2020年7月26日日曜日

Ⅰコリント(36)「目を覚ましていなさい」Ⅰコリント16:1~9,13~14

私が説教を担当する際、礼拝で読み進めてきたコリント人への手紙第一もついに最終の16章となります。

紀元1世紀の昔ギリシャには繁栄した二つの町がありました。一つは哲学、芸術、文芸が盛んなアテネ、もう一つは経済的な豊かさを謳歌したコリントです。アテネは文化都市、コリントは経済都市。二つの町は対照的でした。そして、どちらの町にもキリスト教の福音は伝えられましたが、使徒パウロが教会を建てることが出来たのはコリントの方だったのです。

しかし、経済的な繁栄を極めたコリントの町もその裏側では道徳が腐敗し、偶像礼拝が盛んで、人々の心は欲望と快楽、虚栄心に支配されていました。当時「コリント人のように生きる」と言えば、不品行な人の代名詞でもあったのです。

そんな町に教会が建てられたのが紀元50年頃。その後一旦コリントを離れたパウロがエーゲ海を挟む対岸の町エペソで宣教中のこと、コリントの教会から残念な知らせが届きました。分裂、性的不道徳、富める者と貧しい者の不和、偶像にささげた肉を巡る争い、礼拝の混乱、死者の復活を疑う人々の存在等、「これが本当にキリスト教会なのか」と驚くような問題ばかりでした。

パウロが建て上げたにもかかわらず、コリントの教会は決して順調に成長したわけではなかったのです。むしろ、コリントの町に良き影響を与えるべき教会が、逆に悪しき影響を受け、未熟な状態にとどまっていたのです。そして、これまで教会が抱える一つ一つの問題に処方箋を示してきた使徒はこの16章で最後の問題を扱っています。それは義援献金についてでした。

 

16:1~2「さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたとおりに、あなたがたも行いなさい。私がそちらに行ってから献金を集めることがないように、あなたがたはそれぞれ、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。」

 

ここの「聖徒たち」とはエルサレム教会の兄弟姉妹たちのことです。エルサレムの教会はすべての教会の母と呼ばれています。新約の教会はエルサレムに誕生しました。教会にとって重要な教理はエルサレム教会で決定され、福音もエルサレム教会から世界に広がっていったからです。

しかし、その頃エルサレム教会は貧しさに悩み、苦しんでいました。もともと貧しい人々が多かったところにユダヤ教徒から迫害され、教会のメンバーは四方に離散しました。加えて当時ユダヤの国が飢饉に襲われたため、エルサレムの教会は慢性的な貧困に陥っていたのです。

パウロがこれを放っておくはずもなく、問題解決のためにいかに力をつくしたか。使徒の働きや手紙にその奮闘ぶりを見ることが出来ます。パウロには「異邦人の教会がエルサレムの教会を助けることによって、異邦人の教会とエルサレムの教会が一つになることが出来る」、そんな願いがあったのです。

既に献金の要請は「ガラテヤの諸教会に命じたように」とある通り、コリント教会よりも前に他の教会に発せられていました。パウロは「すでにガラテヤの教会が取り組んでいるように、あなたがたも取り組むように」と言うのです。また、自分がコリントに到着してから献金を集め始めなくてもよいように、「それぞれ、週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。」と具体的な指示を出しています。

コリントの教会には富める者も貧しい者もいました。ユダヤ人もいればギリシャ人もいました。既婚者もいればやもめもいる。自由人もいれば奴隷もいる。教会のメンバーは多種多様でした。収入も異なれば、社会的立場も異なる。家庭環境だって異っていたのです。だから、各々が無理のないように、少しずつ積み重ね、私が行く時までに献金とすればよいと使徒は励ましているのです。

なお「週の初めの日」とは言うまでもなく日曜日のことです。これによって、当時すでに日曜日がクリスチャンたちの礼拝の日として定着していることが分かります。生まれたばかりの教会はユダヤの習慣通り、安息日の土曜日に神殿や会堂で行われていた礼拝に参加するとともに、日曜日には教会員の家に集って聖餐式と交わりを行っていました。最初の頃クリスチャンたちは二つの礼拝に参加していたのです。それが、キリスト教会がギリシャローマの世界に広がるにつれ、徐々に主イエスの復活を記念する日曜日の礼拝が中心になっていったと考えられます。

さらに、献金の貯え方についての指示が終わると、今度は送金についてです。

 

16:3~4「私がそちらに着いたら、あなたがたの承認を得た人たちに手紙を持たせてエルサレムに派遣し、あなたがたの贈り物を届けさせましょう。もし私も行くほうがよければ、その人たちは私と一緒に行くことになるでしょう。」

 

