2021年2月28日日曜日

「神の恵み ~恵みによって前進するために~」ローマ4:1~5,エペソ2:4~10

.序  〜恵み〜

皆様は聖書の中での「恵み」という言葉にどんな印象を抱かれますか?(日本でも英語圏でもこの言葉は好んで人名・教会名に使われますね) 私が20年前救われたアメリカ長老教会の宣教団体、そして彼ら宣教師によって建てられた教会の多くはこの「神の恵み」を最重要視していました。現在、福田真理先生らが行なっているアメリカ長老教会リディーマー教会と提携している東京都心伝道でも「福音」という言葉で「神の恵み」が重要視されているのを昨年の学びで再確認しました。「恵み」というと、例えば、おじいちゃんが孫可愛さで何でも許してしまう様な愛情、悪い所には目をつぶる様な寛容さなどイメージは様々でしょう。

「神の恵み」を理解するとは、端的には、私たちの内側の率直で内省深い罪理解と、そこに対してまず神の側が豊かなあわれみを示された事への理解です。「救い」はもちろんただではありません。神の御子の犠牲という莫大な代価が支払われています。とはいえ私たちはそれを信仰によりただで受ける事が出来ます。もう一つ忘れてはならないのは「恵み」の教育的側面です。本当に愛情深い親が、犠牲を惜しまない愛を持ちつつも子供を時に厳しくしつけ育てるように、人間の本質的な内側からの成長には「愛情」が不可欠ですが、それは全てを甘やかす愛ではありません。とはいえ、そういった親の愛の大きな特徴は惜しみなさ寛大さです。「神の恵み」とはこれらの性質を豊かに表すものです。

 

 

.恵みという言葉

エペソ2:4~10のみことばを読みましょう。

 

2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

6神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

7それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。

8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

10実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」

 

「恵み」という言葉は神の救いの中心的な言葉。その特徴的意味は優れた立場にある者からのそうでない者(相応しくない者)に対する無条件の愛情や好意です。普通は誰でも自分より優れた者には敬意を持ち、自分より劣った者・弱い者をわざわざ特別大切にするという事は稀(まれ)です。立派な者に与えられる称賛はむしろ当然の「報酬」であり、「恵み」とは言いません。私たちが一流のスポーツ選手、立派な業績を残した人、社会に多大に貢献した人などを誉めるのは彼らに相応しい称賛。一方、「恵み」とは人間 の一方的なもの。神から離れ罪という大きな問題を持っている私たちに与えられる神の無条件の愛です。神様は創造主であり完全に聖いお方。本来は、私たちの方こそ神様を誉め称えるべきです。ところが逆に神様は罪人である私たちを愛されます。誰であっても有名人がわざわざ自分の所に来て自分を名指しで誉めたら大変驚くでしょう。オリンピックで金メダルを取った選手、国民栄誉賞に輝いた人、イチロー元選手、また紅白歌合戦に出場したり、動画再生回数1位を獲得したアーティスト等からあなた宛に感謝状などが来たら、若い人ならばツイッター・インスタのフォローが付いたりコメントが来たら思わず家族や知り合いに話したくなる事ではないですか? そして、世界の王である神様は、どんな偉人・英雄より遥かに偉大な誉め称えられるべきお方。その神様からの一方的な好意を聖書では「恵み」と表現します。相応しくない者に与えられるという大きな特徴があります。私たち人間の愛情は大抵条件付きですが、神の愛とはその選びにおいて無条件です。

新約聖書で「恵み」を意味する言葉ギリシャ語「カリス」は最重要語句の1つでありラテン語「グラツィア(gratia)」・英語「グレース(grace)」の元となった言葉です。「恵み」は、信仰を通して全く価なしに頂く神からの賜物(プレゼント)という意味です。「信仰」もまた神様から私たちに恵まれ与えられたものです。神様は、罪によって滅びるべきであった私たちに心を向けられ、神の一人子である御子イエスを人として私たちの罪の罰を身代わりとして受けるため地上に遣わしました。この御子イエスを信じるなら私たちは再び神との関係を回復し、神と共に永遠のいのちの希望を持って生きる事ができます。神は御子イエスを救い主として信じる者にあふれるばかりにこの恵みを注がれます。決して善行の報酬としていただくものではなく、「恵み」が私たち罪人に与えられるのは人間の側の十分相応しい価値ではなく、神御自身の善良で憐れみ深い性質に基づくものです。

 

まとめ;「恵み」は神の救いの中心であり、全くそれに価しない罪人に対して与えられる神樣からの賜物(プレゼント)。私たちが善行の報酬としていただくことではなく、ただ信仰によって神樣からいただくこと。

 

 

.恵みについての考察点(ポイント)

この「恵み」について理解する上でいくつかポイントがあります。

   「恵み」は神の愛により無償(ただ)で与えられる。人間の善行によっては得られない。

 パウロは、エペソ書で恵みと律法の行いを対比し、救いは「恵みのゆえに信仰によって」与えられる「神樣からの賜物(プレゼント)」であり、決して人間の行いによるのではないと強調します。

 

「恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくな(る)」(ローマ11:6

 

とも言います。私たちが成功している時だけ、品行方正な良い人間として全く問題のない時だけ神の愛が注がれる訳ではありません。誰でも人生の中で失敗や上手くいかない事を必ず経験します。そして、完全に聖い方である神様の目から私たちの心の中の動機まで注意深く見る時、そこには非常に根深い罪の性質、とても人には見せられ無いような自己中心でエゴイスティックな心のやみを見出します。あるいは「自分は絶対間違っていない。悪いのは環境や他の人である」と信じそういったエゴに気付かない様にふたをしてしまう場合もあるものです。自分の罪にすらなかなか気が付かないのも人間です。神様の目から見た私たちの心の状態は罪の影響により破産して返しきれない借金があります。しかし、私たちがそれ程の問題を抱えたままであっても神様は私たちを深く心に留めイエス・キリストにあって愛し招いて下さいました。イエス様は罪人の友となって下さるお方、自分では救い様の無い者を招いて救うためにこそ地上に来られたのです。

