新型コロナウイルス感染症の問題が世界を覆っています。四日市キリスト教会も、先聖日から皆で集まることをせず、礼拝はインターネットで配信、諸集会は中止となりました。イースターの聖日に教会の皆様に会うことが出来ませんでした。当たり前のように行っていた諸集会、毎週顔を会わせていた方々と会うことが出来ない状況。頭では、集まらないことの意味を理解しているものの、やはり大きな寂しさを味わう期間となっています。教会生活だけでなく、多くの人がこれまでと異なる日常生活を強いられる事態。数か月前には、想像も出来なかった状況を迎えています。様々な情報が飛び交い、不満不平の声が広がり、終わりが見えない。命の危険を身近に感じ、経済的な不安に覆われる日々。私たち信仰者はこの事態をどのように受け止め、何に取り組んだら良いのでしょうか。今日は「神様がともにおられる」という視点で、皆様とともに考えたいと思います。
私たちが信仰の基とする聖書は「神様の約束の書」です。「旧約聖書」「新約聖書」と呼びますが、それはつまり、神様が人と結ばれた契約が記されている書という意味です。聖書の中には、神様が神の民と結ばれた契約がいくつもありますが、それらはばらばらの契約ではなく、統一された約束が含まれています。それでは聖書が示す神の約束の中心は何でしょうか。それは「神様がともにおられる」ことです。
「神様がともにおられる」、とはいえ、そもそも神様はその存在において無限の方です。神様がおられないところはなく、全ての被造物は神様とともにいるとも言えます。この意味において、この世界にある全てのものは「神様とともにいる」ことになります。「神様がともにおられる」のは当然のこと。
しかし、被造物の殆どは、神様を認識することが出来ません。神様の愛を受け止め、自ら神様を愛することが出来ない。「神様がともにおられる」ことの意味を理解し、それを喜ぶことが出来るのは、全被造物の中でも特別に造られたもの。神のかたちに造られた人間に与えられた特権でした。
創世記1章27節
「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」
人は神のかたちに造られた。神様を知り、神様を愛することが出来る存在として造られた。全ての被造物は神様とともにいるという意味ではなく、「神様がともにおられる」ことの意味を理解し、それを喜ぶことが出来る存在として人は造られたのです。
この神のかたちに造られた人間、アダムとエバが罪をおかしました。神様から離れる選択をしたのです。「神様とともにいる」ことで幸せに生きる人間が、神様から離れる選択をした。その結果、人も世界も死が満ちる悲惨な状態になりました。
人が神様から離れた。それで悲惨な状態になろうとも自業自得。人間からすれば、絶体絶命、これで終わりというところ。しかし、神から離れる選択をした人間に対して、神様が歩みよって下さったというのが、聖書が繰り返し教えていることでした。神の民の祖であるアブラハムに対して、神様が与えた契約の中心は、次の箇所に出てきます。
創世記17章7節
「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。」
神様から離れた人間、罪人に対して、神様は「わたしはあなたの神となる。」と言われる。人が神を神としない選択をしたにも関わらず、神様は「わたしがあなたの神ですよ」と言って下さる。神様はご自分が選ぶ者に対して、「わたしがあなたの神となる。」「あなたは神の民となる。」という約束を与え、その約束を果たす方。聖書は繰り返し、この約束が出て来ます。
この「わたしがあなたの神となる。」「あなたは神の民となる。」という約束が、具体的に何を意味するのか。その一つの表れが、神様が神の民の中に住むこと、「神様がともにおられる」ことです。
旧約の時代、神様がともにおられることを示すものとして、モーセを通して「神の幕屋」が造られました。またダビデに「神殿」の約束が与えられ、その子ソロモンによって建立されます。神の民の歩みの中で、幕屋から神殿へと形が変わりますが、これらは「神様がともにおられる」ことを示すものでした。
旧約の時代、「神様がともにおられる」ことの目に見えるしるしとして与えられた幕屋や神殿。しかし、神の民が繰り返し罪を犯した結果、神殿は破壊されました。旧約聖書における一大事件、バビロン捕囚です。神様が神の民の中に住むことを示していた神殿が破壊された。それでは、繰り返し言われてきた「わたしがあなたの神となる。」「あなたは神の民となる。」という約束は、破棄されたということになるのか。神様がともにおられることは、金輪際なくなったのか。
