2020年5月31日日曜日

ペンテコステ「ペンテコステの恵み~悔い改める~」使徒2:36~41


 今日はペンテコステを祝う聖日です。約二千年前、イエス様が十字架につけられる時、散り散りになったあの弟子たちが、キリストの証人として打って出て行く日。キリストを信じる者には聖霊が与えられることを覚える日。キリストを信じる私たちも、キリストの証人という使命を頂くこと、私たちも造り変えられることを覚える日です。


 使徒1章8節~9節

「『しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。』こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。

 

 弟子たちに聖霊が遣わされる。それが実現する時は、本人にも、周りにいる人たちにも、それが明確である必要がありました。目に見えないお方、聖霊なる神様が来て下さると言われて、ある者は来たと言い、ある者は来ていないというのでは混乱を招く。皆が明確に約束の実現と分かる必要がありました。

 そのために、神様が用意して下さったのは、風のような響き。炎のような舌。耳でも目でも分かるように。さらに響き(音)と舌は何を象徴しているかと言えば、「言葉」ですが、まさにこの時、弟子たちは他国の言葉で話すという、「言葉」についての顕著な力が示されることになります。

 使徒の働き2章1節~4節

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

 

 他国のいろいろなことばで話すことが出来た。誰もが認める明確な変化、言葉についての顕著な力です。しかし、キリストの証人となったことの本質は、外国語を話せることではなく、キリストを宣べ伝えることに現れます。この時、弟子たちが語った言葉で、イエスこそ救い主であると信じた者たちは三千人。つい五十日前に、イエスを十字架につけろと騒いだ者たちの中から、この日の説教に応じてイエスこそキリストであると信じる者がおこされた。一大事件となります。


 

 使徒2章14節~15節

ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。『ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。』

 

 弟子たちに聖霊が臨む。その時に起こった物音を聞き、弟子たちが様々な言語で話し始めた様子を目の当たりにした者たちは、二つの応答をしました。一つは「いったい、これはどうしたことか。」という当惑の応答。もう一つは「新しいぶどう酒に酔っている。」という嘲りの応答です。ペテロの説教は、この二つの応答に応えることから始まります。

 突如、様々な言葉で話しだした弟子たち。姿格好は自分と同じユダヤ人。しかし、聞いたことのないことばを話し始めた。これは何か。そうか、呂律が回らなくなったのだ、酔っているのに違いないとの見立て。この嘲笑に対して、ペテロは「朝九時から酒を飲むことはない。酔っていない。」と答えます。「酔っている!」との嘲りに、「酔っていない!」との返答。当然、これだけでは答えになりません。酔っていないのであれば、これは一体何のか。ペテロは、これは旧約聖書の預言が成就したことだと宣言するのです。

 

 使徒2章16節~21節

「これは、預言者ヨエルによって語られたことです。『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。』」

 

 「弟子たちに聖霊が臨んだ」ことを、ペテロは聖書が告げた約束の成就であると見た。これは非常に面白いところです。使徒の働きを読む私たちは「弟子たちに聖霊が臨んだ」のは、当然のこと、イエス様の約束の成就と考えます。何しろ弟子たちはイエス様の約束の成就を待ち、イエス様の約束通りのことが起こったのです。しかし、ペテロはこの出来事はイエス様の約束の成就であると同時に聖書の約束の成就であると受け取っていた。それもヨエル書の約束の成就であると。聖書に対する洞察力、人前で語り出す行動力。これが五十日前に、真っ青になりながら三度もイエスを知らないと言った者の姿であることに驚くところ。聖書を理解せしめ、福音を語らせる。聖霊なる神様が人を造りかえる方であることを再確認します。

 ここでペテロが引用したヨエル書は何を語っているでしょうか。極々簡単にまとめると「神様が老若男女関係なく、主に仕える者たちに霊を注ぐ日が来る。神の霊が注がれた者はどうなるのか。預言する、神様のメッセージ、聖書の福音を語る。太陽が闇、月が血に変わるという恐ろしい時代、恐ろしい状況になっても、語られた福音によって主の御名を呼び求める者たちは、みな救われる。」ということです。

 このヨエル書が告げる、神様がしもべたちに霊を注ぐ約束が今実現したというのがペテロの主張です。酒に酔っているのではない、神の霊に満たされている。そうだとすれば、神の霊が注がれた者たちは、預言をするはず。皆を救う福音を語るはずです。

 

 そこでペテロは続けて「みな救われる」ことの中身について語り始めます。

 使徒2章22節~24節

「イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。」

 


「イエスが復活したこと。」「復活したイエスは神の右に挙げられたこと。」ペテロはこの二つを伝えるのに、聖書から、とりわけ詩篇を引用して説明します。聖霊を受けた者が預言する。その預言とは、何か全く新しいことを言うのではなく、聖書を説明するものであったということが印象的です。「聖書が示しているのはあのイエスである。」という主張。さらに復活については自分たちがその証人であると言い、神の右に挙げられたことは、だからこそ聖霊が下り、聖霊が下ったことの証人はあなたたちだと詰め寄る。聖書の証言と目撃証言と、そして目の前で起こっていること。これら全てを用いて、イエスが約束の救い主であることを論証する。圧巻の説教。(二十二節から三十六節まで続く、この説教の本論を本当は詳しく見たいのですが、時間の都合で今日は省くことになります。ここは是非ともそれぞれで読んで頂きたいところです。)

 

