2020年4月26日日曜日

「知れ。わたしこそ神」詩篇46:1~11


新型コロナウイルス問題の終息が見えない状況が続いています。しかし、そのような中各々置かれた場所は異なりますが、私たちが四日市キリスト教会として一つに結ばれ、神を礼拝できること嬉しく思います。
今朝取り上げるのは旧約聖書の詩篇46篇です。これはわずか11節の小さな詩篇ながら、表現の雄大さと揺らぐことのない信仰者の姿を描いた名篇と言われます。特に危機の中にある信仰者たちの心の拠り所として愛されてきました。
宗教改革の雄ルターはこの詩篇に基づいて、讃美歌267番「神はわがやぐら」を作りました。説教の後私たちがともに歌う讃美歌です。
ある日ルターのもとに同志の一人が訪ねてきました。彼はそれまで味方に付いていた貴族が離れ去ったことに気落ちして「事態は最悪だ」と告げました。それに対してルターはこう答えたそうです。「戦いが苦しいのは、主がともにおられないからではない。主がそこで戦っておられる最も重要で、最も苦しい戦場にあなたを選ばれたからだよ。星を見よう。主の御手の中であんなに美しく輝いているじゃあないか。心を静め、主がともにおられることを喜ぼう。そして、一緒に『神はわがやぐら』を歌おう。」
ウェスレイ兄弟についてはこんなエピソードがあります。二人がロンドンのハイドパークで説教をしていた時大きな地震が起こり、皆が地面に伏しました。その時兄のジョン・ウェスレイが詩篇46篇を朗唱すると、弟のチャールズ・ウェスレイが讃美歌を作ってそれに応えたのです。「主よ、何と私達は幸いでしょう。あなたを人生の土台とする私達は。一体何が私達の土台を崩すことができるでしょう。たとえこの世界が崩れ去ったとしても。」
ルターとその同志がカトリック教会との戦いの中、心の拠り所にした詩篇。ウェスレイ兄弟が地震の際、心の拠り所にした第46篇。今新型コロナ問題で世界中が大変な状況にある時、私達も代々のクリスチャンが愛してきたこの名篇を心の拠り所にできたらと願うのです。
さて、この詩篇の背景には一つの歴史的な事件があると言われています。それは、紀元前8世紀アッシリアの大軍に攻め込まれたユダの国が、神の奇跡的な介入によって滅亡から救われたという出来事です。
当時ユダの国は南にエジプト、北にアッシリアという二つの大国に挟まれ右往左往。「アッシリアと同盟を結ぶべし」という親アッシリア派と「エジプトに頼るほうが良い」とする親エジプト派が対立し、国は分裂。その様な状況で「信頼すべきは主なる神のみ」という信仰に立つのはヒゼキヤ王と預言者イザヤ等ごくわずかな人々に過ぎませんでした。
アッシリアを頼みとせず、エジプトにも媚びず、ただ神を信頼するヒゼキヤ王の態度に業を煮やしたアッシリアの王はやがて大軍を率いてユダを攻め、都エルサレムを包囲。ネズミ一匹逃げ出せないという完全な包囲網を築くと、使者を遣わしました。「ヒゼキヤの信じる神が、俺たちの攻撃からお前たちを救い出せるものか。」と都の人々を脅かします。これを聞いた人々は動揺しますが、ひとりヒゼキヤは主に祈ったのです。

イザヤ37:15~20「ヒゼキヤは【主】に祈った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の【主】よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。【主】よ。御耳を傾けて聞いてください。【主】よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセンナケリブのことばをみな聞いてください。
【主】よ。アッシリアの王たちが、すべての国々とその国土を廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらが神ではなく、人の手のわざ、木や石にすぎなかったので、彼らはこれを滅ぼすことができたのです。私たちの神、【主】よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが【主】であることを知るでしょう。」

