Ⅰ.序 〜恵み〜
皆様は聖書の中での「恵み」という言葉にどんな印象を抱かれますか?(日本でも英語圏でもこの言葉は好んで人名・教会名に使われますね) 私が20年前救われたアメリカ長老教会の宣教団体、そして彼ら宣教師によって建てられた教会の多くはこの「神の恵み」を最重要視していました。現在、福田真理先生らが行なっているアメリカ長老教会リディーマー教会と提携している東京都心伝道でも「福音」という言葉で「神の恵み」が重要視されているのを昨年の学びで再確認しました。「恵み」というと、例えば、おじいちゃんが孫可愛さで何でも許してしまう様な愛情、悪い所には目をつぶる様な寛容さなどイメージは様々でしょう。
「神の恵み」を理解するとは、端的には、①私たちの内側の率直で内省深い罪理解と、②そこに対してまず神の側が豊かなあわれみを示された事への理解です。「救い」はもちろんただではありません。神の御子の犠牲という莫大な代価が支払われています。とはいえ私たちはそれを信仰によりただで受ける事が出来ます。もう一つ忘れてはならないのは「恵み」の教育的側面です。本当に愛情深い親が、犠牲を惜しまない愛を持ちつつも子供を時に厳しくしつけ育てるように、人間の本質的な内側からの成長には「愛情」が不可欠ですが、それは全てを甘やかす愛ではありません。とはいえ、そういった親の愛の大きな特徴は“惜しみなさ”と“寛大さ”です。「神の恵み」とはこれらの性質を豊かに表すものです。
Ⅱ.恵みという言葉
エペソ2:4~10のみことばを読みましょう。
「2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
6神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
7それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。
8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
10実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」
「恵み」という言葉は “神の救い”の中心的な言葉。その特徴的意味は優れた立場にある者からのそうでない者(相応しくない者)に対する無条件の愛情や好意です。普通は誰でも自分より優れた者には敬意を持ち、自分より劣った者・弱い者をわざわざ特別大切にするという事は稀(まれ)です。立派な者に与えられる称賛はむしろ当然の「報酬」であり、「恵み」とは言いません。私たちが一流のスポーツ選手、立派な業績を残した人、社会に多大に貢献した人などを誉めるのは彼らに相応しい称賛。一方、「恵み」とは神⇒人間 の一方的なもの。神から離れ罪という大きな問題を持っている私たちに与えられる神の無条件の愛です。神様は創造主であり完全に聖いお方。本来は、私たちの方こそ神様を誉め称えるべきです。ところが逆に神様は罪人である私たちを愛されます。誰であっても有名人がわざわざ自分の所に来て自分を名指しで誉めたら大変驚くでしょう。オリンピックで金メダルを取った選手、国民栄誉賞に輝いた人、イチロー元選手、また紅白歌合戦に出場したり、動画再生回数1位を獲得したアーティスト等からあなた宛に感謝状などが来たら、若い人ならばツイッター・インスタのフォローが付いたりコメントが来たら思わず家族や知り合いに話したくなる事ではないですか? そして、世界の王である神様は、どんな偉人・英雄より遥かに偉大な誉め称えられるべきお方。その神様からの一方的な好意を聖書では「恵み」と表現します。“相応しくない者”に与えられるという大きな特徴があります。私たち人間の愛情は大抵条件付きですが、神の愛とはその選びにおいて無条件です。
新約聖書で「恵み」を意味する言葉ギリシャ語「カリス」は最重要語句の1つでありラテン語「グラツィア(gratia)」・英語「グレース(grace)」の元となった言葉です。「恵み」は、信仰を通して全く価なしに頂く神からの賜物(プレゼント)という意味です。「信仰」もまた神様から私たちに恵まれ与えられたものです。神様は、罪によって滅びるべきであった私たちに心を向けられ、神の一人子である御子イエスを人として私たちの罪の罰を身代わりとして受けるため地上に遣わしました。この御子イエスを信じるなら私たちは再び神との関係を回復し、神と共に永遠のいのちの希望を持って生きる事ができます。神は御子イエスを救い主として信じる者にあふれるばかりにこの恵みを注がれます。決して善行の報酬としていただくものではなく、「恵み」が私たち罪人に与えられるのは人間の側の十分相応しい価値ではなく、神御自身の善良で憐れみ深い性質に基づくものです。