パウロは自分自身が献金に手を触れぬよう細心の注意を払っています。コリント教会の人々が献金を蓄え、彼ら自身が献金を保管し、彼ら自身が選んだ使者が挨拶の手紙を携えて献金を送るようにと命じるのです。但し、「もしあなたがたが私もともに行く方が良いと考えるなら、使者に選ばれた人々は私と共にゆくことができますが」とも助言しています。実際、後に使徒が各教会の使者を連れてエルサレムの教会に献金を届ける姿を使徒の働きは描いていました。

それにしても、何故ここまで献金の取り扱いにパウロは慎重なのでしょうか。実はこの手紙の後に書かれたコリント人への手紙第二には、パウロを献金詐欺呼ばわりし、その心を苦しめるコリント教会のメンバーが登場します。この第一の手紙を送った時点で、すでに使徒はこうした人々の存在に気がつき、あらぬ疑いをかけられないようにしたのでしょう。献金の取り扱いはくれぐれも公明正大にと教えられるところです。

こうして、献金の勧めを終えると、使徒はコリント教会訪問の予定、計画についてこう告げます。

 

16:5~9「私はマケドニアを通って、あなたがたのところへ行きます。マケドニアはただ通過し、おそらく、あなたがたのところに滞在するでしょう。冬を越すことになるかもしれません。どこに向かうにしても、あなたがたに送り出してもらうためです。私は今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくありません。主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。しかし、五旬節まではエペソに滞在します。実り多い働きをもたらす門が私のために広く開かれていますが、反対者も大勢いるからです。」

 

パウロはこの時点でエペソに滞在していました。エペソからエーゲ海を船で渡り、陸路マケドニアを通りコリントを訪れる。日本地図で言えば、青森県から長野県までの距離に当たる旅です。先ず五旬節つまり春の間はエペソに滞在し、夏にマケドニアを通り、冬をコリントで過ごした後、翌春はエルサレムに向かう。これが彼の計画でした。しかし、この個所、単なる旅のスケジュールを知らせる情報、インフォーメーションではありません。パウロが地上の人生において何を大事にしていたかを私たちに伝えているのです。

先ずパウロは今回の旅の目的はコリント滞在であると語っています。そのため途中に存在するマケドニア地方はただ通過するだけだと言うのです。今日マケドニア共和国はギリシャ正教の国として知られていますが、当時既に教会が存在しました。この地方に最初にキリスト教の福音を伝え、教会を建てたのはパウロ自身なのです。そこには、パウロを支援する教会がありましたし、難問を抱えパウロの助けを求める教会もあったのです。

それにもかかわらず、「マケドニアはただ通過するだけで良い。私はあなた方のところに滞在したい。旅のついでにあなた方に会うようなことは決してしたくはない。たとえ冬を越すことになっても良いからあなた方の町に滞在したい、そしてどこに行くとしても、私はあなた方に見送られて出発したい。」そう使徒は語るのです。

「あなたがた」と言う言葉が繰り返され、強調されています。単に手紙を書き送るだけでは事足りず、コリント教会の人々と直接会い、彼らに聖書を教え、戒め、励まし、祈り、交わりをなしたい。そんなパウロの並々ならぬ思いが伝わってくるのです。

しかし、パウロにとってコリントの教会とはどの様な存在だったのでしょうか。そこには教会指導者としてのパウロの能力を他の使徒と比べ、低く評価する者がいました。この世の常識からしても酷い罪を犯した者、それを戒めようともしない者がいて、厳しく叱責されました。使徒の権威を認めない者もいました。貧しい兄弟を辱める者、賜物誇って争う者たちもいたのです。

もし、私がパウロの立場であったら、長く滞在したいとか、ゆっくり交わりたい等とは思えない教会です。むしろ、私だったら自分を支持し支援してくれるマケドニアの教会に長く滞在したいと考えるでしょう。しかし、パウロは違うのです。愛しにくい人を愛し、仕えにくい人に仕え、交わりをなし難い人と交わることを切に願っていたのです。

私たちが人を愛するという時、人に仕えるという時、人と交わるという時、このパウロの姿勢があったのかどうか、あるのかどうか。一人一人心を探られるところです。

ところで、五旬節まではエペソに滞在するつもりだと書かれていますが、その理由は何だったのでしょうか。すぐにでもコリントに出発したいと思っていたはずのパウロが、何故五旬節まではとどまろうと考えていたのでしょうか。

それは、五旬節がエペソに住むユダヤ人伝道の絶好の機会、チャンスだったからです。使徒は「実り多い働きをもたらす門が私のために広く開かれている」と語っています。五旬節はユダヤの伝統的な祭りであり、その祭りにはエペソや近隣の町から大勢のユダヤ人が毎年集って来ました。五旬節の祭りこそ、実り多い働きをもたらす門つまり福音伝道の絶好の機会だったのです。

