2020年9月27日日曜日

使徒の働き(2)「心を一つにして祈る」使徒1:12~26

 

今から二千年前、紀元30年春5月も下旬に差しかかった頃のことです。ユダヤの都エルサレムにある家の屋上の間に、心を合わせ主イエスに向かい祈りをささげる人々が集まっていました。つい先日天に挙げられたイエスの弟子たちです。この日から遡ること40日前。十字架に死に墓に葬られたイエス・キリストは三日後に復活。以来多くの弟子たあちの前に現れ、共に語り、共に食べ、共に交わり、聖書を開くとご自分が約束の救い主であることを教えてきました。そして先日使徒たちの目の前でその身を雲に包まれ天に挙げられたのです。使徒とは主イエスの直弟子のことです。

こうして主イエスは神の栄光に包まれて天に挙げられましたが、使徒たちは地上に残されました。彼らにはこの地上でなすべき使命があったのです。主イエスはこう言われました。

 

1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 

主イエスの使徒とは言っても、当時のユダヤでは吹けば飛ぶような存在でした。その頃都エルサレムでは、イエスを処刑した者たちが権力を握っていました。多くの人々はイエスの十字架刑に賛成し、イエスを罵りました。イエスを救い主と信じる者はごく一握りにすぎなかったのです。しかも、彼らには大祭司の様な権力もなく、貴族階級の様な富もなく、律法学者の様な学識もありませんでした。彼らはこの世の人々の心を捕えるようものを何一つ持ってはいなかったのです。

「一体どうしたら、私たちがエルサレム、ユダヤとサマリアの全土、地の果てにまで、主イエスの証人となることができるのか。何の力もなき私たちの様な者が、どうしたら主のために立ち上がり、世界に出てゆくことが出来るのか。」使徒たちは戸惑い、不安に包まれます。

しかし、そんな彼らを主イエスは励ましました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」この約束を信じ、主イエスに励まされた者たちが一つ家一つ部屋に集まり、祈りをささげていたと言うのです。

 

1:12~14「そこで、使徒たちはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に歩くことが許される道のりのところにあった。彼らは町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった。この人たちは、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。」

 

主イエスが天に挙げられたオリーブ山は都エルサレムに近くにありました。ルカが「安息日に歩くことが許される道のり」と説明するその距離は約1キロでした。また彼らが泊まっていた屋上の部屋とは十字架前日の夜、使徒たちが主イエスと最後の晩餐をとったあの部屋とも言われます。 

一体そこで彼らは何をしていたのでしょうか。主イエスが生きておられた昔を懐かしんでいたのでしょうか。仲間と再会し、久しぶりの交わりを喜んでいたのでしょうか。そうではありませんでした。彼らは心を合わせて祈っていたのです。

集ったのは使徒が11人と女性の弟子たち。彼女たちは主イエスの葬りの際も、復活の際も重要な役割を果たしました。加えて、イエスの母マリアとイエスの兄弟たちもいたとあります。マリアは十字架刑の際主イエスを見守っていましたから、その時既に我が子を救い主と信じていたのでしょう。しかし、主イエスが地上にある間その兄弟たちが兄を救い主と信じた様子は見られません。むしろ、彼らはイエスの活動を戒めてさえいるのです。けれど、そんな彼らも復活の主イエスとの出会いを通し、主の弟子へと変えられていたのです。

それにしても、弟子たちが心を合わせて祈っていたとは意外です。以前彼らは誰が一番偉いかでよく争っていました。何度も主イエスから「神の国で偉大な者となりたいのなら、小さき者に仕えよ」と戒められる程我の強い人間、お山の大将でした。そんな彼らが、何と心を合わせ一つになっていたというのです。

また、以前の弟子たちは、「あなた方はわたしについてくることはできない。必ず私に躓く」と主イエスに警告されても、「とんでもありません。たとえ他の人は躓いても、私だけはあなたについてゆきます。一緒に死んでみせます」と豪語する。自分の力により頼む者たちの集団でした。そんな彼らが己の弱さを悟り、心から主イエスの言葉に耳を傾け、祈りをささげる祈りの虫と化していたのです。14節「彼らはみな、…いつも心を一つにして祈っていた。」

権力者を恐れて主イエスから離れ去った弟子たち。主イエスとの関係を否定し、世間の目を恐れ身を隠していた弟子たち。忘れたくても忘れられないそんな辛い過去の経験を通し、彼らは霊的に練られ成長を遂げたのです。心を低くしてお互いを受け入れ、一つになり、主イエスから聖霊が与えられる日を待ち望む。私たちが倣うべき教会の姿がここにあるのです。

しかし、弟子たちが取り組んだのは祈りだけではありません。聖書を読み、聖書を調べ、神のみこころに従うことに彼らは取り組みました。主イエスから与えられた使命のために今自分たちは何をすべきなのか。神の言葉に耳を傾けたのです。

 

 1:15~20「そのころ、百二十人ほどの人々が一つになって集まっていたが、ペテロがこれらの兄弟たちの中に立って、こう言った。「兄弟たち。イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした。ユダは私たちの仲間として数えられていて、その務めを割り当てられていました。(このユダは、不義の報酬で地所を手に入れたが、真っ逆さまに落ちて、からだが真っ二つに裂け、はらわたがすべて飛び出してしまった。このことは、エルサレムの全住民に知れ渡り、その地所は彼らの国のことばでアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ばれるようになっていた。)詩篇にはこう書いてあります。『彼の宿営が荒れ果て、そこから住む者が絶えますように。』また、『彼の務めは、ほかの人が取るように。』」

 

この時弟子たちの心には痛みがありました。それは使徒のひとりユダが主イエスを裏切り、仲間から脱落していったことです。イスカリオテと呼ばれたユダは弟子団の財務を担当する有能な弟子でした。主はユダの裏切りを知りながらも最後まで彼を愛しました。しかし、ユダは主イエスを権力者に売り渡してしまったのです。