 天と地を創造した神を信じるヒゼキヤは「わたしがアッシリアの王を国に引揚げ、そこで倒す。」とのお告げを受けていました。このことばを信じて、ヒゼキヤは祈りをささげたのです。その祈りに応えて神がアッシリア軍18万5千を全滅させると、アッシリアの王セナケリブはすごすごと陣をたたみ、国に逃げ帰ることしかできなかったと聖書は語るのです。私たちもこの出来事を心にとめながら第46篇を読み進めてゆきます。

46:1~3「神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。」

聖書において山は動かざるもののシンボル。ここでは神の都エルサレムを指しています。それに対して、海は神に敵対するものの住処とされ、ここではアッシリア軍を示しています。都エルサレムが揺れ海の中に移る。海の水が立ち騒ぎ泡だつ。水かさが増して都が揺れ動く。これらは、アッシリア軍の猛攻撃とそれを恐れ動揺する都の人々の状況を描いたものと考えられます。今でいうなら戦後最大とも言われる感染症、パンデミックの中で不安になり、動揺する人々の姿を重ね合わせることができるでしょう。
しかし、人という人が動揺する状況で、詩人は断固神を賛美し、告白します。「神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。それゆえわれらは恐れない。」詩人がアッシリア軍を恐れないのは、自分たちの国に軍事力があるからでも、経済力があるからでもありませんでした。神が避け所、神が力、神が苦しむ時の助け、神がそこにある助け手だったからです。
軍事、経済、科学等人間が築きあげたものを力とし、助けとするこの世の人々。それに対し、神を力とし、神を助けとする神の民。果たして、私たちは今どちらの生き方を選択しているのか。ひとりひとり問われるところです。
こうして、泡立ち水かさを増す海によって迫りくる危機を、揺れる山々によって恐れ動揺する人々の心を描いた激動の一段落がつくと、第二段落は静かな川の流れで始まります。動から静への場面転換です。

46:4~7「川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。国々は立ち騒ぎ諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶ける。万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。」

ユダヤの都エルサレムを流れるシロアハの川は小さな流れです。エジプトのナイルやアッシリアのユーフラテスといった大河と比べれば、川とも呼べない程の小ささです。しかし、この小さな川こそ神の都つまり神の民の心を潤し、喜ばせる神の恵みのしるしなのだと詩人は歌います。
また、「神は朝明けまでにこれを助けられる。」ということばも、都が侵略された際、アッシリアの王が最終的な攻撃を仕掛ける前に、神が自ら介入し、ご自分の民を助けられたことを思い起こさせます。
神は人間の知恵や力を誇り、神を無視して生きるこの世界をさばきます。戦争、自然災害、疫病などその方法は様々です。私たちキリスト者もこの世界に生きる限り、それを避けることはできません。しかし、たとえその中にあって苦しむとしても、人々に攻撃されても、病に罹っても、肉体の命を失うとしても、私たちの永遠の命は神が守ると教えられるのです。
神の都を私たちキリスト者、聖なる所を教会に置き換えて4節、5節を読みます。「川がある。その豊かな流れは私たちを喜ばせる。いと高き方のおられるその教会を。神は私たちのただ中におられ、私たちは揺るがない。神は朝明けまでに私たちを助けられる。」
今世界という海は激しく波立ち、泡立っています。自分の有能さを示したいのか、国民に威勢の良いことを語る為政者がいます。徒に不安を駆り立てることばが横行しています。相手を非難し、対立を生むようなことばがいきかっています。デマや嘘もあとを絶ちません。いつもと違う生活で強いられるストレスを、身近な人に対する暴力で発散する者もいます。狂瀾怒濤の世界と言ったら言い過ぎでしょうか。
しかし、神が世界の歴史を導くお方であることを信じる者には平安があるのです。どんなに神を否定する人々の声が大きくても、私たちはこの世界に神の恵みを見ることができます。桜が咲いたことも、命がけで働く医療関係の方々、黙々と隣人のために働く人々の存在も、このような形で礼拝をささげられることも、愛する兄弟姉妹の存在も神の恵みです。
私たちには人を慰め、人を励まし、人に平安を与える神のことばも与えられています。今の世界を行きかうことばに流されず、惑わされず、神のことばにしっかりと耳を傾けながら、この状況をのりこえてゆきたいと思うのです。
「川がある。その豊かな流れは私たちを喜ばせる。いと高き方のおられるその教会を。神は私たちのただ中におられ、私たちは揺るがない。神は朝明けまでに私たちを助けられる。」
そして、最後の段落は、神がこの世界で繰り返される争いをやめさせ、絶対平和をもたらす。主イエスの再臨によって実現する預言のことばとなります。

