2020年4月26日日曜日

「知れ。わたしこそ神」詩篇46:1~11


新型コロナウイルス問題の終息が見えない状況が続いています。しかし、そのような中各々置かれた場所は異なりますが、私たちが四日市キリスト教会として一つに結ばれ、神を礼拝できること嬉しく思います。
今朝取り上げるのは旧約聖書の詩篇46篇です。これはわずか11節の小さな詩篇ながら、表現の雄大さと揺らぐことのない信仰者の姿を描いた名篇と言われます。特に危機の中にある信仰者たちの心の拠り所として愛されてきました。
宗教改革の雄ルターはこの詩篇に基づいて、讃美歌267番「神はわがやぐら」を作りました。説教の後私たちがともに歌う讃美歌です。
ある日ルターのもとに同志の一人が訪ねてきました。彼はそれまで味方に付いていた貴族が離れ去ったことに気落ちして「事態は最悪だ」と告げました。それに対してルターはこう答えたそうです。「戦いが苦しいのは、主がともにおられないからではない。主がそこで戦っておられる最も重要で、最も苦しい戦場にあなたを選ばれたからだよ。星を見よう。主の御手の中であんなに美しく輝いているじゃあないか。心を静め、主がともにおられることを喜ぼう。そして、一緒に『神はわがやぐら』を歌おう。」
ウェスレイ兄弟についてはこんなエピソードがあります。二人がロンドンのハイドパークで説教をしていた時大きな地震が起こり、皆が地面に伏しました。その時兄のジョン・ウェスレイが詩篇46篇を朗唱すると、弟のチャールズ・ウェスレイが讃美歌を作ってそれに応えたのです。「主よ、何と私達は幸いでしょう。あなたを人生の土台とする私達は。一体何が私達の土台を崩すことができるでしょう。たとえこの世界が崩れ去ったとしても。」
ルターとその同志がカトリック教会との戦いの中、心の拠り所にした詩篇。ウェスレイ兄弟が地震の際、心の拠り所にした第46篇。今新型コロナ問題で世界中が大変な状況にある時、私達も代々のクリスチャンが愛してきたこの名篇を心の拠り所にできたらと願うのです。
さて、この詩篇の背景には一つの歴史的な事件があると言われています。それは、紀元前8世紀アッシリアの大軍に攻め込まれたユダの国が、神の奇跡的な介入によって滅亡から救われたという出来事です。
当時ユダの国は南にエジプト、北にアッシリアという二つの大国に挟まれ右往左往。「アッシリアと同盟を結ぶべし」という親アッシリア派と「エジプトに頼るほうが良い」とする親エジプト派が対立し、国は分裂。その様な状況で「信頼すべきは主なる神のみ」という信仰に立つのはヒゼキヤ王と預言者イザヤ等ごくわずかな人々に過ぎませんでした。
アッシリアを頼みとせず、エジプトにも媚びず、ただ神を信頼するヒゼキヤ王の態度に業を煮やしたアッシリアの王はやがて大軍を率いてユダを攻め、都エルサレムを包囲。ネズミ一匹逃げ出せないという完全な包囲網を築くと、使者を遣わしました。「ヒゼキヤの信じる神が、俺たちの攻撃からお前たちを救い出せるものか。」と都の人々を脅かします。これを聞いた人々は動揺しますが、ひとりヒゼキヤは主に祈ったのです。

イザヤ37:15~20「ヒゼキヤは【主】に祈った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の【主】よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。【主】よ。御耳を傾けて聞いてください。【主】よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセンナケリブのことばをみな聞いてください。
【主】よ。アッシリアの王たちが、すべての国々とその国土を廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらが神ではなく、人の手のわざ、木や石にすぎなかったので、彼らはこれを滅ぼすことができたのです。私たちの神、【主】よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが【主】であることを知るでしょう。」

 天と地を創造した神を信じるヒゼキヤは「わたしがアッシリアの王を国に引揚げ、そこで倒す。」とのお告げを受けていました。このことばを信じて、ヒゼキヤは祈りをささげたのです。その祈りに応えて神がアッシリア軍18万5千を全滅させると、アッシリアの王セナケリブはすごすごと陣をたたみ、国に逃げ帰ることしかできなかったと聖書は語るのです。私たちもこの出来事を心にとめながら第46篇を読み進めてゆきます。

46:1~3「神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。」

聖書において山は動かざるもののシンボル。ここでは神の都エルサレムを指しています。それに対して、海は神に敵対するものの住処とされ、ここではアッシリア軍を示しています。都エルサレムが揺れ海の中に移る。海の水が立ち騒ぎ泡だつ。水かさが増して都が揺れ動く。これらは、アッシリア軍の猛攻撃とそれを恐れ動揺する都の人々の状況を描いたものと考えられます。今でいうなら戦後最大とも言われる感染症、パンデミックの中で不安になり、動揺する人々の姿を重ね合わせることができるでしょう。
しかし、人という人が動揺する状況で、詩人は断固神を賛美し、告白します。「神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。それゆえわれらは恐れない。」詩人がアッシリア軍を恐れないのは、自分たちの国に軍事力があるからでも、経済力があるからでもありませんでした。神が避け所、神が力、神が苦しむ時の助け、神がそこにある助け手だったからです。
軍事、経済、科学等人間が築きあげたものを力とし、助けとするこの世の人々。それに対し、神を力とし、神を助けとする神の民。果たして、私たちは今どちらの生き方を選択しているのか。ひとりひとり問われるところです。
こうして、泡立ち水かさを増す海によって迫りくる危機を、揺れる山々によって恐れ動揺する人々の心を描いた激動の一段落がつくと、第二段落は静かな川の流れで始まります。動から静への場面転換です。

46:4~7「川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。国々は立ち騒ぎ諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶ける。万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。」