   私たちは「恵み」により神との関係に入り、「恵み」によりイエス様に似た者へと成長する。

 人は恵みによってのみ神との関係に入ることができます。「恵み」は悔い改めた罪人に赦しを与え神との関係に和解を与えます。それだけでなく信仰者の人生を内から変革する力となります。神様の働きかけは、私たちの内側に住んでおられる聖霊の人格的な力(ギ;デュナミス=ダイナマイトの語源)により、キリストに似た者へ私たちの人格を造り変えます。クリスチャンは今でも罪の影響に苦しめられ弱さを持っています。その様な状態にありながら内側からその人を全く新しく造り変える働きにより恵みから恵みに成長していきます。その変化・成長が外側から見えにくい時もありますが、確かにその人にはイエスのいのちに満ちた内側からの根本的働きかけがあります。神様の力はダイナマイトの様にその人の内側で強力に働くものです。その時、その人の人生は他の人々に対する恵みとして作り変えられていきます。コリント8:1~9では、マケドニヤ教会の人々が極度の貧しさにも拘らず、彼らの内から神の恵みが「あふれ出て」、「惜しみなく施す富」となり、彼らはエルサレム教会の貧しい信徒たちのため多額の献金を捧げました。彼らは神の恵みに「あずかっている(参加している)」と言われる様になりました。

まとめ;神と人間の関係は「恵み」によってのみ成り立つ。「恵み」は人を救うだけでなく、クリスチャンを内側から変革する。彼らの内に働く神の恵みは、その人の人生を他の人々に対する恵みとしても造り変えていく。

 

 

.アブラハムの例(ローマ4:1~5

 ローマ書の中心テーマは「信仰義認」。神の前での人間の側の手柄(行い)のゆえでなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われる(=義とされる)という事です。エデンの園で最初の人間アダムとエバは罪を犯し神から離れました。それまで「わざの契約」があり、エデンの園での神との約束を完全に守る事により成立するものでしたが、人間は罪を犯しそれに叶う事は出来ませんでした。神への背きの罪の問題は決して他人事では無く、私たちの誰しも心の中心から神を退け自己中心に生きて行こうとする思いを持っています。しかし、神様は私たち人間が滅びる事を望まず「恵みの契約」をお与えになりました。私たちがキリストを信じ、十字架と復活を信じる事で救いを得るというものです。私たち人間は、神様がアブラハムに示された「恵みの契約」を通し救われます。この契約の唯一の仲保者は主イエス様、イエス様は十字架によって私たちの罪の罰を受けて下さいました。アブラハムは完全な福音理解こそ無いが「恵みの契約」を信じて救われ、彼の後の子孫も救われるとの約束から「信仰の父」と呼ばれます。「信仰によって救われる」「神の恵み」は、私たちクリスチャンの土台として信仰のスタート時だけでなく私たちのその後の人生の中心でもあり今も必要です。「信仰の父」アブラハムの姿を見ていきます。ローマ4:1~3

 

1 それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、と言えるのでしょうか。
2
もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。
3
聖書は何と言っていますか。『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた』とあります。

 

1節「肉による(私たちの)父祖」とは肉親親族のこと、民族的な彼らの祖先アブラハムの事です。多くのユダヤ人たちが自分たちのアイデンティティを彼らの民族的先祖アブラハムに置きました。そして、「アブラハムの立派な行いと彼自身の信仰の手柄によって救われた」と理解し、「彼の子孫である我々にも、神の前に民族的優越性がある」と考え違いをしました。ですから、パウロの主張、アブラハムでさえも神の前に行いによって義と認められたわけでは無い(2節)という言葉は彼らにとって大変なショック、プライドを傷つけるものでした。 アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた(4:3とは、彼がただ神を信じ「恵みの契約」を信じた事により、神のご愛とあわれみのゆえ「恵み」によって義とされ救われたという事です。信仰の父、ユダヤ人の絶対的な拠り所のアブラハムでさえ彼自身の良い行いや力により救われたのではないのです。さらに「恵み」と「報酬」の違いをパウロは説明します。ローマ4:4~5

 

4働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。
5
しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。

 

「働きがない人(第3版「何の働きもない者」)」「不敬虔な者」が義と認められるという事は、これは神の側の私たち罪人への一方的な善意・特別な恩恵、恩赦と言えるものです。私たちの日常で考えると、働く者が当然の権利として受け取る賃金(労働の対価としての「報酬」)と「恵み」は異なります。日々精一杯働いた人が労働の対価として「報酬」を受ける事は、良い事であり大切です。しかし、私たちと神様との関係はこの様に対等ではなく、罪が大きな仕切りとなり、完全に聖い神様と罪深い私たちの間には大変大きな壁があります。私たちが神の前に自分を十分吟味する時、自分がどれほどすぐ神様を脇に置き自己中心の思いに捕らわれやすいか、神の前にどれほど弱く無益な存在であるかを自覚させられます。たとえ犯罪を犯していなくとも、クリスチャンであるとしても、思いにおいて、行いにおいて、すべき事をしない事においてどれほど神様に選ばれるに十分相応しくない者であるのかを自覚します。神様は、その様な相応しく無い者をもキリストの十字架により「義と認め」救って下さいました。それは「神の恵み」です。私たちは毎日、自分自身にこの「恵みの福音」を告げるべきです。「恵み」とは罪あるものが無償(ただ)で受けるものであり成功の見返りではないのです。成功して得られるのは「報酬」であり、それでは「恵み」が「恵み」でなくなってしまいます。

 

 

.適用とまとめ

 私たち日本人にも「神の恵み」を十分理解する難しさがあるかも知れません。現代人もそうです。近代合理主義に基づく現代社会は人間の行いの社会と言えます。あらゆる事柄は人間の理解の範疇にあるとされ、科学的に説明のつかない非合理的なものは迷信や思い込みとして脇に追いやられます。何事にもその理由づけが求められる時代。その様な中、「ただ受け取る事」は最も非合理とも感じるでしょう。

しかしそれは、人間の本当の罪深さ、神の本当の聖さを良く分かっていないせいと言え、それらを本当に理解するなら私たちに自力による救いの道は無く、ただ「神の恵み」が必要だと知ります。それこそが一番理に適っています。

また、日本社会も戦後の発展思考の中で、機能論的人間観(=他人・世の中の役に立つからこそ初めて存在価値がある)が今も支配的です。人は見返りを得るためにまず努力を続けるべきであり何かをただで受け取るというのはとても苦手、何か騙されている様な気がすると聞きます。「ただより高いものは無い。」 家族親族や親しい友人以外からただで何かを受け取るのに違和感を感じ、詐欺や何か交換条件があるかも知れないと不安になると言います。人間同士の関係においては確かにそうです。この傾向は私が大学生宣教を手伝っていた時も同様でした。学生たちは、神から「ただで受け取る=恵み」に対してどうしても違和感・抵抗があるという人が多く、小さいプレゼントを除けば、すぐに「ラッキー!」とプレゼントを受け取りにくいのが日本人の性(さが)かも知れません。確かにそれは虫の良い話。