46:8~11「来て見よ。【主】のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り槍を断ち切り戦車を火で焼かれる。「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。」

「弓をへし折り槍を断ち切り戦車を火で焼かれる。」驕り高ぶり、相争う人間たちに対する神のさばきは激しく、徹底的です。「来て、見よ。」この神のさばきのわざを見るように、私たちは命じられています。
このうち「火で焼く」ということばについて、ルターはこう説明しています。「火はすべてのものを灰にする。火で焼かれたものは二度と戻ってこない。神は審判の日に全世界を火をもって焼き尽くす。神の火はすべての争いと争いの原因である罪を完全に取り去り、片付け、何も残らないようにする。何故なら、戦いを法律によって防ぎ、あるいは暴力に暴力をもって応じることは、人間の中にある戦いを好む心が変わらない限り、真実でもなく、永遠でもない。」
神が私たちの心を争いを好むものから、平和を愛するものへと作り変えてくださることにルターは期待していました。神が争いと混乱を繰り返すこの世界を、平和な世界に作り変えてくださることを確信していたのです。
但し、神が私たちの心を変えてくださるのを、ただ待っていれば良いのではありません。ただ神がこの世界を新しくしてくださるのを黙って見ていればよいのでもありません。
神は私たちに「やめよ。知れ。わたしこそ神。」と命じています。ここに登場する「やめよ」ということばには「やめよ」の他に、「待て」「静まれ」「何かを達成しようと努力することをやめよ」等様々な翻訳があります。神は私たちが神を抜きにして人生に取り組み、この世界の問題に取り組むことを一旦やめて、「わたしこそ神であることを知れ」と命じているのです。
今私たちは人生に大変なことが起こったと感じています。この疫病が世界の政治、経済、文化にどれほど深刻な影響をもたらすことか。不安や恐れを覚えています。人生も世界も決して思い通りにはいかないものであると感じています。科学や政治、富や技術の進歩に最終的な救いはないとも感じています。
この様な状況の中、神は「あなたがあなたの人生の主ではなく、わたしが主であると知れ。」と命じているのです。「人間がこの世界の主ではなく、わたしこそこの世界の主であると知れ。」と語りかけているのです。
神を知ることは私たちの慰めです。何故なら、この世がいかに騒ぎ、神を侮っても、神は神であり、常にこの世界に対し恵み深いからです。世界規模の混乱が繰り返し、戦いがやまず、どんなに希望のない世界に見えようとも、この世界を新しくする神の計画は確実に実現に向かっているからです。
また、神を知ることは私たちの人生に意味をもたらします。神は特別に親しく私たちとともにおられ、私たちを守っておられます。私たちが今この世界に生かされているのは、救いの福音を伝え、愛のわざをなし、神が恵み深いお方であることを人々に証しするためなのです。私たちの罪の心もこの世界も神が必ず新しくしてくださる。この信仰に立って自分に何ができるか。自分は何をすべきか考え、行動する者でありたいのです。
「神はわがちから わが強き盾 苦しめる時の 近き助けぞ」皆でこの賛美歌を歌い、新しい一週間の歩みを進めてゆきます。 

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