2020年9月27日日曜日

使徒の働き(2)「心を一つにして祈る」使徒1:12~26

 

今から二千年前、紀元30年春5月も下旬に差しかかった頃のことです。ユダヤの都エルサレムにある家の屋上の間に、心を合わせ主イエスに向かい祈りをささげる人々が集まっていました。つい先日天に挙げられたイエスの弟子たちです。この日から遡ること40日前。十字架に死に墓に葬られたイエス・キリストは三日後に復活。以来多くの弟子たあちの前に現れ、共に語り、共に食べ、共に交わり、聖書を開くとご自分が約束の救い主であることを教えてきました。そして先日使徒たちの目の前でその身を雲に包まれ天に挙げられたのです。使徒とは主イエスの直弟子のことです。

こうして主イエスは神の栄光に包まれて天に挙げられましたが、使徒たちは地上に残されました。彼らにはこの地上でなすべき使命があったのです。主イエスはこう言われました。

 

1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 

主イエスの使徒とは言っても、当時のユダヤでは吹けば飛ぶような存在でした。その頃都エルサレムでは、イエスを処刑した者たちが権力を握っていました。多くの人々はイエスの十字架刑に賛成し、イエスを罵りました。イエスを救い主と信じる者はごく一握りにすぎなかったのです。しかも、彼らには大祭司の様な権力もなく、貴族階級の様な富もなく、律法学者の様な学識もありませんでした。彼らはこの世の人々の心を捕えるようものを何一つ持ってはいなかったのです。

「一体どうしたら、私たちがエルサレム、ユダヤとサマリアの全土、地の果てにまで、主イエスの証人となることができるのか。何の力もなき私たちの様な者が、どうしたら主のために立ち上がり、世界に出てゆくことが出来るのか。」使徒たちは戸惑い、不安に包まれます。

しかし、そんな彼らを主イエスは励ましました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」この約束を信じ、主イエスに励まされた者たちが一つ家一つ部屋に集まり、祈りをささげていたと言うのです。

 

1:12~14「そこで、使徒たちはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に歩くことが許される道のりのところにあった。彼らは町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった。この人たちは、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。」

 

主イエスが天に挙げられたオリーブ山は都エルサレムに近くにありました。ルカが「安息日に歩くことが許される道のり」と説明するその距離は約1キロでした。また彼らが泊まっていた屋上の部屋とは十字架前日の夜、使徒たちが主イエスと最後の晩餐をとったあの部屋とも言われます。 

一体そこで彼らは何をしていたのでしょうか。主イエスが生きておられた昔を懐かしんでいたのでしょうか。仲間と再会し、久しぶりの交わりを喜んでいたのでしょうか。そうではありませんでした。彼らは心を合わせて祈っていたのです。

集ったのは使徒が11人と女性の弟子たち。彼女たちは主イエスの葬りの際も、復活の際も重要な役割を果たしました。加えて、イエスの母マリアとイエスの兄弟たちもいたとあります。マリアは十字架刑の際主イエスを見守っていましたから、その時既に我が子を救い主と信じていたのでしょう。しかし、主イエスが地上にある間その兄弟たちが兄を救い主と信じた様子は見られません。むしろ、彼らはイエスの活動を戒めてさえいるのです。けれど、そんな彼らも復活の主イエスとの出会いを通し、主の弟子へと変えられていたのです。

それにしても、弟子たちが心を合わせて祈っていたとは意外です。以前彼らは誰が一番偉いかでよく争っていました。何度も主イエスから「神の国で偉大な者となりたいのなら、小さき者に仕えよ」と戒められる程我の強い人間、お山の大将でした。そんな彼らが、何と心を合わせ一つになっていたというのです。

また、以前の弟子たちは、「あなた方はわたしについてくることはできない。必ず私に躓く」と主イエスに警告されても、「とんでもありません。たとえ他の人は躓いても、私だけはあなたについてゆきます。一緒に死んでみせます」と豪語する。自分の力により頼む者たちの集団でした。そんな彼らが己の弱さを悟り、心から主イエスの言葉に耳を傾け、祈りをささげる祈りの虫と化していたのです。14節「彼らはみな、…いつも心を一つにして祈っていた。」