このバビロン捕囚の時代の預言者が、重要な約束を伝えています。
エレミヤ31章33節
「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
神殿破壊が起こるその最中、預言者エレミヤを通して語られたのは、やがて新しい契約が結ばれるというもの。新しい契約と言っても、これまでと全く違う契約ではなく、これまで同様の契約。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」というものです。しかし、これまでと異なることもあり、新しい契約の時代は、律法が心に書き記される時代とも言われます。この律法が心に書き記されるとは、どのような意味なのか。
このエレミヤと同時代の預言者、エゼキエルは新しい契約について、次のように告げています。
エゼキエル36章26節~28節
「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」
エレミヤもエゼキエルも、新しい契約はそれまでと同様に、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」ということは変わらないことを強調しています。この神様の思い、この神様の約束は、聖書を貫いているものです。
それでは、モーセ契約で天幕、ダビデ契約で神殿として示された「神様が神の民の中に住む」ことは、変わるのか、変わらないのか。変わるとしたら、どのように変わるのでしょうか。
新しい契約では、「律法が心に書き記される」、それはつまり、「神様の霊が神の民に授けられて、神の民は聖書に従うようになる」と言われています。天幕や神殿という場所が、神様がともにおられることを示すのではなく、神の民自身に神の霊が注がれる。神の民に、神の霊が授けられることが、神様がともにおられることを示す時代が来ると宣言されているのです。
それでは「神様の霊が神の民に授けられて、神の民は聖書に従うようになる」というのは、いつ実現したでしょうか。皆様ご存知のこと。二千年前、復活したイエス様が天に昇られた直後。ペンテコステの日に実現します。風のような響き、炎のような舌という目で見えるしるし、外国語で話せるようになるというしるしを伴って、明確に神の霊が下さったことが示されました。エレミヤやエゼキエルが預言していた待望の日。
そしてあの日、聖霊を受けたペテロが語った説教が聖書に収録されていますが、その最後に重要な約束が宣言されていました。
使徒2章38節~39節
「そこで、ペテロは彼らに言った。『それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。』
「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」という約束は、キリストを信じる者に引き継がれる。キリストを信じる一人一人に聖霊が与えられることが、「神様がともにおられる」しるしとなる。ペテロを通して与えられた大宣言でした。私たちに与えられている約束が、どれほど凄いものか、改めて覚えたいと思います。
「神様がともにおられる」ことを喜ぶ存在として造られた人間。罪をおかし、人間が神様から離れたのに、神様はともにいると言われる。神の民に対して繰り返し約束が告げられ、幕屋が造られ、神殿が造られ、今やキリストを信じる者一人一人に聖霊が与えられる。この一連を背景にして、パウロは大胆にも私たちが神殿なのだと言います。
Ⅰコリント3章16節
「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」
キリストを信じる私たちは、それぞれが神の宮であり、御霊がともにいて下さることを、しっかりと受け止めたいと思います。
その上で、皆で読みたいのが約三千年前、ソロモンが神殿を建てた後にささげた祈りと、神様の応答の場面。第二歴代誌の六章と七章です。神殿建立を志したのはダビデ王でした。しかし、戦いに明け暮れた人生を送ったダビデは、神殿を建てることが許されず(Ⅰ歴代誌28章3節)、その子ソロモンが建立します。第二歴代誌の六章には、神殿が完成した時のソロモンの奉献の祈りが記録されています。壮大、雄大な祈り。是非とも祈りの全てを読んで頂きたいと思いますが、今日はその中の一部を確認します。ここに、疫病が起きた時のことが祈られているのです。
Ⅱ歴代誌6章26節~30節
