「死後にも生命はあるのか?」「肉体は消滅しても霊魂は生き続けるのか?」「ある」という人もいれば「ない」という人もいる。「わからない」という者もいる。死後の命については昔から大人も子供も、若者も老人も、学者も庶民も、宗教を持つ者も持たざる者も皆が考え、論じてきました。
お釈迦様は「死後の世界はあるやなしや」と問われると、沈黙して語らなかったそうです。孔子は「死」について聞かれると「生きることについてもよく分からないのに、どうして死後のことが分かるだろう」と答えたそうです。世界中の人々に影響を与えた二人の賢者も、死後の生命については「分からない」という立場に立っていたのです。
また、昔から今に至るまで、死後の生命を否定する人も後を絶ちません。確かに死の瞬間に肉体は活動を停止します。体は焼かれて灰と化し、土に帰ります。この事実を目にする時、死後に生命なしという考えに説得力を感じる人がいたとしても不思議ではありません。
しかし、死後の生命、死後の世界についての考え方を広く見渡す時、分からないという立場に立つ人、これを100%否定する人は少数派とされます。理性的に考えれば「死後の命についてはわからない」という立場に立つのは尤もと思えます。理屈としては死後の生命否定論も理解できます。けれど、そんな理性や理屈では納得できないもの、心のもやもやを人間は感じてきたのです。多くの人々がその内容は異なっても、死後の生命、死後の世界はあると信じてきたし、今も信じているのです。
何故昔から世界中の人々が死後の生命について考えてきたのか。何故神の存在が無視される時代、科学万能の時代と言われる現代になっても、人々は死後の世界を信じ続けるのでしょうか。
聖書は、神が人々の心に永遠への思いを与えたからだと教えています。
伝道者の書3:11「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることはできない。」
人間には自分が生まれる前のことも、死んだ後のことも知ることはできません。世界の歴史についても、その知るところはごく一部にすぎません。しかし、そんな人間に神は永遠への思いを与えました。「私はなぜ生まれてきたのか?」「死んだらどうなるのか?」「私が生きるこの世界はなぜ存在し、どうなってゆくのか?」そうしたことを考える者、その答えを求め続ける者として、神は私たち人間を創造したのです。
ところで、今礼拝の際読み進めているコリント人への手紙は、使徒パウロがコリントの教会に書き送ったものです。コリントの教会はギリシャの国コリントの町にありました。そして、紀元1世紀のギリシャ社会には、死後の生命について「わからない」とする人もいれば、死後の世界を否定する者もいたのです。
しかし、その頃ギリシャ社会において最も盛んだったのは霊魂不滅論でした。肉体は死とともに消滅しても、霊魂は永遠に生きると人々は信じていたのです。肉体は霊魂の正しい活動を妨げる邪魔者、悪とみなされていましたから、肉体が消滅し、霊魂が肉体から解放される死の瞬間はむしろ歓迎されたのです。
そんな社会で福音が語られると何が起こるのか。使徒の働きには、コリントと並びギリシャを代表する都市アテネで伝道した使徒パウロと人々の反応が描かれています。
使徒17:31~32「なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。」死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、ほかの人たちは「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」と言った。」
神がお立てになった一人の方、主イエスの復活について聞いた途端、人々はあざ笑い、耳を塞ぎ、福音を拒みました。アテネの人々にとって、自分たちが信じる霊魂不滅の教えとは異なる死者の復活、それも霊魂の正しい活動を妨げる肉体の復活、悪しき肉体の復活など戯言にしか聞こえなかったのでしょう。
コリントもアテネと同じく圧倒的にギリシャの文化と宗教の影響のもとにありました。ですから、コリント教会の中に、さすがに主イエスの復活は否定しないものの、主イエスを信じる者の復活ついて無理解な者、よく消化できない者が存在したとしても、不思議ではありません。そんなキリスト者に対し、パウロは語ります。
15:12~13「ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。」
「死者の復活はない」と言っていたのは教会全体ではなく少数派でした。パウロも非難というより、「何故そんなことを言うのか」と首を傾げている様です。しかし、たとえ少数と雖も問題は福音の根幹に関わること。「主イエスの復活と主イエスを信じる者の復活は表裏一体。主イエスの復活を信じながら信者の復活を否定することはできない。死者の復活を信じられない者は主イエスの復活についてよく調べ、よく聞く必要がある。」そう使徒は告げています。
そして、主イエス復活の事実こそキリスト教信仰の核心と考えるパウロは、復活の宣教に自らの命を懸けてきたその思いを吐露するのです。
15:14~16「そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。」
キリストの復活が初代教会の宣教の中心であったことは、既に3節から8節で確認しました。もし、キリストの復活を目撃したペテロやヤコブ、パウロ自身、それに12弟子たちや五百人以上の兄弟たちのことばが悉く事実無根だとしたら、キリスト教信仰は虚しいと言うのです。キリスト教会の土台も崩壊すると断定するのです。
さらに、もし主イエスが事実復活しなかったなら、私たち使徒は皆神から偽証罪に問われることになるとまで言い切り、自らを追い詰めるパウロの姿が目に浮かびます。「人一倍神を畏れ、神を愛する私たちが、どうして神に逆らうような作り事を人に伝えるのですか。まさか、そんな嘘のために私たちが命をささげてきた等と本気で考えている人がいるのですか。」説明と言うより説得、理論と言うより証し。使徒による証しのことばを、私たちも聞くべきところです。