まとめ;「恵み」は神の救いの中心であり、全くそれに価しない罪人に対して与えられる神樣からの賜物(プレゼント)。私たちが善行の報酬としていただくことではなく、ただ信仰によって神樣からいただくこと。
Ⅲ.恵みについての考察点(ポイント)
この「恵み」について理解する上でいくつかポイントがあります。
① 「恵み」は神の愛により無償(ただ)で与えられる。人間の善行によっては得られない。
パウロは、エペソ書で恵みと律法の行いを対比し、救いは「恵みのゆえに信仰によって」与えられる「神樣からの賜物(プレゼント)」であり、決して人間の行いによるのではないと強調します。
「恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくな(る)」(ローマ11:6)
とも言います。私たちが成功している時だけ、品行方正な良い人間として全く問題のない時だけ神の愛が注がれる訳ではありません。誰でも人生の中で失敗や上手くいかない事を必ず経験します。そして、完全に聖い方である神様の目から私たちの心の中の動機まで注意深く見る時、そこには非常に根深い罪の性質、とても人には見せられ無いような自己中心でエゴイスティックな心のやみを見出します。あるいは「自分は絶対間違っていない。悪いのは環境や他の人である」と信じそういったエゴに気付かない様にふたをしてしまう場合もあるものです。自分の罪にすらなかなか気が付かないのも人間です。神様の目から見た私たちの心の状態は罪の影響により破産して返しきれない借金があります。しかし、私たちがそれ程の問題を抱えたままであっても神様は私たちを深く心に留めイエス・キリストにあって愛し招いて下さいました。イエス様は罪人の友となって下さるお方、自分では救い様の無い者を招いて救うためにこそ地上に来られたのです。
② 私たちは「恵み」により神との関係に入り、「恵み」によりイエス様に似た者へと成長する。
人は恵みによってのみ神との関係に入ることができます。「恵み」は悔い改めた罪人に赦しを与え神との関係に和解を与えます。それだけでなく信仰者の人生を内から変革する力となります。神様の働きかけは、私たちの内側に住んでおられる聖霊の人格的な力(ギ;デュナミス=ダイナマイトの語源)により、キリストに似た者へ私たちの人格を造り変えます。クリスチャンは今でも罪の影響に苦しめられ弱さを持っています。その様な状態にありながら内側からその人を全く新しく造り変える働きにより恵みから恵みに成長していきます。その変化・成長が外側から見えにくい時もありますが、確かにその人には“イエスのいのち”に満ちた内側からの根本的働きかけがあります。神様の力はダイナマイトの様にその人の内側で強力に働くものです。その時、その人の人生は他の人々に対する恵みとして作り変えられていきます。Ⅱコリント8:1~9では、マケドニヤ教会の人々が極度の貧しさにも拘らず、彼らの内から神の恵みが「あふれ出て」、「惜しみなく施す富」となり、彼らはエルサレム教会の貧しい信徒たちのため多額の献金を捧げました。彼らは神の恵みに「あずかっている(参加している)」と言われる様になりました。
まとめ;神と人間の関係は「恵み」によってのみ成り立つ。「恵み」は人を救うだけでなく、クリスチャンを内側から変革する。彼らの内に働く神の恵みは、その人の人生を他の人々に対する恵みとしても造り変えていく。
Ⅳ.アブラハムの例(ローマ4:1~5)
ローマ書の中心テーマは「信仰義認」。神の前での人間の側の手柄(行い)のゆえでなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われる(=義とされる)という事です。エデンの園で最初の人間アダムとエバは罪を犯し神から離れました。それまで「わざの契約」があり、“エデンの園での神との約束を完全に守る事により成立する”ものでしたが、人間は罪を犯しそれに叶う事は出来ませんでした。神への背きの罪の問題は決して他人事では無く、私たちの誰しも心の中心から神を退け自己中心に生きて行こうとする思いを持っています。しかし、神様は私たち人間が滅びる事を望まず「恵みの契約」をお与えになりました。私たちがキリストを信じ、十字架と復活を信じる事で救いを得るというものです。私たち人間は、神様がアブラハムに示された「恵みの契約」を通し救われます。この契約の唯一の仲保者は主イエス様、イエス様は十字架によって私たちの罪の罰を受けて下さいました。アブラハムは完全な福音理解こそ無いが「恵みの契約」を信じて救われ、彼の後の子孫も救われるとの約束から「信仰の父」と呼ばれます。「信仰によって救われる」「神の恵み」は、私たちクリスチャンの土台として信仰のスタート時だけでなく私たちのその後の人生の中心でもあり今も必要です。「信仰の父」アブラハムの姿を見ていきます。ローマ4:1~3。
