聖書の中には様々な「たとえ」が出て来ますが、私たちの信仰生活、神の民の歩みは何にたとえられているでしょうか。色々な表現がありますが、聖書に繰り返し出てくる表現は「旅」です。主イエスを救い主と信じる私たちは旅人として生きる者。聖書の色々な箇所に出てくる表現ですが、たとえば詩篇にはこのようにあります。
詩篇119篇19節
「私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。」
信仰者は旅人。これはどのような意味でしょうか。今いるところが定住の場所ではない、目的地がありそこに向かって進んでいる者。地上のことだけに集中する者ではない、天上を目指して生きている者という意味です。皆様は旅人としての自覚を持って生きてきたでしょうか。
ところで旅人として生きる、天を目指して生きるというのは具体的にはどのような生き方になるでしょうか。色々なことが考えられますが、そのうちの一つは、神様の仰せをよく聞くこと、聖書に親しむことです。私たちがこの地上で大事に思うものの多くは、この地上だけのもの。しかし神の言葉はこの地上だけでなく天国でも価値のあるもの。この地上のことだけに集中するのではない、天上を目指して生きる者の具体的な取り組みの一つは、神のことばに親しむことです。
私たち一同で聖書に親しみたいと考えながら取り組みを続けてきた一書説教の歩み。しばらく一書説教に取り組めていませんでしたが、今日は通算五十八回目、新約篇の十九回目となります。
新約聖書には二十一もの手紙が収録されていますが、そのうちの半数以上はパウロが書いたもの。前回のピレモン書で、パウロ書簡は終了となり、ここからはパウロ以外の著者が記した手紙に入ります。
パウロ以外の著者による手紙、その筆頭を担うのはヘブル人への手紙となります。手紙としては全十三章に及ぶ大著にして難解な書。読者である私たちからすると、パウロ書簡という大きな峠を越えたと思ったら、いきなりヘブル書という難所に行き当たることになるのです。旧約聖書の引用が実に多く、私たちには難解な書。しかし、多くの人に愛され、新約聖書の中で極めて重要な救い主についての理解を与えてくれる書。大きな山ヘブル書は、難所というだけではなく、宝を埋蔵した山でした。私たち皆で、ヘブル書に向き合うことが出来ることを喜びたいと思います。
一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。
ヘブル人への手紙。手にとって読み始めますと、すぐに他の手紙との違いに気が付きます。当時の手紙は、誰から誰に宛てられたものか、冒頭に記されるもの。しかし、この書は挨拶文がなく、いきなり本論に入るのです。
ヘブル1章1節~3節
「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。」
難解なヘブル書。その原因の一つは、著者不明、宛先不明な点にあります。著者が誰か、宛先が誰か分かれば、手紙が書かれた背景が分かり理解しやすいのですが、この書は著者も宛先も不明です。著者については様々な説があり、パウロではないか、バルナバではないか。ルカはどうか、シラスはどうか。プリスキラやアポロという案もあります。宛先も記されていなく、誰のために書かれたものか定かではありません。内容からすると、旧約聖書に精通した人から、旧約聖書を良く知っている者たちに宛てて記されたものであることは分かります。
また「ヘブル人への手紙」と呼ばれていますが、一般的な「手紙」というよりも、説教のような印象です。旧約聖書の引用があり、その箇所の解説をし、それに基づく信仰生活の励ましがなされる。これが繰り返される。ヘブル書はいくつもの説教が収録された説教集という印象です。
冒頭で一息のうちにイエス様のことを「神様の言葉を語るお方、万物の相続者、世界の創造者、神の栄光をあらわす者、神の本質の現れ、世界の統治者、贖い主であり、今や神の右に座するお方。」と紹介した著者は、ここからずっとイエス様がどのようなお方なのか語り続けます。ヘブル書は、主イエスがどのようなお方なのか語る書。
ところで、私は先ほどから実際の中身に触れないまま、難解な書と繰り返していますが、本当に難解なのか。どのように難解なのか。少し確認してみます。
ヘブル2章6節~10節
「ある箇所で、ある人がこう証ししています。『人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みてくださるとは。あなたは、人を御使いよりもわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、万物を彼の足の下に置かれました。』神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。」
いかがでしょうか。一読して著者が何を言おうとしているのか、分かりますでしょうか。聖書を引用し、解説をするスタイル。ここで引用されているのは、詩篇八篇の言葉です。詩篇八篇と言えば、神様が世界を造られた時、人を神のかたちに造り、世界を治める権威を与えて下さったこと。私たちに与えられている特権はどれほど素晴らしいものかと感嘆を挙げている詩です。
たしかに神様は人を造る時に「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」と言われました。ところが、人間は罪をおかし、堕落します。相応しく世界を治めることが出来ない状態になってしまった。このことをヘブル書の著者は「神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。」とまとめます。
万物を支配するのに相応しい存在がいなくなってしまった。この世界にあって、誰が万物を支配するのに相応しいのでしょうか。それは「ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。」としてイエス様が示されます。しかも、イエス様を指し示すのに「御使いよりもわずかの間低くされた方」と、詩篇八篇の言葉を使います。つまり、神のかたちに造られた人であり、しかし罪の支配のもとにいない方、この方がイエスであると言っているのです。