ユダヤの都エルサレムを流れるシロアハの川は小さな流れです。エジプトのナイルやアッシリアのユーフラテスといった大河と比べれば、川とも呼べない程の小ささです。しかし、この小さな川こそ神の都つまり神の民の心を潤し、喜ばせる神の恵みのしるしなのだと詩人は歌います。
また、「神は朝明けまでにこれを助けられる。」ということばも、都が侵略された際、アッシリアの王が最終的な攻撃を仕掛ける前に、神が自ら介入し、ご自分の民を助けられたことを思い起こさせます。
神は人間の知恵や力を誇り、神を無視して生きるこの世界をさばきます。戦争、自然災害、疫病などその方法は様々です。私たちキリスト者もこの世界に生きる限り、それを避けることはできません。しかし、たとえその中にあって苦しむとしても、人々に攻撃されても、病に罹っても、肉体の命を失うとしても、私たちの永遠の命は神が守ると教えられるのです。
神の都を私たちキリスト者、聖なる所を教会に置き換えて4節、5節を読みます。「川がある。その豊かな流れは私たちを喜ばせる。いと高き方のおられるその教会を。神は私たちのただ中におられ、私たちは揺るがない。神は朝明けまでに私たちを助けられる。」
今世界という海は激しく波立ち、泡立っています。自分の有能さを示したいのか、国民に威勢の良いことを語る為政者がいます。徒に不安を駆り立てることばが横行しています。相手を非難し、対立を生むようなことばがいきかっています。デマや嘘もあとを絶ちません。いつもと違う生活で強いられるストレスを、身近な人に対する暴力で発散する者もいます。狂瀾怒濤の世界と言ったら言い過ぎでしょうか。
しかし、神が世界の歴史を導くお方であることを信じる者には平安があるのです。どんなに神を否定する人々の声が大きくても、私たちはこの世界に神の恵みを見ることができます。桜が咲いたことも、命がけで働く医療関係の方々、黙々と隣人のために働く人々の存在も、このような形で礼拝をささげられることも、愛する兄弟姉妹の存在も神の恵みです。
私たちには人を慰め、人を励まし、人に平安を与える神のことばも与えられています。今の世界を行きかうことばに流されず、惑わされず、神のことばにしっかりと耳を傾けながら、この状況をのりこえてゆきたいと思うのです。
「川がある。その豊かな流れは私たちを喜ばせる。いと高き方のおられるその教会を。神は私たちのただ中におられ、私たちは揺るがない。神は朝明けまでに私たちを助けられる。」
そして、最後の段落は、神がこの世界で繰り返される争いをやめさせ、絶対平和をもたらす。主イエスの再臨によって実現する預言のことばとなります。

46:8~11「来て見よ。【主】のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り槍を断ち切り戦車を火で焼かれる。「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。」

「弓をへし折り槍を断ち切り戦車を火で焼かれる。」驕り高ぶり、相争う人間たちに対する神のさばきは激しく、徹底的です。「来て、見よ。」この神のさばきのわざを見るように、私たちは命じられています。
このうち「火で焼く」ということばについて、ルターはこう説明しています。「火はすべてのものを灰にする。火で焼かれたものは二度と戻ってこない。神は審判の日に全世界を火をもって焼き尽くす。神の火はすべての争いと争いの原因である罪を完全に取り去り、片付け、何も残らないようにする。何故なら、戦いを法律によって防ぎ、あるいは暴力に暴力をもって応じることは、人間の中にある戦いを好む心が変わらない限り、真実でもなく、永遠でもない。」
神が私たちの心を争いを好むものから、平和を愛するものへと作り変えてくださることにルターは期待していました。神が争いと混乱を繰り返すこの世界を、平和な世界に作り変えてくださることを確信していたのです。
但し、神が私たちの心を変えてくださるのを、ただ待っていれば良いのではありません。ただ神がこの世界を新しくしてくださるのを黙って見ていればよいのでもありません。
神は私たちに「やめよ。知れ。わたしこそ神。」と命じています。ここに登場する「やめよ」ということばには「やめよ」の他に、「待て」「静まれ」「何かを達成しようと努力することをやめよ」等様々な翻訳があります。神は私たちが神を抜きにして人生に取り組み、この世界の問題に取り組むことを一旦やめて、「わたしこそ神であることを知れ」と命じているのです。
今私たちは人生に大変なことが起こったと感じています。この疫病が世界の政治、経済、文化にどれほど深刻な影響をもたらすことか。不安や恐れを覚えています。人生も世界も決して思い通りにはいかないものであると感じています。科学や政治、富や技術の進歩に最終的な救いはないとも感じています。
この様な状況の中、神は「あなたがあなたの人生の主ではなく、わたしが主であると知れ。」と命じているのです。「人間がこの世界の主ではなく、わたしこそこの世界の主であると知れ。」と語りかけているのです。
神を知ることは私たちの慰めです。何故なら、この世がいかに騒ぎ、神を侮っても、神は神であり、常にこの世界に対し恵み深いからです。世界規模の混乱が繰り返し、戦いがやまず、どんなに希望のない世界に見えようとも、この世界を新しくする神の計画は確実に実現に向かっているからです。
また、神を知ることは私たちの人生に意味をもたらします。神は特別に親しく私たちとともにおられ、私たちを守っておられます。私たちが今この世界に生かされているのは、救いの福音を伝え、愛のわざをなし、神が恵み深いお方であることを人々に証しするためなのです。私たちの罪の心もこの世界も神が必ず新しくしてくださる。この信仰に立って自分に何ができるか。自分は何をすべきか考え、行動する者でありたいのです。
「神はわがちから わが強き盾 苦しめる時の 近き助けぞ」皆でこの賛美歌を歌い、新しい一週間の歩みを進めてゆきます。 