 この説教の冒頭で、「神はナザレ人イエスを証された」と言います。(そして神によって証された人をあなたがたは殺したと告げるのです。)ナザレのイエスは神によって証明された人。通常、証明されたと言う場合、何を証明されたのか言うものですが、それには触れず説教が続きます。語られる中心は「イエスが復活したこと。」「復活したイエスは神の右に挙げられたこと。」それでは、この「復活」とか、「神の右に挙げられる」とか、これは何の証明でしょうか。何を意味しているのでしょうか。このまとめが、説教の最後の最後に出て来ます。

 使徒2章36節

「ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

 

 「復活」とか「神の右に挙げられる」というのは、イエスが主であり救い主であることの証である。神が送って下さった約束の救い主を、あなたがたは十字架につけたのだ。これがこの時の説教の結論でした。十字架と復活から僅か五十日後のこと。まだあの事件の熱が残るエルサレムに響き渡るペテロの叫び声。約束の救い主をお前たちが十字架につけたのだ。

 この説教はそもそも「主の御名を呼び求める者はみな救われる」とは何かを語るものだったはずです。良い知らせ、福音を伝えるものだったはずです。ところが結論は最悪のメッセージ。約束の救い主をあなたがたが殺してしまった。

 聖書を通して繰り返し語られた、救い主を送るという最重要の約束。その約束を受けた者たちが、送られてきた救い主を殺した。罪人を救うために来た救い主を、罪人が殺した。考え得る中で最悪も最悪。救いようのない悪。罪人からすれば万事休す、絶体絶命、これで終わり、為す術なし。この最悪の自体を、あなたたちが引き起こしたのだと宣告する。恐ろしい説教です。

 

 これを聞いた人たちはどのように受け止めたのか。

 使徒2章37節

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。

 

 聖書と証言と目の前の出来事。この全てでイエスが約束の救い主であることを知った者たちは、心を刺され「どうしたらよいでしょうか。」と声を挙げます。「どうしたらよいでしょうか。」これは、聞きようによっては、ふざけた言葉です。どうしたら良いも何もない。手遅れも手遅れ。あとは裁かれるのみ。約束の救い主を殺しておいて、何がどうしたら良いでしょうかだ。何か手立てがあると思うだけでもひどいもの。本来ならば、ここで「どうしたらよいでしょうか。」などと言う輩には、罵詈雑言が浴びせられるはずのところ。

 しかししかし、ここから信じられない福音が告げられるのです。これぞキリスト教、これぞ福音、これこそ恵みという言葉。

 

 使徒2章38節~39節

そこで、ペテロは彼らに言った。『それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。』

 

 約束の救い主を十字架につけて殺した。自分を救う方を殺した。その者が、なおも救われる道がある。ヨエル書が告げていた「みな救われる」とは、このことでした。

何をしたら良いのか。悔い改めること。イエスを救い主と信じること(イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける)。これだけ。他に無い。いや、これこそが救いの道で罪人に用意されたものでした。

 そしてこのメッセージは、語るペテロにとっても重要なものでした。何しろ、つい五十日前、死ぬことになってもイエス様を裏切らないと言ったその夜に、呪いを誓いながらイエスを否定したのがペテロです。イエスの十字架を前に、大失敗した人物。また復活も当初は信じていなかった。あれだけ復活を予告されていたのに信じていなかった。その自分が、罪赦され、約束通り聖霊が与えられている。ペテロ自身のことを考えると、このメッセージを告げる時に、どれ程の喜びと確信をもって語っていたでしょうか。

 どのような罪でも、悔い改めてイエスを救い主と信じれば救われる。キリスト殺しという罪ですら、悔い改めれば赦される。私たちはこのメッセージをどれだけ真剣に受け止めているでしょうか。

 

 つい五十日前、イエスを十字架につけろと騒ぎ立てたエルサレムにいた者たち。しかし、ペンテコステの日に聞いた説教を受け入れた者たちは、三千人にものぼったとまとめられます。

 使徒2章40節~41節

ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、『この曲がった時代から救われなさい』と言って、彼らに勧めた。彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。

 

 ペテロは、ここに記されていないことでも、多くのことばをもって証をし、勧めたと言います。一体何を語ったのか。興味深いところ。それはそれとして、今の私たちが受け取るべきことは、すでに十分記されていました。

 二千年前のペンテコステの日。ペテロを通して語られた重要な知らせは、誰でも悔い改めて、イエスを自分の救い主と信じる者は救われるということ。私たちがこれまで何度も聞いてきたこと。しかしこのペンテコステの聖日に、改めてこのメッセージに真正面したいと思います。

 この一週間、皆さまはどのような罪を悔い改め、告白してきたでしょうか。今、この場所で自分の歩みを振り返り、悔い改めるべき罪を考えるとしたら、それはどのような罪でしょうか。主なる神様以外のものを第一として生きる。自己中心に生きる。あるいは悪を考え実行したことが思い浮かぶでしょうか。ねたみ、殺意、争い、欺き、悪だくみ、不品行、好色、陰口、そしり、神を憎む、人を人と思わない、自分を正しいとし勝手な判断をする、わきまえがない、約束を破る、情けしらず(ローマ1章参照)。積極的に悪を考え行うことだけでなく、善を行わない問題もあります。愛すべき人を無視する。すべきことをしない。与えられた賜物や機会を用いない。自分の罪には目を向けず、人の悪や社会情勢ばかり批判する。このような内容を挙げると、私ではなく、あの人こそ悔い改めるべきと考える問題もあります。

 一日の終わりに、礼拝に来る度に。私たちは神様の前で、悔い改めるべき罪を告白し、私の罪のためにイエス様が死に復活されたことを信じること、確認したいと思います。どのような罪でも赦される。どのような罪深い者でも造り変えられる。この恵みを味わう者こそ、キリストの証人となることを覚えます。
 罪を悔い改め、イエスこそ私の救い主と信じる者には聖霊が与えられる。この知らせをしっかりと受け止めて、そのことに生涯取り組みつつ、キリストの証人として生きていきたいと思います。