勿論、他の使徒もわが身を守るために、主イエスのもとから逃げ去り、主イエスとの関係を否定した訳ですから、裏切りという点では彼らも同列同罪でした。しかし、他の使徒は主イエスのもとに帰り、主イエスから罪の赦しの恵みを受け取りましたが、ユダだけは罪を悔いたものの主イエスのもとに帰ることはなく、自ら命を絶ったのです。「何故ユダは主のもとに帰ってこなかったのか。主は赦してくださるのに。」脱落していった仲間のことを思う度、彼らの心は痛んだのです。

なお18節19節の括弧の中には、ユダの死の顛末を知らない読者のための説明文が挿入されています。但し福音書を読むと、実際に土地を買ったのはユダではありません。ユダは自分の行為を悔い、金を祭司長に返したのです。しかし、祭司長は汚れた金を神殿に納めることを良しとせず、これで畑を買い異国人用の墓地としました。その際祭司長がユダの名義で土地を購入したため、当時人々からはそれがユダの土地とみなされていたと考えられます。

ところで、「地の果てまでわたしの証人となる」という主イエスから託された使命を思い巡らす内、彼らは取るに足りない自分たちが新しい神の民として選ばれたことを自覚するようになります。主イエスに集められた自分たちが、やがて聖霊に導かれ、世界に救いの福音を伝える教会として立ち上がる。そんな重要な時が近づいていることを悟ったのです。

そして、ユダに代わる新たな使徒の補充こそ、今なすべきことと彼らは考えました。この時立ち上がったペテロは、神のため重要な務めについていた者が背教した場合悲惨な死を迎えること、その場合代わりに務めを行う者を補充するのが神のみこころであることを旧約の詩篇から解き明かしました。人々の心を教会の使命へと向け、主の復活の証人を立てることを提案したのです。

 

1:2126「ですから、主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」そこで彼らは、バルサバと呼ばれ、別名をユストというヨセフと、マッティアの二人を立てた。そしてこう祈った。「すべての人の心をご存じである主よ。この二人のうち、あなたがお選びになった一人をお示しください。ユダが自分の場所へ行くために離れてしまった、この奉仕の場、使徒職に就くためです。」そして、二人のためにくじを引くと、くじはマッティアに当たったので、彼が十一人の使徒たちの仲間に加えられた。」

 

主イエスと一緒に生活していた者、いつも使徒と行動をともにしていた者の中から一人を主イエスの証人とする。これは誰もが納得できる提案でした。しかし、この条件を踏まえ、使徒にふさわしい人物は誰かを協議した結果、ヨセフとマッティアの二人が残ったのです。彼らは人格においても信仰や賜物においても甲乙つけがたく、人々はひとりを決めることはできなかったのです。

この様な場合どうすべきなのか。人々は箴言の中に、神のみこころに適う人物を選ぶ方法として旧約の昔しばしば採用されていたくじ引きという方法を見出しました。これを用いて「すべての人の心をご存じである主よ。この二人のうち、あなたがお選びになった一人をお示しください」と祈りをささげたのです。

弟子たちは自分たちの思いや判断で使徒を選ぶことが出来るとは考えてはいませんでした。神だけが使徒の務めに就く者を選ぶことが出来ると考えていたのです。ただ神が「この人を」と直接示さない場合、旧約の昔から神の民が採用してきた方法を採用するのがふさわしいと判断したのです。

彼らは主イエスが12使徒を選ぶ際ただひとり山に登り、夜を徹して真剣に祈られたその姿を覚えていました。ペテロもヨハネもヤコブも、あのイスカリオテのユダも、皆主イエスのみこころによって選ばれた使徒だったのです。だからこそ、この時も主イエスがくじを用いて一人を選び、立ててくださると信頼していたのです。彼らは聖書に基づいて取り組むべきことを考え、それを成し遂げるにふさわしい方法も聖書に示されていると考えていたのです。

以上、聖霊を待ち望む教会が何に取り組んだのかを見てきました。最後に改めて、彼らが取り組んだ二つのことについて確認したいのです。

第一に、主イエスに信頼する人々は祈りに取り組みました。主イエスの祝福に期待する彼らは来る日も来る日も心を合わせ祈り続けたのです。

ビル・ハイベルズという人が「忙しすぎて祈れない」という本を書いています。忙しすぎて祈れない。誰もが納得できるタイトルです。多くのキリスト者が祈れない理由として同じことを感じているかもしれません。しかし、私たちが祈れないのは忙しすぎて時間がないからなのでしょうか。

使徒の働きによれば、それは違うようです。この後弟子たちはことあるごとに祈りをささげています。牢に捕らわれた仲間の救出を求めて祈り、病に苦しむ者のために祈り、罪の悔い改めの祈りをささげ、宣教師を遣わす際も祈るのです。忙しくても忙しくなくても、朝であろうと昼であろうと夜であろうと、日々彼らは祈り続けるのです。

それは彼らが自分たちの弱さや欠けをわきまえていたからです。権力なく、経済力なく、正式な学問もない。社会に通用する肩書を持つ者は皆無で、世間からは「無学な者、ガリラヤ人」と呼ばれ、弟子たちは見下されていました。また彼らは悔やんでも悔やみきれない罪の経験から、己の弱さを嫌という程自覚していました。けれど、そんな彼らだからこそ、本気で主イエスに信頼したのです。己を頼ます、ひたすら主イエスの恵みを頼みとし、聖霊の力を祈り求め続けたのです。

私たちが祈れないのは忙しすぎるからではなく、己の弱さや欠けをわきまえることが少ないからではないか。時間がないからではなくて、本当は主イエスを頼らず自分を頼っているからではないか。主イエスを人生の主とせず自分を人生の主としているからではないか。私たちも今一度心を探り、祈りに取り組む決意を新たにしたいのです。

第二に、弟子たちは聖書を読み、聖書を調べました。彼らは聖書全体を神の言葉と信じ、聖書に示された神のみこころに従い、教会を整えてゆこうと考えていたのです。

ウェストミンスター大教理問答第三問にはこうあります。問「神のみ言葉とは何ですか。」答え「旧新約聖書が神の言葉であり、信仰と服従のただ一つの基準です。」私たち長老教会は使徒たちと同じ信仰に立っているのです。私たちは聖書に示された主のみこころに従って教会活動も信仰生活も家庭生活も社会生活も整えてゆくのです。新約だけではなく旧約聖書も含めて聖書全体を調べ、自らの生き方や価値観を主に喜ばれるものへと修正し続けるのです。聖書によって自己中心の人生から神中心の人生へと進みゆくのです。

