2020年5月17日日曜日

「彼らとともに歩き」ルカ24:13~33a


 新型コロナウイルス感染症の問題のため、四日市キリスト教会では412日の聖日から皆で集まることをせず、オンラインでの礼拝となりました。今日で六回目。愛する方々と、ともに集まって礼拝することが出来ないことが、どれほど寂しいことなのか味わう期間となりました。この間、説教も新型コロナウイルス感染症を意識してのものとなりました。まだまだ気を緩めて良い状況ではありませんが、感染拡大予防に留意しつつ、皆で集まる礼拝の再開を検討する状況になってきました。安全、平安のうちに、皆で集まり礼拝出来るように皆で祈りたいと思います。
 教会歴としては、キリストの復活を祝うイースターから、ペンテコステまでの期間となりました。(二週間後がペンテコステの聖日。)そこで今日は、ペンテコステへ向けて思いを整えるために、復活直後のイエス様の記事を皆で読みたいと思います。ルカの福音書では、復活したイエス様が、弟子たちに初めて弟子たちに姿を見せた場面。この箇所から、私たちの神様はどのようなお方なのか。私たちの救い主はどのようなお方なのか。教えられたいと思います。

 ルカ24章13節~16節
ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。

 「ちょうどこの日」と始まります。これはイエス様が復活された、まさにその日のこと。二人の弟子が、エルサレムから約十一キロ離れたエマオという村に向かいます。その道中、二人の弟子の話題は、イエスの死と、遺体がなくなっていたこと。一連のイエスの事件について話し、論じていました。
 この二人の弟子は、この朝、弟子たちが遺体を見に行き、遺体が無くなっていたこと。御使いがイエス様は生きていると宣言したことは知っていました。しかし、イエス様が復活したことを信じていたわけではありません。生き返るなど信じられない、信じきれない。それで、話し合ったり、論じ合ったりしていたのです。遺体が無くなった。一体誰が遺体を運びだしたのか。自分たちの仲間、弟子の誰かが盗みだしたのか。一体何のために…。墓泥棒が入ったのか。泥棒なら金品を盗むとしても、遺体は置いておくはず…。そもそも、ローマ兵が見張りしていたのに、どうやって遺体を盗むのか。本当に復活したというのか。しかし、そうだとしたら復活したイエス様はどこにいるのか。ああだ、こうだと論じ合う最中、なんと復活したイエス様が同行します。
 これで話し合う必要なし。議論する必要なし。目の前に復活したイエス様がいる。ところが、弟子二人の目はさえぎられていて、分からなかったと言います。後程の会話で出て来ますが、これは夕暮れ時のこと。街灯などない時代、暗がりで顔が見えにくかったということもあるかもしれません。しかしそれ以上に、この「目がさえぎられていた」というのは、霊的なこと、心のことでしょう。
目の前にイエス様がいながら、イエス様はどうなったのかと話している。滑稽というか、間抜けというか。しかし、これが復活という出来事を前にした人間の姿でした。死に打ち勝つ命など、考えることが出来ない。復活に対して、目がさえぎられているのです。

 さて、ここから注目の会話が始まります。

 ルカ24章17節~24節
「イエスは彼らに言われた。『歩きながら語り合っているその話は何のことですか。』すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。『エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。』イエスが『どんなことですか』と言われると、二人は答えた。『ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。』」