しかし、神との関係においてはその様な貸し借りで判断する事は出来ず、いつもまず私たちが受け取らなくてはなりません。また、自分の罪や問題・無力さを認める事は、自分自身をあきらめてしまう恐れがあると聞きます。しかし、神の前に自分の罪深さや問題を認めSOSを出す事は、自分自身の人間性をあきらめる事ではなく、むしろ唯一本当に自分らしく生きる道だと言えます。宗教を求めるのは弱い人間だという人もいますが、自分の弱さ・問題をしっかり受け止め助けを求められるのは、弱い人間ではなく本当に強い人間でしょう。私たちが勇気ある一歩をもってこの「恵み」を受け取る時、私たちの人生の動機は大きく変えられます。

 

18~19世紀の偉大な宣教師ウィリアム・ケアリはインドで莫大な業績を残し40以上の原語・方言への聖書翻訳などを行いました。彼は「神から多くのことを期待せよ。神のために多くのことを試みよ」という有名なスローガンを残しました。その様な傑出した信仰の人はしかし、70歳の誕生日に自分の息子にこんな手紙を書き送っています。

「私はこの日、神のあわれみと善意の記念として70歳を迎えます。もっとも、自分の人生を振り返ると、ちりの中で辱められて謙遜にさせられるのが当然であった多くのこと、それも非常に多くのことに気づかされるのです。私の全く疑う余地のない罪は数え切れないほどであり、主の働きにおける私の怠慢はかなりのものでした。私は主の大義を推し進めてこなかったし、当然のことであったのに神の栄光と誉れを求めずにきてしまいました。こうしたすべての事にもかかわらず、私は今に至るまでに斟酌(しんしゃく)されているし、なお主の働きの中に引き留められているのです。そして、主によって神の好意の中へと迎え入れられている事を、私は確信しています。」 *しんしゃく;相手の事情・心情などを汲み取ること

彼は人生の晩年弱気になった訳でも自尊心が不健全に低かった訳でも無く、本当に敬虔な成熟した信仰者の2つの特徴を良く映し出しているとジェリー・ブリッジズは言います。それは以下です。

自分自身の、神の前での罪深さを謙虚に事実として認める事

それ以上に大きな「神の恵み」を感謝に満ちて受け入れる事

 

パウロはユダヤ人の信仰理解が一変する大変なチャレンジを投げかけました。それは、本当の「神の恵み」を理解する事です。

神様はこのパウロの手紙を通し、私たちにもメッセージを投げかけられます。歴史上の世界中のクリスチャン達に働き、彼らの人生を一変させた「神の恵み」を受け取るチャンスが私たちに与えられています。また、すでにクリスチャンとしてキリストと共に歩んでいる方々にも、今一度、主の前に我が身を振り返り、へりくだり、主の大きな恵みを受けていただく事、その「恵み」に精一杯お応えし、今後も人々の恵みとなる人生を歩んでいかれる様にとお勧め致します。

最後に、一般に神の戒めや信仰の戦いのメッセージより恵みのメッセージの方が耳に優しいという事を聞きます。しかし、聖書に従い牧会者の良心に基づき語られるという前提が守られているなら、それらのメッセージは1人1人のクリスチャンにとり皆有益なものと信じます。冒頭にお話した様に、真に愛ある親に愛情深さ寛大さと共に教訓的な面・毅然とした面、様々な面があるのと同様です。主にある牧会者・説教者の願いは皆同じ、主の民である皆様に、神様の望まれる本当に良い道・神を愛し聖書の教えに従う歩みをして頂きたいという事です。

今日お話ししたのはその主に従うモチベーションを常に持ち続けて主に期待し続けて前進して頂きたいという事です。恵みを頂いてそれで終わりではありません。いやむしろ恵みとは常に私たちの応答を求めるものです。皆様がますます神を愛し、恵みの道を歩まれます事を心よりお祈り致します。


2021年2月21日日曜日

一書説教(65)「ユダの手紙~自分自身を築き上げる~」ユダ1:17~21

 「信仰生活」を何かに例えると、皆様は何に例えるでしょうか。自分にとって楽しいもの、喜ばしいものに例えるでしょうか。それとも大変なもの、苦しいものに例えるでしょうか。聖書の中に信仰生活を例える表現が出てきますが、競走や、拳闘、戦闘と、その多くは大変なもの、苦しいイメージです。

キリスト教は恵みの宗教。行いが正しいから救われるのではない。何か出来るから恵みを受けられるのではない。私たちがすることではなく、神様がして下さることが大事。私たちは無条件に愛され、価無しに救われたのです。この視点だけであれば、信仰生活は楽しいもの、喜ばしいイメージなはず。しかし、私たちは何も取り組まなくて良いと教えられているわけではありません。信仰を守り、信仰のために戦うように。信仰者として意識し、取り組むべきことが多くあることも示されています。そして、それは実に大変なもの。信仰生活が大変なものに例えられているのは、むしろこの部分に焦点が当たっているからでしょう。

 

 ところで信仰生活において「神様がして下さること」と「私がすること」を、聖書の教える通りに受け取り続けることは意外と難しいことです。

神様の愛は変わらない、キリストによって何をしても罪赦されるのであるから好きなように生きるという放縦、自堕落の道か。あれもしないといけない、これもしないといけないと信仰生活を義務、責務に感じる。自分の正しさを示すために信仰生活を送る律法主義の道か。私たちは、どちらかに傾きやすいものです。

恵みを受けるために良い行いをするのではなく、恵みを受けたらから良い行いをする。良い行いが出来ること自体も恵みである。このことは頭では理解出来ても、実際の信仰生活の歩みの中でその通りに生きることは難しいものです。いかがでしょうか。自分自身の信仰生活を振り返った時、どちらかに傾いた歩みとなっていないでしょうか。

 