権力者を恐れて主イエスから離れ去った弟子たち。主イエスとの関係を否定し、世間の目を恐れ身を隠していた弟子たち。忘れたくても忘れられないそんな辛い過去の経験を通し、彼らは霊的に練られ成長を遂げたのです。心を低くしてお互いを受け入れ、一つになり、主イエスから聖霊が与えられる日を待ち望む。私たちが倣うべき教会の姿がここにあるのです。

しかし、弟子たちが取り組んだのは祈りだけではありません。聖書を読み、聖書を調べ、神のみこころに従うことに彼らは取り組みました。主イエスから与えられた使命のために今自分たちは何をすべきなのか。神の言葉に耳を傾けたのです。

 

 1:15~20「そのころ、百二十人ほどの人々が一つになって集まっていたが、ペテロがこれらの兄弟たちの中に立って、こう言った。「兄弟たち。イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした。ユダは私たちの仲間として数えられていて、その務めを割り当てられていました。(このユダは、不義の報酬で地所を手に入れたが、真っ逆さまに落ちて、からだが真っ二つに裂け、はらわたがすべて飛び出してしまった。このことは、エルサレムの全住民に知れ渡り、その地所は彼らの国のことばでアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ばれるようになっていた。)詩篇にはこう書いてあります。『彼の宿営が荒れ果て、そこから住む者が絶えますように。』また、『彼の務めは、ほかの人が取るように。』」

 

この時弟子たちの心には痛みがありました。それは使徒のひとりユダが主イエスを裏切り、仲間から脱落していったことです。イスカリオテと呼ばれたユダは弟子団の財務を担当する有能な弟子でした。主はユダの裏切りを知りながらも最後まで彼を愛しました。しかし、ユダは主イエスを権力者に売り渡してしまったのです。

勿論、他の使徒もわが身を守るために、主イエスのもとから逃げ去り、主イエスとの関係を否定した訳ですから、裏切りという点では彼らも同列同罪でした。しかし、他の使徒は主イエスのもとに帰り、主イエスから罪の赦しの恵みを受け取りましたが、ユダだけは罪を悔いたものの主イエスのもとに帰ることはなく、自ら命を絶ったのです。「何故ユダは主のもとに帰ってこなかったのか。主は赦してくださるのに。」脱落していった仲間のことを思う度、彼らの心は痛んだのです。

なお18節19節の括弧の中には、ユダの死の顛末を知らない読者のための説明文が挿入されています。但し福音書を読むと、実際に土地を買ったのはユダではありません。ユダは自分の行為を悔い、金を祭司長に返したのです。しかし、祭司長は汚れた金を神殿に納めることを良しとせず、これで畑を買い異国人用の墓地としました。その際祭司長がユダの名義で土地を購入したため、当時人々からはそれがユダの土地とみなされていたと考えられます。

ところで、「地の果てまでわたしの証人となる」という主イエスから託された使命を思い巡らす内、彼らは取るに足りない自分たちが新しい神の民として選ばれたことを自覚するようになります。主イエスに集められた自分たちが、やがて聖霊に導かれ、世界に救いの福音を伝える教会として立ち上がる。そんな重要な時が近づいていることを悟ったのです。

そして、ユダに代わる新たな使徒の補充こそ、今なすべきことと彼らは考えました。この時立ち上がったペテロは、神のため重要な務めについていた者が背教した場合悲惨な死を迎えること、その場合代わりに務めを行う者を補充するのが神のみこころであることを旧約の詩篇から解き明かしました。人々の心を教会の使命へと向け、主の復活の証人を立てることを提案したのです。

 

1:2126「ですから、主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」そこで彼らは、バルサバと呼ばれ、別名をユストというヨセフと、マッティアの二人を立てた。そしてこう祈った。「すべての人の心をご存じである主よ。この二人のうち、あなたがお選びになった一人をお示しください。ユダが自分の場所へ行くために離れてしまった、この奉仕の場、使徒職に就くためです。」そして、二人のためにくじを引くと、くじはマッティアに当たったので、彼が十一人の使徒たちの仲間に加えられた。」

 

主イエスと一緒に生活していた者、いつも使徒と行動をともにしていた者の中から一人を主イエスの証人とする。これは誰もが納得できる提案でした。しかし、この条件を踏まえ、使徒にふさわしい人物は誰かを協議した結果、ヨセフとマッティアの二人が残ったのです。彼らは人格においても信仰や賜物においても甲乙つけがたく、人々はひとりを決めることはできなかったのです。