2020年5月24日日曜日

Ⅰコリント(31)「適切に、秩序正しく」Ⅰコリント14:26~40


今朝取り上げるのはコリント人への手紙第一、3月最初の礼拝から数えておよそ3か月ぶりにこの手紙を礼拝で読み進めることになります。この手紙を開くのは久しぶりとなりますので、まずはコリント人への手紙第一とはどのような手紙なのか、簡単に振り返ることから始めます。
文化はアテネ、商業はコリント。紀元1世紀の昔ギリシャで繁栄した二つの町はそう並び称されました。特に交通の要にあるコリントは富においてギリシャ世界随一と言われ、様々人々が集まる国際都市でもありました。他方、繁栄の裏側で道徳は腐敗し、欲望と快楽の町としても知られ、「コリント人のように生きる」と言えば、不品行の代名詞でもあったのです。
紀元50年頃この町に教会を建てたのが使徒パウロでした。その後一旦教会を離れたパウロがおよそ4年後、対岸の町エペソで宣教中のこと、コリント教会から次々と残念な知らせが届いたのです。仲間割れ、性的不道徳、離婚、富める者と貧しい者の不和、偶像にささげた肉を巡る争い、礼拝の混乱、キリストの復活を疑う人々等、「これが本当にキリスト教会なのか」と驚くような問題ばかりです。こうした問題に対応するため、パウロによって書かれたのがコリント人への手紙第一でした。
先ほど読みました14章の終盤は、礼拝における混乱の問題を扱う12章から14章の段落の結論となります。各々が指導者と仰ぐ人物の優劣を争う。偶像にささげた肉に関する知識の有無で対立する。食事交わり会でも貧富の差で反目しあう。コリントの教会は何かにつけて対立してきました。そして、この霊的未熟さが賜物や奉仕者の優劣の問題として礼拝の場でも現れたのです。
これに対し、パウロは12章で、教会はキリストをかしらとするからだと説きました。主イエスを信じる者はみなからだの一部。賜物や働きは異なっても、すべての人が必要不可欠な存在であることを教えたのです。
続く13章は「愛の賛歌」と呼ばれる有名な章です。教会が一つからだとなるためには、人の注目を集めようとする奉仕は有害であること、人に仕える奉仕こそ必要であることが語られています。
これら12章、13章がすべての教会に共通する教えであるとすれば、14章はコリント教会向けの適用となります。異言こそ最高の賜物、そんな賜物を持つ自分たちこそ重要な存在と考える人々にパウロは語ります。

14:4~5「異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。私は、あなたがたがみな異言で語ることを願いますが、それ以上に願うのは、あなたがたが預言することです。異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっています。」

 本来賜物は隣人の益となるため神が私たちに与えたもの。もし異言の意味を説明する人がいない場合、語る人自身の益にとどまる異言より、誰にでもわかり、誰にでも益をもたらす預言の方が優ると使徒は教えているのです。この点を確認した上で方針が下されます。

14:26「それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。」

ある註解者は「この文章に初代教会の礼拝風景を垣間見ることができる。」と書いています。確かに、賛美が行われています。聖書が教える人、啓示つまり神の言葉を告げる人、異言で祈る人、それを説明する人など様々な奉仕者が礼拝にいたようです。
 しかし、説教者や祈る人は何人いたのか、誰が説教者や祈る人を決めていたのか、讃美歌は何曲歌われていたのか、礼拝の時間は決まっていたのか。プログラムはどのようなものだったのか。それらのことについて、聖書は語っていません。
恐らく初代教会では、各教会の長老たちが地域性や教会員の賜物などを考慮し、礼拝プログラムや奉仕者を定めていたものと考えられます。その際参考にされたのは主イエスの時代ユダヤの会堂で行われていた礼拝です。
ルカの福音書には、ある安息日主イエスが出席した礼拝の光景が描かれていました。

ルカ4:16~21「それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

司会者である会堂司が主イエスにその日朗読すべき聖書を手渡す。主イエスがそれを朗読し、説教する。もちろん、他の人が聖書を朗読したり、説教するのを主イエスが聞くこともあったでしょう。主イエスも一つプログラムのもと、人々とともに神を賛美し、神に祈り、礼拝をささげたのです。救い主だからといって司会者の指示を無視することはなかったのです。
主イエスは自らの賜物をもって人々に益を与えましたが、人々の奉仕から益を受け取ることもあったのです。主イエスは小さな村の教会の奉仕者であることに満足しておられたのです。
それなのに、コリント教会ときたら、異言派の人々が次々と立って祈りや賛美を行い、人々の耳目を引こうとする。預言派も黙ってはいられず、異言派を制する者があるかと思えば、預言を語り続けて礼拝の時間を独占する者もいる。司会者も、プログラムもないも同然。各自思うがままに奉仕をささげ、周りを顧みることがなかったのですから、礼拝が混乱するのも当然だったでしょう。
「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。」(13章1、2節)とパウロは前章で語りました。
まさにコリント教会の礼拝は騒々しく、無秩序で、誰も益を受けることのできない礼拝と化していたのです。だからこそ、パウロは「すべての奉仕をお互いの霊的成長のためにおこないなさい。」と言わねばならなかったのです。。
しかし、コリント教会の混乱は一般的な勧めで収まるレベルにはありませんでした。異言派、預言派各々に対して具体的な指示が必要だったのです。