2020年4月19日日曜日

「主の目と心とは」Ⅱ歴代誌7:11~16


 新型コロナウイルス感染症の問題が世界を覆っています。四日市キリスト教会も、先聖日から皆で集まることをせず、礼拝はインターネットで配信、諸集会は中止となりました。イースターの聖日に教会の皆様に会うことが出来ませんでした。当たり前のように行っていた諸集会、毎週顔を会わせていた方々と会うことが出来ない状況。頭では、集まらないことの意味を理解しているものの、やはり大きな寂しさを味わう期間となっています。教会生活だけでなく、多くの人がこれまでと異なる日常生活を強いられる事態。数か月前には、想像も出来なかった状況を迎えています。様々な情報が飛び交い、不満不平の声が広がり、終わりが見えない。命の危険を身近に感じ、経済的な不安に覆われる日々。私たち信仰者はこの事態をどのように受け止め、何に取り組んだら良いのでしょうか。今日は「神様がともにおられる」という視点で、皆様とともに考えたいと思います。


私たちが信仰の基とする聖書は「神様の約束の書」です。「旧約聖書」「新約聖書」と呼びますが、それはつまり、神様が人と結ばれた契約が記されている書という意味です。聖書の中には、神様が神の民と結ばれた契約がいくつもありますが、それらはばらばらの契約ではなく、統一された約束が含まれています。それでは聖書が示す神の約束の中心は何でしょうか。それは「神様がともにおられる」ことです。

 「神様がともにおられる」、とはいえ、そもそも神様はその存在において無限の方です。神様がおられないところはなく、全ての被造物は神様とともにいるとも言えます。この意味において、この世界にある全てのものは「神様とともにいる」ことになります。「神様がともにおられる」のは当然のこと。
しかし、被造物の殆どは、神様を認識することが出来ません。神様の愛を受け止め、自ら神様を愛することが出来ない。「神様がともにおられる」ことの意味を理解し、それを喜ぶことが出来るのは、全被造物の中でも特別に造られたもの。神のかたちに造られた人間に与えられた特権でした。
 創世記1章27節
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

 人は神のかたちに造られた。神様を知り、神様を愛することが出来る存在として造られた。全ての被造物は神様とともにいるという意味ではなく、「神様がともにおられる」ことの意味を理解し、それを喜ぶことが出来る存在として人は造られたのです。
 この神のかたちに造られた人間、アダムとエバが罪をおかしました。神様から離れる選択をしたのです。「神様とともにいる」ことで幸せに生きる人間が、神様から離れる選択をした。その結果、人も世界も死が満ちる悲惨な状態になりました。

 人が神様から離れた。それで悲惨な状態になろうとも自業自得。人間からすれば、絶体絶命、これで終わりというところ。しかし、神から離れる選択をした人間に対して、神様が歩みよって下さったというのが、聖書が繰り返し教えていることでした。神の民の祖であるアブラハムに対して、神様が与えた契約の中心は、次の箇所に出てきます。
 創世記17章7節
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。

 神様から離れた人間、罪人に対して、神様は「わたしはあなたの神となる。」と言われる。人が神を神としない選択をしたにも関わらず、神様は「わたしがあなたの神ですよ」と言って下さる。神様はご自分が選ぶ者に対して、「わたしがあなたの神となる。」「あなたは神の民となる。」という約束を与え、その約束を果たす方。聖書は繰り返し、この約束が出て来ます。
 この「わたしがあなたの神となる。」「あなたは神の民となる。」という約束が、具体的に何を意味するのか。その一つの表れが、神様が神の民の中に住むこと、「神様がともにおられる」ことです。

旧約の時代、神様がともにおられることを示すものとして、モーセを通して「神の幕屋」が造られました。またダビデに「神殿」の約束が与えられ、その子ソロモンによって建立されます。神の民の歩みの中で、幕屋から神殿へと形が変わりますが、これらは「神様がともにおられる」ことを示すものでした。
旧約の時代、「神様がともにおられる」ことの目に見えるしるしとして与えられた幕屋や神殿。しかし、神の民が繰り返し罪を犯した結果、神殿は破壊されました。旧約聖書における一大事件、バビロン捕囚です。神様が神の民の中に住むことを示していた神殿が破壊された。それでは、繰り返し言われてきた「わたしがあなたの神となる。」「あなたは神の民となる。」という約束は、破棄されたということになるのか。神様がともにおられることは、金輪際なくなったのか。
このバビロン捕囚の時代の預言者が、重要な約束を伝えています。
 エレミヤ31章33節
これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 神殿破壊が起こるその最中、預言者エレミヤを通して語られたのは、やがて新しい契約が結ばれるというもの。新しい契約と言っても、これまでと全く違う契約ではなく、これまで同様の契約。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」というものです。しかし、これまでと異なることもあり、新しい契約の時代は、律法が心に書き記される時代とも言われます。この律法が心に書き記されるとは、どのような意味なのか。

 このエレミヤと同時代の預言者、エゼキエルは新しい契約について、次のように告げています。
 エゼキエル36章26節~28節
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。

 エレミヤもエゼキエルも、新しい契約はそれまでと同様に、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」ということは変わらないことを強調しています。この神様の思い、この神様の約束は、聖書を貫いているものです。
それでは、モーセ契約で天幕、ダビデ契約で神殿として示された「神様が神の民の中に住む」ことは、変わるのか、変わらないのか。変わるとしたら、どのように変わるのでしょうか。
新しい契約では、「律法が心に書き記される」、それはつまり、「神様の霊が神の民に授けられて、神の民は聖書に従うようになる」と言われています。天幕や神殿という場所が、神様がともにおられることを示すのではなく、神の民自身に神の霊が注がれる。神の民に、神の霊が授けられることが、神様がともにおられることを示す時代が来ると宣言されているのです。