この世の人々は「祈り等何の力がある、祈るより働け、祈るより稼げだ」と言うでしょう。しかし、私たち教会は祈りに取り組み、すべてのことにおいて神に信頼して歩んでゆくのです。この世の人々は「神の教え等に捕らわれず、思いのままに生きるのが最も人間らしい、幸福な人生だ」と言うでしょう。しかし、私たちキリスト者は仕事も結婚も、夫婦も子育ても、経済も政治も、人生のあらゆる面で神のみ心に従い、神の栄光を表す者としてこの世を歩み続けるのです。

2020年9月20日日曜日

敬老感謝礼拝「喜んで弱さを誇る」Ⅱコリント12:7~10

 一般的に、ある年齢までは誕生日は嬉しく、ある年齢を越えると誕生日は嬉しくないと言われます。皆様は誕生日を嬉しく思うでしょうか、嬉しくないでしょうか。キリスト教信仰を持つ者にとって誕生日を祝うというのは、ここまで神様が守って下さった、恵みを注いで下ったことを確認し記念する意味があります。そのため何歳であっても、喜んで誕生日を祝うことは出来るはず。しかし、ある年齢から歳をとることは成長というより衰退、老化と感じられる。一般的には、成長は嬉しく、老化を喜ぶことは難しいものと言えます。老化する、衰退することは、当たり前のこと、万人に起こること、例外なし。それなのに老化すること、衰退することは、とても嫌なこと、寂しいことに感じられるのです。

 ところで何故私たちは、老いを味わうことは辛いこと、寂しいこと、大変なことだと思うのでしょうか。よく考えてみると、そのように感じるのは不思議なことでもあります。何しろ、老いるということは誰もが知っていること。分かっていること。知らないことが起こるのではないのです。また、ある日突然老人になるのではなく、徐々に変化していくもの。そうなることは分かっていて、徐々に変化しているのにもかかわらず、私たちは歳を重ね、老いを味わうことが辛く、寂しく、大変に感じるのです。何故でしょうか。何故、老いることを嫌がる気持ちが自分のうちにあるのでしょうか。

その最大の理由は、「出来ていたことが出来なくなる」からです。仮に、衰えること、弱くなることがなければ、歳を重ねることは嫌なことではなくなるでしょう。

私たちの人生は、老いを味わうまで、何かが出来るようになることを繰り返します。何も出来ない赤子で生まれてから、出来ることを増やしていく歩みをしているのです。何かが出来るようになることは嬉しいこと。それによって、人から評価されるのも嬉しいこと。そしていつしか、「これが出来る」ことが、自分の存在意義となります。

それが歳を重ねるにつれ、出来たことが出来なくなることを味わいます。それまで築き上げてきたプライドが削ぎ落とされ、自分らしさを失うのではないかという恐怖を味わうことになる。出来ないことが増えれば増える程、自分は必要とされていない。自分は迷惑をかけてばかり。何のために生きているのか分からない思いが強くなる。出来ないことが増えるにつれて、辛さ、寂しさが増すことになる。出来なくなる自分、弱くなる自分を受け入れることは大変なことです。

 

 今日は敬老感謝礼拝です。多くの人が直面する老いの辛さ、厳しさに対して、私たちはどのように向き合えば良いのか。出来ることが出来なくなる、力が失われることに対して、どのように備えたら良いのか。歳を重ねること、出来ることが出来なくなることに対して聖書はどのようなことを教えているのか。皆様とともに考えたいと思います。

 多くの人が、歳をとることを嫌がり、若さを保ちたいと願う世にあって、聖書は歳を重ねることに、異なる視点を与えてくれます。

いくつも例を挙げることが出来ますが、たとえば

箴言16章31節

「白髪は栄えの冠。それは正義の道に見出される。」

 

 また年齢を重ねた人生の先輩を敬うように、このようにも教えていました。

 レビ記19章32節

「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」

 

 歳を重ねることがいかに良いことか。極めつけの聖句はこれだと思います。

 Ⅱコリント4章16節

「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」

 ここに「外なる人」と「内なる人」という言葉が出てきます。「外なる人」とは私たちの体のこと。「内なる人」は、「霊」とか「人格」という意味ですが、ここでは特に、この世界を造られた神様の前での自分自身という意味です。

 「外なる人」が歳を重ね傷つき、弱まり、苦しむ時。それまで「出来ていたことが出来なくなる」時。その時に何が起こるのかと言えば、「内なる人が新たにされていく。」より神様を知り、神様の前での自分自身を知り、より神様に近づく者とされるというのです。

 歳を重ね、体が弱まり、「出来ていたことが出来なくなる」ことを私たちは恐れ、辛く思います。「外なる人」が衰えることを、とても苦しく思う。しかし、聖書はその時こそ重要な時であること。その時こそ、取り組むべきことがあること。自分自身に向き合い、神様に近づく良い時であると教えています。

 考えてみますと、そもそも私たちはこの世界を造り、支配されている神様の恵みによって生きているもの。自分の体も、心も、自分で用意したものではなく、自分の力で命を支えているのでもない。それにもかかわらず、出来ることが増えていく人生を送るにつれ、知らず知らずのうちに、自分の力で生きているかのように思うことが増えてしまう。生かされていると思うよりも、私の力で生きていると思うようになる。神様の恵みに目を留めるよりも、自分の力や功績に目を留めるようになることが多いのです。

 そのような私たちが歳を重ね、肉体的にも社会的にも弱くなり、「出来ていたことが出来なくなる」中で、もう一度自分を見つめ直すことになります。自分の力で生きていると思うよりも、神様に生かされていることを味わうようになる。自分の力に目を留めるよりも、神様の恵みに目を留める歩みとなる。毎日の小さなことでも神様に祈りながらの歩みとなる。「外なる人」が衰えるにつれて、「内なる人」が新たにされる。この世界を造り支配されている神様を知る者にとって、「出来ていたことが出来なくなる」ことは、実に重要な歩みを送っているのです。