14:27~33a「だれかが異言で語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい。解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて、自分に対し、また神に対して語りなさい。預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。席に着いている別の人に啓示が与えられたら、先に語っていた人は黙りなさい。だれでも学び、だれでも励ましが受けられるように、だれでも一人ずつ預言することができるのです。預言する者たちの霊は預言する者たちに従います。神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。」

異言は説明できる人がいなければ、誰の益にもならない。その様な場合声を出さず、自分か神に対して語るようにしなさい。これは黙想、黙祷の勧めです。他方、預言今でいう説教も皆が同時にではなく一人ずつ語るように、説教者も二、三人で十分とされます。また、誰かが説教している時、他の人は吟味役をつとめるようにとの指示もあります。
コリント教会には自称預言者がいたのでしょう。彼らの言葉が本当に神からのものなのか。旧約聖書や主イエスの教え、使徒の教えと照らし合わせて吟味する人が必要とされたのです。また別の人が神の言葉を受けたなら、その人に説教の奉仕を譲るが良いとして、説教の時間や奉仕をひとりの人が独占するのを禁じています。
パウロは語るべき時と沈黙すべき時、奉仕をすべき時と奉仕を交代すべき時など、預言者なら自分の言動を制することができなければならないと命じています。何よりも、「神は混乱の神ではなく、平和の神である。」このことを肝に銘じる必要があると考えていたのです。自己顕示欲も妬みも、奉仕者が競い合うことも、神礼拝にふさわしくないからです。
ところで、礼拝を混乱させていたのは異言派と預言派の対立だけではありませんでした。熱狂的な女性解放運動に影響された婦人たちが「自分たちにも礼拝説教を行う権利がある」と主張したり、礼拝中説教に関する質問を執拗に繰り返したらしいのです。それに対してパウロはこう告げます。

14:33b~38「聖徒たちのすべての教会で行われているように、女の人は教会では黙っていなさい。彼女たちは語ることを許されていません。律法も言っているように、従いなさい。もし何かを知りたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、女の人にとって恥ずかしいことなのです。神のことばは、あなたがたのところから出たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ伝わったのでしょうか。だれかが自分を預言者、あるいは御霊の人と思っているなら、その人は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。それを無視する人がいるなら、その人は無視されます。」

「女の人は教会では黙っていなさい。」とは時代錯誤も甚だしい。「もし何かを知りたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。」など男尊女卑の教えそのものと言われそうなところです。
けれども、聖書は男尊女卑を否定し、男女対等を教えています。当時ギリシャ・ローマ社会では、女性に男性を教える能力があるとか女性に学ぶ権利があると考える人は殆どいませんでした。ユダヤでは「タルムードも女にとっては豚に真珠」と言われ、女性が学ぶことはタブーとされました。女性が宗教の教師になる道も閉ざされていたのです。ギリシャもユダヤも男尊女卑の世界でした。
しかし、新約聖書には女預言者が何人も登場します。復活の証人として男の弟子に主イエスの言葉を教えたのは女性の弟子でした。雄弁で知られる伝道者アポロに神の教えを説いたプリスキラという女性もいます。また、マリヤが主イエスの前に出て、直接教えを学んだ時、彼女は大切な一つのものを選んだと主イエスは賞賛しています。パウロも女性が聖書を学ぶよう命じています。
ですから「女の人は教会では黙っていなさい。」とは、女性がどんな場合も男性に教えてはならないということではありません。むしろ、女性は神学校で教えてもよいのです。教会学校でメッセージをしてもよいのです。講演会や研修会で教えることもできるのです。
但し、「聖徒たちのすべての教会で行われているように」とある通り、使徒が建てた初代教会は、公の礼拝で説教する奉仕についてのみ、創造の初めから神が男に与えた務めであり、女性には禁じられていると考えていたのです。その理由は当時一般的に考えられていたように、男性が女性よりも優れているからではありません。教会が創造における神の定めを重んじたからです。
また、パウロが嘆いているのは、コリントの女性たちが質問を繰り返し、人々が説教を聞く妨げとなり、礼拝の混乱を招いたことであって、女性が学ぶこと自体ではありません。むしろ、当時の常識とは異なり、女性の学びを主イエスもパウロも重んじているのです。
こうして見ると、コリント教会の礼拝がいかに乱れていたかが想像できます。しかし、悲しいかな、コリントの教会は自分の欠点を自覚できず、却って自分たちの礼拝こそ神の教えに適うものと思い、鼻高々だったのです。「神のことばは、あなたがたのところから出たのでしょうか。・・・」とか「自分を預言者、あるいは御霊の人と思っているなら」とはそんな彼らへの皮肉、戒めです。
しかし、パウロの愛は絶えることはありません。使徒は高慢で、ひとりよがりなコリント教会を「私の兄弟」と呼んで、進むべき道を示すのです。

14:39~40「ですから、私の兄弟たち、預言することを熱心に求めなさい。また異言で語ることを禁じてはいけません。ただ、すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい。」

預言することを熱心に求めよ。だからと言って異言の賜物を禁じてもいけない。異言派にも預言派にも配慮した、バランスの取れた助言です。そして、礼拝に出席したすべての人が神から益を受け取るために、奉仕者は賜物を適切に用い、ひとりひとりが秩序正しく振舞うようにと勧め、パウロは礼拝混乱の問題にピリオドを打ったのです。
礼拝の混乱はコリント教会特有の問題でした。しかし、礼拝のあるべき姿に関するパウロの教えは、今の私たちも活かすべきものではないかと思うのです。
ひとりひとりの自由が重んじられるも、自分勝手やひとりよがりは許されない。賜物や能力は大切だとしても、それをもってその人の価値を測らない。自分の働きが人に注目されることよりも、与えられた賜物を用いて人に仕えることを喜びとする。
コリント教会の奉仕者たちの姿を反面教師として、私たちもひとりひとりの自由と全体の秩序が両立する教会、家庭、社会の建設を目指してゆきたいと思うのです。