 それでは「神様の霊が神の民に授けられて、神の民は聖書に従うようになる」というのは、いつ実現したでしょうか。皆様ご存知のこと。二千年前、復活したイエス様が天に昇られた直後。ペンテコステの日に実現します。風のような響き、炎のような舌という目で見えるしるし、外国語で話せるようになるというしるしを伴って、明確に神の霊が下さったことが示されました。エレミヤやエゼキエルが預言していた待望の日。
そしてあの日、聖霊を受けたペテロが語った説教が聖書に収録されていますが、その最後に重要な約束が宣言されていました。                                                       
使徒2章38節~39節
「そこで、ペテロは彼らに言った。『それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。』

 「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」という約束は、キリストを信じる者に引き継がれる。キリストを信じる一人一人に聖霊が与えられることが、「神様がともにおられる」しるしとなる。ペテロを通して与えられた大宣言でした。私たちに与えられている約束が、どれほど凄いものか、改めて覚えたいと思います。

「神様がともにおられる」ことを喜ぶ存在として造られた人間。罪をおかし、人間が神様から離れたのに、神様はともにいると言われる。神の民に対して繰り返し約束が告げられ、幕屋が造られ、神殿が造られ、今やキリストを信じる者一人一人に聖霊が与えられる。この一連を背景にして、パウロは大胆にも私たちが神殿なのだと言います。
 Ⅰコリント3章16節
あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。

 キリストを信じる私たちは、それぞれが神の宮であり、御霊がともにいて下さることを、しっかりと受け止めたいと思います。
その上で、皆で読みたいのが約三千年前、ソロモンが神殿を建てた後にささげた祈りと、神様の応答の場面。第二歴代誌の六章と七章です。神殿建立を志したのはダビデ王でした。しかし、戦いに明け暮れた人生を送ったダビデは、神殿を建てることが許されず(Ⅰ歴代誌28章3節)、その子ソロモンが建立します。第二歴代誌の六章には、神殿が完成した時のソロモンの奉献の祈りが記録されています。壮大、雄大な祈り。是非とも祈りの全てを読んで頂きたいと思いますが、今日はその中の一部を確認します。ここに、疫病が起きた時のことが祈られているのです。
 Ⅱ歴代誌6章26節~30節
彼らがあなたの前に罪ある者となって、天が閉ざされ雨が降らなくなったとき、彼らがこの場所に向かって祈り、御名をほめたたえ、あなたが苦しませたことによって彼らがその罪から立ち返るなら、あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたち、あなたの民イスラエルの罪を赦してください。彼らの歩むべき良い道を彼らに教え、あなたの民に相続地としてお与えになったあなたの地に雨を降らせてください。この地に飢饉が起こり、疫病や立ち枯れや黒穂病、いなごやその若虫が発生したときでも、敵がこの地の町々を攻め囲んだときでも、どのようなわざわい、どのような病気であっても、だれでもあなたの民イスラエルが、それぞれ自分の疫病や痛みを思い知らされて、この宮に向かって両手を伸べ広げて祈るなら、どのような祈り、どのような願いであっても、あなたご自身が、御座が据えられた場所である天から聞いて、赦し、一人ひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あなたはその心をご存じです。あなただけが、すべての人の子の心をご存じだからです。

 祈りの全体を読んで頂くとよく分かりますが、ソロモンの思いの根底にあるのは、自分たちは罪人であり、神様の赦しが必要であること。苦しみや災いは、悪から立ち返る機会、悔い改めの機会になること。そのため、神の民が痛みの中で、神殿に向かって祈る時、その祈りを聞いて、赦し、癒して欲しいと願います。
疫病を前にした信仰者は、悪から立ち返ること、悔い改めること、神様に祈ることに取り組むように教えられるのです。

 そしてこのソロモンの祈りに神様が言葉で応えて下さるのが続く七章。その冒頭部分を確認いたします。
 Ⅱ歴代誌7章11節~16節
こうしてソロモンは、主の宮と王宮を建て終え、主の宮と自分の宮殿について行おうとしていた、彼の心にあったすべてのことを見事に実現した。その夜、主はソロモンに現れ、彼に言われた。「わたしはあなたの祈りを聞き、この場所をわたしにいけにえを献げる宮として選んだ。わたしが天を閉ざして雨が降らなくなったり、あるいはわたしがバッタに命じてこの地を食い尽くさせたりして、わたしがわたしの民に対して疫病を送ったときには、わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。今、わたしはこの場所でささげられる祈りに目を開き、耳を傾ける。今、わたしはこの宮を選んで聖別した。それはとこしえにわたしの名をそこに置くためである。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。

 神様がともにおられることを示す神殿。その神殿でささげられる祈りに、神様は目を開き、耳を傾けると言われる。主の目と心は、いつも神殿にあると言われています。この神殿が、イエス様の救いの御業がなされてからは、信仰者なのです。私たち一人一人が神の宮であり、私たち一人一人に主の目と心が注がれているのです。
その私たちが疫病を前にした時、取り組むべきことが、明確に教えられています。「自らへりくだり、祈りをささげ、神様の顔を慕い求めてその悪の道から立ち返る」こと。つまり真剣に神様に向き合い、悔い改め、悪の道から立ち返り、回復を願うということです。

 日に日に新型コロナウイルス感染症の問題が深刻になり、私たちの生活への影響が強くなる中で、皆様は何を考え、何に取り組んできたでしょうか。おそらく、これまでと異なる、多くのことに取り組まれてきたと思いますが、「自らへりくだり、祈りをささげ、神様の顔を慕い求めてその悪の道から立ち返る」ことには取り組まれたでしょうか。