 この「弱くなることを通して神様を信頼することを学ぶ」「弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となる」というテーマは、聖書の様々な箇所で確認されるものです。

 

 士師記に記されたギデオンの故事(士師記7章)。ミディアン人との戦いに三万二千人の軍隊を備えたギデオンに対して、神様は兵が多すぎると言われ、人数を減らすように命じられます。言われる通りに兵を減らした結果、最後は三百人に。結局、ギデオンは当初の百分の一以下の兵で戦いに挑むことになりました。何故、兵を減らすように言われたのか。神様は次のように告げていました。

 士師記7章2節

「主はギデオンに言われた。「あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、わたしはミディアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ。」」

 

 サムエル記に記されたダビデとゴリヤテの故事(Ⅰサムエル記17章)。当時、有名な戦士であったゴリヤテと一騎打ちをするにあたり、少年ダビデは羊飼いの姿で臨みました。ダビデの姿を見たゴリヤテは「おれは犬か。杖を持って向かってくるとは。」と嘲笑し呪ったと言います。それもそのはず、盾持ちを従えた歴戦の勇者、巨人ゴリヤテの一騎打ちに、羊飼いの少年が応じた。考えられない暴挙。しかしダビデには、羊飼いの姿で戦いに臨む意図がありました。

 Ⅰサムエル記17章45節~47節

「ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう。今日、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを殺しておまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地の獣に与えてやる。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」」

 神様が勝たせて下さるなら、ギデオンの率いた兵は三百人でも三万二千人でも、どちらでもミディアン勝つことが出来たと思います。羊飼いの少年ダビデでなく、イスラエル軍の名の知れた戦士でも、ゴリヤテで勝つことが出来たと思います。しかし敢えて、弱さを通して神様を信頼することの大切さを示す機会とされることがある。「弱くなることを通して神様を信頼することを学ぶ」「弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となる」という出来事は、聖書の様々な箇所で確認できます。

 あの「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされる」と告げたパウロ自身も、弱さの中で神様の恵みを経験した人でした。

 Ⅱコリント12章7節~10節

「その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

 

 パウロは肉体に一つのとげが与えられたと言います。何かしら慢性的な病気ではないかと考えられています。とげと言うのですがから、痛みが伴ったのでしょう。サタンの使いと表現していることから、パウロにとってよほど辛く、また宣教をする際に邪魔に思えることなのでしょう。これがなければ、ますます神様に仕え、人々に仕えることが出来る。これがなければ、どれほど良いか。この「とげ」とも「サタンの使い」ともいわれるものを、去らせてくださいと三度願ったと言います。しかし、取り去られなかった。それどころか、その「とげ」が有益に用いられていると教えられたと告白します。

 この短い告白の中に、パウロの複雑な思いが見てとれます。最初から達観していて、弱さを受け入れていたわけではない。当初は弱さは取り除かれるように願っていたこと。しかし考えてみると、本当に取り除かれたら、自分の力に頼る、高慢になる危険性があったこと。今や弱さの中で神様を信頼することを学んだこと、弱さの中で神様の恵みを味わう者とされたことを、大いに喜び誇りとする。このような、葛藤を経験した結果、喜んで弱さを誇る信仰へ導かれたパウロの姿に励ましを受けます。

 

この世界を造られた神様抜きに考えるならば、弱くなるのは恐ろしいこと。「出来ていたことが出来なくなる」ことは辛いこと。弱さを誇るなど、とても出来ない。しかし、この世界を造られた神様を前にした時、弱くなることに重要な意味があることを見出すのです。

 「弱くなることを通して神様を信頼することを学ぶことになる」。「弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となる」。これが真実だとすれば(私は真実だと思っているのですが)、それはつまり、歳を重ね、出来ることが少なくなっても、取り組むべきことがあるということです。非常に弱くなり、助けがないと生きることが出来なくなっても、成長があり、新しい世界が広がっているということです。老いの中でこそ、信仰の真髄を見出す歩みがあるのです。

 

 現代は効率主義、能力主義の時代と言われます。素早く出来ること、能力があることが重要。何をなしたのかということが大事とする世にあって、聖書は、その人がどのようなことをしたのかよりも、神様がその人に何をなされたのかに注目するように教えます。

 私がすることではなく、神様のなさることに思いを向けていくこと。何か出来るから存在意義があるのではない。何か出来るから愛されているのでもない。ただただ、私を愛そうとする方がいるから愛されていると気づくこと。これは信仰生活の中で最も大切な姿勢と言うことが出来ます。

 エペソ2章8節~9節

「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

 

 「何をするか」ではなく、「何をして頂いたのか」。これこそ、キリスト教であり、恵みの宗教。行いによらず、恵みによって救われている。行いによらず、恵みによって愛されている。行いによらず、恵みによって生かされている。これが、どれほど重要な福音なのか。

キリストを信じるとは、この福音を信じること。クリスチャンとは、この福音を味わうように召された者。今日の敬老感謝礼拝を一つの契機として、私たち皆で生涯をかけて、「弱くなることを通して神様を信頼することを学ぶことになる」「弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となる」ことを経験していきたいと思います。

 

最後にいくつかのお勧めとお願いをして終わりにしたいと思います。

 まずは敬老の方へのお勧めとお願いです。

歳を重ね、老いることは大変なこと、辛いことだと思います。しかし、弱くなる歩みをする中でも、絶望することはない、むしろその時にこそ、取り組むべきことがあると聖書は言います。「内なる人が新たにされる生き方」。「弱くなることを通して神様を信頼することを学ぶこと」。「弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となること」。「行いによらず、恵みによる信仰生活」。このような、喜んで弱さを誇る歩みをするように聖書は教えていました。

人生の先輩、信仰者の先輩へのお願いは、この「喜んで弱さを誇る」歩みに取り組んで頂きたいということです。外なる人が弱くなることを嘆きながらも、内なる人が新たにされる喜びを教えて頂きたいのです。キリストを信じる者がどのように老いて、どのように天に召されていくのか。その中で、内なる人が新たにされる生き方とは、具体的にどのようなものなのか。天に召される、その時まで、生きる意味があり、取り組みがあることを、その生き様で教えて頂きたいのです。

 