けれども、このチャンスは同時に危険を伴うこともパウロは自覚していました。「反対者も大勢いるから」と言う通りです。そして事実、この時エペソの町で大きな騒動が起こったらしいのです。

使徒の働き19章には、アルテミス神殿の模型を造り、収入を得ていた銀細工人とその職業組合のメンバーがパウロに激怒し、町中を巻き込む大騒動が起こった事が記録されています。パウロが「手で造った神殿の模型など、神ではない」と言って商売の邪魔をしたと職人たちは考えたからです。町の守護神アルテミスが侮辱されたとエペソの人々も怒りを感じたからです。

この騒動のことを指しているのかどうかは断定できませんが、前の15章で使徒は「エペソで獣と戦った」と語り、エペソで命の危険、死の恐怖を覚えたことを記しています。

しかし、たとえ騒動が待っていようと、命の危険が待っていようと、五旬節という伝道にとって絶好の機会を逃すつもりはないとパウロは言うのです。9節「私は一日も早くあなた方のところに行き、あなた方のところに滞在したいのです。しかし、五旬節まではこのエペソにとどまります。」

以上、コリント第一16章前半を読み終える時、献金にせよ、交わりにせよ、伝道にせよ、パウロが教会の使命とは何かを良く意識していたことが分かります。特に主イエスの再臨を意識しながら生きていたパウロの姿が目に浮かんでくるのです。そのパウロの勧めです。

 

16:13~14「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。一切のことを、愛をもって行いなさい。」

 

「目を覚ましていなさい。」とは、主イエスがいつ再臨してもおかしくはない時代であることを思い、主のわざに励むようにとの勧めです。パウロは「雄々しく、強くありなさい。」として、私たちが一時的な熱心からではなく、大人らしく責任をもって主のわざを成し続けるよう命じているのです。一切のことを、主イエスの愛をもって行うよう、私たちを励ましているのです。

果たして、私たちは主イエスの再臨を願っているでしょうか。主イエスがいつ再臨してもおかしくはない時代であることを意識しているでしょうか。主イエスの再臨を待ち望む私たちに、励むべき主のわざがあることを自覚しているでしょうか。貧しさに苦しむ教会、乏しさに悩む世界の隣人へのあわれみのわざも、霊的な益をもたらし、霊的な益を受け取る交わりも、主イエスの福音を伝えることも、二千年前と変わることなく、今も私たちが励むべき主のわざなのです。

果たして、今この時代、私たちの目は貧しさに苦しむ人々の存在に開かれているでしょうか。私たちの心は励ましや慰めをもたらす交わりを必要としている兄弟姉妹の存在に開かれているでしょうか。たとえ困難があったとしても、反対されても、嘲られたとしても、機会をとらえて福音を伝える覚悟があるでしょうか。

主のわざに励もうとする時、私たちは自分のものを人に与えることを惜しむ罪に気がつきます。愛しにくい人を避け、親しみやすい人との心地よい交わりにとどまろうとする弱さを自覚します。自分が救われたことで満足し、福音を必要とする人々の存在を忘れてしまうことさえあるのです。

しかし、救いの恵みを受けたにもかかわらず、なおも罪深い私たちを主イエスは愛しているのです。神の子とされたにもかかわらず、人を愛する思い乏しく、人に仕える力において弱き私たちを主イエスは決して見放しはしないのです。

主イエスは今も愛されるに値しない私たちを愛し、罪深い私たちに仕え、弱き私たちの信仰の歩みを支えてくれているのです。主イエスの忠実なしもべとして、再臨の主イエスを迎えられれるよう、私たち四日市キリスト教会はあわれみのわざにも、交わりにも、伝道にも励んでゆきたいと思うのです。


2020年7月19日日曜日

一書説教(59)「ヤコブ書~行いが伴わないなら~」ヤコブ2:14~19

 信仰生活の悩みの一つに「良い行い」があると思います。キリスト教は恵みの宗教。神様の愛を得るのに、しなければならないことはない。何が出来るのかで救われるのではない。私たちは無条件に愛され、価無しに救われました。しかし、自堕落の宗教かと言えば、そうでもありません。結局、キリストによる救いがあるのだからどのように生きても良いとは教えられていません。キリスト者のあるべき生き方についても、聖書は多く記しています。救いの為に良い行いをするのではありません。神様から愛されるために良い行いをするのではありません。救われた者として、愛された者として、神の子らしい良い行いをするように教えられています。更に言えば、私たちが良い行いを出来たるとすれば、それ自体が大きな恵みでした。

