2020年9月20日日曜日

敬老感謝礼拝「喜んで弱さを誇る」Ⅱコリント12:7~10

 一般的に、ある年齢までは誕生日は嬉しく、ある年齢を越えると誕生日は嬉しくないと言われます。皆様は誕生日を嬉しく思うでしょうか、嬉しくないでしょうか。キリスト教信仰を持つ者にとって誕生日を祝うというのは、ここまで神様が守って下さった、恵みを注いで下ったことを確認し記念する意味があります。そのため何歳であっても、喜んで誕生日を祝うことは出来るはず。しかし、ある年齢から歳をとることは成長というより衰退、老化と感じられる。一般的には、成長は嬉しく、老化を喜ぶことは難しいものと言えます。老化する、衰退することは、当たり前のこと、万人に起こること、例外なし。それなのに老化すること、衰退することは、とても嫌なこと、寂しいことに感じられるのです。

 ところで何故私たちは、老いを味わうことは辛いこと、寂しいこと、大変なことだと思うのでしょうか。よく考えてみると、そのように感じるのは不思議なことでもあります。何しろ、老いるということは誰もが知っていること。分かっていること。知らないことが起こるのではないのです。また、ある日突然老人になるのではなく、徐々に変化していくもの。そうなることは分かっていて、徐々に変化しているのにもかかわらず、私たちは歳を重ね、老いを味わうことが辛く、寂しく、大変に感じるのです。何故でしょうか。何故、老いることを嫌がる気持ちが自分のうちにあるのでしょうか。

その最大の理由は、「出来ていたことが出来なくなる」からです。仮に、衰えること、弱くなることがなければ、歳を重ねることは嫌なことではなくなるでしょう。

私たちの人生は、老いを味わうまで、何かが出来るようになることを繰り返します。何も出来ない赤子で生まれてから、出来ることを増やしていく歩みをしているのです。何かが出来るようになることは嬉しいこと。それによって、人から評価されるのも嬉しいこと。そしていつしか、「これが出来る」ことが、自分の存在意義となります。

それが歳を重ねるにつれ、出来たことが出来なくなることを味わいます。それまで築き上げてきたプライドが削ぎ落とされ、自分らしさを失うのではないかという恐怖を味わうことになる。出来ないことが増えれば増える程、自分は必要とされていない。自分は迷惑をかけてばかり。何のために生きているのか分からない思いが強くなる。出来ないことが増えるにつれて、辛さ、寂しさが増すことになる。出来なくなる自分、弱くなる自分を受け入れることは大変なことです。

 

 今日は敬老感謝礼拝です。多くの人が直面する老いの辛さ、厳しさに対して、私たちはどのように向き合えば良いのか。出来ることが出来なくなる、力が失われることに対して、どのように備えたら良いのか。歳を重ねること、出来ることが出来なくなることに対して聖書はどのようなことを教えているのか。皆様とともに考えたいと思います。

 多くの人が、歳をとることを嫌がり、若さを保ちたいと願う世にあって、聖書は歳を重ねることに、異なる視点を与えてくれます。

いくつも例を挙げることが出来ますが、たとえば

箴言16章31節

「白髪は栄えの冠。それは正義の道に見出される。」

 

 また年齢を重ねた人生の先輩を敬うように、このようにも教えていました。

 レビ記19章32節

「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」

 

 歳を重ねることがいかに良いことか。極めつけの聖句はこれだと思います。

 Ⅱコリント4章16節

「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」

 ここに「外なる人」と「内なる人」という言葉が出てきます。「外なる人」とは私たちの体のこと。「内なる人」は、「霊」とか「人格」という意味ですが、ここでは特に、この世界を造られた神様の前での自分自身という意味です。

 「外なる人」が歳を重ね傷つき、弱まり、苦しむ時。それまで「出来ていたことが出来なくなる」時。その時に何が起こるのかと言えば、「内なる人が新たにされていく。」より神様を知り、神様の前での自分自身を知り、より神様に近づく者とされるというのです。

 歳を重ね、体が弱まり、「出来ていたことが出来なくなる」ことを私たちは恐れ、辛く思います。「外なる人」が衰えることを、とても苦しく思う。しかし、聖書はその時こそ重要な時であること。その時こそ、取り組むべきことがあること。自分自身に向き合い、神様に近づく良い時であると教えています。