まだ敬老の年になっていない方に申し上げます。私たちの教会に、人生の先輩が来られていることを神様に感謝しましょう。その人生に敬意を払いましょう。どのような人生を歩まれたのか、歩まれているのか、耳を傾け注目しましょう。当然のことながら、私たちは皆老います。その時、人生の先輩の、教会の先輩の生き様をお手本にするのです。

 そして、この信仰の先輩方に続く歩みを私たちもなし、やがては私たちの子、孫、またその次の世代へと信仰を継承していく。キリストがもう一度来られるまで、喜んで弱さを誇る信仰を、この地で繰り広げていきたいと思います。

 

 モーセの最晩年。遺言説教の一節。イスラエルの民に、神様がして下さったことを忘れないように。また、そのことを子どもや孫に伝えるようにと語った言葉を確認して説教を閉じます。

 申命記4章9節

「ただ、あなたはよく気をつけ、十分に用心し、あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。そしてそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。」

2020年9月13日日曜日

使徒の働き(1)「聖霊が臨む時」使徒1:1~11

  今日から私が礼拝説教を担当する際、使徒の働きを読み進めてゆくことにします。新約聖書の第五巻目にあたる使徒の働き。ある註解者はこの書について「熟練した語り手によって語られた、興味の尽きないストーリー」と評しています。

 確かに読む者の興味を掻き立てるという点において、使徒の働きは聖書の中でも群を抜くと言えるかもしれません。神の教えに忠実で、愛に富む交わりを展開する麗しい教会の姿が描かれているかと思えば、偽善や差別、仲間割れなど深刻な問題に悩む、そんな「罪赦された罪人の集まり」としての教会の姿も描かれているのです。

 また、この書には様々な人物が登場します。王、貴族、祭司、役人など所謂エリートが登場するかと思えば、商人も職人も、自由人も奴隷も、男も女も、富める者も貧しき者も、知識人も無学な者も、ユダヤ人もローマ人、ギリシャ人も登場するのです。ある者は福音を受け入れ、ある者は拒み、ある者は傍観し、ある者は迫害する。キリスト教の福音に対する対応も十人十色なのです。

 何よりも「使徒の働き」というタイトルが示すように、手に汗握る使徒たちの活躍を見逃すことはできません。ある時は権力者の脅しに屈せず、ある時は死を覚悟してなされた彼らの活躍に私たちは心打たれるのです。さらに、彼らの行った説教が多く残されているのも貴重です。人々の罪を鋭く示し悔い改めを迫るペテロの説教。同胞ユダヤ人のため旧約聖書を開き、イエスが約束の救い主であることを教えるパウロの説教。文芸の都アテネで行われた同じくパウロによる理知的な説教。同じくパウロが愛する兄弟姉妹に対して語る惜別の情にあふれる説教。いずれも必読の名説教と言えます。

 果たして、神はルカによって書かれた興味尽きることのない物語、使徒の働きを通して、今の私たちにどんなメッセージを語っておられるのか。このことを心にとめながら読み進めてゆきたいのです。

 

 1:1、2「テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。」

 

 前の書でとある通り、使徒の働きはルカが書いた前の書すなわちルカの福音書の続編です。テオフィロという人物の名はルカの福音書の冒頭にも記されていました。但し、ここでは「テオフィロ様」とありますが、福音書では丁寧な敬語とともに「尊敬するテオフィロ様(殿)」と呼ばれています。このことから、ルカが福音書を書いた時はまだ求道者であったテオフィロが、この書が書かれた時は既にクリスチャンになっていたとも考えられます。そうだとすれば、ルカにとっても私たちにとっても嬉しい事です。

 そして、この序文にはルカが使徒の働きを書いた理由が示されてもいます。「私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。」とある通り、ルカが福音書に書いたのはイエスの行いの始め、教えの始め、主イエスの働きの前半でした。ですから、使徒の働きにおいて、ルカは主イエスの働きの後半について書こうとしてるのです。

 そうであるなら、既にこの時天に挙げられた主イエスがどの様にしてその働きを継続しておられるというのでしょうか。主イエスは地上の教会を用い、聖霊によって今も働き続けている。そうルカは語るのです。天に挙げられるまでの期間、主イエスが使徒たちに何を行い、何を教えたのか。ルカは次のように説明しています。

 

1:3~8「イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 

第一に、主イエスは数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きておられることを使徒たちに示しました。何故、主イエスは繰り返しご自身の復活の体を弟子たちに示したのでしょうか。彼らとともに歩き、彼らとともに食事をし、彼らに親しく語りかけたのでしょうか。それは彼らが罪の赦しの恵みを必要としていたからです。

主イエスがユダヤ教の大祭司によって捕らえられた時、弟子たちは自分たちも逮捕されることを恐れ、逃げ去りました。大祭司の庭まで跡を追ったペテロも、「あなたもあのイエスの弟子なのでしょう」と問われるや「私はあの人のことなど知らない。何の関係もない」と誓い、主イエスとの関係を否定しました。

そんな罪に悩む弟子たちに、主イエスは「わたしが十字架で罪の贖いを成し遂げた。あなた方の罪は赦されている。」と語られたのです。「もう一度わたしの愛に帰り、わたしに従いなさい」と彼らを励ましたのです。

第二に、主イエスは神の国のことを弟子たちに語りました。神の国とは神の恵みの支配のことです。悔やんでも悔やみきれない罪を犯した彼らの人生は罪に支配されていました。神のさばきと人々への恐れに支配されていました。しかし、主イエスは彼らが罪の支配から解放されていることを告げたのです。もはや神のさばきを恐れる必要がないことを告げたのです。そして、罪と恐れに支配される者から神の恵みに支配される者へ。主イエスによって人生を変えられたと確信した彼らは主の弟子として立ち上がることが出来たのです。

第三に、主イエスは「あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです」と語り、使徒たちの心を聖霊に向けました。しかし、この言葉を耳にした彼らの応答は「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」というもの。残念ながら、彼らはいまだイスラエル民族中心の神の国を夢見る信仰から抜け出すことが出来ずにいたのです。

けれども、主イエスは使徒たちの未熟な信仰を忍耐されました。そして、待ち望むべき聖霊と地上で果たすべき使命に彼らの心を向けようとされるのです。

 

