2020年11月29日日曜日

アドベント(1)「神様のマリアへの思いやり」ルカ1:39~45

 聖書の神を信じる者。神の民はどのように生きるのか。一つの答えは「救い主を待つ」というものです。神を信じる者は、救い主を待つ者です。

旧約の時代、神の民は、約束の救い主が来ることを待ち望むようにと教えられました。旧約聖書最後のマラキ書は「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」というキリストの到来の預言で閉じられています。主イエスが来られた新約の時代、神の民は、もう一度来ると約束されたイエス様の再臨を待ち望むように教えられました。新約聖書最後のヨハネの黙示録は「これらのことを証しする方が言われる。『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」という再臨の預言と、それに応じる祈りで閉じられています。聖書は、信じる者に対して、救い主が来られるのを待つ者として生きるように教えていました。

 今日から待降節に入ります。「待降節」「アドベント」。私たち信仰者はいつでもイエス様の到来を待つ者として生きるように教えられていますが、特にこの時期は救い主の到来を待つことに集中したいと思います。

今年のアドベント、礼拝説教ではキリストの誕生にかかわりのある人たちに焦点を当てつつ、神様がそれぞれの人にどのような愛や配慮、思いやりをもたれて接せられたのか見ていきたいと思います。今日はルカの福音書より、救い主の母として選ばれたマリアに焦点を当てます。救い主誕生という大奇跡の最中、神の民を大切にされる神様の姿を皆で見ていきたいと思います。

 

 イエス様の生涯の記録は聖書の中、四つの福音書に記されています。そのうち誕生について最も詳しく記しているのはルカの福音書。冒頭はマリアの親類にあたる「祭司ザカリヤとエリサベツ夫妻」のことから記されます。

 ルカ1章5節~7節

「ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。」

 

 神の前に敬虔に生きてきたザカリヤとエリサベツ夫妻。子どもが与えられることを願いつつも、与えられない寂しさを抱えた老夫婦。この老夫婦に素晴らしい知らせが届きます。御使いを通して告げられたのは、念願の子どもが与えられること。その子は、神様の重要な働きを為す人物となること。ザカリヤにとって、ひたすらに良いこと。嬉しいこと。ただただ、嬉しい知らせでした。ところが、当初ザカリヤはこの知らせを信じることが出来ませんでした。受けとめきれなかったといいます。

 ルカ1章18節

「ザカリヤは御使いに言った。『私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。』」

 

興味深く、面白いところ。神の前に正しいと評されたザカリヤ。旧約聖書に精通した祭司。当然のこと、アブラハムと不妊の妻サラが老齢になって子どもが与えられたことも知っていました。そして、長らく祈り願ってきたこと。それでも、子どもが与えられるという知らせを、受けとめきれなかった。人間ザカリヤです。あまりに嬉しい知らせ。しかし、この知らせ自体が自分の妄想だったらどうしようか、という恐れでしょうか。悪い知らせを受け入れたくないというのは分かりやすいのですが、あまりに嬉しい知らせを受け止めきれなかったという場面。このザカリヤを神様は慮ってくださり、神の言葉を素直に信じる者へと導かれました。

 

 このザカリヤとエリサベツ夫妻の出来事を経て、御使いはマリアに現れて、「あなたは約束の救い主を産むのだ」と告げました。

 ルカ1章28節~33節

「御使いは入って来ると、マリアに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると、御使いは彼女に言った。『恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。』」

 

 有名な受胎告知の場面。婚約中のマリアに、救い主を産むことが宣言される場面。御使いはマリアに「おめでとう、恵まれた方。」「あなたは神から恵みを受けたのです。」と声をかけます。

「あなたは子どもを産みます。」という知らせ。しかし、これは「ザカリヤ、エリサベツ夫妻」と「マリア」では、意味が全く異なります。「ザカリヤ、エリサベツ夫妻」にとって、子どもが与えられるというのは念願であり、ただただ良いこと。しかしマリアにとって、このタイミングで子どもが与えられるというのは、考えてもいないこと。しかもマリアにとって良いこととは言えないものでした。婚約中のマリアが男の子を産む。それが実現したら、婚約者のヨセフにどのように思われるのか。社会的にどのように扱われるのか。悲劇が予想されます。それも、不妊とか老齢の問題ではなく、男性との性的関係無しで、聖霊によって身籠るという知らせ。受け入れがたい、信じがたい知らせ。しかし御使いとのやりとりを経て、マリアはこの知らせを受け止めました。

 

 ルカ1章38節

「マリアは言った。『ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。』すると、御使いは彼女から去って行った。」

 

 聖書の中でも珠玉の献身の場面。ザカリヤの姿と比較すると、この時のマリアの素直さ、神様の言葉に対する従順さが際立ちます。神様の言葉にかくも従順である一人の信仰者を通して、イエス・キリストの誕生があり、全世界に救いの御業が広がりました。神様の知らせに、このように応じる者でありたいと思うマリアの姿でした。