恵みを受けるために良い行いをするのではなく、恵みを受けたらから良い行いをする。良い行いが出来ること自体も恵みである。このことは頭では理解出来ても、実際の信仰生活の歩みの中でその通りに生きることは難しいことです。信仰者らしいと思う生き方が出来たら、自分を立派なクリスチャンだと思う。反対に、信仰生活が不調にあるように見える仲間を見ると、駄目なクリスチャンだと決めつける。良い行いが出来た時に、それを感謝するよりも、自分の株をあげる材料にしようとする思いが出てくる。私たちは、良い行いによって、自分自身も、他の人も評価しようとする傾向があるように思います。いかがでしょうか。良い行いについて、このような思いを抱いたことはないでしょうか。

六十六巻からなる聖書のうち、一つの書を丸ごと扱う一書説教。今日は通算五十九回目、新約篇の二十回目、ヤコブ書となります。ヤコブ書と言えば、信仰者の行いに焦点が当たっていることで有名な書。この書を通して、恵みと行いがどのような関係にあるのか。私たちはどのような生き方をする者として召されたのか。よく考えていきたいと思います。一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。

 ヤコブの手紙ですが、お気づきでしょうか、書名にこれまでと違いがあります。これまで確認した手紙はパウロが書いた手紙と、著者不明のヘブル書でした。そのため、書名は宛先の名前がつけられ、〇〇への手紙となっていました。しかしここからは、〇〇の手紙となりまして、書名は著者の名前がつけられます。ヤコブ書は、ヤコブへの手紙ではなく、ヤコブが書いた手紙。

 この手紙は次のように始まります。

 ヤコブ1章1節

神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、離散している十二部族にあいさつを送ります。

 

 ヤコブから離散している十二部族へ。この離散している十二部族とは、世界中にいる神の民を意味すると考えられます。キリストを信じる全ての者を意識して記された手紙。普遍的な内容が期待されるところです。

著者のヤコブはイエス様の肉の兄弟、弟ヤコブのことだと考えられています。イエス様の弟たちは、もともと兄であるイエスが約束の救い主であるとは信じていませんでした。(ヨハネ7章5節)しかし、ある時点で兄のイエスはキリストであると信じ、やがてエルサレム教会で指導的な役割を担うようになります。聖書には記されていませんが、伝承ではよく祈る人と言われています。石畳に膝をついて祈るため、ヤコブの膝は節くれだち、ラクダのようになっていたと言います。ラクダ足のヤコブによる普遍的、説教的な手紙。

この手紙の中心的なテーマは次の節にまとめられていると考えられています。

 

 ヤコブ1章22節

みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。

 

先に確認しましたように、ヤコブ書は信仰者の行いに焦点が当たっていることで有名な書。ところで、信仰者の行いというのは世間一般が考える善行ではありません。道徳的、倫理的に立派であるということでもありません。信仰者の行いとは、みことばを行うこと、聖書で教えられたことを実行することです。神の言葉を行うように。耳で聞いて終わりではない。全身で聖書に取り組む真剣さを持つようにと教えられます。

 過ぎし一週間、私たちはどれだけ真剣にみことばを行おうと取り組んできたでしょうか。聖書で教えられたことを実行することに取り組もうと考えてきたでしょうか。多くの場合、私たちは自分がやらないといけないと感じていること、やりたいと思っていることに夢中になって一日を過ごしてしまいます。聖書を開かないで一日が始まり、聖書を開かないで一日が終わることが往々にしてあります。私たちにとって、みことばを行うことがとても大事であるとのメッセージをしっかりと受け止めたいと思います。

 

 このみことばを行うことがいかに大事であるかということを、あの手この手で語るヤコブですが、その教えが強烈な言葉でまとめられるのが手紙の白眉と言える部分、二章の中盤に展開されます。

 ヤコブ2章14節~17節

私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。

 

 ある人が自分には信仰があると言っても、行いがないとしたら。それはどんなものかと言えば、困っている人に優しい言葉をかけても、指一本動かさないようなもの。言行不一致の醜さが際立つ表現。ヤコブは、もし行いが伴わない信仰があるとしたら、何の役にも立たない、それは死んだものだと言い切ります。

 「ムムム」と唸るところ。もし目の前に、イエス様を信じてはいるけれども、聖書になかなか従えないと悩む人がいたとしたら。私などは、「そうですよね。難しいですよね。」「私たちは罪赦された罪人ですから、しょうがないですよね。」「私もそうです。私も従えないことが多くあります。」と言いそうです。しかしヤコブは、行いの伴わない信仰は役に立たない、死んでいると言い切ります。強烈、激烈な言葉。しかし、どこか甘えのある私たちには、冷水をぶちかけるような、ヤコブの言葉が必要です。