1 それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、と言えるのでしょうか。
2もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。
3聖書は何と言っていますか。『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた』とあります。
1節「肉による(私たちの)父祖」とは肉親親族のこと、民族的な彼らの祖先アブラハムの事です。多くのユダヤ人たちが自分たちのアイデンティティを彼らの民族的先祖アブラハムに置きました。そして、「アブラハムの立派な行いと彼自身の信仰の手柄によって救われた」と理解し、「彼の子孫である我々にも、神の前に民族的優越性がある」と考え違いをしました。ですから、パウロの主張、アブラハムでさえも神の前に行いによって義と認められたわけでは無い(2節)という言葉は彼らにとって大変なショック、プライドを傷つけるものでした。 「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた(4:3)」とは、彼がただ神を信じ「恵みの契約」を信じた事により、神のご愛とあわれみのゆえ「恵み」によって義とされ救われたという事です。信仰の父、ユダヤ人の絶対的な拠り所のアブラハムでさえ彼自身の良い行いや力により救われたのではないのです。さらに「恵み」と「報酬」の違いをパウロは説明します。ローマ4:4~5。
4働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。
5しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。
「働きがない人(第3版「何の働きもない者」)」「不敬虔な者」が義と認められるという事は、これは神の側の私たち罪人への一方的な善意・特別な恩恵、恩赦と言えるものです。私たちの日常で考えると、働く者が当然の権利として受け取る賃金(労働の対価としての「報酬」)と「恵み」は異なります。日々精一杯働いた人が労働の対価として「報酬」を受ける事は、良い事であり大切です。しかし、私たちと神様との関係はこの様に対等ではなく、罪が大きな仕切りとなり、完全に聖い神様と罪深い私たちの間には大変大きな壁があります。私たちが神の前に自分を十分吟味する時、自分がどれほどすぐ神様を脇に置き自己中心の思いに捕らわれやすいか、神の前にどれほど弱く無益な存在であるかを自覚させられます。たとえ犯罪を犯していなくとも、クリスチャンであるとしても、思いにおいて、行いにおいて、すべき事をしない事においてどれほど神様に選ばれるに十分相応しくない者であるのかを自覚します。神様は、その様な相応しく無い者をもキリストの十字架により「義と認め」救って下さいました。それは「神の恵み」です。私たちは毎日、自分自身にこの「恵みの福音」を告げるべきです。「恵み」とは罪あるものが無償(ただ)で受けるものであり成功の見返りではないのです。成功して得られるのは「報酬」であり、それでは「恵み」が「恵み」でなくなってしまいます。
Ⅴ.適用とまとめ
私たち日本人にも「神の恵み」を十分理解する難しさがあるかも知れません。現代人もそうです。近代合理主義に基づく現代社会は“人間の行いの社会”と言えます。あらゆる事柄は人間の理解の範疇にあるとされ、科学的に説明のつかない非合理的なものは迷信や思い込みとして脇に追いやられます。何事にもその理由づけが求められる時代。その様な中、「ただ受け取る事」は最も非合理とも感じるでしょう。
しかしそれは、人間の本当の罪深さ、神の本当の聖さを良く分かっていないせいと言え、それらを本当に理解するなら私たちに自力による救いの道は無く、ただ「神の恵み」が必要だと知ります。それこそが一番理に適っています。