1:7,8「イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 

8節はルカによる大宣教命令であり、使徒の働きのテーマを示すことばでもあります。主イエスの復活の50日後、エルサレムに人々が集まり収穫祭が祝われる時、この約束は実現するのです。その日エルサレムに誕生したキリストの教会が、やがてユダヤとサマリヤの全土に福音を伝え、教会が建てられる。さらに地の果てにまで福音は広がり、そこにもまた教会が建てられてゆく。主イエスはこう宣言し、使徒たちの心をその使命へと向けたのです。

しかし、こんな壮大な、こんな途方もない使命を、どうやって彼らが遂行できるというのでしょうか。キリストの使徒と言っても、ユダヤの国では何の立場も力もありませんでした。彼らは大祭司の様な権力者ではなく、パリサイ人の様に社会で尊敬される存在でもなく、律法学者の様に由緒正しいユダヤ教の学派に属してもいませんでした。

彼らの多くは漁師や収税人と言った社会の底辺で暮らす無名の存在だったのです。彼らには何の社会的立場もなければ、正式な学問をおさめた者も、富める者も存在しなかったのです。その上、ついこの間まで悔やんでも悔やみきれない罪を犯して後悔を繰り返し、自分に失望していた者だったのです。人々を恐れ、社会の片隅で隠れるようにして暮らしていた者たちだったのです。

しかし、「聖霊が臨む時、そんなあなたがたの働きを通して、必ずエルサレムに教会が生まれ、教会を通して福音が地の果てにまで宣べ伝えられる」と、主イエスは約束されたのです。そして、この時から今に至る迄、主イエスの働きは教会を通し、聖霊によって継続しているのです。キリストの教会はたとえ聖書を取り去られても、迫害されても、殉教者が生まれても、社会からのけ者にされても、主イエスの手足となって福音を伝え、世界の各地に教会を建て続けて来たのです。

そんな代々のキリスト者たちの歩みを支えてきたものは、いったい何だったのでしょうか。この直後主イエスの昇天を目の当たりにした使徒たちに、み使いが語ります。

 

1:9~11「こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」

 

主イエスは雲に包まれて天に挙げられました。聖書において雲は神の臨在と栄光を示すものです。あのモーセが有名な十戒の板を授かった時、シナイ山の頂には神の臨在を示す密雲がかかっていました。ソロモン王が神殿工事を終え奉献式を行った際、神の栄光の表れである雲が神殿に満ちたとあります。その雲に包まれてイエスが天に昇られたのですから、使徒たちは改めて主イエスが神であることを確認することが出来たのです。天にいます主イエスが世界のすべてを治め、教会を通してこの世界を神の国へと変えてゆく。そんな時代になったのを確信することができたのです。

そして、この時み使いが告げた言葉がいつまでも彼らの心に刻まれたに違いありません。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」

果たして、皆様は主イエスの再臨を待ち望んでいるでしょうか。再臨の主イエスを慕う思いはあるでしょうか。

私たちの宣教の働きには順調な時もあります。他方、いくら福音の種をまいても一向に芽が出てこない、実を結ばない時もあるのです。聖霊に動かされていると感じる時もあれば、心が不安や恐れ、無力感でふさがれてしまう事もあるのです。

しかし、私たちは主イエスと離れ離れの状態で、心細く地上で宣教の働きを行う者ではありません。今や天に座し、この世界を治める栄光の主イエスとともに、宣教の働きを行う者なのです。私たちの心細さ、恐れ、不安をよく理解してくださる主イエスが、私たちの同労者なのです。世の終わりまで共にいてくださるのです。罪を犯し、ふがいない現実に直面し、落胆する事があっても、主イエスによる罪の赦しと慰めを信じ、再臨を信じて、代々の教会は歩んで来たのです。

1956年のこと、私たち日本長老教会の前身日本基督長老教会が設立されました。牧師8名、長老3名、教会は東京の済美が丘教会と松の木教会、そして四日市教会の三つ、伝道所が関東方面に7つという心細くなるような状況でのスタートです。当時を振り返って、小畑進先生はこう書いています。「今ここに生まれいずる教会は、まことに小さきものである。それは芥子種一粒にもひとしいものである。しかし、我らがこれを正しく生命的に育てるならば、主は必ずやこれを用い、空の鳥をも宿す教会となしたもうことを信じる。」この設立趣意書は当時の悲壮な心を物語るもので、今日読んでも胸に迫ります。それが中部中会を生み、大会を組織し、日本福音長老教会と一つとなり、西武中会を生み出そうとは、夢にも思っていませんでした。」

初々しい決意と不安。恐れと期待。初代教会の使徒たちの心境もさぞやと思われることばです。そして今も日本の教会が置かれた状況はそう変わらないと思えます。キリスト教会はどこも小世帯、統計では日本のクリスチャン人口は0.45%とされますが、実際教会に集うキリスト者は人口0.25%程とも言われます。教団教派を問わず、教勢減少、高齢化、子どもや青年が来ない、牧師不足などの問題を抱えているのです。

さらに、ポストモダンの波は日本にも及び、唯一の神など存在しない、神は死んだという考え方が浸透し、今や常識となっています。人々が求めてやまないのは正義よりも経済的豊かさ、真理よりも個人の自由です。この世界を創造した神がおられ、神が聖書において罪からの救いの道を示していると説くと、罪とか救いとか唯一の神などそんな教えは時代遅れと揶揄される時代です。

バブル崩壊を経験しても、大震災に苦しめられても、新型コロナに直面しても、あいも変わらず人々は神に心を向けようとはしません。むしろてじゅ、経済的豊かさを幸福と考え、神の教えよりも科学に信頼し、神の警告を無視する人々の勢いはますます盛んなのです。

しかし、たとえそうであっても、主イエスは私たちと共におられるのです。たとえ教会が芥子種の様に小さくとも、主イエスが聖霊によって教会を養い、育ててくださるのです。たとえ教会に力なく、富なく、社会的立場もないとしても、主イエスはそんな私たちを尊び、そんな私たちを用い、私たちと共に働き続けるのを喜びとしておられるのです。この四日市キリスト教会は主イエスの再臨の日来る迄、この地域、この日本、この世界で福音宣教の働きに取り組み続けるの