 皆で礼拝をささげることが出来る。交わりをもち、奉仕をささげることが出来る。自分の願う時に、願う場所に行くことが出来る。安心、安全に生活が出来る。これまで当たり前のことだと思っていたことが、そうではなく大きな恵みであったと気付きました。改めて、自分たちは罪人であり、神様の赦しが必要であること。苦しみや災いは、悪から立ち返る機会、悔い改めの機会にしたいと思います。
何故このような大きな災禍が起きているのか。世界を支配されている神様は、何故この問題が起こることを許されているのか。その答えを私たちが勝手に言って良いものではないと思います。そのため、私の罪のためにこの問題が起こったとは言えません。しかし、疫病を前にした時、信仰者である私たちが、自分の罪を悔い改めること、そして回復を願うことは非常に重要なことでした。「祈りしか出来ない」と言うのではなく、祈ることの意義、意味を再確認したいと思います。神の目と心が注がれている者、神の宮である自覚とともに、悔い改めと願いをささげる者でありたいと思います。

2020年4月12日日曜日

イースター「十字架と復活に向けて(5)~いつもあなたがたとともに~」マタイ28:1~20


 今年の受難節「十字架と復活へ向けて」と言うテーマのもと、私たちはマタイの福音書の終盤を読み進めてきました。第一回は「耐え忍ぶ」という題で24章を取り上げ、神がこの世界を新しくしてくださる希望を抱きつつ、世界規模の混乱や苦難を忍耐する必要があることを学びました。
第二回は「小さな者たちの一人にしたこと、しなかったこと」という題で25章を開き、主イエスの再臨を待つ間私たちには、貧しい者、飢え渇く者、虐げられる者、迫害される者に仕える使命が与えられていること確認しました。第三回は「激しく泣いた」という題で26章を読み、十字架の苦難を目前にしながら、ご自分を裏切る弟子たちを思い、彼らに愛を注ぐ主イエスの姿を見ることができました。先週の第四回は「この方は神の子」という題で27章を扱い、十字架で父なる神にさばかれた主イエスが私たちにもたらした三つの恵み、神との親しい交わり、死に対する勝利、信仰を覚えることができたのです。
そして、今朝読み進める28章は主イエスの復活を記す章。「さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方…」ということばで始まります。

28:1~4「さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。」

二千年前の春四月、主イエスが死より復活した朝、墓にやって来たのは女たちです。マタイはマグダラのマリアともう一人のマリア、これは主イエスの弟子ヤコブとヨハネの母のことですが、二人の女性の名をあげています。ルカはこれに加え数名の女性の名をあげていますから、恐らくこの二人のマリアが女性たちのリーダーだったのでしょう。
女性たちはアリマタヤのヨセフの協力によって、主イエスの遺体を十字架から降ろし、埋葬するのを見守りました。しかし、その埋葬は慌ただしく行われ、花飾りも賛美歌もない、侘しいもの。その一部始終を見守ると、彼女たちは夜道を帰り、安息日は一日中家に閉じこもっていましたが、日曜日となるのを待ち、墓に戻って来たのです。三日前には、遺体に香料もかけず葬ったので、今日こそはと思い、急いで墓に来たらしいのです。
道を急ぐ女性たちには一つの心配がありました。それは、墓の入り口を固く閉ざす大きな石の扉のこと。「男の手だって動かすのが大変な石の扉を、女の手で動かすことができるだろうか」との心配です。
しかし、墓に到着した女性たちは驚き、息をのみました。突如地震が起こり、天から降った主の使いが墓の石を転がし、その上に座ったというのです。姿は稲妻の如く、着物は雪の様に白い主の使い。それを見た兵士たちは震え上がり、死人ようになったとありますが、恐ろしさを感じたのは女性たちも同様だったでしょう。
けれども、み使いが語りかけたことばは彼女たちの心に希望をもたらしました。

28:5~8「御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。」

主の使いは「あなたがたが、十字架につけられたイエス(の遺体)を捜しているのは分かっています。」と語りかけました。女性たちにとって、主イエスは既に死者でした。三日前に死んでしまった存在です。語り合ったり、食事をしたり。主イエスはもはや現実の世界でともに生きることのできないお方へと変わってしまいました。愛する者を失い、彼女たちの心は悲しみと失望にふさがれていたのです。
この日の朝、彼女たちが墓に来たのは主イエスの復活を信じていたからではありません。主イエスの復活を期待してからでもありません。「イエス様の遺体に香料をかけ、香油を塗り、せめて人並みの埋葬をしてあげたい。そうすることで、少しでも恩に報いることができたら…。」これが彼女たちのささやかな願いだったでしょう。
しかし、「主イエスはここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。」と告げられた時、実際に墓がからであるのを確認した時、彼女たちは復活の証人となるよう命じられたのです。そこに主イエスが現れます。

28:9~10「すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」

主イエスの復活という最も大切な出来事の証人として最初に選ばれたのは、当時ユダヤの裁判において証人の資格なしと考えられていた女性でした。そんな世間から見下されていた女性の弟子を励ますため、主イエスは親しく近づき、「おはよう」と声をかけたのです。
懐かしい主の声を聴き、安心した女性たちは主イエスの体に触れ、礼拝し、勇気を与えられました。死んでしまったイエスを思い、悲しみと失望の中に沈んでいた女性たちが、復活の主イエスとともに未来に向かって歩み出したで瞬間です。
他方、この出来事に慌てふためいたのが主イエスを十字架刑に定めた張本人、祭司長や長老らユダヤの指導者たちでした。彼らは自分たちの権威を危うくしかねないこの出来事を封じるべく計略を練ります。

28:11~15「彼女たちが行き着かないうちに、番兵たちが何人か都に戻って、起こったことをすべて祭司長たちに報告した。そこで祭司長たちは長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。「『弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」そこで、彼らは金をもらって、言われたとおりにした。それで、この話は今日までユダヤ人の間に広まっている。」