また、日本社会も戦後の発展思考の中で、機能論的人間観(=他人・世の中の役に立つからこそ初めて存在価値がある)が今も支配的です。人は見返りを得るためにまず努力を続けるべきであり何かをただで受け取るというのはとても苦手、何か騙されている様な気がすると聞きます。「ただより高いものは無い。」 家族親族や親しい友人以外からただで何かを受け取るのに違和感を感じ、詐欺や何か交換条件があるかも知れないと不安になると言います。人間同士の関係においては確かにそうです。この傾向は私が大学生宣教を手伝っていた時も同様でした。学生たちは、神から「ただで受け取る=恵み」に対してどうしても違和感・抵抗があるという人が多く、小さいプレゼントを除けば、すぐに「ラッキー!」とプレゼントを受け取りにくいのが日本人の性(さが)かも知れません。確かにそれは虫の良い話。
しかし、神との関係においてはその様な貸し借りで判断する事は出来ず、いつもまず私たちが受け取らなくてはなりません。また、自分の罪や問題・無力さを認める事は、自分自身をあきらめてしまう恐れがあると聞きます。しかし、神の前に自分の罪深さや問題を認めSOSを出す事は、自分自身の人間性をあきらめる事ではなく、むしろ唯一本当に自分らしく生きる道だと言えます。宗教を求めるのは弱い人間だという人もいますが、自分の弱さ・問題をしっかり受け止め助けを求められるのは、弱い人間ではなく本当に強い人間でしょう。私たちが勇気ある一歩をもってこの「恵み」を受け取る時、私たちの人生の動機は大きく変えられます。
18~19世紀の偉大な宣教師ウィリアム・ケアリはインドで莫大な業績を残し40以上の原語・方言への聖書翻訳などを行いました。彼は「神から多くのことを期待せよ。神のために多くのことを試みよ」という有名なスローガンを残しました。その様な傑出した信仰の人はしかし、70歳の誕生日に自分の息子にこんな手紙を書き送っています。
「私はこの日、神のあわれみと善意の記念として70歳を迎えます。もっとも、自分の人生を振り返ると、ちりの中で辱められて謙遜にさせられるのが当然であった多くのこと、それも非常に多くのことに気づかされるのです。私の全く疑う余地のない罪は数え切れないほどであり、主の働きにおける私の怠慢はかなりのものでした。私は主の大義を推し進めてこなかったし、当然のことであったのに神の栄光と誉れを求めずにきてしまいました。こうしたすべての事にもかかわらず、私は今に至るまでに斟酌(しんしゃく)されているし、なお主の働きの中に引き留められているのです。そして、主によって神の好意の中へと迎え入れられている事を、私は確信しています。」 *しんしゃく;相手の事情・心情などを汲み取ること
彼は人生の晩年弱気になった訳でも自尊心が不健全に低かった訳でも無く、本当に敬虔な成熟した信仰者の2つの特徴を良く映し出しているとジェリー・ブリッジズは言います。それは以下です。
①自分自身の、神の前での罪深さを謙虚に事実として認める事
②それ以上に大きな「神の恵み」を感謝に満ちて受け入れる事
パウロはユダヤ人の信仰理解が一変する大変なチャレンジを投げかけました。それは、本当の「神の恵み」を理解する事です。
神様はこのパウロの手紙を通し、私たちにもメッセージを投げかけられます。歴史上の世界中のクリスチャン達に働き、彼らの人生を一変させた「神の恵み」を受け取るチャンスが私たちに与えられています。また、すでにクリスチャンとしてキリストと共に歩んでいる方々にも、今一度、主の前に我が身を振り返り、へりくだり、主の大きな恵みを受けていただく事、その「恵み」に精一杯お応えし、今後も人々の恵みとなる人生を歩んでいかれる様にとお勧め致します。
最後に、一般に神の戒めや信仰の戦いのメッセージより恵みのメッセージの方が耳に優しいという事を聞きます。しかし、聖書に従い牧会者の良心に基づき語られるという前提が守られているなら、それらのメッセージは1人1人のクリスチャンにとり皆有益なものと信じます。冒頭にお話した様に、真に愛ある親に愛情深さ寛大さと共に教訓的な面・毅然とした面、様々な面があるのと同様です。主にある牧会者・説教者の願いは皆同じ、主の民である皆様に、神様の望まれる本当に良い道・神を愛し聖書の教えに従う歩みをして頂きたいという事です。
今日お話ししたのはその主に従うモチベーションを常に持ち続けて主に期待し続けて前進して頂きたいという事です。恵みを頂いてそれで終わりではありません。いやむしろ恵みとは常に私たちの応答を求めるものです。皆様がますます神を愛し、恵みの道を歩まれます事を心よりお祈り致します。
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