 ところで、ここでヤコブが言う「信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだもの」という表現はとても重要な言葉です。聖書で「死」というのは「分離する」こと、その結果「本来の状態ではなくなる」ことを意味します。

信仰も行いが伴わないと、死んでいる。それはつまり、本来、信仰というのは聖書に従う行いが伴うもの。信仰と行いは切り離して考えることが出来ない。キリスト教は恵みの宗教というのは当然のこととして、自堕落な宗教、放縦な宗教ではないと言っているのです。キリストを信じる者は、信じて終わりではない。必ずや聖書に従う行いへと導かれるというのが、ヤコブの主張となります。

 

 ところで、ヤコブは当然のこととしていて詳しく触れませんが、なぜ行いの伴わない信仰は死んだものなのでしょうか。それは、キリストを信じるというのは、キリストと一つとなり、キリストの命を頂くことだからです。神を愛し、隣人を愛する歩みを実践されたイエス様と一つとなる者は、その愛を持たないはずがない。主イエスへの真実な信仰は、その者のうちに行いを生み出すのです。「キリストを信じる者は、キリストの命を頂く。キリストの命を頂いた者は神を愛し隣人を愛する者へ変えられていく。」これを裏返して言えば、「行いのない信仰は死んだもの」なのです。

 

 ヤコブは続けて、生きた信仰、死んだ信仰がどのようなものか述べていきます。

 ヤコブ2章18節

しかし、『ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります』と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。

 

 信仰者の中に「信仰も、行いも、神様が賜物として下さるもの。信仰は頂いて行いは頂いていない人。反対に信仰は弱くても行いに強い人もいる。信仰と行いは切り離して考えるべきではないか。」という意見の人もいたようです。分かる気がします。

 信仰を持ったら、すぐに聖書が教える通りに生きられるかと言えば、そうではありません。キリストの命を頂いても、自分に残る罪との戦いがあります。神様は信仰を下さったけれども、まだ行いは頂いていない。行いを頂いたら取り組みますと考えたくなります。

 しかしヤコブはそのような考えを一刀両断します。確かに信仰も行いも神様が下さるもの。しかし、それは別々に与えられるものではなく、一つとして与えられるもの。信仰だけ与えられて、行いが与えられないということはない。信仰は与えられているけれども、行いは与えられていないと考えるのは、すでに与えられているものを見ていないことになる。

 

 信仰と行いは一つ。そのため、「行いによって、信仰を見せる」とまで言います。凄い言葉、大胆な言葉。自分の生き方を通して、キリストの命を示す。そのように言いきるヤコブの強さを見ます。そして、もし信仰と行いを切り離せるというなら、それはキリストを信じていることにならないとダメ押し続きます。

 ヤコブ2章19節

あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。

 

 信仰と行いを切り離して考えるとはどのようなことか。行いの伴わない信仰、死んだ信仰とはどのようなものか。本来の信仰は、キリストと一つになること、キリストの命を頂くこと。そのため信仰を持つ者は、聖書に従う者へ変えられていく。

 仮に、そうではない信仰があると言うならば、それは知識だけのものとなる。「神は唯一である」とは、完全に正しい神学的知識です。その全く正しい教えを、悪霊どもも信じている。しかし、悪霊どもはキリストと一つになるとか、キリストの命を頂くことはない。聖書に従うことなく、身震いしているのだといいます。信仰と行いを切り離して考えることはいかに危険なのか、教えられるところです。

 

 このように前半で繰り返し、信仰とは行いが伴うもの。そのためキリストを信じる者は、神のことばを聞いて行う者であると語ったヤコブは、具体的に、信仰者の行いについて語ります。

 信仰者はどのように生きるのか。ヤコブが挙げる具体例にはいくつかの特徴を挙げることが出来ますが、一つの特徴は「ことば」に注目があること。

 ヤコブ3章2節、8節~10節

私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。…しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。

 

 良い行いと聞くと、何かをすることをイメージしやすいと思います。しかしヤコブが注目するのは、舌を管理すること、ことばを正しく使うこと。信仰者の行いとして「ことば」が注目されていることが印象的です。ヤコブは三章でも、四章でも、五章でもことばを大切に使うように、繰り返し語ります。強調点の一つは「ことば」です。キリスト教はことばの宗教。神様がこの世界を造られた時、神のことばによりました。キリストは「ことば」と表現さています。そして、私たちの救いも神のことばによると言います。キリストのいのちを頂く私たちは、ことばを正しく使う者とされた者。