 

 ところで、「男の子を産む、救い主を産む、神に不可能なこと無し」と言われ、「その通りになるように」と応じたマリアですが、その後、出産までどのように過ごしたのでしょうか。もし、自分がマリアの立場だったら何をするでしょうか。

 婚約者ヨセフへ相談するでしょうか。(マタイの福音書に記されているヨセフの姿からは、マリアはヨセフにしっかりと相談していなかったように思われます。)親や友に相談するでしょうか。(マリアは親や友に相談したかもしれませんが、聖書には記されていません。)現代であれば、妊娠検査薬で調べるか、産婦人科に行くでしょうか。

 実際にマリアが取り組んだこと。それは御使いの知らせの中に出て来た、親戚エリサベツのもとに行くことでした。御使いは、不妊で老齢のエリサベツの妊娠を一つの証として、神に不可能なことはないと告げていました。そのためマリアはエリサベツのもとに行くことが、自分の状況の助けになると思ったようです。そして実際に、エリサベツに会うことは、マリアにとって重要な意味のあることになります。

 

 ルカ1章39節~41節

「それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。」

 

 マリアはエリサベツのもとを訪れます。これは受胎告知の場面から、どれ位経ってからなのか。御使いはマリアに対して、エリサベツは妊娠して六か月と伝えています。(ルカ1章36節)またマリアはエリサベツを訪問し三か月滞在し、その後でエリサベツは出産したことが記録されています。(ルカ1章56節)一般的な妊娠期間は約十か月ですので、つまりこの訪問は受胎告知の後一か月以内のこと。アリア自身、身体に変化がなく、本当に妊娠しているか分からない時のこと。

この時のマリアの思いを想像します。御使いから知らせを受け、自分はそれを信じている。しかし、他の人に信じてもらえるものとは思えない内容。夢でも見たのではないか。ヨセフを裏切りながら、おかしな言い訳を言っていると思われないか。これから自分はどうなってしまうのか。恐れ、戸惑い、困惑を抱えながらの訪問だったと思います。ザカリヤの家に着き、おそるおそるエリサベツに声をかけるマリア。その時、驚くべきことが起こります。

 ルカ1章42節~45節

「そして大声で叫んだ。『あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました。主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。』」

 

 マリアは挨拶しただけ。まだ状況説明もしていない。しかしエリサベツは大声で叫び、「あなたは女の中で最も祝福された方」と呼び掛け、「あなたの胎の実」と言い、そのうえマリアを「私の主の母」と認めます。エリサベツの胎内にいるのは、救い主の前触れをすると言われたザカリヤとの子。その子も胎内で喜んで踊ったと言います。そして「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」と祝福の言葉を述べる。夫ザカリヤが、当初信じられなかったのと比べて、あなたは信じることが出来る幸いを得た人だと告げる。

 このエリサベツの言葉を聞いた時、マリアはどれほど励ましを受けたでしょうか。マリアは御使いの言葉を信じていました。しかし、まだ実感を持てない状況。そこに神様が備えておられたのはエリサベツでした。この言葉を聞いて、マリアは御使いの言葉をより確かなものと信じることが出来でしょう。また自分が救い主を産むことは自分が信じているだけではない。同じように信じている人がいることが、どれほどの励まし、慰めとなったでしょうか。

 

 ところで、エリサベツは約束の救い主を産むマリアのことを「女の中で最も祝福された方」と呼びました。しかし、なぜ約束の救い主を産むことが、祝福なのでしょうか。マリアにとって、救い主を産むことは、どのような意味で良いことなのでしょうか。

それはこの出産を通してマリアが「主によって語られたことは必ず実現する」ことを体験するから。御使いの告げたことが真実であることを自分の体験として経験出来る。いや御使いがマリアに告げたことだけでなく、旧約聖書で繰り返し約束されていた救い主到来を、自分の身体で体験出来る。主によって語られたことが実現することに、マリア自身が大いに用いられる幸いをエリサベツは告げていました。

 

 このエリサベツの言葉を受けて、マリアの口をついたのが、マリアの賛歌となります。

 ルカ1章46節~47節

「マリアは言った。『私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。』」

 

 一般的に、「マリアの賛歌」、あるいは「マニフィカト」と言われる賛歌です。「マニフィカト」とは「あがめる」という意味。原典のギリシャ語では、「メガリュノー」という言葉で、大きくするという意味。「わが魂は主を大きくする。」「わが魂は主を大いなる方とする。」「わが魂は主をあがめる。」です。

 約束の救い主の誕生を前に、マリアは何を思ったのか。救い主の誕生は、マリアにとって、どうしようもなく嬉しいことだったのです。たましいも霊も喜びで振るえ、主を褒め称える思いで満たされ出てきた言葉が、わが魂は、主をメガリュノーする。わが魂は、主をマニフィカトする。わが魂は、主をあがめる、という言葉でした。ともかく神様を賛美したい。ともかく主をあがめたい。大変に嬉しいという思いでした。救い主の誕生を前にしたマリアの第一の思いは、賛美であり喜びでした。