2020年5月17日日曜日

「彼らとともに歩き」ルカ24:13~33a


 新型コロナウイルス感染症の問題のため、四日市キリスト教会では412日の聖日から皆で集まることをせず、オンラインでの礼拝となりました。今日で六回目。愛する方々と、ともに集まって礼拝することが出来ないことが、どれほど寂しいことなのか味わう期間となりました。この間、説教も新型コロナウイルス感染症を意識してのものとなりました。まだまだ気を緩めて良い状況ではありませんが、感染拡大予防に留意しつつ、皆で集まる礼拝の再開を検討する状況になってきました。安全、平安のうちに、皆で集まり礼拝出来るように皆で祈りたいと思います。
 教会歴としては、キリストの復活を祝うイースターから、ペンテコステまでの期間となりました。(二週間後がペンテコステの聖日。)そこで今日は、ペンテコステへ向けて思いを整えるために、復活直後のイエス様の記事を皆で読みたいと思います。ルカの福音書では、復活したイエス様が、弟子たちに初めて弟子たちに姿を見せた場面。この箇所から、私たちの神様はどのようなお方なのか。私たちの救い主はどのようなお方なのか。教えられたいと思います。

 ルカ24章13節~16節
ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。

 「ちょうどこの日」と始まります。これはイエス様が復活された、まさにその日のこと。二人の弟子が、エルサレムから約十一キロ離れたエマオという村に向かいます。その道中、二人の弟子の話題は、イエスの死と、遺体がなくなっていたこと。一連のイエスの事件について話し、論じていました。
 この二人の弟子は、この朝、弟子たちが遺体を見に行き、遺体が無くなっていたこと。御使いがイエス様は生きていると宣言したことは知っていました。しかし、イエス様が復活したことを信じていたわけではありません。生き返るなど信じられない、信じきれない。それで、話し合ったり、論じ合ったりしていたのです。遺体が無くなった。一体誰が遺体を運びだしたのか。自分たちの仲間、弟子の誰かが盗みだしたのか。一体何のために…。墓泥棒が入ったのか。泥棒なら金品を盗むとしても、遺体は置いておくはず…。そもそも、ローマ兵が見張りしていたのに、どうやって遺体を盗むのか。本当に復活したというのか。しかし、そうだとしたら復活したイエス様はどこにいるのか。ああだ、こうだと論じ合う最中、なんと復活したイエス様が同行します。
 これで話し合う必要なし。議論する必要なし。目の前に復活したイエス様がいる。ところが、弟子二人の目はさえぎられていて、分からなかったと言います。後程の会話で出て来ますが、これは夕暮れ時のこと。街灯などない時代、暗がりで顔が見えにくかったということもあるかもしれません。しかしそれ以上に、この「目がさえぎられていた」というのは、霊的なこと、心のことでしょう。
目の前にイエス様がいながら、イエス様はどうなったのかと話している。滑稽というか、間抜けというか。しかし、これが復活という出来事を前にした人間の姿でした。死に打ち勝つ命など、考えることが出来ない。復活に対して、目がさえぎられているのです。

 さて、ここから注目の会話が始まります。

 ルカ24章17節~24節
「イエスは彼らに言われた。『歩きながら語り合っているその話は何のことですか。』すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。『エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。』イエスが『どんなことですか』と言われると、二人は答えた。『ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。』」

 エマオ村途上の二人の弟子のもとに合流したイエス様が、一体何の話ですかと問いかける。そこで弟子の一人、クレオパが暗い顔をしながら、「エルサレムにいながら、知らないのですか。」とあきれながら、自分の知っていることを話します。
 ところで、二人のうちの一人、クレオパという弟子は、ルカの福音書に初めて出てくる人物。この場面だけ登場する人。もう一人は、名前すら出てきません。復活した当日、イエス様は無名の弟子たちに会われていた。これもまた私たちにとっては嬉しいことです。有名であるとか、活躍したとか関係無い。弟子の方には条件はなく、イエス様がともにいると決めれば、ともにいて下さるのです。
 それはそれとしまして、クレオパの説明には、クレオパの思いが滲み出ています。イエス様のことを「神と民全体の前で、行いにもことばにも力ある預言者」と言い、「イスラエルを解放する方だと望みをかけていた」と言います。その方が死んだ。悲しみと無念が、暗い顔に表れています。しかも事態はそれで終わらず、遺体は無くなり、墓に行った者たちは御使いを見てお告げを聞いたと言う。復活は信じられない。しかし、事実遺体は無くなってしまった。一体どういうことなのか。大いに困惑しているのです。

 さて、この二人の弟子に、イエス様は何をされるのか。当然のこと、「わたしが復活したイエスです。」と言われる場面。「わたしが復活したイエスです。」と言えば一撃。それで終わり。ああだこうだ言っている二人の弟子に、復活が事実であることを、これ以上ないほど明確に教えることが出来る。しかしイエス様はそうされなかった。非常に興味深い場面。何をされたのか。

 ルカ24章25節~27節
そこでイエスは彼らに言われた。『ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。』それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