 六十六巻からなる聖書のうち、一つの書を丸ごと扱う一書説教。今日は通算六十五回目、新約篇の二十六回目、ユダ書となります。

 新約聖書は大きく四つに分類出来ます。イエス様の生涯を記した福音書が四つ。弟子たちの活躍を記した歴史書が一つ。新約聖書唯一の預言書が一つ。残り二十一は書簡でした。実に新約聖書の九分の七が書簡、これまで二十の手紙を読み残りは最後の一つとなりました。一章だけの小さな手紙、手のひら書簡、豆粒書簡、ユダ書。ユダを通して語られる言葉から、自分の信仰生活がどのようなものか、私たち皆で考えたいと思います。一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。

 

 ユダ書は次のように始まります。

 ユダ1章1節~2節

「イエス・キリストのしもべ、ヤコブの兄弟ユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストによって守られている、召された方々へ。あわれみと平安と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。」

 

 ユダとは「ほめたたえる」という意味で、よくある名前の一つ。この手紙を書いたユダはどのユダかと言えば、ヤコブの兄弟ユダと名乗っています。ヤコブという名前も多くありますが、ただ「ヤコブの兄弟ユダ」と名乗るだけで誰だか分かるとすれば、イエス様の肉の兄弟、ヨセフとマリアの子どものユダと考えられます。

聖霊によってイエスを産んだマリアは、その後で子どもを男子だけで四人産みました。ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ。この中のヤコブが、やがてエルサレム教会の重鎮となり、ヤコブ書を書いたと考えられ、この中のユダがこのユダ書を書いたと考えられます。

ユダは、イエスキリストの兄弟とは名乗らず、イエスキリストのしもべと名乗る。幼い時から、最も身近にイエスを見てきた自負を出さず、キリストによって救われたしもべとして手紙を記す。ユダの清々しさを感じます。

宛先は、「神に愛され、キリストに守られている方々」となっています。これまで確認した手紙は教会宛てでも個人宛てでも、特定の相手に記されたものが多かったですが、この手紙は全てのキリスト者へ向けて記されたもの。一つの教会に当てはまる内容というより、全てのキリスト者に当てはまる内容。普遍性の高い内容となります。

 

 キリストのしもべでありヤコブの兄弟であるユダから、全てのキリスト者へ。祝福の挨拶が記された後、手紙を書いた目的が記されます。

 ユダ1章3節

「愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。」

 

 ユダはもともと手紙を書こうとしていた。それも「救い」について、救済論をテーマとした手紙を書こうとしていたと言います。興味深い、読んでみたいと思うところ。しかし、その手紙は聖書になく、ユダがどのようなことを書こうとしていたのは天国での楽しみとなります。

 書きたいことがあった。しかし、それよりも緊急に書くべきことが出来た。何かと言えば、「信仰のために戦うよう」に勧めるというのです。「戦いに備えるように」ではなく、「戦いに出るように」。「合戦の招集」ではなく、「進軍の号令」。緊張感があります。一体、どのような戦いに出るのか。何が問題となっているのか。

 

 ユダ1章4節

「それは、ある者たちが忍び込んできたからです。彼らは不敬虔な者たちで、私たちの神の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定しているので、以下のようなさばきにあうと昔から記されています。」

 

 信仰の戦いに出るように、その理由をユダは「ある者たち」が忍び込んできたからと言います。異端の問題、偽教師の問題。ユダが戦うように号令をかけているのは、聖書の教えから外れるように働きかける者たちに対してでした。

その特徴は、不敬虔であり、恵みを放縦に変える、イエス・キリストを否定すること。この「不敬虔に生きる、恵みを放縦に変える、キリストを否定する」ことが教会の中に入りこむことを許さないように。その影響を受けないように。そのような考え方とは戦い抜くようにと言われます。誤った教え、偽教師の問題の中でも、特に不敬虔や放縦が問題となっているのです。

(ユダ書は5節以降、手紙の中盤部分で、不敬虔な者たち、恵みを放縦に変える者たちに対する裁きがどのようなものか、様々なものを引用しつつ取り扱います。今回の一書説教で、その部分は割愛します。)

 

 ところで二十一ある手紙を読み比べてみますと、早い段階で書かれた手紙が問題とする中に、割礼の問題がありました。救いにはキリストを信じる以外にすることがあるのか、割礼が必要なのか。救いには割礼が必要であるという考えに、パウロは徹底的に戦いました。ガラテヤ書は、特にこの問題を扱った書ですが、次のように記されています。

 ガラテヤ5章3節~8節

「割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたの邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。そのような説得は、あなたがたを召された方から出たものではありません。」

 

 大変強い調子。救われるのにキリストを信じる以外にすることがあるという考え方に徹底抗戦するパウロ。ガラテヤ書はパウロが書いた初期の手紙の一つですが、この時代の教会は、自分のすることが大事ということに傾き過ぎていた。

 ところがパウロが書いた最晩年の手紙では、次のように記しています。

 Ⅱテモテ3章1節~5節

「終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒瀆し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい。」

 

 後輩牧師テモテへ記した牧会指南書の中に、「困難な時代」が来ることの勧告がありました。不敬虔の者、恵みを放縦に変える者たちが現れる時が来る。言葉多く、注意喚起していました。

教会、信仰者はある時には、自分の力で信仰生活を成し遂げようとする律法主義の道に傾き、ある時には放縦、自堕落の道に傾く。右に左にフラフラしてしまう様が、二十一の書簡を見渡すことで確認出来ます。自分の力に頼る歩みをしてしまう、と思うと、神様の恵みの上にふんぞり返り好き勝手に生きてしまう。この問題は二千年前から続く信仰者の課題であることが確認出来ます。

 パウロは「困難な時代」が来ると告げていましたが、ユダ書では「ある者たちが忍び込んできた」と告げています。緊迫感が増しいよいよその時が来ている、戦いに臨むようにというユダの筆です。

 

これが、一つの教会に向けて書かれた手紙ではなく、全てのキリスト者に向けて記された手紙であることに注目します。キリストを信じる全ての者に、不敬虔に生きる、恵み放縦に変えるという危険性があるということです。

もし私たちが、「神様は無条件に私を愛して下さる」「キリストによって全ての罪が赦される」ことを理由に、不敬虔に生きることを良しとする、放縦に生きることを良しとするとしたら、それはイエス・キリストを否定する状態となっている。教会に恐ろしい問題を引き起こそうとしていることになっているのです。くれぐれも気を付けるようにと教えられます。

 

 このようにユダ書は信仰のために戦うように教える書ですが、それでは信仰のために戦うとはどのようなことでしょうか。

 ユダ1章17節~21節

「愛する者たち。あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語ったことばを思い起こしなさい。彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、嘲る者たちが現れて、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう。」この人たちは、分裂を引き起こす、生まれつきのままの人間で、御霊を持っていません。しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」

