2020年9月6日日曜日

一書説教(62)「ヨハネの手紙第一~これほどまでに愛された~」Ⅰヨハネ4:7~11

  一般的に、私たちは人から何かを伝えられる時「誰から伝えられるのか」に大きな影響を受けます。自分の大切な人、尊敬する人から言われたことは、どのような内容でも受け止めやすく、嫌いな人、苦手な人から言われたことは、どのような内容でも受け止め難くなります。先生を好きになると苦手な教科も好きになり、先生を嫌いになると得意な教科も出来なくなることがあります。良くも悪くも、何かを伝える時、伝えられる時、関係性が物を言います。

 それとは別に、自分の好みの表現方法というものもあります。論理的に説明をされる方が理解しやすい人。感情に訴えかける表現があると納得しやすい人。明瞭簡潔の方が好みの人。美しい表現が多くある方が良い人。同じ人から同じ内容を聞くにしても、理解しやすく納得しやすい自分の好みの表現方法が、私たちそれぞれにあると思います。皆様はどのような表現方法が好みでしょうか。

 聖書はこの世界を造られた神様の言葉。しかしそれは、聖書が天から降ってきたという意味ではありません。神様が選んだ者を特別に守り、誤りなき神の言葉として記したもの、という意味です。つまり聖書は誤りなき神の言葉であると同時に、人間の著者の特徴もあらわれた言葉です。そして有り難いことに、聖書の著者として選ばれたのは一人ではなく、約四十人いました。もし聖書の著者として選ばれたのが一人であったとすると、その人の表現方法が好みに合わない人は、聖書を読むことが大変になっていたと思います。しかし、実際には約四十人にもなる著者が、それぞれの特徴ある文体で聖書を記している。多くの著者がいること、それぞれの書に様々な特色があるということに、より多くの人が喜んで聖書を読むことが出来るようにとの神様の配慮を感じます。皆様は、聖書の著者のうち誰の表現方法が自分の好みに合っているでしょうか。

 

 断続的に取り組んできました一書説教、今日は通算六十二回目、いよいよゴールが近づいてきました。残りの五書のうち、四書は使徒ヨハネが記したもの。一書説教の最後はヨハネ文書に向き合うことになります。

 「主は恵み深い」という意味のヨハネ。聖書には多くのヨハネが登場しますが、聖書記者のヨハネは十二弟子に選ばれたヨハネです。ガリラヤ湖の漁師で、特別な教育を受けたわけではない無学な普通の人(使徒4章13節)。気性が荒くイエス様より雷の子とあだ名をつけられた人。しかしキリストの弟子の歩みをする中で、その品性と知性は練りに練られ聖書記者の働きもなし、福音書、手紙三つ、黙示録と計五つの書を残すことになりました。

 記された文書から私がイメージするヨハネは詩人です。ヨハネ文書は、単語や文法としては比較的簡単な言葉で記されているものの、その意味するところは深遠。「光」とか「いのち」という言葉がよく出て来ます。イエス様の誕生について、マタイやルカは、「ヨセフがどうした」、「マリアがどうした」と出来事を記したのに対して、ヨハネは「光が来た」と詩的な表現でまとめていました。理路整然と論理的にまとめられたというより、修辞的に美しくまとめられた文という印象。残りの五分の四、このようなヨハネ文書に向き合います。

一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。

 

 新約聖書に収録された手紙の多くは、冒頭に差出人と宛先が記されていました。

ヤコブは「神と主イエス・キリストのしもべ」と顔を見せ、ペテロは自分のことを「イエス・キリストのしもべであり使徒」と挨拶し、パウロが最も多く使ったのは「使徒」という名乗りです。ところが、この手紙には差出人の名前が記されていません。そのため厳密に言えば、聖書本文からは誰が書いたか分からない、著者不明の手紙です。とはいえ内容、文体、多くの伝承から、使徒ヨハネが書いたものと十分に考えることが出来ます。もとより名乗らないというのも、ヨハネらしいものでした。ヨハネの福音書を読んだ時、皆様は気付いたでしょうか。あの福音書で、ヨハネは自分の名前は一回も出さずに記録していました。己の名前すら隠して、神様の素晴らしさを示す。ヨハネらしい美徳が、差出人が記されていない点にも現れているように思います。