 過ぎし一週間、私たちはどれだけことばを大切に使ってきたでしょうか。どれだけことばで自分を傷つけ、人を傷つけてきたでしょうか。神様をほめたたえた舌が、他の人を呪うなんてことはあってはならないとの忠告をしっかりと受け取りたいと思います。

 

 信仰者はどのように生きるのか。ヤコブが挙げる具体例のもう一つの特徴は、お金に対して。具体例を挙げて忠告し、お金もちには指をさして注意します。

 ヤコブ2章1節~4節

私の兄弟たち。あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません。あなたがたの集会に、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来て、また、みすぼらしい身なりの貧しい人も入って来たとします。あなたがたは、立派な身なりをした人に目を留めて、『あなたはこちらの良い席にお座りください』と言い、貧しい人には、『あなたは立っていなさい。でなければ、そこに、私の足もとに座りなさい』と言うなら、自分たちの間で差別をし、悪い考えでさばく者となったのではありませんか。

 

 神か富か。おそらく、この世の多くの人は富に手を挙げるでしょう。しかしイエス様は、「神にも仕え、富にも仕えることは出来ない」と言われました。キリストを信じる者は、どのように生きるのか。もちろん、神に仕える者。集会にも集う。しかし、そのキリスト者の集まりの中で、差別が起こるとしたら。そのようなことはあってはならないと忠告が響きます。ヤコブが挙げる具体例を前に、ここまで露骨なことはないにしても、このような心根がないか、心がさぐられるところです。

 お金持ち自身には次のように言われています。

 ヤコブ5章1節~3節

金持ちたちよ、よく聞きなさい。迫り来る自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐り、あなたがたの衣は虫に食われ、あなたがたの金銀はさびています。そのさびがあなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財を蓄えたのです。

 

 聖書に従って生きるという時、お金がいかに誘惑となるのか。ヤコブは失敗した者たちの姿を多く見てきたのでしょう。この世の成功、この世の富に、私たちがいかに心を奪われやすいのか。手紙の中で繰り返し忠告が響くことになります。

 以上、簡単にですがヤコブ書をまとめました。あとは是非とも、ご自身で読み通して頂きたいと思います。同じことをあの手この手で繰り返し言うヤコブの情熱。強烈な表現で、私たちの目を覚ませようとするヤコブのことばを、しっかりと味わいたいと思うのです。

 キリストを信じるとは、頭の中だけのことではない。主イエスと一つとなり、イエス様のいのちを頂くこと。キリストを信じる者は、信じて終わりではない。キリストに似る者へと変えられていく。キリストに似る者へと変えられない信仰などない。行いの伴わない信仰などない。このヤコブの主張をしっかりと受け止めたいと思います。キリストを信じる私は、どのようにみことばに従えば良いのか。今日の一日、この一週間、神のことばに従うとは、具体的にどのような生き方になるのか。真剣に考え、祈り、取り組んでいきたいと思います。


2020年7月12日日曜日

Ⅰコリント(35)「どのような体でよみがえるのか」Ⅰコリント15:35~49

「生けるもの ついには死ぬるものにあれば この世ある間は 楽しくをあらな」。最後は死ななければならないのなら、せめてこの世にある間は楽しくありたいものだ。万葉集にある大伴旅人の歌です。旅人は酒を浮世の友と思い、この歌を詠んだとされます。この世がすべてであるなら、死をもって人生が終わるのなら、旅人の気持ちはよく分かります。

 「体が死ぬ時には、その作用である精神も同時に消滅するというのが理である。一本の薪が燃え尽きれば、炎と灰が同時に消えるとの同じである。肉体が消滅しても精神は存在し続けるというのは矛盾ではないか。いやしくも宗教に毒されていない、死後の命等というものを勝手に考え出さない、健全な頭脳には理解されるはずがない。体は本体、精神はその働き、作用である。体が死ねば精神、霊魂も即なくなるのである。それがいかに情けない説であっても、真理ならば仕方がないではないか」。無神論者の中江兆民という人が病の床で、死後の命を笑い飛ばした文章の一節です。

 もし、この世界に聖書がなければ、もし、二千年前主イエスが墓の中から復活しなかったなら、死と共に肉体も霊魂も消滅し、人生にピリオドが打たれるというこの考え方に、私たちも同意するしかなかったかもしれません。

 しかし、今から二千年前紀元1世紀のギリシャ社会で、真っ向から死後の命を説いていたのが使徒パウロです。それも当時盛んであった霊魂不滅論、肉体は死をもって消滅しても霊魂は永遠に生きるという教えを否定し、死後における肉体の復活を宣べ伝えていたのです。