 考えてみますと、そもそも私たちはこの世界を造り、支配されている神様の恵みによって生きているもの。自分の体も、心も、自分で用意したものではなく、自分の力で命を支えているのでもない。それにもかかわらず、出来ることが増えていく人生を送るにつれ、知らず知らずのうちに、自分の力で生きているかのように思うことが増えてしまう。生かされていると思うよりも、私の力で生きていると思うようになる。神様の恵みに目を留めるよりも、自分の力や功績に目を留めるようになることが多いのです。

 そのような私たちが歳を重ね、肉体的にも社会的にも弱くなり、「出来ていたことが出来なくなる」中で、もう一度自分を見つめ直すことになります。自分の力で生きていると思うよりも、神様に生かされていることを味わうようになる。自分の力に目を留めるよりも、神様の恵みに目を留める歩みとなる。毎日の小さなことでも神様に祈りながらの歩みとなる。「外なる人」が衰えるにつれて、「内なる人」が新たにされる。この世界を造り支配されている神様を知る者にとって、「出来ていたことが出来なくなる」ことは、実に重要な歩みを送っているのです。

 この「弱くなることを通して神様を信頼することを学ぶ」「弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となる」というテーマは、聖書の様々な箇所で確認されるものです。

 

 士師記に記されたギデオンの故事(士師記7章)。ミディアン人との戦いに三万二千人の軍隊を備えたギデオンに対して、神様は兵が多すぎると言われ、人数を減らすように命じられます。言われる通りに兵を減らした結果、最後は三百人に。結局、ギデオンは当初の百分の一以下の兵で戦いに挑むことになりました。何故、兵を減らすように言われたのか。神様は次のように告げていました。

 士師記7章2節

「主はギデオンに言われた。「あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、わたしはミディアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ。」」

 

 サムエル記に記されたダビデとゴリヤテの故事(Ⅰサムエル記17章)。当時、有名な戦士であったゴリヤテと一騎打ちをするにあたり、少年ダビデは羊飼いの姿で臨みました。ダビデの姿を見たゴリヤテは「おれは犬か。杖を持って向かってくるとは。」と嘲笑し呪ったと言います。それもそのはず、盾持ちを従えた歴戦の勇者、巨人ゴリヤテの一騎打ちに、羊飼いの少年が応じた。考えられない暴挙。しかしダビデには、羊飼いの姿で戦いに臨む意図がありました。

 Ⅰサムエル記17章45節~47節

「ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう。今日、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを殺しておまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地の獣に与えてやる。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」」

 神様が勝たせて下さるなら、ギデオンの率いた兵は三百人でも三万二千人でも、どちらでもミディアン勝つことが出来たと思います。羊飼いの少年ダビデでなく、イスラエル軍の名の知れた戦士でも、ゴリヤテで勝つことが出来たと思います。しかし敢えて、弱さを通して神様を信頼することの大切さを示す機会とされることがある。「弱くなることを通して神様を信頼することを学ぶ」「弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となる」という出来事は、聖書の様々な箇所で確認できます。

 あの「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされる」と告げたパウロ自身も、弱さの中で神様の恵みを経験した人でした。

 Ⅱコリント12章7節~10節

「その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

 

 パウロは肉体に一つのとげが与えられたと言います。何かしら慢性的な病気ではないかと考えられています。とげと言うのですがから、痛みが伴ったのでしょう。サタンの使いと表現していることから、パウロにとってよほど辛く、また宣教をする際に邪魔に思えることなのでしょう。これがなければ、ますます神様に仕え、人々に仕えることが出来る。これがなければ、どれほど良いか。この「とげ」とも「サタンの使い」ともいわれるものを、去らせてくださいと三度願ったと言います。しかし、取り去られなかった。それどころか、その「とげ」が有益に用いられていると教えられたと告白します。

 この短い告白の中に、パウロの複雑な思いが見てとれます。最初から達観していて、弱さを受け入れていたわけではない。当初は弱さは取り除かれるように願っていたこと。しかし考えてみると、本当に取り除かれたら、自分の力に頼る、高慢になる危険性があったこと。今や弱さの中で神様を信頼することを学んだこと、弱さの中で神様の恵みを味わう者とされたことを、大いに喜び誇りとする。このような、葛藤を経験した結果、喜んで弱さを誇る信仰へ導かれたパウロの姿に励ましを受けます。