 エマオ村途上の二人の弟子のもとに合流したイエス様が、一体何の話ですかと問いかける。そこで弟子の一人、クレオパが暗い顔をしながら、「エルサレムにいながら、知らないのですか。」とあきれながら、自分の知っていることを話します。
 ところで、二人のうちの一人、クレオパという弟子は、ルカの福音書に初めて出てくる人物。この場面だけ登場する人。もう一人は、名前すら出てきません。復活した当日、イエス様は無名の弟子たちに会われていた。これもまた私たちにとっては嬉しいことです。有名であるとか、活躍したとか関係無い。弟子の方には条件はなく、イエス様がともにいると決めれば、ともにいて下さるのです。
 それはそれとしまして、クレオパの説明には、クレオパの思いが滲み出ています。イエス様のことを「神と民全体の前で、行いにもことばにも力ある預言者」と言い、「イスラエルを解放する方だと望みをかけていた」と言います。その方が死んだ。悲しみと無念が、暗い顔に表れています。しかも事態はそれで終わらず、遺体は無くなり、墓に行った者たちは御使いを見てお告げを聞いたと言う。復活は信じられない。しかし、事実遺体は無くなってしまった。一体どういうことなのか。大いに困惑しているのです。

 さて、この二人の弟子に、イエス様は何をされるのか。当然のこと、「わたしが復活したイエスです。」と言われる場面。「わたしが復活したイエスです。」と言えば一撃。それで終わり。ああだこうだ言っている二人の弟子に、復活が事実であることを、これ以上ないほど明確に教えることが出来る。しかしイエス様はそうされなかった。非常に興味深い場面。何をされたのか。

 ルカ24章25節~27節
そこでイエスは彼らに言われた。『ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。』それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

 復活を信じられない。遺体がなくなったことに困惑していた弟子たち。その弟子たちに、復活のイエス様は何をされたのか。「わたしが復活したイエスです。」と言われたのではない。そうではなく、聖書を教えられたのです。
 私などは、イエスの復活を信じるのに、復活したイエス様に会うほど確かなものはないと思います。しかしイエス様は、聖書を教えられた。「おおっ」と声が出ます。驚くと同時に、大いに励まされます。考えてみれば、私たちは復活したイエス様に直接お会いしたわけではありません。それにもかかわらず、イエス様の復活を信じている。信じることが出来ている。それは、聖書があるから。聖書で教えられたからでした。そしてイエス様の復活を信じるのに、聖書を知り、聖書を信じることが、これ以上なく適切なことだったのです。
 二千年前のイエス様の聖書講義。これは聞いてみたい。これ以上聞いてみたい聖書講義はないように思います。実際、何を話されたのか。天国でお聞きする楽しみの一つです。具体的にどの箇所を開き、どのように説明されたのかは分かりませんが、ここには聖書を読む上で非常に重要なことが記されています。最後に確認したいと思いますが、先にこの弟子たちに起こったことを見ていきます。

 ルカ24章28節~29節
「彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。彼らが、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています』と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。」

語り始めは、エルサレムにいたのにこんなことも知らないのかと呆れていた弟子たちが、聖書の話を聞いて、とんでもない人に出会ったと気付きました。お泊り頂いて、もっと話を聞きたい。是非是非、ご一緒にと引き留めてともに食事をします。こうして、当の復活した救い主に真正面するという恵みを受けることになります。

ルカ24章30節~33節
「そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は話し合った。『道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。』二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。」

 ともに食事をする際、パンを取り裂いて分けるというのは通常、主人のすること。しかしゲストであった人が、いつの間にか食卓の中央に。パンを割いたその手に記された十字架の痕に、「あっ」と驚く弟子たち。薄暗い部屋の中で、イエス様を見出した弟子たち。息が止まる、時間が止まるような場面。そしてこの方がイエス様だと分かった時に、当のイエス様が見えなくなったのです。心の目が開かれて、この方がイエス様だと分かったら、肉の目としてはイエス様が見えなくなった。とても不思議な場面です。これで十分ということだったのでしょうか。この二人の弟子とここに留まるのではなく、この二人の弟子がエルサレムに戻ることを優先させたということでしょうか。
 二人の弟子は、他の弟子たちに事の次第を報告しにエルサレムへ向かいます。この時、この二人が残した言葉が実に印象的です。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」ルカは、イエス様に真正面した驚きや喜びの言葉ではなく、イエス様がされた聖書の話の感想を記録しているのです。「心は内で燃えていた。」

