2020年9月13日日曜日

使徒の働き(1)「聖霊が臨む時」使徒1:1~11

  今日から私が礼拝説教を担当する際、使徒の働きを読み進めてゆくことにします。新約聖書の第五巻目にあたる使徒の働き。ある註解者はこの書について「熟練した語り手によって語られた、興味の尽きないストーリー」と評しています。

 確かに読む者の興味を掻き立てるという点において、使徒の働きは聖書の中でも群を抜くと言えるかもしれません。神の教えに忠実で、愛に富む交わりを展開する麗しい教会の姿が描かれているかと思えば、偽善や差別、仲間割れなど深刻な問題に悩む、そんな「罪赦された罪人の集まり」としての教会の姿も描かれているのです。

 また、この書には様々な人物が登場します。王、貴族、祭司、役人など所謂エリートが登場するかと思えば、商人も職人も、自由人も奴隷も、男も女も、富める者も貧しき者も、知識人も無学な者も、ユダヤ人もローマ人、ギリシャ人も登場するのです。ある者は福音を受け入れ、ある者は拒み、ある者は傍観し、ある者は迫害する。キリスト教の福音に対する対応も十人十色なのです。

 何よりも「使徒の働き」というタイトルが示すように、手に汗握る使徒たちの活躍を見逃すことはできません。ある時は権力者の脅しに屈せず、ある時は死を覚悟してなされた彼らの活躍に私たちは心打たれるのです。さらに、彼らの行った説教が多く残されているのも貴重です。人々の罪を鋭く示し悔い改めを迫るペテロの説教。同胞ユダヤ人のため旧約聖書を開き、イエスが約束の救い主であることを教えるパウロの説教。文芸の都アテネで行われた同じくパウロによる理知的な説教。同じくパウロが愛する兄弟姉妹に対して語る惜別の情にあふれる説教。いずれも必読の名説教と言えます。

 果たして、神はルカによって書かれた興味尽きることのない物語、使徒の働きを通して、今の私たちにどんなメッセージを語っておられるのか。このことを心にとめながら読み進めてゆきたいのです。

 

 1:1、2「テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。」

 

 前の書でとある通り、使徒の働きはルカが書いた前の書すなわちルカの福音書の続編です。テオフィロという人物の名はルカの福音書の冒頭にも記されていました。但し、ここでは「テオフィロ様」とありますが、福音書では丁寧な敬語とともに「尊敬するテオフィロ様(殿)」と呼ばれています。このことから、ルカが福音書を書いた時はまだ求道者であったテオフィロが、この書が書かれた時は既にクリスチャンになっていたとも考えられます。そうだとすれば、ルカにとっても私たちにとっても嬉しい事です。

 そして、この序文にはルカが使徒の働きを書いた理由が示されてもいます。「私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。」とある通り、ルカが福音書に書いたのはイエスの行いの始め、教えの始め、主イエスの働きの前半でした。ですから、使徒の働きにおいて、ルカは主イエスの働きの後半について書こうとしてるのです。

 そうであるなら、既にこの時天に挙げられた主イエスがどの様にしてその働きを継続しておられるというのでしょうか。主イエスは地上の教会を用い、聖霊によって今も働き続けている。そうルカは語るのです。天に挙げられるまでの期間、主イエスが使徒たちに何を行い、何を教えたのか。ルカは次のように説明しています。

 

1:3~8「イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 

第一に、主イエスは数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きておられることを使徒たちに示しました。何故、主イエスは繰り返しご自身の復活の体を弟子たちに示したのでしょうか。彼らとともに歩き、彼らとともに食事をし、彼らに親しく語りかけたのでしょうか。それは彼らが罪の赦しの恵みを必要としていたからです。