 

 「戦う」と言うと、敵対者がいて、打ち倒す印象です。不敬虔、放縦と戦うとなれば、不敬虔な者、放縦を勧める者と戦うイメージとなります。

しかしここでユダが言う具体的なことは、敵対者を倒すのではなく、自分自身に関することでした。「最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げる」「聖霊によって祈る」「神の愛のうちに自分自身を保つ」「主イエス・キリストのあわれみを待ち望む」こと。これがユダの提示する信仰における戦い方です。

 

 ところで興味深く、またどのように考えたら良いのか難しいと思うのが、ここでユダが言う「最も聖なる信仰」ということが、具体的にどのようなものか、この手紙の中に出てこないことです。「最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい」と言いながら、その「最も聖なる信仰」が何か触れていない。皆様は、この「最も聖なる信仰」とは何だと思うでしょうか。

何故ユダは、「最も聖なる信仰」が具体的に何なのか記さなかったのでしょうか。それは最も聖なる信仰がどのようなものか、知っている相手に書いているからでしょう。ユダは手紙の読者に対して「愛する者たち。あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語ったことばを思い起こしなさい。」と言いました。読者は、キリストの使徒たちが語った言葉を聞いている者、思い起こすことが出来る者。私たちに当てはめて言えば、聖書を知る者、信じる者ということ。つまり「最も聖なる信仰」とは、聖書の教える通りに信じる信仰。聖書の教えから外れない信仰という意味です。

 信仰の戦いの中心にあるのは、聖書の教える通りに信じる者として生きること。聖霊、神、キリストと三位一体の主との関係の中で、キリストに似る者となる歩みをすること。これが、不敬虔や放縦の歩みから、あるいは律法主義の歩みから、私たちを守るものでした。

 

 ところで、信仰の戦いに臨むように、「最も聖なる信仰の上に自分を築き上げるように」勧められた私たちが、それを自分の力で果たそうとしたら、結局のところ、律法主義的な歩みとなってしまう。ユダは最後の最後まで配慮して、次のように手紙を閉じていました。

 ユダ1章24節~25節

「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン。」

 

 ユダは私たちに信仰の戦いをするように。「最も聖なる信仰の上に自分を築き上げるように」と言いました。しかし同時に、私たちがつまずかないように守ることが出来る方、傷のないものとして神の御前に立たせることが出来るのはイエス様なのだと言います。

 信仰の戦いをすること、自分自身を建て上げること、キリストに似る者となること。これらは私たちが取り組むことであり、同時に神様がして下さること。どちらかだけではなく、そのどちらもというのが、ユダの視点であり、聖書の視点でした。

 「神様がして下さること」と「私がすること」、どちらかだけに重きを置くと、律法主義的な信仰生活になるか、自堕落、放縦の信仰生活になる。聖書に記された教会の歩みを確認しても、自分自身の信仰生活を振り返ってもそう思います。くれぐれもどちらからだけでなく、両方の視点を持つように。神様から頂いた多くの恵みに目を留め、その恵みに応じる者として信仰者の歩みを全うしていきたいと思います。

 

 以上、書簡の最後の最後に位置するユダ書を確認しました。あとは是非とも、ご自身で読んで頂きたいと思います。

新約聖書に含められた二十一に及ぶ書簡を読み進め、多くのことを教えられてきた私たち。その最後のユダ書にて、「最も聖なる信仰の上に自分を築き上げるように」、「聖書の教える通りに信じる者として生きるように」と確認しました。しかもその歩みは自分で取り組むことであり、神様がして下さることだと受け取ることで、この書簡の歩みの総まとめとしたいと思います。

2021年2月14日日曜日

「不信仰な私を」マルコ9:14~29

  聖書には様々な病人が登場します。目、耳、口、手、足、頭、皮膚、骨、内臓、そして精神。老いも若きも、男も女も、社会的立場や人種の別なく、人間は様々な病に侵され、苦しんできました。今日の個所にも病を患う子どもが登場します。病気の子どもは可哀そうです。子どもは幼い時から悪霊に取りつかれていました。一旦発作が起きると火の中であれ、水の中であれ転げまわり、自分の苦しみを説明する口も動かず、人が語る慰めの言葉も聞く耳も開くことはなかったというのです。

父親にも同情を禁じえません。苦しむ我が子を見守ることしかできないその苦しみは察するに余りあります。今日の個所の主人公はこの父親です。注目したいのは、この父親が口にした「信じます。不信仰な私をお助け下さい。」という叫びです。これはキリスト教信仰の核心に触れる言葉ではないかと私は思っています。

最初に、病気と悪霊の関係について、聖書の教えを確認しておきます。聖書は通常の病気と悪霊につかれた病気を区別しています。病気なら何でも悪霊によるとも、病人が医者にかかることは不信仰であるとも考えてはいません。初代教会において、人々はギリシャの医療を積極的に受け入れていました。神は医者も薬も用いて人間の病を癒されると信じていたのです。

その当時、貧しい人々は治療も受けられず、放り出され、見捨てられていました。彼らの多くは怪しげな魔術や呪いに縋るしかなかったのです。キリスト教会は貧しい人々に医療を通して助けの手を差し伸べました。そんなクリスチャンたちの親切から、世界で初めてホスピタル、病院というものが生まれたと言われます。ただ、そうであってもクリスチャンたちは通常の医療の領域ではない、イエス・キリストのみ名による祈りによらなければ治せない人間の精神と体の現実があることも知っていたのです。今日の個所、主人公の父親が連れて来た子どもの病が悪霊によると言われていることを、私たちもそのまま受けとめたいと思うのです。

 

マルコ9:1420「さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか」とお尋ねになった。すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」

イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。」

 

イエス様は「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」と尋ねておられます。イエス様は子どもの苦しみにも、父親の苦しみにも心を向けておられます。それに対して「幼い時からです。私たちをあわれんで、お助けください」と父親は答えます。この「私たち」という一言に、家族の者すべての思いが込められています。子どもはもちろん、父も母も兄弟も家族全員の苦しみを思わされます。

父親はイエス様が近くに来られたことを知り、朝まだ暗いうちに家を出てきたのかもしれません。イエス様とペテロ、ヤコブ、ヨハネ、三人の弟子はまだ山から戻っていませんでしたが、そこにはこれまで悪霊を追い出し、病人を癒してきた他の弟子がいました。父親は彼らに悪霊の追い出しを願いますが、彼らは何もできませんでした。すると、それを見た律法学者と弟子たちの間で議論が始まったのです。