2020年9月6日日曜日

一書説教(62)「ヨハネの手紙第一~これほどまでに愛された~」Ⅰヨハネ4:7~11

  一般的に、私たちは人から何かを伝えられる時「誰から伝えられるのか」に大きな影響を受けます。自分の大切な人、尊敬する人から言われたことは、どのような内容でも受け止めやすく、嫌いな人、苦手な人から言われたことは、どのような内容でも受け止め難くなります。先生を好きになると苦手な教科も好きになり、先生を嫌いになると得意な教科も出来なくなることがあります。良くも悪くも、何かを伝える時、伝えられる時、関係性が物を言います。

 それとは別に、自分の好みの表現方法というものもあります。論理的に説明をされる方が理解しやすい人。感情に訴えかける表現があると納得しやすい人。明瞭簡潔の方が好みの人。美しい表現が多くある方が良い人。同じ人から同じ内容を聞くにしても、理解しやすく納得しやすい自分の好みの表現方法が、私たちそれぞれにあると思います。皆様はどのような表現方法が好みでしょうか。

 聖書はこの世界を造られた神様の言葉。しかしそれは、聖書が天から降ってきたという意味ではありません。神様が選んだ者を特別に守り、誤りなき神の言葉として記したもの、という意味です。つまり聖書は誤りなき神の言葉であると同時に、人間の著者の特徴もあらわれた言葉です。そして有り難いことに、聖書の著者として選ばれたのは一人ではなく、約四十人いました。もし聖書の著者として選ばれたのが一人であったとすると、その人の表現方法が好みに合わない人は、聖書を読むことが大変になっていたと思います。しかし、実際には約四十人にもなる著者が、それぞれの特徴ある文体で聖書を記している。多くの著者がいること、それぞれの書に様々な特色があるということに、より多くの人が喜んで聖書を読むことが出来るようにとの神様の配慮を感じます。皆様は、聖書の著者のうち誰の表現方法が自分の好みに合っているでしょうか。

 

 断続的に取り組んできました一書説教、今日は通算六十二回目、いよいよゴールが近づいてきました。残りの五書のうち、四書は使徒ヨハネが記したもの。一書説教の最後はヨハネ文書に向き合うことになります。

 「主は恵み深い」という意味のヨハネ。聖書には多くのヨハネが登場しますが、聖書記者のヨハネは十二弟子に選ばれたヨハネです。ガリラヤ湖の漁師で、特別な教育を受けたわけではない無学な普通の人(使徒4章13節)。気性が荒くイエス様より雷の子とあだ名をつけられた人。しかしキリストの弟子の歩みをする中で、その品性と知性は練りに練られ聖書記者の働きもなし、福音書、手紙三つ、黙示録と計五つの書を残すことになりました。

 記された文書から私がイメージするヨハネは詩人です。ヨハネ文書は、単語や文法としては比較的簡単な言葉で記されているものの、その意味するところは深遠。「光」とか「いのち」という言葉がよく出て来ます。イエス様の誕生について、マタイやルカは、「ヨセフがどうした」、「マリアがどうした」と出来事を記したのに対して、ヨハネは「光が来た」と詩的な表現でまとめていました。理路整然と論理的にまとめられたというより、修辞的に美しくまとめられた文という印象。残りの五分の四、このようなヨハネ文書に向き合います。

一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。

 

 新約聖書に収録された手紙の多くは、冒頭に差出人と宛先が記されていました。

ヤコブは「神と主イエス・キリストのしもべ」と顔を見せ、ペテロは自分のことを「イエス・キリストのしもべであり使徒」と挨拶し、パウロが最も多く使ったのは「使徒」という名乗りです。ところが、この手紙には差出人の名前が記されていません。そのため厳密に言えば、聖書本文からは誰が書いたか分からない、著者不明の手紙です。とはいえ内容、文体、多くの伝承から、使徒ヨハネが書いたものと十分に考えることが出来ます。もとより名乗らないというのも、ヨハネらしいものでした。ヨハネの福音書を読んだ時、皆様は気付いたでしょうか。あの福音書で、ヨハネは自分の名前は一回も出さずに記録していました。己の名前すら隠して、神様の素晴らしさを示す。ヨハネらしい美徳が、差出人が記されていない点にも現れているように思います。

 差出人が記されていないだけではなく、宛先も明確には記されていません。「愛する者たち」「子どもたち」「幼子たち」という呼びかけが繰り返しされるため、ヨハネが愛してやまない人たち、キリストを伝え牧会した人たちに宛てたものと考えられます。(伝承ではヨハネはエペソで牧会していたと言われ、そのためこの手紙はエペソの教会員に宛てたものと考える人も多くいます。そうなのかもしれません。)

 使徒ヨハネから、最愛の者たちへの手紙。どのような目的で記されたのか。手紙の中に記されているのですが、ヨハネの福音書と比べると分かりやすいと思います。福音書を書いた目的について、ヨハネは次のように記していました。

 ヨハネ20章31節

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 

 イエスの誕生から十字架での死と復活後までを記した福音書。書いた目的は、「この書を読む者が、イエスが神の子であり救い主であることを信じいのちを得るため」とまとめられています。それではヨハネの手紙第一はどのような目的で記されたのか。

 Ⅰヨハネ5章13節

神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。

 

 この手紙は、イエスが神の子キリストであることを信じている者、永遠のいのちを持っている者に宛てたもの。福音書を読み終えた後に読むものとして記されていることが分かります。読む者をして、キリストを信じることで頂いた永遠のいのちがどのようなものなのか、永遠のいのちを持って生きるとはどのようなことか、分かるように。つまり、キリスト者が永遠のいのちに生きることを願って記された書と言えます。

 私たちも、永遠のいのちとはどのようなものか、永遠のいのちを持って生きるとはどのようなことなのか。この手紙を通して、よく考え、よく理解し、永遠のいのちを持つ者として生きていきたいと思います。

 

 手紙の内容ですが二つの特徴を挙げて、読む備えにしたいと思います。

 「使徒」と呼ばれる弟子たちが晩年に記した手紙には、共通して記されている注意事項があります。それは偽教師、反キリストに気を付けるように、誤った教えに気を付けるようにというもの。パウロが忠告し、ペテロも注意を促していましたが、ヨハネも気を付けるように言います。