主イエスがユダヤ教の大祭司によって捕らえられた時、弟子たちは自分たちも逮捕されることを恐れ、逃げ去りました。大祭司の庭まで跡を追ったペテロも、「あなたもあのイエスの弟子なのでしょう」と問われるや「私はあの人のことなど知らない。何の関係もない」と誓い、主イエスとの関係を否定しました。

そんな罪に悩む弟子たちに、主イエスは「わたしが十字架で罪の贖いを成し遂げた。あなた方の罪は赦されている。」と語られたのです。「もう一度わたしの愛に帰り、わたしに従いなさい」と彼らを励ましたのです。

第二に、主イエスは神の国のことを弟子たちに語りました。神の国とは神の恵みの支配のことです。悔やんでも悔やみきれない罪を犯した彼らの人生は罪に支配されていました。神のさばきと人々への恐れに支配されていました。しかし、主イエスは彼らが罪の支配から解放されていることを告げたのです。もはや神のさばきを恐れる必要がないことを告げたのです。そして、罪と恐れに支配される者から神の恵みに支配される者へ。主イエスによって人生を変えられたと確信した彼らは主の弟子として立ち上がることが出来たのです。

第三に、主イエスは「あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです」と語り、使徒たちの心を聖霊に向けました。しかし、この言葉を耳にした彼らの応答は「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」というもの。残念ながら、彼らはいまだイスラエル民族中心の神の国を夢見る信仰から抜け出すことが出来ずにいたのです。

けれども、主イエスは使徒たちの未熟な信仰を忍耐されました。そして、待ち望むべき聖霊と地上で果たすべき使命に彼らの心を向けようとされるのです。

 

1:7,8「イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 

8節はルカによる大宣教命令であり、使徒の働きのテーマを示すことばでもあります。主イエスの復活の50日後、エルサレムに人々が集まり収穫祭が祝われる時、この約束は実現するのです。その日エルサレムに誕生したキリストの教会が、やがてユダヤとサマリヤの全土に福音を伝え、教会が建てられる。さらに地の果てにまで福音は広がり、そこにもまた教会が建てられてゆく。主イエスはこう宣言し、使徒たちの心をその使命へと向けたのです。

しかし、こんな壮大な、こんな途方もない使命を、どうやって彼らが遂行できるというのでしょうか。キリストの使徒と言っても、ユダヤの国では何の立場も力もありませんでした。彼らは大祭司の様な権力者ではなく、パリサイ人の様に社会で尊敬される存在でもなく、律法学者の様に由緒正しいユダヤ教の学派に属してもいませんでした。

彼らの多くは漁師や収税人と言った社会の底辺で暮らす無名の存在だったのです。彼らには何の社会的立場もなければ、正式な学問をおさめた者も、富める者も存在しなかったのです。その上、ついこの間まで悔やんでも悔やみきれない罪を犯して後悔を繰り返し、自分に失望していた者だったのです。人々を恐れ、社会の片隅で隠れるようにして暮らしていた者たちだったのです。

しかし、「聖霊が臨む時、そんなあなたがたの働きを通して、必ずエルサレムに教会が生まれ、教会を通して福音が地の果てにまで宣べ伝えられる」と、主イエスは約束されたのです。そして、この時から今に至る迄、主イエスの働きは教会を通し、聖霊によって継続しているのです。キリストの教会はたとえ聖書を取り去られても、迫害されても、殉教者が生まれても、社会からのけ者にされても、主イエスの手足となって福音を伝え、世界の各地に教会を建て続けて来たのです。

そんな代々のキリスト者たちの歩みを支えてきたものは、いったい何だったのでしょうか。この直後主イエスの昇天を目の当たりにした使徒たちに、み使いが語ります。

 

1:9~11「こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」

 