 復活を信じられない。遺体がなくなったことに困惑していた弟子たち。その弟子たちに、復活のイエス様は何をされたのか。「わたしが復活したイエスです。」と言われたのではない。そうではなく、聖書を教えられたのです。
 私などは、イエスの復活を信じるのに、復活したイエス様に会うほど確かなものはないと思います。しかしイエス様は、聖書を教えられた。「おおっ」と声が出ます。驚くと同時に、大いに励まされます。考えてみれば、私たちは復活したイエス様に直接お会いしたわけではありません。それにもかかわらず、イエス様の復活を信じている。信じることが出来ている。それは、聖書があるから。聖書で教えられたからでした。そしてイエス様の復活を信じるのに、聖書を知り、聖書を信じることが、これ以上なく適切なことだったのです。
 二千年前のイエス様の聖書講義。これは聞いてみたい。これ以上聞いてみたい聖書講義はないように思います。実際、何を話されたのか。天国でお聞きする楽しみの一つです。具体的にどの箇所を開き、どのように説明されたのかは分かりませんが、ここには聖書を読む上で非常に重要なことが記されています。最後に確認したいと思いますが、先にこの弟子たちに起こったことを見ていきます。

 ルカ24章28節~29節
「彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。彼らが、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています』と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。」

語り始めは、エルサレムにいたのにこんなことも知らないのかと呆れていた弟子たちが、聖書の話を聞いて、とんでもない人に出会ったと気付きました。お泊り頂いて、もっと話を聞きたい。是非是非、ご一緒にと引き留めてともに食事をします。こうして、当の復活した救い主に真正面するという恵みを受けることになります。

ルカ24章30節~33節
「そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は話し合った。『道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。』二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。」

 ともに食事をする際、パンを取り裂いて分けるというのは通常、主人のすること。しかしゲストであった人が、いつの間にか食卓の中央に。パンを割いたその手に記された十字架の痕に、「あっ」と驚く弟子たち。薄暗い部屋の中で、イエス様を見出した弟子たち。息が止まる、時間が止まるような場面。そしてこの方がイエス様だと分かった時に、当のイエス様が見えなくなったのです。心の目が開かれて、この方がイエス様だと分かったら、肉の目としてはイエス様が見えなくなった。とても不思議な場面です。これで十分ということだったのでしょうか。この二人の弟子とここに留まるのではなく、この二人の弟子がエルサレムに戻ることを優先させたということでしょうか。
 二人の弟子は、他の弟子たちに事の次第を報告しにエルサレムへ向かいます。この時、この二人が残した言葉が実に印象的です。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」ルカは、イエス様に真正面した驚きや喜びの言葉ではなく、イエス様がされた聖書の話の感想を記録しているのです。「心は内で燃えていた。」

 さて、それではイエス様がされた聖書の話とは、どのようなものだったでしょうか。先に確認しましたように、具体的なことは分かりません。しかし、旧約聖書全体をどのように読めば良いのか。イエス様が語られた、聖書を読む時の基本的な姿勢をルカは記録してくれています。

 ルカ24章26節~27節
「『キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。』それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

 救い主は、神の民のために苦しみを受け、しかしそれで終わらず、栄光を受ける。旧約聖書全体は、救い主の苦難と栄光を証している。そのように旧約聖書を受け止め、読むようにと教えられます。
 三十九の書からなる旧約聖書には多種多様な書。歴史的出来事、詩、預言。文体も内容も様々。しかし全体として、私たちのために苦しみ、私たちを救い出す方である救い主が示されている。救い主という視点で旧約聖書を読むように教えられるのです。
                                                          
 救い主という視点で旧約聖書を読む。このようにまとめられますと、旧約聖書の中に出てくるメシア預言を中心に聖書を読むというように聞こえます。一般的には救い主がどのような方か、何をされるのか、直接的に示している預言が、五十から六十あると言われます。その聖書のあちこちにあるメシア預言をつなぎあわせると、救い主は苦難と栄光を受ける方だと分かる。そのように旧約聖書をまとめて、メッセージを受け止めるようにと教えられているように感じます。しかし、もしそうであれば、旧約聖書はあれほど分厚い必要はありません。メシア預言と言われる箇所を寄せ集めたもので十分ということになります。ここでイエス様が言われている救い主という視点で旧約聖書を読むとは、どのような意味でしょうか。

 神の民のために苦しみ、神の民を救う方。旧約聖書において、これはまさに主なる神様の姿でした。出来事の中にも、詩の中にも、預言の中にも、神の民のために苦しみ、神の民を救う主なる神様の姿が出て来ます。いくつも例を挙げることが出来ますが、例えば次のような箇所があります。

 イザヤ63章8節~9節
「主は言われた。『まことに、彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ』と。こうして主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。」

 旧約聖書に示された神様とは、神の民を愛し、あわれみ、子として扱って下さる方。神様ご自身が、神の民を裁く時も苦しまれる方。(エレミヤ31章20節など参照)神の民のために苦しみ、神の民を救い出す方。旧約聖書全体は、まさにこの主なる神様の姿を記している書です。
 それでは、この旧約聖書を救い主という視点で読むとは、どういう意味でしょうか。それはこの主なる神様が、イエス様に他ならないとして読むということです。旧約聖書で繰り返し示された神の民のために苦しみ、神の民を救う主なる神様。まさにその主なる神様が、人となり私たちの救い主として来られたイエス様なのだと信じるということです。
 世界を造り支配される神様は、ただ自分を無視する者を罰する神ではない。私たちの罪を罰しつつ、自ら苦しむお方。その苦しみを背負い、私たちを救うべく、十字架の死と復活を通して永遠のいのちを下さるお方。この方が主なる神様でありイエス様である。この神様、この救い主に出会う時に、私たちの心は燃やされるのです。