自分達が十字架にかけた主イエスが復活したら、いや実際に復活しなくても噂が流れるだけでも絶体絶命、万事休すと考えたのでしょう。指導者たちはこの出来事をなかったことにすべく、番兵に金を握らせました。総督に対し、もっともらしい弁明をするよう知恵を授け、いざとなれば自分たちも説得に協力することを申し出たというのです。
しかし、よく見ると、この弁明は不自然でした。墓泥棒が活動している間番兵が眠り込み全く気がつかないという状況は不自然です。また、それ程熟睡していたのなら、遺体を盗んだのが弟子たちであることに気が付くというのも極めて不自然でしょう。
けれども、こんな辻褄の合わない話が真実であるかの如く、ユダヤ人の間に広まっているとマタイは書いています。当時の人々にとって、主イエスが死者の中から復活したという事実がいかに受け入れがたいことであったか。それを物語るエピソードです。
今も書店に並ぶキリスト教の本の中を見ると、「主イエスは十字架で死んだのではなく気絶していたにすぎず、墓の中で意識を回復し墓から出て来た」とか、「弟子たちがイエスの遺体を持ち去り、復活をでっち上げた」とか。主イエスの復活が歴史の事実であることを認めたくない人間たちの理屈は後を絶ちません。
しかし、そんな指導者たちの努力もむなしく、復活を信じた男の弟子たちが主イエスに会い、主イエスを礼拝すべく、皆でガリラヤに向かったとマタイは語るのです。

28:16~20「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

ヨハネの福音書によれば、主イエスが復活した記念すべき朝、彼らは「ユダヤ人を恐れて(家の)戸に鍵をかけていました」(20:19)。何故でしょうか。
マタイの福音書26章で確認しましたが、十字架の前日弟子たちが逃げ去ることを主イエスが預言した時、彼らは何と言ったでしょうか。皆が声をそろえて「たとえ他の者が躓いても私は躓きません。あなたから離れません。」と豪語したのではなかったでしょうか。それなのに、ペテロときたら大祭司の庭で三度「イエスなど知らない」と主を否定し、他の弟子たちもそれ以前いち早く逃げ去るという情けなさでした。
 彼らは主イエスを裏切ってしまったことに対する自責の念に苛まれていました。悔やんでも悔やみきれない過去に捕らわれ、自分達が犯した過ちから抜け出すことができずにいたのです。
 しかし、主イエスに言われた通りガリラヤに行き、主イエスと出会い、礼拝した時、彼らは過去から解放されました。何故なら彼らの罪を負い、十字架にかかり、死んで葬られ、復活した主イエスが彼らに生きる目的を与え、「世の終わりまであなたがたとともにいる。」と語りかけてくださったからです。
 但し、「中には疑う者たちもいた」とあることばが気になるという方もいるでしょう。しかし、この「疑う」ということば、完全な疑いとか不信仰というより、ためらいがちな信仰、半信半疑で確信のない信仰を意味すると考えられています。そうだとすれば、これはむしろ私たちにとって慰めです。復活に確信が持てない者をも、主イエスは「わたしの兄弟」と呼び、礼拝に招いておられるからです。
以上、マタイの福音書28章を読み終え、皆様は何を感じられたでしょうか。この箇所を通して、受け取ったメッセージは何でしょうか。私は、私たちを悲しみと苦しみの過去から解放し、未来に向かって歩み出す恵みを与えてくださる主イエスが、今も生きておられるのを確認し、覚えることができました。
皆様も二人のマリアのように愛する者を失い、悲しみと失望に落ち込んだ経験がおありかと思います。すべてがむなしく、生きる意味すら感じられない時を過ごした方もあるでしょう。また、男の弟子たちのように、悔やんでも悔やみきれない過ちを犯してことはないでしょうか。自責の念と後悔に捕らわれ、立ち直れないという経験はないでしょうか。人は誰しも過去に捕われてしまうことがあるのです。
しかし、私たちはその過去に戻り、やり直すことはできません。けれども、やり直すことはできなくてもその過去から解放されることはできるのです。何故なら、事実二千年前ユダヤの都エルサレムで主イエスが私たちの罪を負い、十字架にかかり、死んで葬られ、三日後に復活したからです。
私たちの救い主は死にとどまってはいませんでした。主イエスは過去に捕らわれてはいないのです。主イエスは復活し、今も生きておられるのです。そして、主イエスを信じる私たちも主イエスとともに生きてゆくのです。
悲しみと失望の過去から解放され、自責の念と後悔の過去から解放され、過去にではなく未来に向かって私たちは生きるのです。悲しみではなく喜びを胸に、嘆きではなく感謝に満たされ、さばきではなく罪の赦しを手にして、復活の主イエス・キリストとともにこの世界を歩んでゆくことができるのです。
私たちが歩む道は決して平坦ではありません。マタイの福音書24章で主イエスが語られたように、今回のコロナウィルスの様な世界規模の混乱を繰り返し経験しなければなりません。教会に対する苦難をも忍耐しなければならないのです。
しかし、そうであったとしても、やがて主イエスが到来して、すべての罪、すべての争い、すべての苦しみを取り去り、必ずこの世界を新しくする日が来る。これが私たちの確信です。
「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」今朝私たちはこの困難多き世界を、復活の主イエスと主イエスを信じる兄弟姉妹ととともに歩む恵みが与えられていること、心から感謝したいと思うのです。

2020年4月5日日曜日

レント「十字架と復活へ向けて(4)~この方は神の子~」マタイ27:39~56


2020年度最初の礼拝となりました。私たちの教会は3月第二週から受難節に入り、マタイの福音書を読み進めながら、主イエスの十字架の死と復活に心を向け礼拝を行っています。

