勧めに従うことが出来ていたか。

 自分中心にしか生きることが出来ない。隣人を愛することが出来ない。愛したいと願いながらも、傷つけてしまう。悪を考え実行してしまう。良くなろうと願いながら良くなれない。いや、良くなろうとも思わない。神を神と思わず、人と人とも思わない。そのような徹底的に罪にまみれた私のために、イエス様はご自身をささげ、私の大祭司となって下さった。このイエス様が、私を造り変えて下さる。このイエス様が、私を神に仕える者として下さる。このイエス様を皆で見続けながら、皆で信仰の旅路を全うしたいと思います。

2020年6月14日日曜日

Ⅰコリント(33)「もしキリストがよみがえらなかったとしたら」Ⅰコリント15:12~19

 「死後にも生命はあるのか?」「肉体は消滅しても霊魂は生き続けるのか?」「ある」という人もいれば「ない」という人もいる。「わからない」という者もいる。死後の命については昔から大人も子供も、若者も老人も、学者も庶民も、宗教を持つ者も持たざる者も皆が考え、論じてきました。

 お釈迦様は「死後の世界はあるやなしや」と問われると、沈黙して語らなかったそうです。孔子は「死」について聞かれると「生きることについてもよく分からないのに、どうして死後のことが分かるだろう」と答えたそうです。世界中の人々に影響を与えた二人の賢者も、死後の生命については「分からない」という立場に立っていたのです。

 また、昔から今に至るまで、死後の生命を否定する人も後を絶ちません。確かに死の瞬間に肉体は活動を停止します。体は焼かれて灰と化し、土に帰ります。この事実を目にする時、死後に生命なしという考えに説得力を感じる人がいたとしても不思議ではありません。

 しかし、死後の生命、死後の世界についての考え方を広く見渡す時、分からないという立場に立つ人、これを100%否定する人は少数派とされます。理性的に考えれば「死後の命についてはわからない」という立場に立つのは尤もと思えます。理屈としては死後の生命否定論も理解できます。けれど、そんな理性や理屈では納得できないもの、心のもやもやを人間は感じてきたのです。多くの人々がその内容は異なっても、死後の生命、死後の世界はあると信じてきたし、今も信じているのです。

 何故昔から世界中の人々が死後の生命について考えてきたのか。何故神の存在が無視される時代、科学万能の時代と言われる現代になっても、人々は死後の世界を信じ続けるのでしょうか。

聖書は、神が人々の心に永遠への思いを与えたからだと教えています。

 

 伝道者の書3:11「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることはできない。」

 

 人間には自分が生まれる前のことも、死んだ後のことも知ることはできません。世界の歴史についても、その知るところはごく一部にすぎません。しかし、そんな人間に神は永遠への思いを与えました。「私はなぜ生まれてきたのか?」「死んだらどうなるのか?」「私が生きるこの世界はなぜ存在し、どうなってゆくのか?」そうしたことを考える者、その答えを求め続ける者として、神は私たち人間を創造したのです。

ところで、今礼拝の際読み進めているコリント人への手紙は、使徒パウロがコリントの教会に書き送ったものです。コリントの教会はギリシャの国コリントの町にありました。そして、紀元1世紀のギリシャ社会には、死後の生命について「わからない」とする人もいれば、死後の世界を否定する者もいたのです。

しかし、その頃ギリシャ社会において最も盛んだったのは霊魂不滅論でした。肉体は死とともに消滅しても、霊魂は永遠に生きると人々は信じていたのです。肉体は霊魂の正しい活動を妨げる邪魔者、悪とみなされていましたから、肉体が消滅し、霊魂が肉体から解放される死の瞬間はむしろ歓迎されたのです。

そんな社会で福音が語られると何が起こるのか。使徒の働きには、コリントと並びギリシャを代表する都市アテネで伝道した使徒パウロと人々の反応が描かれています。

使徒17:31~32「なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。」死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、ほかの人たちは「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」と言った。」

 

神がお立てになった一人の方、主イエスの復活について聞いた途端、人々はあざ笑い、耳を塞ぎ、福音を拒みました。アテネの人々にとって、自分たちが信じる霊魂不滅の教えとは異なる死者の復活、それも霊魂の正しい活動を妨げる肉体の復活、悪しき肉体の復活など戯言にしか聞こえなかったのでしょう。

コリントもアテネと同じく圧倒的にギリシャの文化と宗教の影響のもとにありました。ですから、コリント教会の中に、さすがに主イエスの復活は否定しないものの、主イエスを信じる者の復活ついて無理解な者、よく消化できない者が存在したとしても、不思議ではありません。そんなキリスト者に対し、パウロは語ります。

 

15:12~13「ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。」

 

「死者の復活はない」と言っていたのは教会全体ではなく少数派でした。パウロも非難というより、「何故そんなことを言うのか」と首を傾げている様です。しかし、たとえ少数と雖も問題は福音の根幹に関わること。「主イエスの復活と主イエスを信じる者の復活は表裏一体。主イエスの復活を信じながら信者の復活を否定することはできない。死者の復活を信じられない者は主イエスの復活についてよく調べ、よく聞く必要がある。」そう使徒は告げています。

そして、主イエス復活の事実こそキリスト教信仰の核心と考えるパウロは、復活の宣教に自らの命を懸けてきたその思いを吐露するのです。

 

15:14~16「そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。」

 

キリストの復活が初代教会の宣教の中心であったことは、既に3節から8節で確認しました。もし、キリストの復活を目撃したペテロやヤコブ、パウロ自身、それに12弟子たちや五百人以上の兄弟たちのことばが悉く事実無根だとしたら、キリスト教信仰は虚しいと言うのです。キリスト教会の土台も崩壊すると断定するのです。