主イエスは雲に包まれて天に挙げられました。聖書において雲は神の臨在と栄光を示すものです。あのモーセが有名な十戒の板を授かった時、シナイ山の頂には神の臨在を示す密雲がかかっていました。ソロモン王が神殿工事を終え奉献式を行った際、神の栄光の表れである雲が神殿に満ちたとあります。その雲に包まれてイエスが天に昇られたのですから、使徒たちは改めて主イエスが神であることを確認することが出来たのです。天にいます主イエスが世界のすべてを治め、教会を通してこの世界を神の国へと変えてゆく。そんな時代になったのを確信することができたのです。

そして、この時み使いが告げた言葉がいつまでも彼らの心に刻まれたに違いありません。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」

果たして、皆様は主イエスの再臨を待ち望んでいるでしょうか。再臨の主イエスを慕う思いはあるでしょうか。

私たちの宣教の働きには順調な時もあります。他方、いくら福音の種をまいても一向に芽が出てこない、実を結ばない時もあるのです。聖霊に動かされていると感じる時もあれば、心が不安や恐れ、無力感でふさがれてしまう事もあるのです。

しかし、私たちは主イエスと離れ離れの状態で、心細く地上で宣教の働きを行う者ではありません。今や天に座し、この世界を治める栄光の主イエスとともに、宣教の働きを行う者なのです。私たちの心細さ、恐れ、不安をよく理解してくださる主イエスが、私たちの同労者なのです。世の終わりまで共にいてくださるのです。罪を犯し、ふがいない現実に直面し、落胆する事があっても、主イエスによる罪の赦しと慰めを信じ、再臨を信じて、代々の教会は歩んで来たのです。

1956年のこと、私たち日本長老教会の前身日本基督長老教会が設立されました。牧師8名、長老3名、教会は東京の済美が丘教会と松の木教会、そして四日市教会の三つ、伝道所が関東方面に7つという心細くなるような状況でのスタートです。当時を振り返って、小畑進先生はこう書いています。「今ここに生まれいずる教会は、まことに小さきものである。それは芥子種一粒にもひとしいものである。しかし、我らがこれを正しく生命的に育てるならば、主は必ずやこれを用い、空の鳥をも宿す教会となしたもうことを信じる。」この設立趣意書は当時の悲壮な心を物語るもので、今日読んでも胸に迫ります。それが中部中会を生み、大会を組織し、日本福音長老教会と一つとなり、西武中会を生み出そうとは、夢にも思っていませんでした。」

初々しい決意と不安。恐れと期待。初代教会の使徒たちの心境もさぞやと思われることばです。そして今も日本の教会が置かれた状況はそう変わらないと思えます。キリスト教会はどこも小世帯、統計では日本のクリスチャン人口は0.45%とされますが、実際教会に集うキリスト者は人口0.25%程とも言われます。教団教派を問わず、教勢減少、高齢化、子どもや青年が来ない、牧師不足などの問題を抱えているのです。

さらに、ポストモダンの波は日本にも及び、唯一の神など存在しない、神は死んだという考え方が浸透し、今や常識となっています。人々が求めてやまないのは正義よりも経済的豊かさ、真理よりも個人の自由です。この世界を創造した神がおられ、神が聖書において罪からの救いの道を示していると説くと、罪とか救いとか唯一の神などそんな教えは時代遅れと揶揄される時代です。

バブル崩壊を経験しても、大震災に苦しめられても、新型コロナに直面しても、あいも変わらず人々は神に心を向けようとはしません。むしろてじゅ、経済的豊かさを幸福と考え、神の教えよりも科学に信頼し、神の警告を無視する人々の勢いはますます盛んなのです。

しかし、たとえそうであっても、主イエスは私たちと共におられるのです。たとえ教会が芥子種の様に小さくとも、主イエスが聖霊によって教会を養い、育ててくださるのです。たとえ教会に力なく、富なく、社会的立場もないとしても、主イエスはそんな私たちを尊び、そんな私たちを用い、私たちと共に働き続けるのを喜びとしておられるのです。この四日市キリスト教会は主イエスの再臨の日来る迄、この地域、この日本、この世界で福音宣教の働きに取り組み続けるの

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