3月第二週の礼拝では24章をとりあげ、十字架と復活から主イエスの再臨までの期間、この世界に起こる大規模な混乱と教会が忍耐すべき苦難の預言を確認しました。第三週の礼拝では25章を開き、主イエスの再臨を待ちつつ、主のしもべとして生きるべきこと、主イエスによる最後の審判の預言を学びました。これらの教えが語られたのが、十字架三日前のことです。

第四週の礼拝では26章に入り、十字架前日にどんな出来事が起こったのか見てきました。宗教指導者によるイエス暗殺計画。一人の女性による香油注ぎ。最後の晩餐。主イエスによる弟子たちの裏切りに関する預言。ゲッセマネでの祈り。弟子ユダの裏切りとイエスの逮捕、裁判。ペテロによるイエス裏切り事件。緊迫の場面が連続する章です。

そして、今日取り上げる27章は「さて夜が明けると」ということばで始まります。深夜から早朝にまで及んだユダヤ教の裁判。死刑判決を下された主イエスは、ローマ総督ピラトのもとで今度はローマ式裁判にかけられます。「主イエスに罪はなし」と判断したピラトは釈放を試みますが、ユダヤ人の反対に会い、結局主イエスを兵士の手に引き渡してしまいました。 

兵士たちが主イエスを処刑場に連行し、十字架の木にかけた時、既に朝は明け、時計の針は午前9時を指していたとマルコの福音書は記録しています。


27:39~44「通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。

彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」


 ここに描かれているのは午前9時から12時までの間、人々が口にしたことばです。この間顕著なのは嘲りと罵りでした。39節「通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。」、41節「同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。」、44節「イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」

 原文では嘲りも罵りも一時的なものではなく、ずっと継続していたことを示すことばが用いられています。つまり、主イエスは3時間の間道行く人々、民衆からも、宗教指導者からも、強盗からも嘲られ続け、罵られ続けていたのです。庶民からもエリートからも、善人からも悪人からも、男からも女からも嘲られ続け、罵られ続けていたというのです。。

 皆様は人に嘲られた経験はあるでしょうか。長い時間罵られ続けたことはあるでしょうか。それも一人ではなく周りを取り囲まれ、大勢の人に嘲られ、罵られ続けた経験はあるでしょうか。

嘲られ、罵られる。それは相手が一人であっても、たとえ一時であっても忍び難い事です。それが大勢の人によってたかって嘲られ続け、罵られ続ける。しかも、主イエスの場合十字架に釘づけにされた肉体の苦しみに耐えながらでしたから、どれ程の受難、忍耐であったことか。

 また、これとほぼ同じことばがマルコとルカの福音書にも記録されていますが、それらを比べてみると、人々の嘲りと罵りの内容はひとつであることが分かります。それは「十字架につけられるような者はキリスト、救い主ではない。」「十字架から降りて来られないような者がキリスト、神の子であるはずがない。」ということ。ことばを代えれば「イエスよ。お前は偽キリスト、自称神の子ではないか」との主張です。

 ここに見られるのは、人々が思い描く救い主と、主イエスが目指す救い主との間にある大きなずれです。人々は「十字架から降りてきたら、お前を信じる。」と言っています。彼らが願うのは、たとえローマの兵士たちに十字架につけられても、それをものともせずに打ち壊してしまう。そんな目に見える物理的な力強さをもつ救い主であり神の子でした。

 どれ程悪者に痛めつけられても、最後には秘めたる力を発揮して悪者を倒し、人々を苦しみから助け出す。そんなヒーローの様な救い主を昔から人間は求め続けてきたと言えるでしょうか。

 しかし、主イエスは降りようとはしませんでした。主イエスの能力からすれば、十字架から降りる等たやすいことです。けれど、それにも関わらず、主イエスは十字架にとどまり続けました。人間の罪を贖うためには十字架の苦難を受けねばならない。これが神のみこころであると知り、みこころに従う道を選ばれたからです。

 マタイの福音書26章には、ゲッセマネの園で父なる神に祈る主イエスの姿がありました。それを見ると、主イエスにとって十字架の苦難は悲しみのあまり死ぬほどの試練であった事が分かります。主イエスの心には、悩みと葛藤の中で父なる神にささげた祈りと決意があったことを、私たち忘れてはならないと思います。

さて、嘲りと罵りに満ちた騒々しさが12時になった途端静寂に変わりました。騒々しさと沈黙、明るさと暗闇。12時からは、これが同じ場所かと思う程様子が一変するのです。


27:45~46「さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」


聖書全体から見ると、暗闇は神を拒む人々に対するさばきのしるしです。昔イスラエルの民がエジプトの支配から助け出される際、神がエジプトを打ち、暗闇が全土を覆ったとあります。また、最後の審判が行われる際も「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ちて、世界は暗闇に包まれる。人々は神の怒りを恐れ、逃げ惑う。」(黙示録6:12~17)全世界を暗闇が覆うと預言されています。

今から二千年前、神は人類の罪を背負った主イエスを徹底的にさばかれました。その為この日この時、ユダヤの全地が暗闇で覆われたと言うのです。出エジプトの際、神が暗闇をもってエジプトをさばかれた時、イスラエルの民は子羊の血を家の門柱に塗りつけました。子羊を屠り、その血を家の門柱に塗る者は神のさばきに会うことなく、救われるとの約束を信じたからです。

同じく、主イエスを救い主と信じる者が神のさばきを免れ、罪から救われるため、主イエスは過ぎ越しの祭りが祝われたこの日、神の徹底的な怒りをその身に受けられたのです。

神のさばきを直接受けることがどれ程の痛み、苦しみであるのか。主イエスが力を振り絞って口にしたことばから、私たちはその一端を伺うことができます。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

