2020年5月3日日曜日

「神の相続人」ローマ8:15~25


「外国人排斥、権威の衝突、暴走する世論、生活必需品の略奪、ユダヤ人が井戸に毒を投げ込んだというデマ、異分子への弾圧と迫害」。皆様はこれをいつの、どんな出来事だと思われるでしょうか。実は1630年ペストに見舞われたイタリアの社会を描いた小説の一部として新聞に紹介された文章です。ペストが蔓延し理性を失った人間の社会がいかに混乱することか。今の世界と重なって見えます。
また、100年前世界に拡大したスペイン風邪は5500万人の命を奪い、日本でも猛威を振るいました。「はやりかぜ 一年(ひととせ)おそれ過ぎきしが われはこやりて 現ともなし」。この一年流行り風邪を恐れて過ごしてきたけれど、病に伏せて生きた心地もしなかった。自らスペイン風邪を患い、生死の境をさまよった歌人斎藤茂吉が詠んだ歌です。
生きた心地もしない。これはひとり茂吉にとどまらず、当時日本中いや世界中の人々の思いであったでしょう。今もこうした苦しみの中にある方が大勢おられると思います。
人類の歴史は感染症との闘いとも言われます。14世紀にヨーロッパを襲った「黒死病」と呼ばれるペストは約1億人の命を奪いました。強力な感染力をもつコレラはインカ帝国やアステカ帝国を滅ぼしたと言われます。
これらに対して人間も努力を重ねてきました。治療薬やワクチンの発見、診断法の開発、公衆衛生の改善によって感染病との戦いで優位に立ち、天然痘については1980年に根絶宣言が出されました。しかし、その直後人類が遭遇したことのないSARSやエイズ等未知の感染症が出現し始めたのです。そして今またも新型コロナウィルスという未知の感染症が拡大し、世界は大きな不安と恐れに包まれています。
自国の利益を最優先するナショナリズムが台頭し、世界中の国々が助け合う関係を築けないのではないかと考える政治学者がいます。国民を監視し言論の自由を奪い、異分子を排除する、そんな独裁国家が影響力を増すのでないかと憂える歴史学者がいます。今国民を助けるため大量の財政支出を行っている先進国に、これから感染が拡大するであろう途上国のための経済的援助を行う余裕はないのではないか、貧富の差が広がり世界はさらに不安定になるのではないか。そう予測する経済学者もいます。
こうした先の見えない時代、多くの困難を抱える世界にあって、主イエスを信じる者が与えられている恵みとは何か。主イエスを信じる私たちはどう生きるべきなのか。今朝はローマ人への手紙から学びたいと思うのです。
ところで、この手紙は使徒パウロが書いた手紙の一つです。聖書はすべて神の言葉であり、各々の書に価値の上下はありません。しかし、キリスト教の福音を正しく、全体的に理解するうえでこれに勝るものなしと評価されてきたのがこのローマ人への手紙でした。
そんなローマ人への手紙の頂点に当たるのが第8章。つまり、今朝私たちが読み進めるところには福音の中心的な教えが書かれているのです。

8:14~16「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」
「神の御霊に導かれるはみな、神の子どもです。」本来、罪をもつ人間は神の怒りの対象であると聖書は教えています。人間にとって神とは自分の罪をさばく厳正な裁判官であり、恐れるべき存在でした。神と人間とは、厳正な主人と主人の目を恐れて暮らす奴隷のような関係にあったのです。
しかし、主イエスが私たちの罪を負い、身代わりに十字架で神のさばきを受け死なれたがゆえに、私たちの罪は赦されました。私たちは神の怒りの対象から、神に愛される子どもへと変えられたのです。私たちにとって神はもはや恐れるべき存在ではありません。
むしろ子どもが自分の父親にするように、親しみと尊敬を込めて「アバ、お父さん」と呼び、いつでもどこでも近づくことができるようになりました。これが福音の中心、主イエスを信じる者が受け取っている恵みです。
今世界には、出口の見えない不安を感じている人がいます。様々なことを自制しなければならない緊張を覚えている人もいます。健康や仕事や収入を失うことへの恐れを抱く人もいます。大切な人を失った悲しみの中にある人もいます。
このような時、私たちの不安、緊張、恐れ、悲しみを理解してくださる天の父がいますことが、どれ程の慰めか。私たちが生活に必要なものを祈り願う時、それに応えてくださる父なる神のおられることがどれ程の励ましか。たとえ出口が見えない日々が続いたとしても、私たちを子どもとして大切に思い、どんな時も心を砕く天の父のおられることがいかに安心なことか。

マルコ1:11「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

天の父が主イエスに語られ、主イエスの生涯を支え続けたこの言葉を、私たちに対する語りかけとして聞きながら、神に愛されている子どもとして歩み続けたいと思います。
しかし、主イエスを信じる者が受け取る恵みは、これだけではありませんでした。主イエスを信じる者は神の相続人だとパウロは言うのです。