 差出人が記されていないだけではなく、宛先も明確には記されていません。「愛する者たち」「子どもたち」「幼子たち」という呼びかけが繰り返しされるため、ヨハネが愛してやまない人たち、キリストを伝え牧会した人たちに宛てたものと考えられます。(伝承ではヨハネはエペソで牧会していたと言われ、そのためこの手紙はエペソの教会員に宛てたものと考える人も多くいます。そうなのかもしれません。)

 使徒ヨハネから、最愛の者たちへの手紙。どのような目的で記されたのか。手紙の中に記されているのですが、ヨハネの福音書と比べると分かりやすいと思います。福音書を書いた目的について、ヨハネは次のように記していました。

 ヨハネ20章31節

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 

 イエスの誕生から十字架での死と復活後までを記した福音書。書いた目的は、「この書を読む者が、イエスが神の子であり救い主であることを信じいのちを得るため」とまとめられています。それではヨハネの手紙第一はどのような目的で記されたのか。

 Ⅰヨハネ5章13節

神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。

 

 この手紙は、イエスが神の子キリストであることを信じている者、永遠のいのちを持っている者に宛てたもの。福音書を読み終えた後に読むものとして記されていることが分かります。読む者をして、キリストを信じることで頂いた永遠のいのちがどのようなものなのか、永遠のいのちを持って生きるとはどのようなことか、分かるように。つまり、キリスト者が永遠のいのちに生きることを願って記された書と言えます。

 私たちも、永遠のいのちとはどのようなものか、永遠のいのちを持って生きるとはどのようなことなのか。この手紙を通して、よく考え、よく理解し、永遠のいのちを持つ者として生きていきたいと思います。

 

 手紙の内容ですが二つの特徴を挙げて、読む備えにしたいと思います。

 「使徒」と呼ばれる弟子たちが晩年に記した手紙には、共通して記されている注意事項があります。それは偽教師、反キリストに気を付けるように、誤った教えに気を付けるようにというもの。パウロが忠告し、ペテロも注意を促していましたが、ヨハネも気を付けるように言います。

 Ⅰヨハネ2章18節、22節

幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。…偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです。

 

 ヨハネが気を付けるように言う反キリストは、イエスがキリストであることを否定する者、御父と御子を否定する者のこと。それでは、「反キリスト」と言われる者たちは、どのように否定したのでしょうか。正面から、「イエスは救い主ではない」、「父なる神も子なる神もいない」と主張するのであれば、気を付けるように言われるほどのこともない。信仰者からすれば、異なる世界観、異なる信仰の人というだけです。そのため、反キリストによる「御父や御子の否定」というのは、それと分かりづらいものとして主張されていたと思われます。

 当時の一般的な思想の流行に、霊的なものは優れており、肉的なものは劣っているという考え方がありました。(グノーシス主義と言われます。)霊は優れ、肉は劣っている。この思想に基づいて聖書を読むと、いくつもの部分で問題が起こります。「霊である神が、肉体を持つ者として誕生するなどおかしい。イエスが神であるなら、肉体を持って生まれたはずがない。」「霊である神は素晴らしい存在だとして、肉体を持つ人間は汚らわしい。人間を大切にする必要はない。」という主張が出て来ます。聖書が教えていない「霊は優れ、肉は劣っているという思想」をもって聖書を読む問題です。

 この手紙を読みますと、ヨハネはこのような思想に基づく、御父や御子の否定を意識し、注意を促しているように思います。これが、この手紙の特徴の一つです。「霊は優れ、肉は劣っている」ことはない。キリストは肉体を持ってこられ、私たちは肉体ごと救いにあずかっているという主張です。いくつかの箇所を確認したいと思います。

 Ⅰヨハネ1章1節~2節

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。

 

 福音書の冒頭ではイエス様のことを「ことば」として紹介したヨハネ。手紙の冒頭では、「いのちのことば」「永遠のいのち」と呼びます。そしてこの「いのちのことば」を、聞き、目で見て、じっと見つめ、手でさわったと言います。入念な物の言い方。肉体を持って来られた「いのちのことば」、というニュアンスを感じます。