信頼する神からさばかれ、見捨てられるという痛み。天の父の愛を全く感じられない世界に落とされるという苦しみ。父なる神による直接的なさばきは、主イエスにとって十字架刑による肉体の苦しみ以上の痛み、人々から嘲られ罵られること以上の苦しみだったと思われます。

しかし、無情にも主イエスの痛み、苦しみを思いやる者、その意味を理解する者はいませんでした。十字架のまわりにいた人々は神のさばきを恐れることもなく、むしろ囚人の苦しむ様を楽しもうとしていたらしく見えます。


27:47~49「そこに立っていた人たちの何人かが、これを聞いて言った。「この人はエリヤを呼んでいる。」そのうちの一人がすぐに駆け寄り、海綿を取ってそれに酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けてイエスに飲ませようとした。ほかの者たちは「待て。エリヤが救いに来るか見てみよう」と言った。」


「エリ」とは「わが神」という意味のアラム語です。それを旧約の預言者エリヤと聞き違えたのでしょうか。「やあ、あのエリヤを呼んでいるのか。エリヤが助けに来ると言うのなら、見てやろう。」と騒ぎだす者たちがいる。かと思えば、飲み残しの安ぶどう酒を飲ませ、主イエスの延命をはかる者もいました。但しこれは、慈悲の心からというより、主イエスがより長く苦しむ様を楽しもうという冷酷な心から差し出されたものと考えられます。

こうして読み進めてくると、十字架の受難と忍耐に意味はあったのか。主イエスの死は私たちにどんな恵みをもたらしたのかと心配になります。しかし、続く出来事は、主イエスの死の恵みが確実に私たちのもとに届けられたことを物語っていました。


27:50~56「しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子たちの母がいた。」


「すると見よ」と書いたマタイは、主イエスの死とともに起こった出来事に私たちが眼を向けるよう促します。ここには、主イエスがもたらした恵みが三つ記録されていました。

一つは、主イエスを信じる者は神といつでも親しく交わることができるようになったことです。都エルサレムにある神殿の幕は聖なる神と罪人を隔てるシンボルでした。旧約聖書の時代、ただ一人イスラエルを代表する大祭司が、年に一度だけ神のご臨在を示す至聖所に入る際、通ることが許されていた幕。他の人すべてを神から遠ざけていた幕が、この日主イエスの死によって完全に裂けたと言うのです。

主イエスを信じる者は大人も子どもも、富める者も貧しき者も、健康な人も病人も、社会的立場があってもなくても、神を父と呼び、親しく交わる恵みを与えられたこと、確認したいところです。

主イエスの十字架の死がもたらした恵みの二つ目は、すべての人が恐れる死に対する勝利でした。この日神のさばきによって地震が起こり、都にある墓が開きました。そこから聖徒即ち神を信頼する死者が、主イエスの復活の後復活し、都の人々の前に現れたと言うのです。この事実を記録しているのはマタイの福音書だけです。

主イエスの十字架の恵み、その三つ目は罪人の心にもたらされる信仰です。主イエスの死は、十字架刑の執行人であるローマ軍団の百人隊長とその部下数名を神聖な告白者へと導きました。彼らは自らの手で十字架につけた主イエスに対し「この方は神の子であった」と告白したのです。

百人隊長とその部下と言えば占領軍の勝利者です。属国の民ユダヤ人を見下していた誇り高き帝国軍人です。彼らから見れば十字架につけられた主イエスの存在など虫けら同然、同情心のかけらさえ持ち合わせてはいなかったでしょう。

それがどうしたことでしょうか。十字架上の主イエスの忍耐と謙遜、ご自分を嘲る者たちへの愛、父なる神に信頼する姿などを見るうちに高慢な心が砕かれ、ついに「この方は神の子であった」という信仰が芽生えたのです。

この時、十字架のまわりにいた都の人々は主イエスを嘲るばかり。主イエスの弟子でさえ、三人の女性はその恩を忘れず、主イエスの姿を遠くから見守っていたものの、男の弟子ときたら十字架の場にいたのはヨハネただ一人、他はみな離れ去っていました。ですから、余計に百人隊長とその部下に与えられた恵みが際立つ場面です。私たちも十字架の主イエスを自分の救い主と告白する信仰を与えられた恵み、感謝したいと思います。

以上、主イエスの十字架の死の場面を読み終え、皆様は何を思われるでしょうか。どの様な恵みを受け取ることができたでしょうか。私が受けた恵みは、十字架に示された自分の罪の悲惨さと、それにも関わらず注がれる神の愛です。

ウェストミンスター大教理問答第152問は罪について語ります。「問、すべての罪は、神の御手にあって何に価するか。答、すべての罪は、最も小さい罪でも、神の主権、慈愛、きよさに逆らい、神の正しい律法に反するものであるから、この世でも来世でも神の怒りと呪いに値する。私たちの罪はただキリストの血による以外に贖われることはできない。」

父なる神は主イエスを徹底的にさばきました。十字架刑による肉体の痛みや人々の嘲りによる精神的苦しみだけでなく、直接御手を下して主イエスを神の愛のない世界に落とし、見捨てたのです。主イエスが受けた神の怒りとのろいは、本来私たちが受けるべきものでした。

父なる神には愛する御子イエスをさばき、見捨てなければならない苦しみがありました。御子イエスには愛する父にさばかれ、見捨てられる苦しみがありました。何故父なる神も、主イエスもこれ程の苦しみを引き受けられたのでしょうか。それはひとえに、全く愛される理由などない者、愛されるに値しない私たちへの愛の故なのです。

今週は特に受難週となります。神の聖なる眼から見る時、私たちの罪がいかに酷いものであるのか。それにもかかわらず、神にとって私たちの存在がどれ程かけがえのない、大切なものであるのか。そのことを思い巡らしつつ、主の行かれた道を進む者でありたいと思います。