律法学者たちは弟子たちが何もできないのを見て、彼らを遣わしたイエスを批判し、弟子たちも反論したのです。「確かに、私たちには癒すことが出来なかった。でも、あなたがたにはできるのか。できるものならやって見せてくれ。さあ、どうする、どうする。」そんな議論が繰り返されたことでしょう。

弟子たちはいつのまにかイエス様を神と信じて祈るよりも、自分たちに悪霊を追い出し、病を癒す特別な能力が備わっているかのように思い込んでいたのです。神から与えられた賜物を、いつのまにか私のものと思いこみ、思うがままに使うことが出来ると考えて、おごり高ぶっていた様です。

ここにあるのは人間にはどうしようもできない現実です。律法学者も弟子たちも、心を合わせて神に祈らなければ解決できない問題がここにはあります。それなのに、律法学者も弟子たちも、相手を批判し、自分を正当化するために論じ合っています。苦しむ父親と息子のことはそっちのけ。批判合戦を繰り返しては、自分たちのプライド、立場を守ることに心捕らわれているのです。

けれども、これは昔々の弟子や律法学者にすぎないのでしょうか。今この世界でも、身近な社会、学校、家庭、教会であっても、神に祈らなければどうすることもできない現実が現れてきています。皆が協力しあうことがなければ、皆が神に立ち帰らねば、どうすることもできない問題が存在します。それにもかかわらず、世界の国々の間には隔ての壁があります。日本の社会にも、家庭にも、会社にも、教会にも、目に見えない隔ての壁があるのです。こちらが正義なら、向こうは悪。こちらが信仰なら、向こうは不信仰。こちら側と向こう側に分かれて攻撃し合い、批判し合う。そのような関係が様々な至る所に存在します。

ある日の新聞に、今の日本はとても攻撃型の社会になって来たと言う、一人の社会学者の文章が載っていました。インターネットやSNSの発達によって、誰かの失敗やスキャンダルを見つけると、一斉に攻撃する。誰もが簡単に,匿名で、正義の味方になって、言い返せない相手をパッシングする。そういう時代の雰囲気が社会を覆い、学校にも家庭にも影響を及ぼしていると言うのです。こういう私たちの心もこそ祈りによらねばどうすることもできない霊的な現実なのだと思います。

さて、父親から一部始終を聞き終えたイエス様は何と言われたのでしょうか。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。」そう言われたのです。柔和で、優しく、謙遜なイエス様の口から出たこの厳しい言葉を、私たちはどう受けとめたらよいのでしょうか。

この言葉はそこにいた律法学者、弟子たち、群衆、すべての人々に向けられています。神に祈らねば、どうすることもできない問題を前にして、祈るよりも自分たちを守るため議論ばかりしている私たち人間に対して語られています。

それでは、悪霊につかれた息子の父親はこれをどう聞いたのでしょうか。父親の語る言葉を見ると、父親はイエス様と同じ立場に立っています。イエス様と同じ側に自分を置いて、弟子たちの不信仰を批判しているのです。

 

9:21~22「イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」

 

「イエス様、あなたの言う通りです。あなたの弟子たちは不信仰で私の息子から悪霊を追い出すことはできませんでした。私はがっかりしました。御覧の通りです。でも、もしイエス様あなたがお出来になるのなら、私たちをあわれみ助けてくれませんか。」父親はそう言っているのです。

この父親は思い違いをしています。「ああ、不信仰な時代だ」というイエス様の言葉が、実は自分に対しても言われていることに気がついていません。イエス様と一緒になって、弟子たちの不信仰を嘆いています。「あなたの弟子たちにはできませんでしたが、先生であるあなたにはできるのですか。もし出来ると言うのなら、助けてください。」イエス様はそんな父親に問い返します。

 

マルコ9:23~24「イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

 

「あなたは弟子たちの不信仰を責めている。そしてわたしに、『あなたの弟子たちにはできないとしても、もしあなたにできるなら助けて欲しい』と言う。しかし、そう言うあなたの信仰はどうなのか。」私たちも心を探られる言葉です。

私たちも、まるでイエス様と同じ立場にあるかのような思いで、他の人の不信仰を嘆くことはないでしょうか。イエス様と同じ側に立って、他の人の失敗や罪を責めていることはないでしょうか。イエス様はそんな私たちに問いかけているのです。「人の不信仰を嘆いている。そんなあなた自身の信仰はどうなのか」「人の罪を責めている。そんなあなた自身に罪過ちはないのか」。

心刺された父親はすぐに答えます。「イエス様、あなたを信じます。」そして、次の瞬間、「私は不信仰な者です」と叫びました。「私は今まで不信仰でしたが、今は信じています」ではありません。「信じます。信仰のないこの私をお助け下さい」と声を挙げたのです。父親は気がつきました。「不信仰なのは弟子たちではない。イエス様の前に、神様の前に、私こそが不信仰なのだ」と。父親はイエス様を信じました。信じましたが、イエス様が助けて下さらなければ、到底イエス様を救い主と信じることのできない自分の弱さを認め、告白しているのです。

私たちは神様の恵みに触れて、「神様感謝します。どんな時にもあなたを信じ従ってゆきます」そう告白できる時があります。しかし、苦しみと不安の中で、「私は心から神のことばを信じてられない。私は本当に救われているのだろうか」と不信仰を嘆く時もあるのです。しかし、そんな不信仰な私たち、信仰なき私たちを神は信じる者へと助けてくださるのです。

信仰の決断、洗礼の決心をためらっておられる方にもお伝えしたいと思います。揺るがない信仰がなければクリスチャンになれないと思ってはいないでしょうか。「自分には本当に小さな信仰しかない、そんな者が洗礼を受けても大丈夫なのか。信仰の歩みを続けることが出来るのか」。そう考え、ためらっておられることはないでしょうか。

今日の個所で確認できるのは、私たちの信仰の大小によってイエス様の恵みは左右されないと言うことです。たとえからし種一粒ほどの小さな信仰でも、それは神の恵みによって与えられたものなのです。不信仰な私たちの中にある小さな信仰、揺れる信仰を、イエス様はしっかりと見ておられるのです。事実、イエス様はこの父親の信仰を受け入れると、汚れた霊を叱りました。