 Ⅰヨハネ2章18節、22節

幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。…偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです。

 

 ヨハネが気を付けるように言う反キリストは、イエスがキリストであることを否定する者、御父と御子を否定する者のこと。それでは、「反キリスト」と言われる者たちは、どのように否定したのでしょうか。正面から、「イエスは救い主ではない」、「父なる神も子なる神もいない」と主張するのであれば、気を付けるように言われるほどのこともない。信仰者からすれば、異なる世界観、異なる信仰の人というだけです。そのため、反キリストによる「御父や御子の否定」というのは、それと分かりづらいものとして主張されていたと思われます。

 当時の一般的な思想の流行に、霊的なものは優れており、肉的なものは劣っているという考え方がありました。(グノーシス主義と言われます。)霊は優れ、肉は劣っている。この思想に基づいて聖書を読むと、いくつもの部分で問題が起こります。「霊である神が、肉体を持つ者として誕生するなどおかしい。イエスが神であるなら、肉体を持って生まれたはずがない。」「霊である神は素晴らしい存在だとして、肉体を持つ人間は汚らわしい。人間を大切にする必要はない。」という主張が出て来ます。聖書が教えていない「霊は優れ、肉は劣っているという思想」をもって聖書を読む問題です。

 この手紙を読みますと、ヨハネはこのような思想に基づく、御父や御子の否定を意識し、注意を促しているように思います。これが、この手紙の特徴の一つです。「霊は優れ、肉は劣っている」ことはない。キリストは肉体を持ってこられ、私たちは肉体ごと救いにあずかっているという主張です。いくつかの箇所を確認したいと思います。

 Ⅰヨハネ1章1節~2節

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。

 

 福音書の冒頭ではイエス様のことを「ことば」として紹介したヨハネ。手紙の冒頭では、「いのちのことば」「永遠のいのち」と呼びます。そしてこの「いのちのことば」を、聞き、目で見て、じっと見つめ、手でさわったと言います。入念な物の言い方。肉体を持って来られた「いのちのことば」、というニュアンスを感じます。

 

 偽預言者、反キリストについて注意する箇所では次のように言います。

 Ⅰヨハネ4章1節~3節

愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。

 

 神からの霊は、「人となって来られたイエス・キリストを告白する」と言われています。わざわざ「人となって来られた」と確認されている。ここにヨハネが意識していた、誤った教えに対する注意が込められているように思います。

 また兄弟を愛するということも、次のような言葉で勧められています。

 Ⅰヨハネ4章20節

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

 

 神を愛するということと信仰の仲間を愛するということは表裏一体。どちらかだけ果たされることはないと確認されます。とても重要な教えですが、ヨハネはわざわざ「目に見える兄弟」と「目に見えない神」を並べています。「霊である神を愛することは出来ても、肉である兄弟を愛する必要がない」などということはない。ここも、「霊は優れ、肉は劣っている」という思想に、そうではないと注意を促している印象があります。

 当時の聖書的ではない思想に対して、言葉の端々まで考えて対応しているヨハネの手紙。これが覚えておきたい特徴の一つとなります。読む際には、この特徴を覚えておきたいと思います。

 

 もう一つ覚えておきたい特徴は、この手紙は同じメッセージを繰り返し語っているというもの。AだからB、BだからC、CだからD、というような論理的な展開ではなく、一つの中心的なメッセージを、表現を変えながら繰り返し語る。基本となるメロディがあり、アレンジが繰り返されまとめられた曲のようなイメージ。読み進めながら、どうも同じことが言われていると感じたら、それで良いと思います。それでは、この手紙が扱っている中心的なメッセージとは何でしょうか。

 Ⅰヨハネ4章7節~11節

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

 

 聖書全体の中でも有名な箇所。多くの人に愛されている箇所。ここに込められたメッセージが、この手紙の中心的なメッセージだと思います。

「神の一人子が私を罪から救うために人として生まれ、命を捨てられた。イエス様の十字架と復活によって、私たちは本当の命、永遠のいのちを頂いた。これほどまでに神様に愛された私。永遠のいのちを頂いた私たちは、互いに愛し合いましょう。」簡単にまとめると、「神様から頂いた愛をもって互いに愛し合う」ことが、永遠のいのちを持つ者の生き方ということです。

 

 この中心的なメッセージと同じことを言っている箇所は、この手紙の中にいくつもあるのですが、どのような感じなのか少しだけ確認しておきますと、例えば

 Ⅰヨハネ1章7節

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

 

 神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩む。この「光」を「愛」として読むと意味がよく分かります。神様の愛の中で生きる者たちは、互いに交わりを持つ。これが、罪からきよめられた者の姿である。まさに「神様から頂いた愛をもって互いに愛し合う」ことが永遠のいのちを持つ者の生き方というメッセージです。

その他、解説も不要で、まさにこのメッセージを語っている箇所というのがいくつも出て来ます。

 Ⅰヨハネ3章16節

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

 Ⅰヨハネ5章1節~2節

イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。

 

あとは是非とも、それぞれでこの手紙を読みながら、「神様から頂いた愛をもって互いに愛し合う」ことが永遠のいのちを持つ者の生き方であるというメッセージを確認して頂きたいと思います。

 以上、ヨハネの手紙第一でした。「全知全能、世界の造り主である神様が、人間として生まれました。それどころか仕える者として、十字架での死にまで従い、私たちを罪から救いだしてくださいました。神の一人子が命がけで成し遂げたかったのは、私が永遠のいのちを持つ者として生きること。神様から頂いた愛をもって互いに愛し合う人生を送ることです。さあ、私たちは互いに愛し合いましょう。」というメッセージを、音楽を奏でるように繰り返し語るヨハネ。

 私たち一同で、ヨハネを通して語られる神の言葉に真正面して、自分が頂いた永遠のいのちがどれ程凄いものなのか、永遠のいのちに生きることが、私にとってどれ程幸いなことなのか味わいつつ、「神様から頂いた愛をもって互いに愛し合う」ことに取り組みたいと思います。