 さて、それではイエス様がされた聖書の話とは、どのようなものだったでしょうか。先に確認しましたように、具体的なことは分かりません。しかし、旧約聖書全体をどのように読めば良いのか。イエス様が語られた、聖書を読む時の基本的な姿勢をルカは記録してくれています。

 ルカ24章26節~27節
「『キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。』それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

 救い主は、神の民のために苦しみを受け、しかしそれで終わらず、栄光を受ける。旧約聖書全体は、救い主の苦難と栄光を証している。そのように旧約聖書を受け止め、読むようにと教えられます。
 三十九の書からなる旧約聖書には多種多様な書。歴史的出来事、詩、預言。文体も内容も様々。しかし全体として、私たちのために苦しみ、私たちを救い出す方である救い主が示されている。救い主という視点で旧約聖書を読むように教えられるのです。
                                                          
 救い主という視点で旧約聖書を読む。このようにまとめられますと、旧約聖書の中に出てくるメシア預言を中心に聖書を読むというように聞こえます。一般的には救い主がどのような方か、何をされるのか、直接的に示している預言が、五十から六十あると言われます。その聖書のあちこちにあるメシア預言をつなぎあわせると、救い主は苦難と栄光を受ける方だと分かる。そのように旧約聖書をまとめて、メッセージを受け止めるようにと教えられているように感じます。しかし、もしそうであれば、旧約聖書はあれほど分厚い必要はありません。メシア預言と言われる箇所を寄せ集めたもので十分ということになります。ここでイエス様が言われている救い主という視点で旧約聖書を読むとは、どのような意味でしょうか。

 神の民のために苦しみ、神の民を救う方。旧約聖書において、これはまさに主なる神様の姿でした。出来事の中にも、詩の中にも、預言の中にも、神の民のために苦しみ、神の民を救う主なる神様の姿が出て来ます。いくつも例を挙げることが出来ますが、例えば次のような箇所があります。

 イザヤ63章8節~9節
「主は言われた。『まことに、彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ』と。こうして主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。」

 旧約聖書に示された神様とは、神の民を愛し、あわれみ、子として扱って下さる方。神様ご自身が、神の民を裁く時も苦しまれる方。(エレミヤ31章20節など参照)神の民のために苦しみ、神の民を救い出す方。旧約聖書全体は、まさにこの主なる神様の姿を記している書です。
 それでは、この旧約聖書を救い主という視点で読むとは、どういう意味でしょうか。それはこの主なる神様が、イエス様に他ならないとして読むということです。旧約聖書で繰り返し示された神の民のために苦しみ、神の民を救う主なる神様。まさにその主なる神様が、人となり私たちの救い主として来られたイエス様なのだと信じるということです。
 世界を造り支配される神様は、ただ自分を無視する者を罰する神ではない。私たちの罪を罰しつつ、自ら苦しむお方。その苦しみを背負い、私たちを救うべく、十字架の死と復活を通して永遠のいのちを下さるお方。この方が主なる神様でありイエス様である。この神様、この救い主に出会う時に、私たちの心は燃やされるのです。

 エマオ村へ向かう弟子たち。聖書のことが分からず、救い主の復活を信じられず、困惑していた弟子たち。その弟子たちのところに近づき、ともに歩かれたイエス様。このイエス様の姿はこの時だけではなかった。旧約の時代、神の民とともに歩まれた主なる神様の姿、そのものであったのです。
 私たちの心の目が開かれて、この神様を、この救い主を、信じる信頼して生きることが出来ますように。この神様と、この救い主を知ることで、ともに生きることで、心が燃やされますように。
 「神ともにいまして 行く道を守り 雨の御糧もて、力を与えたまえ」と、それぞれの場所で教会の仲間のために祝福を祈りつつ、次週の礼拝へと歩みを進めていきたいと思います。

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