 死をもって一巻の終わりと観念するのではない。肉体は滅びるとしても、せめて霊魂だけは生きられればと願うのでもない。主イエスによって霊魂も肉体も新しくされた人間が、主イエスによって新しくされたこの世界で永遠に生活する。それまでどんな宗教も教えなかった復活を、誰一人考えることのできなかった死後の命を、パウロは伝えていたのです。ユダヤ人に迫害されても、ギリシャ人に嘲られても、断固死者の復活を宣べ続けてやまなかったのです。

 私たちが礼拝の際読み進めているコリント人への手紙第一も終盤の第15章。聖書中最も詳しい復活論として有名なところです。この手紙の宛先、コリントの教会には洗礼を受けてキリスト者となったものの、主イエスの復活についてあやふやな者、死者の復活について疑問を感じている者がいたようです。

 そんな人々に対し、パウロは主イエスの十字架の死と復活こそキリスト教の要と伝えてきました。今も生きる多くの証人たちに尋ねれば、主イエス復活の事実を確認できることを示してきました。パウロ自身も他の使徒たちも本当に復活の主に出会ったからこそ、命がけで復活を宣べ伝えてきたと告げました。もし、主イエスが事実復活しなかったら、キリスト者ほどこの世であわれな者はいないとまで語っているのです。 

また、主イエスの復活は主イエスを信じる者の復活の初穂、しるしであり、主イエスを信じる者の復活は再臨の時起こること、もし主イエスを信じる私たちに復活が起こらないのなら、神に従いその結果迫害されるキリスト者の人生は虚しいと告白しているのです。

しかし、それでもまだ肉体の復活について疑問を感じる者がいたのでしょう。彼らは「もし肉体が復活するとして、それはどんな有様でよみがえるというのか」と尋ねたようなのです。

 

15:35~38「しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません。また、 あなたが蒔くものは、後にできるからだではなく、麦であれ、そのほかの穀物であれ、ただの種粒です。しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。」

 

彼らは肉体の復活を否定することがまともな人間の理性的判断だと自らを誇っていました。肉体の復活を信じる者が多かったユダヤ社会にも、それを否定するサドカイ人がいて、主イエスと論争したことが福音書に記されています。ユダヤでもそうなのですから、霊魂不滅論が盛んで、肉体が軽視されていたギリシャ社会では、多くの人が肉体の復活をありえないことと考えていたのです。

そんな社会の影響を受けていた人々に対し、パウロは自然界に目を向けるよう勧めます。「あなた方は地に蒔かれた植物の種が成長し、変化する様を見たことがないのですか」と言うのです。

見栄えのしない、固い種が大地に蒔かれ、土の中に死ぬと、思ってもみなかった瑞々しい若芽を出します。美しい花を咲かせ、豊かな実を結び、大樹へと変わるのです。植物においてそうだとすれば、人間の体も土に葬られ、解体され、やがて思ってもみない優れた体に変わることがないと言えるだろうか。いや、神なら、私たちの死後、私たちの体をも新しくよみがえらせることが出来るに違いない。当然できるはずだとパウロは言うのです。

さらに、使徒は魚、鳥、獣、人の肉体、また天体にも目を向けてゆきます。

 

15:39~41「どんな肉も同じではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違います。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。」

 

パウロが言いたいのは、現在の肉体と復活後の肉体とは同じ肉体でありながら、なお質的な違いがあるということです。人と獣、人と鳥、人と魚体が異なるように、私たちの地上の体と復活後の体も大いに異なると言うのです。

百獣の王ライオンは地上を走り、獲物をとるという点において優れていますが、ライオンの体は水中では無力です。海の帝王サメは水中において凄まじい力を発揮しますが、サメの体も地上では無力です。空の王者である鷲は空中では無敵ですが、鷲の体も地上や水中では力が半減するのです。

神は各々の動物にその境遇にふさわしい体を与えています。同じく、神は私たちに地上の生活ではそれにふさわしい体を、新しくされた世界ではそれにふさわしい体を与えてくださるのです。

続いて使徒は天上の体、つまり天体へと目を向けます。地上に生きる人間、獣、鳥、魚の体の相違はこれまで見たとおりです。しかし、これらを一まとめにして地上の体とすれば、太陽、月、星々といった天体の栄光、輝きは一段と異なり、これもまた多種多彩だと言うのです。

古代の占星術では土星は黒、木星はオレンジ、火星は緋色、太陽は金、水星は藍色、月は銀、金星は白というふうに、各々の輝きが分けられていたそうです。地上の体が多種多彩であるように、個々の星の輝きも多種多彩なのです。こうして、地上にも天にも多種多様な体を創造した神が、主イエスを信じる私たちのために、現在の体とは別の、より優れた体を創造できないはずはない。そうパウロは確信しているのです。