さらに、もし主イエスが事実復活しなかったなら、私たち使徒は皆神から偽証罪に問われることになるとまで言い切り、自らを追い詰めるパウロの姿が目に浮かびます。「人一倍神を畏れ、神を愛する私たちが、どうして神に逆らうような作り事を人に伝えるのですか。まさか、そんな嘘のために私たちが命をささげてきた等と本気で考えている人がいるのですか。」説明と言うより説得、理論と言うより証し。使徒による証しのことばを、私たちも聞くべきところです。

事実、キリストの復活を伝える使徒たちは皆苦しみを受けました。ペテロは投獄され、ヤコブは殉教しました。パウロも鞭打ち、石打ち、投獄等、数えきれない程の苦難を味わったのです。今日はユダヤの都エルサレムの最高裁判所における、ペテロと使徒たちの宣教の一幕を確認します。

 

使徒5:27~33,40~41「彼らが使徒たちを連れて来て最高法院の中に立たせると、大祭司は使徒たちを尋問した。「あの名によって教えてはならないと厳しく命じておいたではないか。それなのに、何ということだ。おまえたちはエルサレム中に自分たちの教えを広めてしまった。そして、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしている。」しかし、ペテロと使徒たちは答えた。「人に従うより、神に従うべきです。私たちの父祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスを、よみがえらせました。神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはこれらのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊も証人です。これを聞いて、彼らは怒り狂い、使徒たちを殺そうと考えた。(議員たちは)使徒たちを呼び入れて、むちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと命じたうえで、釈放した。使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜びながら、最高法院から出て行った」

 

使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜んだ。十字架直前主イエスのもとを去った弟子たちも、主イエスを裏切ったペテロも復活のイエスに出会い、人生が変わりました。教会を迫害し、キリスト者を捕らえることに執念を燃やすパウロも復活のイエスに出会い、人生が変わりました。主イエスを見捨てた者も、主イエスを裏切った者も、教会を迫害した者も、みな主イエスの復活と主イエスを信じる者の復活を命がけで伝える者へと変えられたのです。

以上、キリスト教信仰にとって復活の事実、肉体の復活の事実がいかに重要なものか。パウロの語るところを聞いてきました。しかし、これで終わりではなかったのです。使徒はさらに、主イエス復活の事実がなければ私たちクリスチャンはどれ程悲惨で、あわれな者かを説き、念には念を入れます。

 

15:17~19「もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。」

 

「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいる」とはどういうことでしょうか。自ら長崎で被爆した経験から、原爆廃絶運動に力を尽くしたカトリック教会の永井隆博士は死を前にした心境を、次のように語っています。

「死に伴う肉体の苦しみ、精神の悩み、家族や友と別れる辛さなどを恐ろしいと思うのではありません。死ぬことは霊魂が肉体を離れることだけであり、世界の終わりの日には再び肉体と合わせられて復活するのですから、そのことは問題ではありません。大問題は死後神の前で受けることになる判決です。これが恐ろしい。今私は自分の心と行いを整えている最中ですが、自信のないことおびただしい。沢山の、汚いガラクタや、ごみや、煤のような罪が霊魂の中に一杯だからです。よくもこれ程溜まったものだと、自分でも吃驚です。この夥しい罪を悔い、告白し、赦していただき、償いを果たそうとしても、心は恍け、体がだらしなく伸びた今ではなかなか難しい。いくら私が生まれつきののんき者だと言っても霊魂がゴミだらけ、煤だらけでは、我が主イエスの前に立つことはできません。だから、安心して死ねるとは言えぬのです。」

永井博士の場合、良い行いを積んだ者が救われるというカトリック信仰の影響が感じられますが、死後聖なる神に対面することを思うと緊張を覚える、という経験はキリスト者なら共感できるものでしょう。しかし、主イエスの復活を信じる者にとって、地上で犯した罪に対する神のさばきを恐れる必要は全くないとパウロは言うのです。主イエスの復活を信じる者は安心して死に直面し、死後神に対面することが出来ると言うのです。

何故なら、主イエスの復活は、十字架に死なれたイエスが私たちの罪をすべて贖い、罪の赦しを完成したこと、それを父なる神が認めたことのしるしだからです。主イエスの復活は、私たちが神のさばきを恐れることなく、安心して神とともに生きられるようになった。そのしるしだからです。

また、私たちは地上のいのちにおいてのみキリストに望みを置く者にあらずと、パウロは宣言しています。事実主イエスが肉体をもって生まれ、肉体をもって死に、肉体をもって復活されたのだから、それを信じる私たちも死後肉体をもって復活し、天のみ国で生きることになるのは当然ではないかと言うのです。もし、死後にいのちの望みがなければ、労苦多き私たちの人生程あわれなものはないと告げるのです。

霊魂は善、肉体は悪と考える。霊魂を尊び、肉体を軽視する。そんなギリシャの霊魂不滅論とは異なり、神は私たちの霊魂ばかりか肉体をも尊ぶのです。地上の体を神の宮と呼んで尊ぶばかりか、再び体をもって復活すると宣言して、天のみ国においてさえも体を尊重しているのです。

この神のみこころを理解せず、ギリシャ社会の風潮に染まり、その体をもって遊女と交わり、不品行で身を汚していた者がコリントの教会にいたことは、前に見た通りです。もし彼らが肉体の復活を信じていたら、果して同じ行動を繰り返したでしょうか。それとも悔い改めたでしょうか。

 

ローマ6:13「また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。」

 

神の宮である肉体を持つ者として、将来の復活に預かる者として、私たちも不義の道具としてではなく、義の道具としてこの体を神にささげたいと思うのです。