 エマオ村へ向かう弟子たち。聖書のことが分からず、救い主の復活を信じられず、困惑していた弟子たち。その弟子たちのところに近づき、ともに歩かれたイエス様。このイエス様の姿はこの時だけではなかった。旧約の時代、神の民とともに歩まれた主なる神様の姿、そのものであったのです。
 私たちの心の目が開かれて、この神様を、この救い主を、信じる信頼して生きることが出来ますように。この神様と、この救い主を知ることで、ともに生きることで、心が燃やされますように。
 「神ともにいまして 行く道を守り 雨の御糧もて、力を与えたまえ」と、それぞれの場所で教会の仲間のために祝福を祈りつつ、次週の礼拝へと歩みを進めていきたいと思います。

2020年5月10日日曜日

「神が私たちの味方なら」ローマ8:31~39


新型コロナウィルスの感染が続いてます。日本では緊急事態宣言が継続していますが、感染者増加のペースは落ちてきたように見えます。いくつかの国では経済活動も再開されました。しかし、まだ気を緩めるわけにはいかない状況が日本と世界を覆っているとも感じるのです。私たちも一日も早く教会に集まって礼拝できる日を望みつつ、オンライン礼拝をおこないます。
こうした中、先週の礼拝でローマ人への手紙8章を学びました。キリスト教の福音を整理し、全体的に理解するうえでこれに勝るものなしと評価されるローマ人への手紙。中でも8章は福音の頂点とされ、困難の中に置かれたクリスチャンたちを励まし、希望を与えてきたのです。
今朝私たちが読み進めるのは第8章の終盤31節から39節です。ここは、論理的と言うより感情的、説明的というより詩的な表現が連続し、使徒パウロ渾身の信仰告白となっています。

8:31~32「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」

「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。」とパウロは語りだします。「これらのこと」とは何でしょう。それは福音です。これまでパウロはキリスト教の福音について順番に、全体的に教えてきました。そして、福音の説明は830節で終わったのです。
その福音の頂点について、先週私たちは確認しました。主イエスを信じる者は罪赦され、神の子となる。主イエスを信じる者は神の相続人でもあり、やがて新しくされた世界を相続する。主イエスを信じる者の人生に起こることは、喜びも悲しみも、労苦も災いも、すべてのことが相働いて益となる。私たちが受け取っている恵みは、大きくこの三つにまとめることができます。
しかし、そうだとするなら、何故パウロは「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。」と、なおも言葉を続けているのでしょうか。もし福音についての説明を終えたのなら、何故それ以上のことを福音を信じる者たちに語る必要があったのでしょうか。
それは、私たちクリスチャンが弱い存在だからです。常に堅く神の言葉に立って生活することができない存在だからです。むしろ、私たちは現実の自分と聖書が教える神の子の姿との違いに悩みます。現実の世界と聖書が約束する世界との余りの落差に不安を感じます。現実の人生と聖書が示す人生との間に矛盾を感じてしまうのです。
神の子とされながらも日々罪を犯す自分を見て、神はこんな自分を愛してはくださらない、神はこんな自分を見捨てるのではないかと悩むことがあります。神がこの世界を新しくされると言うけれど、現実の世界で戦争、災害、迫害、感染症などが繰り返し起こるのを見ると、本当に神がこの世界を導いているのだろうか、神の計画は進んでいるのだろうかと不安になることもあります。聖書にはすべてことが相働いて益となるとあるけれど、人生は苦しみばかり、良いことなど一つもないと落胆することだってあるのです。
そんな人間の弱さをよく知っていたからこそパウロは語ります。「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」力こぶを握りしめながら、愛する兄弟姉妹に語りかける使徒の姿が目に浮かんでくるようです。
パウロは私たちの生きる世界が理想的な世界だ等とは考えていません。私たち神の子どもにはバラ色の人生が待っているなどとは思っていません。むしろ、この世界にはキリスト教信仰に敵対する悪の力が存在し、戦争、災害、迫害、疫病、様々な悩み、苦しみを用いて、私たちの信仰を倒そうとしていると警告しています。
けれども、このような世界で生きなければならない弱い私たちのために、神が味方となられた、そして、神が味方であることを疑う者のため、神は御子イエスを私たちに与えてくださったと言うのです。
親にとって自分の命より大切なものと言ったら、子どもをおいて他にはありません。銀行預金も、家や土地も、社会の肩書も、子どもに比べたら何程のものかと多くの親は考えます。
神も同じだとパウロは言うのです。神が私たちの味方であることは、神が御子イエスを十字架の死に渡したことから明らかだと語るのです。御子イエスを死に渡したからには、神がすべて良いものを私たちに恵んでくださると確信するのは当然ではないかと教えているのです。
しかも、神は嫌々ながら、仕方なく、御子イエスを死に渡したわけではありません。私たちのために惜しみなく御子イエスを与えてくださったのです。そんな恵みの神が日々罪を犯してしまう私たちをきよい者へと造り変えて下さらないことがあるだろうか。争いや災いに満ちたこの世界を新しくしないことがあるだろうか。人生に起こりくる様々苦難を用いて、私たちを世界の相続人として整えて下さらない等ということがあるだろうか。いや、断じてあるはずがない。
これが、使徒パウロの確信でした。さらにこの確信をすべてのクリスチャンが持てるようにと、パウロは言葉を重ねます。

8:33~34「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」

 ここで考えられているのは天の法廷だと言われます。サタンが私たちを罪ありと訴える。すると、主イエスがその兄弟に罪はないととりなし、弁護する。それを見て、神が私たちを義と認めてくださる。これが天の法廷で起こっていることなのです。
 聖書において、サタンは私たちクリスチャンの告発者です。サタンは良心を用いて私たちを責めるのです。「日々罪を犯すようなお前のことを、神が愛しているものか。お前は神の子にふさわしくない。」そう責めたて、悩ませるのです。
しかし、主イエスは悩む私たちに語ります。「わたしがあなたの罪のために死に、あなたの代わりに神のさばきを受けたのだから、あなたは神に義と認められ、受け入れられている。」罪を責めるサタンの攻撃から私たちを救うのは、十字架の主イエスのみです。
 けれども、サタンは良心を用いるだけではありません。この世界に存在する様々な苦難をも利用して私たちの信仰を倒し、神から引き離そうと努めているのです。