私たちは葬儀の際遺体を火葬します。焼かれた体は骨と変わり、灰と化します。私たちはそれを教会の墓に埋骨するのです。けれど、聖書によれば、埋骨は体の処分や廃棄ではありません。種まきなのです。再臨の時来れば、私たちの体はこの地上のとは異なった姿でよみがえるのです。

ここにパウロは四つの対句を用い、地上の体と復活の体の特徴を描きだします。

 

15:42~44「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」

 

朽ちるもの、卑しいもの、弱いもの。これらが地上の体の特徴で、地上の体は「血肉の体」と呼ばれています。それに対して、朽ちないもの、栄光あるもの、力あるもの。これらが復活の体の特徴で、復活の体は「御霊に属する体」と呼ばれています。

血肉の体は病み、衰え、様々な弱さを抱えています。それに対して、御霊に属する体は病むことなく、常に美しさと健康を保ち、力に満ちているのです。勿論、現在の人体も神が創造した作品であり、傑作です。しかし、この地上の肉体でさえ卑しく、弱いものと思えるほどの素晴らしい体を、神は私たちに与えてくださるのです。

注意したいのは復活の体も私個人の体であることです。神が与えてくださるのは、私とは別の体ではなく、新しくされた私の体なのです。個性は失われず、人格をきよめられた私たちは再臨の時、すべての点で現在の体よりも優れた、良い体を与えられるのです。

復活した主イエスと弟子たちが交わした会話に興味深いものがあります。

 

ルカ24:36「これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。」

 

ご自分を幽霊と思い込み、震えあがった弟子たちに、主イエスは言います。「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」私たちは天国で体なしに生活するのではありません。神が与えてくださる体をもって生活するのです。朽ちることなく、栄光にあふれ、力に満ちたその体は私たち自身の体なのです。天国で私たちは、私の手で親しい者と握手し、私の手で愛する者を抱きしめるのです。天国でも私たちは自分自身であり続けるのです。

ところで、パウロはこれが自分勝手な想像ではなく、神のご計画であることを旧約聖書の創世記から確認してゆきます。念には念を入れているのです。

 

15:45~49「こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。」

 

ここでパウロは人類の先祖アダムを「最初の人、第一の人、土で造られた人」と呼び、主イエスのことを「最後のアダム、第二の人、天に属する方」と呼んでいます。聖書は、アダムを代表者とする血肉の体を持つ者のグループと、主イエスを代表者とする御霊の体を持つキリスト者のグループの二つに人類を分けています。

そして、各々のグループには、各々に異なった定めがあるのです。神から命を受けたアダムが神に背いて死ぬべき者となったように、アダムの子孫はみな罪のゆえに死に、神のさばきを受ける定めにあります。しかし、二千年前主イエスはこの世界に来て人類の罪を贖い、永遠の命を与える者となりました。ゆえに、主イエスを信じる者は誰であれ、神のさばきを免れ、主イエスと同じ復活の体を持つことになるとパウロは言うのです。

以上、肉体を不潔なもの、悪いものと考えるギリシャ風の霊魂不滅論に流されず、神の教えと主イエス復活の事実に基づき復活を確信するパウロ。その人生観は次の言葉に示されています。

 

コリント6:19~20「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」

 

私たちキリスト者が永遠に行うべきことは何でしょうか。それは地上でも、天国でも自分の体をもって神の栄光をあらわすことです。地上であれ、天国であれ、私たちは食べるにも飲むにも、何をするにも神の栄光をあらわすのです。

 私たちは復活があるからと言って、地上の体を軽んじてはなりません。地上の体も神の尊い作品、聖霊の宮なのです。この体を用いて神の栄光をあらわすべきなのです。私たちは家庭でも、教会でも、社会においても、この体を用いて神のわざに励むべきなのです。

他方、地上のわざをすべてとし、主イエスの再臨を忘れてはならないとも思います。地上で私たちがなすわざはことごとく不完全です。私たちの働きでこの世界を新しくすることはできないのです。私たちの心とわざをきよめ、この世界を新しくする主イエスの再臨を謙遜に、熱心に待ち望む必要があるのです。また、この地上は神を無視する世界です。正義よりも悪が勝利し、平和よりも争いが支配する世界です。神のわざに励む者が軽んじられ、苦しめられる世界なのです。そして、私たちはこの世界でしばしば失望し、落胆し、無力を覚えるのです。しかし、そんな時弱き私たちを支えてくれるのが、主イエスの再臨と復活の希望なのです。

私たち四日市キリスト教会が、自分たちの体をもって神の栄光をあらわす歩みを、地上でも天国でも進めてゆきたいと思うのです。