さらに、罪の支配のもとにない方、死とは関係ない方が、死の苦しみを受けられたこと。それは、多くの人を栄光に導くためであること。そのように、救い主が苦しむことを通して罪人を救うこと、その働きを全うする者と定めたことは、神様にとってふさわしいことだと言う。
「ムムム」と唸ります。短い言葉の中に凄い情報量。私のような者からすると、ついていくのに必死。もう少し丁寧に、もう少しゆっくりと論理展開してもらいたいと思うところ。しかしこの難解さがヘブル書は続きます。読者は覚悟が必要。
このようにヘブル書はイエス様がどのようなお方なのか、旧約聖書の引用とともに記される書。
どのようにイエス様が提示されているのか。以下に簡単にまとめますと、主イエスは、旧約時代の祭司よりも優れ(七章)、モーセよりも優れ(三章)、天使よりも優れ(一章)ている。それどころか神様と同質、同等である(一章)と言われます。主イエスはあらゆるものよりも優れた神である方。それと同時に、本当に人となられた方。主イエスは私たちと同じように弱さと苦しみを味わい、それにもかかわらず罪を犯すことなく神様に従い通した方と言われます(二章、四章、五章)。
このようにヘブル書は、主イエスを、神である方、同時に人間である方と提示しているのです。主イエスの神的性質を強調しながら、同時に真の人間である弱さも強調する。だからこそ、イエスは神と人との間に立つことが出来る、仲保者となりうる、祭司の働きが出来るのだとまとめられます。
ヘブル8章1節~3節
「以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。この方は天におられる大いなる方の御座の右に座し、人間によってではなく、主によって設けられた、まことの幕屋、聖所で仕えておられます。大祭司はみな、ささげ物といけにえを献げるために任命されています。したがって、この大祭司も何か献げる物を持っていなければなりません。」
イエス様は私たちの祭司である。この思想は新約聖書の他の書にもみられますが、表現上、イエス様を祭司として示すのはヘブル書だけとなります。
神様から離れ、神の裁きの対象となった私たち。その私たちを神様のもとに連れ戻す。神様と交わることが出来る者とする。この仲保者、祭司としての働きをして下さるのが、私たちの救い主イエスである。難解なヘブル書ですが、このメッセージはしっかりと受け取りたいと思います。
ところでここまでの要点として、イエスが大祭司であるとした著者は、大祭司も何か献げる物をもっていなければなりませんと言い、ここから大祭司イエスがささげる、ささげものに焦点を当てていきます。大祭司であるイエス様がささげるいけにえとは、一体何でしょうか。
ヘブル9章11節~14節
「しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」
大祭司であるイエス様が、罪人のためにささげるいけにえとは何か。それはご自身の血、ご自身をいけにえとしてささげるお方なのだと言われる。大祭司にして、いけにえであるイエス。
つまり、私たちが罪から救われるために必要なことは、全てイエス様がして下さるということです。私たちはいけにえを用意する必要もない。いけにえをささげる祭司を探す必要もない。ご自身をいけにえとし、同時に祭司であるイエス様を私の救い主と信じるだけ。それだけ良いというのが、ヘブル書の重要なメッセージとなります。
様々な聖書箇所を引用し、解説するヘブル書。幕屋や祭司の働きを詳しく記し、それをまくらにイエス様がどのようなお方か示すヘブル書。私たちのためにご自身をささげる大祭司であるイエス。このイエス様を罪からの救い主と信じる者は、この地上での生涯をどのように生きて行けば良いのか。ヘブル書のまとめにあたる一つの箇所を確認いたします。
ヘブル12章1節~3節
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。」
このように多くの証人たちが私たちを取り巻いていると言うのは、この一つ前の十一章に記されていることです。旧約の信仰者の姿が記され、どのように生き方のか確認される、信仰者列伝と呼ばれる有名な十一章。この十一章では、信仰者の歩みが次のようにまとめられていました。
ヘブル11章13節
「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」
信仰生活は旅にたとえられる。旧約の信仰者たちは、その歩みを通して、地上では旅人であることを告白してきたと言います。そして十二章になると、この旅がとても激しいものであることが分かります。休暇にのんびり行く旅ではない。信仰者の旅は、競走と言われるほどの激しいもの。走り続けるようなもの。
この信仰生活を送る私たちは、どうしたら旅を続けることが出来るのか。どうしたら走り続けることが出来るのか。どうしたら、心が元気を失い、疲れ果ててしまわないのか。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないように。」と勧められます。私たちを救うためであれば、十字架の死すらものともされなかった方。それも、ご自身が救おうとされている罪人に反抗されても、その働きを全うされた方。このイエスから目を離さないように。
私たちが罪から救われるために全てのことをして下さった方、信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さない。これが、私たちが地上の旅を全うする上で大事なこと。走り続ける上で大事なこと。イエスから目を離さない。この勧めを私たち一同で、しっかりと受け止めたいと思います。
以上、ヘブル書の一書説教でした。是非とも、ヘブル書はイエス様をどのような方として示しているのか、ご自身で確認してもらいたいと思います。また、私にとってイエス様がどのようなお方なのか、考えたいと思います。また自分の心の目はどこを向いていたのか、確認したいと思います。この地上のもの、地上のことを見続けていなかったか。自分のことばかりを見ていなかったか。「イエスから目を離さないように」との勧めに従うことが出来ていたか。
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