 

マルコ9:2527「イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは「この子は死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。」

 

私たちの内側にも、口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊が働いています。「イエス様を救い主と信じます」と告白させない霊、「主イエスの十字架に罪の赦しと永遠の命がある」という救いの福音を聞こえなくする霊が私たちのうちには働いているのです。イエス様はこの子どもにしたように、私たちのうちに働く不信仰の霊を追い出し、私たちの信仰を支えてくださるのです。今朝も、私たちの手を取り、信仰の杖を与え、一週間の歩みへと導いてくださるのです。

人の不信仰や罪を責める思いが心に満ちる時、私たちは高ぶりの中にいます。「神の前にあなたの信仰、あなたの罪はどうなのか」と問われるイエス様の声に耳を傾ける必要があります。逆に「私なんか」と自分の不信仰と罪ばかりを見つめる時、私たちは自己憐憫のなかに落ちてしまいます。私たちは十字架の福音に耳を傾け、自分に与えられた小さな信仰や罪の赦しの恵みに、心から感謝をささげたいと思うのです。

「信じる者には、どんなことでもできるのです」とイエス様は言われました。完全に天の父に信頼し、心から神のみ心に従いとおした人間はイエス様おひとりです。「どんなことでもできる信じる者」はイエス様ただ一人なのです。私たちにはイエス様の様な完全な信仰もなければ、服従もありません。私たちの信仰は不完全で、小さく、弱いのです。

しかし、そんな私たちのために、イエス様は十字架に命をささげてくださいました。主イエスはご自分にとって最も苦しく、最も忍耐を必要とする神の罰を、私たちに代わり受けてくださいました。十字架に示された主イエスの愛こそ、私たちの信仰を励まし、養い、支えてくれるものです。私たちのうちに生きて、働いておられる十字架の主を見つめつつ、ただひたすらに神を信じ、神に従う道を歩む者でありたいと思うのです。

 

ガラテヤ2:20今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」

2021年2月7日日曜日

信仰生活の基本(6)「仕事と経済~富を生み、神に仕える~」創世記1:26~31,ピリピ4:11b~13

 古いユダヤの諺に「金銭は無慈悲な主人だが、有益な召使いにもなる」とあります。いつもお金のことを考え、お金のことを心配し、お金のことで神経をすり減らす。お金に支配されている人がいます。他方、お金を召使いとし、お金を有益に使いながら人間らしい生活を営む。お金を正しく管理しながら生活する人もいます。お金を主人として生きるのか、自分がお金の主人となって生きるのか。私たちはどちらになりうる可能性も持っていることを教えられます。

ところで、富とか金銭と言うと、皆様にとってどんなイメージでしょうか。汚れたものでしょうか、良いものでしょうか。富を求めるのは良いことでしょうか、悪いことでしょうか。

中世のイタリアを舞台にシェークスピアが書いた「ベニスの商人」という作品があります。この作品に登場するユダヤ人の金貸しシャイロックは欲張りで、非情な人物です。親友に結婚資金を援助するため、借金を申し込んだアントニオという青年に対し、シャイロックはもし期限までに返済しなければ「あなたの胸の肉を切り取ることになるが、それでも良いか」と提案します。アントニオはこれに同意しますが、案の定商売の品物を積んだ船が難破し、アントニオは破産。ついに裁判で肉が切り取られるのかと思われたその瞬間、「肉を切ることは許すが、血は一滴も流してはならない」という裁判官の賢明な判決により、アントニオは窮地を逃れるという物語でした。

尤も、この作品には、ユダヤ人に対する悪いイメージと偏見に満ちているという批判もあります。しかし、カトリック教会が支配する中世の時代、金融業が人々からどのような目で見られていたかを示してもいます。もし、金融業が欲張りな人々が営む、汚れた仕事であるなら、キリスト者は銀行員になれないのでしょうか。

聖書にも、一見すると富に対する悪いイメージを抱かせるような教えがいくつかありますが、代表的なものを一つ挙げてみます。主イエスの教えです。

 

マタイ6:24「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなた方は神と富とに仕えることはできません。」

 

これを読むと、富は人間の心を神から離れさせる悪そのもののように見えます。神に仕える人生とこの世の富を求めて働く人生が、矛盾するように見えるのです。しかし、主イエスは富や金銭自体が悪だと教えているのではありません。私たちが心の中で富や金銭を偶像とすることを問題にしています。富や金銭に対する私たちの貪欲、強すぎる願望を戒めているのです。主イエスが求めているのは、私たちがこの世の富を偶像とせず、この世の富をもって神に仕えることなのです。

そもそも世界の始め、人間はこの世界の管理人という仕事を与えられました。

 

創世記1:2631「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」神は仰せられた。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。また、生きるいのちのある、地のすべての獣、空のすべての鳥、地の上を這うすべてのもののために、すべての緑の草を食物として与える。」すると、そのようになった。神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」

 

私たちが読む新改訳聖書には、原文にはない言葉が入っています。「さあ人を造ろう」の「さあ」という言葉です。この「さあ」が原文の息遣いをよく伝える名訳と言われます。「さあ人を造ろう」。これまで神は「何々よあれ」という命令ですべてのものを創造してきました。しかし、人間の場合は「さあ人を造ろう」と言われました。人間を創造するにあたり、神の心には「ついに愛する者を創造することができる」という、わくわくする思いが溢れていたのです。「さあ人を造ろう」。このみ言葉に、私たちの存在を心から喜ばれる神の息遣いを感じられるのです。

この神の愛は、人間が神のかたちに創造されたという事実にしめされています。古代オリエントの世界では、王が神のかたちと呼ばれていました。王が地上における神の代理人という意味です。しかし、聖書においては、王だけでなく男も女も、すべての人が神の代理人として創造されました。私たち人間は神と親しく交わり、互いに愛し合う社会を築き、神が創造した世界を管理する。そんな祝福を受け、私たちはこの世界に生まれてきたのです。

人間は神のみこころに従って働き、食物という富を造り出す。それをもって人々の生活を支えてゆく。音楽や絵画、文学等の作品という富を生み、人々の生活を精神的にも豊かにする。自分たちだけでなく他の生き物も生きられるよう、自然環境を守る。神に与えられた賜物を使って仕事をし、価値あるもの、富を生み出して神と人に仕える。これが人間本来の生き方だと聖書は言うのです。