 

この世界を造られた神様抜きに考えるならば、弱くなるのは恐ろしいこと。「出来ていたことが出来なくなる」ことは辛いこと。弱さを誇るなど、とても出来ない。しかし、この世界を造られた神様を前にした時、弱くなることに重要な意味があることを見出すのです。

 「弱くなることを通して神様を信頼することを学ぶことになる」。「弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となる」。これが真実だとすれば(私は真実だと思っているのですが)、それはつまり、歳を重ね、出来ることが少なくなっても、取り組むべきことがあるということです。非常に弱くなり、助けがないと生きることが出来なくなっても、成長があり、新しい世界が広がっているということです。老いの中でこそ、信仰の真髄を見出す歩みがあるのです。

 

 現代は効率主義、能力主義の時代と言われます。素早く出来ること、能力があることが重要。何をなしたのかということが大事とする世にあって、聖書は、その人がどのようなことをしたのかよりも、神様がその人に何をなされたのかに注目するように教えます。

 私がすることではなく、神様のなさることに思いを向けていくこと。何か出来るから存在意義があるのではない。何か出来るから愛されているのでもない。ただただ、私を愛そうとする方がいるから愛されていると気づくこと。これは信仰生活の中で最も大切な姿勢と言うことが出来ます。

 エペソ2章8節~9節

「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

 

 「何をするか」ではなく、「何をして頂いたのか」。これこそ、キリスト教であり、恵みの宗教。行いによらず、恵みによって救われている。行いによらず、恵みによって愛されている。行いによらず、恵みによって生かされている。これが、どれほど重要な福音なのか。

キリストを信じるとは、この福音を信じること。クリスチャンとは、この福音を味わうように召された者。今日の敬老感謝礼拝を一つの契機として、私たち皆で生涯をかけて、「弱くなることを通して神様を信頼することを学ぶことになる」「弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となる」ことを経験していきたいと思います。

 

最後にいくつかのお勧めとお願いをして終わりにしたいと思います。

 まずは敬老の方へのお勧めとお願いです。

歳を重ね、老いることは大変なこと、辛いことだと思います。しかし、弱くなる歩みをする中でも、絶望することはない、むしろその時にこそ、取り組むべきことがあると聖書は言います。「内なる人が新たにされる生き方」。「弱くなることを通して神様を信頼することを学ぶこと」。「弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となること」。「行いによらず、恵みによる信仰生活」。このような、喜んで弱さを誇る歩みをするように聖書は教えていました。

人生の先輩、信仰者の先輩へのお願いは、この「喜んで弱さを誇る」歩みに取り組んで頂きたいということです。外なる人が弱くなることを嘆きながらも、内なる人が新たにされる喜びを教えて頂きたいのです。キリストを信じる者がどのように老いて、どのように天に召されていくのか。その中で、内なる人が新たにされる生き方とは、具体的にどのようなものなのか。天に召される、その時まで、生きる意味があり、取り組みがあることを、その生き様で教えて頂きたいのです。

 

まだ敬老の年になっていない方に申し上げます。私たちの教会に、人生の先輩が来られていることを神様に感謝しましょう。その人生に敬意を払いましょう。どのような人生を歩まれたのか、歩まれているのか、耳を傾け注目しましょう。当然のことながら、私たちは皆老います。その時、人生の先輩の、教会の先輩の生き様をお手本にするのです。

 そして、この信仰の先輩方に続く歩みを私たちもなし、やがては私たちの子、孫、またその次の世代へと信仰を継承していく。キリストがもう一度来られるまで、喜んで弱さを誇る信仰を、この地で繰り広げていきたいと思います。

 

 モーセの最晩年。遺言説教の一節。イスラエルの民に、神様がして下さったことを忘れないように。また、そのことを子どもや孫に伝えるようにと語った言葉を確認して説教を閉じます。

 申命記4章9節

「ただ、あなたはよく気をつけ、十分に用心し、あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。そしてそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。」

0 件のコメント:

コメントを投稿