8:17~18「子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」

聖書は私たちが神の子どもであると教えていますが、正確に言えばこの「子ども」という言葉は養子を意味しています。主イエスが神の正式な子どもであるのに対し、私たちは神の養子だと言うのです。
ところで、当時のローマ社会において、主人は養子を差別しませんでした。主人が選んだ養子は正式な子どもと同等の権利を持ち、主人の財産を等しく相続することができました。それと同じく私たちも神の御子イエスと等しく神に愛され、ひとしく神の財産つまりこの世界の相続者とされたのです。神に滅ぼされるべき罪人が神に愛される子どもとされた。そればかりか、神の共同相続人として、神が創造した世界のために働く者へと変えられたという大革命。主イエスが私たちの人生に起こした大革命です。
但し、私たちが完全な神の子ども、神の相続人となるには、主イエスとともに苦難を経験しなければならないと教えられます。それでは、パウロはどのような苦難を経験していたのでしょうか。

コリント第二11:23~30「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、 日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。
もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。」

 これを読むと私たちはパウロの生涯を覆いつくした苦難に圧倒されます。しかし、注目したいのは最後のことばです。彼はこう言います。「もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。」普通なら、「私はこれらの苦難に耐えてきた自分の強さを誇ります。」というところでしょう。それを何故自分の弱さを誇ると言ったのでしょうか。
 パウロにとって弱さを知ることは神の恵みでした。様々な苦しみを通して弱さを知ったからこそパウロは自分に頼らず主イエスに頼り、主イエスによって成長し、神の子どもまた神の相続人として整えられていったからです。
 パウロが経験した苦難自体は良いものではありません。むしろ、不当な刑罰にせよ、迫害にせよ、災いにせよ、病気にせよ、貧しさにせよ、神が創造した最初の世界にはなかったもの、悪しきものです。けれども、それが主イエスによって恵みと変わり、「自分は弱さの中で神の子ども、神の相続人として整えられてきた。」そうパウロは考え、神に感謝しています。
 皆様は苦しみをどう考えているでしょうか。神の恵みと考えるでしょうか。それとも、人生の邪魔物と考えるでしょうか。このような状況の中、苦しみを通して私たちを養い、私たちを神の相続人として整えてくださる主イエスの働きに信頼したいのです。
 そして、さらにパウロは驚くべきことを語りだします。主イエスの恵みは私たちを罪から救うだけでなく、この世界の被造物をも救い、回復させると言うのです。

 8:19~23「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています」

パウロはこの世界の被造物つまり自然が「虚無に服している」「滅びに束縛されている」と言います。本来人間を養う自然、人間が正しく管理すべき自然が正しく機能していない状態にあると言うのです。人間の罪によって歪められた状態にあると教えているのです。人間の罪の影響が人間の社会をこえて自然の世界にまで及んでいるのです。
 ニューズウィーク4月号に、国立国際医療センター長で、感染症対策の第一人者とも言われる国井修という方の記事が載っていました。「このように、次々に新たな感染症が発生する背景には何があるのだろうか。1つは近年、森林伐採や土地開発などに伴い、自然環境が破壊され、生態系が崩れる地域が増えたことだろう。私は1990年代に、エボラ熱が流行した中央アフリカのガボンを調査で訪れたことがある。熱帯雨林の中にある村に向かい、夜行列車やジープで何時間も移動した。真っすぐで広い道が森の奥深くまで続く。外資系会社が大量の巨木を伐採し輸送するためである。その道沿いでは、サル、ワニからネズミまで、さまざまな野生動物が売られていた。そんな村の1つで、エボラ熱が発生し、周囲に拡大していった。以前なら村の風土病で終わっていたかもしれない。しかし、村から都市への人の移動、人口密度の増加、航空網の発達などによって、アフリカ奥地の風土病は都市に侵入し、さらに世界に広がる時代になったのである。」コロナウィルスも野生動物から人へ感染したと言われます。
 聖書の教えによれば、富を礼拝し、経済的利益を追い求め、自然を破壊する人間の罪がコロナウィルス感染拡大とも深くかかわっているように思われます。今回の出来事を多くの人が人間とコロナウィルスとの戦いだと言います。確かに世界中が力を結集し感染症を終息させることが必要ですし、その戦いは成功するだろうと思います。
 しかし、神が求めているのは、豊かな自然を歪めてしまった人間が自らの罪に気が付くことです。人間を養い、人間を守り、人間の生活を豊かにするために神が創造した自然を思いのまま利用し、破壊してきた人間。そんな人間社会に対する神の警告として、今回の出来事を受けとめることも必要ではないかと思います。たとえコロナウィルスと戦いは終わっても、罪との戦いは続くからです。
 けれども、どれ程人間の罪によって自然が歪められたとしても、その結果人間が感染病や死に苦しんだとしても、神がこの世界を見捨てることはありません。この世界には回復の望みがあります。
「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。」主イエスが再臨し、私たち神の子らを栄光の体でよみがえらせること、被造物を苦しみから解放し、この世界を新しくしてくださること。これが私たちとすべての被造物の望みなのです。

 8:24~25「私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。」

 罪との戦いとは何でしょう。何が起こっても、私たちが福音を信じることです。私たちが福音に生きることです。私たちが福音を伝えることです。私たちが主イエスのもたらす世界から目を離さないで生きることなのです。神の子どもの恵み、神の相続人としての使命。今朝私たちは皆で二つのことを確認し、新しい週の歩みへと進んでゆきたいと思います。

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