 

 偽預言者、反キリストについて注意する箇所では次のように言います。

 Ⅰヨハネ4章1節~3節

愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。

 

 神からの霊は、「人となって来られたイエス・キリストを告白する」と言われています。わざわざ「人となって来られた」と確認されている。ここにヨハネが意識していた、誤った教えに対する注意が込められているように思います。

 また兄弟を愛するということも、次のような言葉で勧められています。

 Ⅰヨハネ4章20節

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

 

 神を愛するということと信仰の仲間を愛するということは表裏一体。どちらかだけ果たされることはないと確認されます。とても重要な教えですが、ヨハネはわざわざ「目に見える兄弟」と「目に見えない神」を並べています。「霊である神を愛することは出来ても、肉である兄弟を愛する必要がない」などということはない。ここも、「霊は優れ、肉は劣っている」という思想に、そうではないと注意を促している印象があります。

 当時の聖書的ではない思想に対して、言葉の端々まで考えて対応しているヨハネの手紙。これが覚えておきたい特徴の一つとなります。読む際には、この特徴を覚えておきたいと思います。

 

 もう一つ覚えておきたい特徴は、この手紙は同じメッセージを繰り返し語っているというもの。AだからB、BだからC、CだからD、というような論理的な展開ではなく、一つの中心的なメッセージを、表現を変えながら繰り返し語る。基本となるメロディがあり、アレンジが繰り返されまとめられた曲のようなイメージ。読み進めながら、どうも同じことが言われていると感じたら、それで良いと思います。それでは、この手紙が扱っている中心的なメッセージとは何でしょうか。

 Ⅰヨハネ4章7節~11節

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

 

 聖書全体の中でも有名な箇所。多くの人に愛されている箇所。ここに込められたメッセージが、この手紙の中心的なメッセージだと思います。

「神の一人子が私を罪から救うために人として生まれ、命を捨てられた。イエス様の十字架と復活によって、私たちは本当の命、永遠のいのちを頂いた。これほどまでに神様に愛された私。永遠のいのちを頂いた私たちは、互いに愛し合いましょう。」簡単にまとめると、「神様から頂いた愛をもって互いに愛し合う」ことが、永遠のいのちを持つ者の生き方ということです。

 

 この中心的なメッセージと同じことを言っている箇所は、この手紙の中にいくつもあるのですが、どのような感じなのか少しだけ確認しておきますと、例えば

 Ⅰヨハネ1章7節

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

 

 神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩む。この「光」を「愛」として読むと意味がよく分かります。神様の愛の中で生きる者たちは、互いに交わりを持つ。これが、罪からきよめられた者の姿である。まさに「神様から頂いた愛をもって互いに愛し合う」ことが永遠のいのちを持つ者の生き方というメッセージです。

その他、解説も不要で、まさにこのメッセージを語っている箇所というのがいくつも出て来ます。

 Ⅰヨハネ3章16節

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

 Ⅰヨハネ5章1節~2節

イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。

 

あとは是非とも、それぞれでこの手紙を読みながら、「神様から頂いた愛をもって互いに愛し合う」ことが永遠のいのちを持つ者の生き方であるというメッセージを確認して頂きたいと思います。

 以上、ヨハネの手紙第一でした。「全知全能、世界の造り主である神様が、人間として生まれました。それどころか仕える者として、十字架での死にまで従い、私たちを罪から救いだしてくださいました。神の一人子が命がけで成し遂げたかったのは、私が永遠のいのちを持つ者として生きること。神様から頂いた愛をもって互いに愛し合う人生を送ることです。さあ、私たちは互いに愛し合いましょう。」というメッセージを、音楽を奏でるように繰り返し語るヨハネ。

 私たち一同で、ヨハネを通して語られる神の言葉に真正面して、自分が頂いた永遠のいのちがどれ程凄いものなのか、永遠のいのちに生きることが、私にとってどれ程幸いなことなのか味わいつつ、「神様から頂いた愛をもって互いに愛し合う」ことに取り組みたいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