この様な場合どうすべきなのか。人々は箴言の中に、神のみこころに適う人物を選ぶ方法として旧約の昔しばしば採用されていたくじ引きという方法を見出しました。これを用いて「すべての人の心をご存じである主よ。この二人のうち、あなたがお選びになった一人をお示しください」と祈りをささげたのです。

弟子たちは自分たちの思いや判断で使徒を選ぶことが出来るとは考えてはいませんでした。神だけが使徒の務めに就く者を選ぶことが出来ると考えていたのです。ただ神が「この人を」と直接示さない場合、旧約の昔から神の民が採用してきた方法を採用するのがふさわしいと判断したのです。

彼らは主イエスが12使徒を選ぶ際ただひとり山に登り、夜を徹して真剣に祈られたその姿を覚えていました。ペテロもヨハネもヤコブも、あのイスカリオテのユダも、皆主イエスのみこころによって選ばれた使徒だったのです。だからこそ、この時も主イエスがくじを用いて一人を選び、立ててくださると信頼していたのです。彼らは聖書に基づいて取り組むべきことを考え、それを成し遂げるにふさわしい方法も聖書に示されていると考えていたのです。

以上、聖霊を待ち望む教会が何に取り組んだのかを見てきました。最後に改めて、彼らが取り組んだ二つのことについて確認したいのです。

第一に、主イエスに信頼する人々は祈りに取り組みました。主イエスの祝福に期待する彼らは来る日も来る日も心を合わせ祈り続けたのです。

ビル・ハイベルズという人が「忙しすぎて祈れない」という本を書いています。忙しすぎて祈れない。誰もが納得できるタイトルです。多くのキリスト者が祈れない理由として同じことを感じているかもしれません。しかし、私たちが祈れないのは忙しすぎて時間がないからなのでしょうか。

使徒の働きによれば、それは違うようです。この後弟子たちはことあるごとに祈りをささげています。牢に捕らわれた仲間の救出を求めて祈り、病に苦しむ者のために祈り、罪の悔い改めの祈りをささげ、宣教師を遣わす際も祈るのです。忙しくても忙しくなくても、朝であろうと昼であろうと夜であろうと、日々彼らは祈り続けるのです。

それは彼らが自分たちの弱さや欠けをわきまえていたからです。権力なく、経済力なく、正式な学問もない。社会に通用する肩書を持つ者は皆無で、世間からは「無学な者、ガリラヤ人」と呼ばれ、弟子たちは見下されていました。また彼らは悔やんでも悔やみきれない罪の経験から、己の弱さを嫌という程自覚していました。けれど、そんな彼らだからこそ、本気で主イエスに信頼したのです。己を頼ます、ひたすら主イエスの恵みを頼みとし、聖霊の力を祈り求め続けたのです。

私たちが祈れないのは忙しすぎるからではなく、己の弱さや欠けをわきまえることが少ないからではないか。時間がないからではなくて、本当は主イエスを頼らず自分を頼っているからではないか。主イエスを人生の主とせず自分を人生の主としているからではないか。私たちも今一度心を探り、祈りに取り組む決意を新たにしたいのです。

第二に、弟子たちは聖書を読み、聖書を調べました。彼らは聖書全体を神の言葉と信じ、聖書に示された神のみこころに従い、教会を整えてゆこうと考えていたのです。

ウェストミンスター大教理問答第三問にはこうあります。問「神のみ言葉とは何ですか。」答え「旧新約聖書が神の言葉であり、信仰と服従のただ一つの基準です。」私たち長老教会は使徒たちと同じ信仰に立っているのです。私たちは聖書に示された主のみこころに従って教会活動も信仰生活も家庭生活も社会生活も整えてゆくのです。新約だけではなく旧約聖書も含めて聖書全体を調べ、自らの生き方や価値観を主に喜ばれるものへと修正し続けるのです。聖書によって自己中心の人生から神中心の人生へと進みゆくのです。

この世の人々は「祈り等何の力がある、祈るより働け、祈るより稼げだ」と言うでしょう。しかし、私たち教会は祈りに取り組み、すべてのことにおいて神に信頼して歩んでゆくのです。この世の人々は「神の教え等に捕らわれず、思いのままに生きるのが最も人間らしい、幸福な人生だ」と言うでしょう。しかし、私たちキリスト者は仕事も結婚も、夫婦も子育ても、経済も政治も、人生のあらゆる面で神のみ心に従い、神の栄光を表す者としてこの世を歩み続けるのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