しかし、人間は神に背きました。神に仕えることを拒み、自分の欲望や利益を満たすために働き、富を用いるようになりました。人間は神のことばを無視し、自らの善悪の判断に従って人生を歩み、この世の富をつかうようになったのです。その結果、どれ程人間の社会は悲惨な状態になってしまったか。聖書は次のように語ります。

 

アモス2:68「【主】はこう言われる。「イスラエルの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らが金と引き換えに正しい者を売り、履き物一足のために貧しい者を売ったからだ。彼らは、弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げている。子とその父が同じ女のもとに通って、わたしの聖なる名を汚している。彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った衣服の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう酒を自分たちの神の宮で飲んでいる。」

 

預言者アモスの時代、南ユダも北イスラエルも政治的に安定し、経済的繁栄を謳歌していました。しかし、繁栄の裏側では富める者が貧しい者を虐げ、神殿を仕切る祭司たちは不品行に耽り、贅沢な生活に溺れ、貧しい者から取り上げた衣服の上に横たわり、取り立てた金でぶどう酒を買い、神殿で酔っ払っていたというのです。不義不正の横行、富める者と貧しき者の不和対立。昔も今も、富は人間の社会を分断してきたのです。

しかし、富や物質に心捕らわれていたのは、富める者だけではありませんでした。庶民にも、貧しき者にも、経済の問題は切実な悩みだったのです。主イエスは山上の説教で、そんな人々に語りかけています。

 

マタイ6:2634「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」

 

一説によれば、主イエスの時代ユダヤでは約70%の人々が一月先の暮らしの心配をしながら生活していたと言われます。主イエスの故郷ガリラヤには、その日暮らしの人々も大勢いたと言われます。今日は何とか食べられても「明日はどうなることやら」と心配する人々が主イエスのもとに集まっていたのです。

主イエスは「空の鳥を見よ。野の花をみよ」と語り、貧しさに悩む人々を励ましています。天の父が貧しい者のためにどれ程心を砕いているかを伝えているのです。この言葉は主イエスの生活から生まれたものであり、実感でした。主イエスは貧しい家に生まれ、育ちました。生涯の殆どを大工として過ごし、大工の仕事を通して母や兄弟たちの生活を支えたのです。

主イエスは貧しき生活を送りながら、必要なものすべてを天の父に養われていると感じ、天の父を信頼してきたのです。たとえ生活は貧しくあろうとも、主イエスは食べ物、着る物のことで思い煩うことはなかったのです。この様な生き方は、主イエスが神の国と神の義を求めて歩み続けたことの結果でした。神の国と神の義を求めるとは、明日の心配事は天の父にお任せして、今日の仕事に全力を尽くすことです。今日神から与えられた糧に感謝し、満足して、眠りにつくことなのです。

「な~んだ、そんなことか」と思われるかもしれません。しかし、今日健康に恵まれ、力を尽くして仕事が出来たことに感謝し、今日与えられた糧に満ち足りて眠る。こんな単純な生活がどれ程難しいか。主イエスの時代より豊かな時代に生きる私たちも感じているのではないでしょうか。

今から百年程前、ケインズという経済学者が予言しました。「産業が発達するペースから考えて、2030年には人々は一日3時間働くだけで暮らせるようになる。飢える者はなく、多くの人が健康的な生活を楽しむことが出来るようになる。肉体労働や家事の殆どは機械かロボットが肩代わりし、人々は残りの時間を芸術、音楽、文化、哲学などに時間を費やすようになるだろう。」

しかし、現実はどうでしょうか。現代の社会はケインズの予測よりも10倍も豊かになりましたが、人々は物質的豊かさをこれまで以上に追及しています。労働時間も3時間はおろか、減少すらしていません。鬱病や過労に苦しむ人々も沢山います。社会全体の富は増えましたが、時代と共に豊かさの基準は高くなり、人々は満足を知らず、その欲望はとどまることがありません。

それでは、この様な人間の欲望が渦巻く社会で、私たちキリスト者はどのように生きるべきなのでしょうか。多くの富を得る仕事が良い仕事とされる時代、多くの物を消費することが良い事だと考えられているこの時代、どうしたら、私たちは仕事と経済において満ち足りることが出来るのでしょうか。使徒パウロの言葉を参考にします。

 

ピリピ4:1113私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」

 

パウロは福音を伝える伝道者であり、教会を建て上げる牧師でした。新約聖書に残る多くの手紙を書いた神学者でもあります。しかし、パウロはすべての時間を伝道者、牧師、神学者としての仕事にささげることはできませんでした。パウロを経済的に支える教会は少なく、生計のためテント作りの仕事をせざるを得なかったのです。

しかし、その様な人生の中で、パウロはどんな境遇にあっても満足することを学んだのです。富むことにも乏しい事にも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得るようになったというのです。

パウロの仕事を尊敬する人々もいましたが、非難する人もいました。しかし、自分の仕事ぶりを評価されようと、非難されようと、神と人に仕える事の出来た恵みにパウロは感謝し、満足していたのです。貧しさの中にあっても富める者を羨まず、神に与えられたもので満足できたのです。豊かさの中にあっても、すべては神の恵みであることを忘れず、感謝をささげることが出来たのです。

何故でしょうか。それはイエス・キリストの恵みによって養われていたからです。パウロも私たちと同じように弱い人間であったと思います。最初からどんな境遇にあっても満足することのできるような強い人間ではなかったのです。パウロは主イエスの十字架に示された神の愛に慰められ、励まされながら、神に与えられたもので満足する生活を徐々に学んでいったのです。神の御子があの十字架に命をささげるほど、罪人に仕えてくださったその愛に満たされるなら、たとえ人から認められなくても、貧しさの中に置かれたとしても、私の心には平安があり喜びがある。そうした経験を積み重ね、一歩一歩キリスト者らしい生き方を身につけていったのです。

私たちも、この主と共に歩みたいと思います。たとえ、私たちが将来への不安に悩んでも、「あなた方の必要をすべて備えてくださる天の父がいるから心配しなくてよい」と、主イエスが教えてくださいます。たとえ、私たちがこの世の富に対する欲望に負け、罪を犯したとしても、その罪を悔いる私たちの祈りを、主イエスは聞いてくださるのです。たとえ、私たちが力を尽くしてなした仕事を誰一人認めてくれなくても、主イエスは見ておられ「よく頑張ったね」と励ましてくださるのです。私たちも主イエスによって強くされ、養われる歩みを進めてゆきたいと思います。