 8:35~37「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」

 苦難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣。この世界は決して安全な場所ではありません。私たちが歩む道は決して平坦ではないのです。政治的安定も、経済的繁栄も、平穏な生活も、いつ崩れ去るのか分からないのが現実です。教会を迫害する為政者も絶えることはありません。
また人間の生命を支えるべき自然が、いつ、どんな形で牙をむくのか、どれ程の人間の命を奪うのか誰にも分からないのです。
 苦難、苦悩、迫害、裸、危険、そして剣。サタンはこれらを用いて、私たちに神の愛を疑わせます。神に背かせ、私たちから永遠の命を奪い去ろうと試みるのです。
 ところで、ここで引用されている詩篇4422節「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」は、旧約の信仰者の言葉です。
この詩人も戦争、敗北、貧しさの中で、世の人々から「こんな時に救ってくれない神なら、捨ててしまえ」と嘲りを受けていました。神に信頼する者が何故侮辱されなければならないのかと、苦しんでいたのです。そして、自分を常に死の危険と隣り合わせで生きる羊、屠られるべき羊にたとえ、殉教をも覚悟していたようです。パウロも同じ覚悟を持っていたのです。
この世の人から見れば、神を信じていながら、苦しみの中死にゆく者は敗北者かもしれません。しかし、たとえどれ程苦しめられ、迫害され、病に倒れ、死に至ろうとも、最後まで神の愛に信頼し、神の愛の中に守られて生きる者こそ勝利者、それも圧倒的な勝利者なのだ。、断固神の愛に立つパウロの姿がここにあります。さらに、その確信はとどまることを知りません。

8:38~39「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
 
 ここにある言葉の解釈には様々なものがあり、難しいところです。但し、これらが神の愛からクリスチャンを引き離す可能性があると、人々から思われていたものであるという点においては一致しています。
 先ず使徒が挙げているのは「死といのち」です。人間にとって恐れの対象である死も、危険と苦しみに満ちたいのちも、神の愛から私たちを引き離すことはできないという意味でしょう。次の「御使いたち、支配者たち」については、御使いたちが人間を守る良い存在、支配者たちは悪霊と考えられます。たとえ御使いの守りがなくても、悪霊が働いても、神の愛から私たちを引き離すことはできないと言うのです。
 また、「今あるものも、後に来るものも」は、地上の人生で起こることも、死後の人生で起こることもという意味であり、「力あるもの」はこの世の権力者を示しています。最後の「高いところにあるもの、深いところにあるもの」とは当時盛んだった占星術のことばで、人間の運命に決定的影響を与えると信じられていた星を指すと考えられます。
 死もいのちも、み使いも支配者も、今あるものも、後に来るものも、権力者の迫害も、はるか天空を動く星々も、とにかく被造物がいかに苦しめ、恐れさせたとしても、人々の愛は離れたとしても、神の愛から主イエスを信じる者を引き離すことはできないと、パウロは断固告白し、揺らぐことはなかったのです。
 果たして、今のこの世界にパウロが現れたとしたら、何と言うでしょうか。感染症の拡大を恐れ、「私の生活はどうなるのか、私の健康はどうなるのか、私たちの国、私たちの世界はどう変わってしまうのか。」そんな不安を感じている人々に何と語りかけるでしょうか。
 間違いなく、神の前に自分の罪を認め、イエス・キリストを信じるように勧めるでしょう。イエス・キリストを信じる者には神が味方であると伝えるでしょう。御子イエスさえも惜しむことなく死に渡された神が御子とともにすべてのよきものを、私たちに恵んでくださると励ましたに違いありません。
 そして、パウロがするであろうことを実際に行うのは私たちです。私たちはこの世界の様々な苦しみの源に人間の罪があることを知っています。その罪を取り除き、人間を罪から救うお方を知っています。人間以外の被造物が苦しみから解放するお方を知っています。本当に人々の心を恐れから解放し、人々に希望をもたらす福音を、私たちは信じ、経験しているのです。
 そんな私たちが、この状況の中でどう生きるのか。神を味方とする私たちの生き方が、不安を感じている人々の励ましとなるのか。労苦している人々に希望をもたらすのか。神は私たち神の子どもに目を留め、期待しておられるのです。
 今様々な人々が声を上げています。これから人間は新たな世界観、新たな人生観を模索し、身に着ける必要があると語る哲学者がいます。弱者を守り、支える社会体制の必要を説く経済学者がいます。対立をやめ、国々が一致協力することの重要性を主張する政治家がいます。科学と医学の力を結集して、新型コロナを終息させなければならないという科学者がいます。
 もちろん、哲学も、経済活動も、弱者を支える社会も、国々の協力も、科学と医学の発展も必要なことです。しかし、気になるのは、多くの人々が人間の罪を認めず、神を無視していることです。この世界を創造し導く神の存在を認めていないことです。神がいなくとも、人間の知恵と力で世界を良くしてゆけると考えていることです。
 しかし、聖書によれば、神を無視する世界に救いはありません。聖書によれば、自分の罪を認め、自分の弱さを認め、神の愛に頼る者こそ勝利者なのです。私たち皆で神を味方とする人生を歩み続け、人々に神の存在と神の愛を証ししてゆきたいと思います。
 「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。しかし、これらすべてにおいて、(私たちは弱いのですが)、私たちを愛してくださった方(主イエス)によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」