事実、キリストの復活を伝える使徒たちは皆苦しみを受けました。ペテロは投獄され、ヤコブは殉教しました。パウロも鞭打ち、石打ち、投獄等、数えきれない程の苦難を味わったのです。今日はユダヤの都エルサレムの最高裁判所における、ペテロと使徒たちの宣教の一幕を確認します。
使徒5:27~33,40~41「彼らが使徒たちを連れて来て最高法院の中に立たせると、大祭司は使徒たちを尋問した。「あの名によって教えてはならないと厳しく命じておいたではないか。それなのに、何ということだ。おまえたちはエルサレム中に自分たちの教えを広めてしまった。そして、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしている。」しかし、ペテロと使徒たちは答えた。「人に従うより、神に従うべきです。私たちの父祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスを、よみがえらせました。神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはこれらのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊も証人です。これを聞いて、彼らは怒り狂い、使徒たちを殺そうと考えた。…(議員たちは)使徒たちを呼び入れて、むちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと命じたうえで、釈放した。使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜びながら、最高法院から出て行った」
使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜んだ。十字架直前主イエスのもとを去った弟子たちも、主イエスを裏切ったペテロも復活のイエスに出会い、人生が変わりました。教会を迫害し、キリスト者を捕らえることに執念を燃やすパウロも復活のイエスに出会い、人生が変わりました。主イエスを見捨てた者も、主イエスを裏切った者も、教会を迫害した者も、みな主イエスの復活と主イエスを信じる者の復活を命がけで伝える者へと変えられたのです。
以上、キリスト教信仰にとって復活の事実、肉体の復活の事実がいかに重要なものか。パウロの語るところを聞いてきました。しかし、これで終わりではなかったのです。使徒はさらに、主イエス復活の事実がなければ私たちクリスチャンはどれ程悲惨で、あわれな者かを説き、念には念を入れます。
15:17~19「もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。」
「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいる」とはどういうことでしょうか。自ら長崎で被爆した経験から、原爆廃絶運動に力を尽くしたカトリック教会の永井隆博士は死を前にした心境を、次のように語っています。
「死に伴う肉体の苦しみ、精神の悩み、家族や友と別れる辛さなどを恐ろしいと思うのではありません。死ぬことは霊魂が肉体を離れることだけであり、世界の終わりの日には再び肉体と合わせられて復活するのですから、そのことは問題ではありません。大問題は死後神の前で受けることになる判決です。これが恐ろしい。今私は自分の心と行いを整えている最中ですが、自信のないことおびただしい。沢山の、汚いガラクタや、ごみや、煤のような罪が霊魂の中に一杯だからです。よくもこれ程溜まったものだと、自分でも吃驚です。この夥しい罪を悔い、告白し、赦していただき、償いを果たそうとしても、心は恍け、体がだらしなく伸びた今ではなかなか難しい。いくら私が生まれつきののんき者だと言っても霊魂がゴミだらけ、煤だらけでは、我が主イエスの前に立つことはできません。だから、安心して死ねるとは言えぬのです。」
永井博士の場合、良い行いを積んだ者が救われるというカトリック信仰の影響が感じられますが、死後聖なる神に対面することを思うと緊張を覚える、という経験はキリスト者なら共感できるものでしょう。しかし、主イエスの復活を信じる者にとって、地上で犯した罪に対する神のさばきを恐れる必要は全くないとパウロは言うのです。主イエスの復活を信じる者は安心して死に直面し、死後神に対面することが出来ると言うのです。
何故なら、主イエスの復活は、十字架に死なれたイエスが私たちの罪をすべて贖い、罪の赦しを完成したこと、それを父なる神が認めたことのしるしだからです。主イエスの復活は、私たちが神のさばきを恐れることなく、安心して神とともに生きられるようになった。そのしるしだからです。
また、私たちは地上のいのちにおいてのみキリストに望みを置く者にあらずと、パウロは宣言しています。事実主イエスが肉体をもって生まれ、肉体をもって死に、肉体をもって復活されたのだから、それを信じる私たちも死後肉体をもって復活し、天のみ国で生きることになるのは当然ではないかと言うのです。もし、死後にいのちの望みがなければ、労苦多き私たちの人生程あわれなものはないと告げるのです。
霊魂は善、肉体は悪と考える。霊魂を尊び、肉体を軽視する。そんなギリシャの霊魂不滅論とは異なり、神は私たちの霊魂ばかりか肉体をも尊ぶのです。地上の体を神の宮と呼んで尊ぶばかりか、再び体をもって復活すると宣言して、天のみ国においてさえも体を尊重しているのです。
この神のみこころを理解せず、ギリシャ社会の風潮に染まり、その体をもって遊女と交わり、不品行で身を汚していた者がコリントの教会にいたことは、前に見た通りです。もし彼らが肉体の復活を信じていたら、果して同じ行動を繰り返したでしょうか。それとも悔い改めたでしょうか。
ローマ6:13「また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。」
神の宮である肉体を持つ者として、将来の復活に預かる者として、私たちも不義の道具としてではなく、義の道具としてこの体を神にささげたいと思うのです。
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