「彼らがあなたの前に罪ある者となって、天が閉ざされ雨が降らなくなったとき、彼らがこの場所に向かって祈り、御名をほめたたえ、あなたが苦しませたことによって彼らがその罪から立ち返るなら、あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたち、あなたの民イスラエルの罪を赦してください。彼らの歩むべき良い道を彼らに教え、あなたの民に相続地としてお与えになったあなたの地に雨を降らせてください。この地に飢饉が起こり、疫病や立ち枯れや黒穂病、いなごやその若虫が発生したときでも、敵がこの地の町々を攻め囲んだときでも、どのようなわざわい、どのような病気であっても、だれでもあなたの民イスラエルが、それぞれ自分の疫病や痛みを思い知らされて、この宮に向かって両手を伸べ広げて祈るなら、どのような祈り、どのような願いであっても、あなたご自身が、御座が据えられた場所である天から聞いて、赦し、一人ひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あなたはその心をご存じです。あなただけが、すべての人の子の心をご存じだからです。」
祈りの全体を読んで頂くとよく分かりますが、ソロモンの思いの根底にあるのは、自分たちは罪人であり、神様の赦しが必要であること。苦しみや災いは、悪から立ち返る機会、悔い改めの機会になること。そのため、神の民が痛みの中で、神殿に向かって祈る時、その祈りを聞いて、赦し、癒して欲しいと願います。
疫病を前にした信仰者は、悪から立ち返ること、悔い改めること、神様に祈ることに取り組むように教えられるのです。
そしてこのソロモンの祈りに神様が言葉で応えて下さるのが続く七章。その冒頭部分を確認いたします。
Ⅱ歴代誌7章11節~16節
「こうしてソロモンは、主の宮と王宮を建て終え、主の宮と自分の宮殿について行おうとしていた、彼の心にあったすべてのことを見事に実現した。その夜、主はソロモンに現れ、彼に言われた。「わたしはあなたの祈りを聞き、この場所をわたしにいけにえを献げる宮として選んだ。わたしが天を閉ざして雨が降らなくなったり、あるいはわたしがバッタに命じてこの地を食い尽くさせたりして、わたしがわたしの民に対して疫病を送ったときには、わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。今、わたしはこの場所でささげられる祈りに目を開き、耳を傾ける。今、わたしはこの宮を選んで聖別した。それはとこしえにわたしの名をそこに置くためである。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。」
神様がともにおられることを示す神殿。その神殿でささげられる祈りに、神様は目を開き、耳を傾けると言われる。主の目と心は、いつも神殿にあると言われています。この神殿が、イエス様の救いの御業がなされてからは、信仰者なのです。私たち一人一人が神の宮であり、私たち一人一人に主の目と心が注がれているのです。
その私たちが疫病を前にした時、取り組むべきことが、明確に教えられています。「自らへりくだり、祈りをささげ、神様の顔を慕い求めてその悪の道から立ち返る」こと。つまり真剣に神様に向き合い、悔い改め、悪の道から立ち返り、回復を願うということです。
日に日に新型コロナウイルス感染症の問題が深刻になり、私たちの生活への影響が強くなる中で、皆様は何を考え、何に取り組んできたでしょうか。おそらく、これまでと異なる、多くのことに取り組まれてきたと思いますが、「自らへりくだり、祈りをささげ、神様の顔を慕い求めてその悪の道から立ち返る」ことには取り組まれたでしょうか。
皆で礼拝をささげることが出来る。交わりをもち、奉仕をささげることが出来る。自分の願う時に、願う場所に行くことが出来る。安心、安全に生活が出来る。これまで当たり前のことだと思っていたことが、そうではなく大きな恵みであったと気付きました。改めて、自分たちは罪人であり、神様の赦しが必要であること。苦しみや災いは、悪から立ち返る機会、悔い改めの機会にしたいと思います。
何故このような大きな災禍が起きているのか。世界を支配されている神様は、何故この問題が起こることを許されているのか。その答えを私たちが勝手に言って良いものではないと思います。そのため、私の罪のためにこの問題が起こったとは言えません。しかし、疫病を前にした時、信仰者である私たちが、自分の罪を悔い改めること、そして回復を願うことは非常に重要なことでした。「祈りしか出来ない」と言うのではなく、祈ることの意義、意味を再確認したいと思います。神の目と心が注がれている者、神の宮である自覚とともに、悔い改めと願いをささげる者でありたいと思います。
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