 私を罪から救う方が生まれた。この知らせを、私たちはどのように受け止めているでしょうか。キリストの到来を覚えるアドベントの時、どれ程の喜びを味わっているでしょうか。

信仰生活、教会生活が、何年、何十年と続くうちに、キリストの誕生はよく知ったこと。感動も、喜びもなく、アドベント、クリスマスを過ごしてしまうということが起ります。

マリアの姿を前に、私たち皆で、今一度救い主が生まれるという知らせに集中したいと思います。世界の創り主が、私のために人となられた。この知らせに感動や喜びはあるのか。もしないとしたら、何故、喜びや感動がないのか。よくよく確認したいと思います。今一度、マリアが感じている感動、喜び、賛美をともに味わいたいと思うのです。

 

 ルカは母マリアに焦点を当てつつキリストの誕生を記しました。その筆は、マリアだけに焦点を当てたものではなく、ザカリヤ、エリサベツとの関係の中で、マリアの姿を記します。

神が人となる。それも罪人を救うため、死ぬために生まれる。奇跡の奇跡にして恵みの恵み。神様は、この救い主誕生という極めて重要な出来事を、マリアという信仰者を通して実現しようとされました。実現に際して、神様はマリアに使命だけを与えて終わりとはしませんでした。神に不可能なことはない証として、励ましと祝福を伝える者として、エリサベツを備えて下さっていた。また次週確認しますが、婚約者ヨセフも守り導いて下さいます。「約束の救い主誕生という大事の前に、マリアの人生や思いという小事など関係ない」というのではない。マリアの思い、マリアの人生も守り、支えて下さる神様。

 もっと言えば、この出来事はエリサベツにとっても大きな喜びだったと思います。長らく願いながらも子どもが与えられなかった。これまでの苦しみや悲しみ。しかし、それは神に不可能なことはないと証するためのものであった。マリアが、神のことばは必ず実現すると信じる一つの証となるためでもあったのです。苦しみや悲しみに重要な意味があったと知ることは、エリサベツやザカリヤにとって、大事なことでした。

 世界を支配する神様は、それぞれの人に使命と力を与えながら、互いに励まし合い支え合う関係をも与えて下さる。守られ、導かれる神の民は、主によって語られたことは必ず実現すると確信する者へ整えられていく。このマリアに注がれた神様の思いやり、配慮、愛は、私たちにも与えられていることを今日覚えたいと思います。私たちにも使命と力が与えられている。私たちにも、互いに励まし合い、支え合う関係が与えられている。私たちの人生に起こりくる様々な出来事にも意味があり、神様は全てのことを通して私たちが「主の言葉は必ず実現する」と確信する者へ変えて下さる。神様の私たちへの思いやりを前に、一同で首を垂れるようにと思います。

 

 待降節、アドベント、キリストの到来を待ち望む時。マリアが抱いた喜びと同じ様に、私たちもキリストの到来を喜びたいと思います。マリアが抱いた確信と同じように、私たちも主の言葉は必ず実現するという確信を持ちたいと思います。

いや、もっと言えば、私たちは、マリア以上にキリストの到来の意味を教えられた者たちです。マリアは、約束の救い主が来るということで、大きな喜びに満たされました。私たちは、その救い主が、私たちの身代わりとして、十字架にかかることを知っています。そしてこの時、マリアの胎に宿られたキリストが、今度は御国の完成のために来られるということも知っています。キリストの到来の意味を、より教えられている私たち。マリアとともに、マリア以上に、キリストの到来を喜び、主をあがめる者でありたいと思います。

 イエス様が来られたこと、イエス様がもう一度来られること。そのこと自体が、どれほど神様が私を思いやり、配慮し、愛しておられることの実現なのか確認しつつ、クリスマスへと歩みを進めていきたいと思います。

2020年11月22日日曜日

ウェルカム礼拝「人生の本当の夜明け」ルカ23:39~43

  今朝は「心に力を与えるもの」というテーマに沿って、先ほどお読みいただいた個所からお話いたします。この箇所には、イエス・キリストが十字架にかけられている場面が描かれています。十字架は3本立っています。そして真ん中にイエス・キリスト、その両隣に犯罪人が十字架にかけられています。そしてその犯罪人の一人はキリストに悪口を言い、もう一人は罪を悔いて、キリストに救いを求めます。そうしますと、キリストに救いを求めた犯罪人に対して、キリストは「まことにあなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」という、信じられないような驚くべき祝福の約束を与えるという出来事が描かれています。

 さてところで、39節で一人の犯罪人が「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え。」と言っているのですが、実は他の福音書を見ると分かるのですが、最初のうちはもう一人の犯罪人も、同じようにキリストに悪口を言っていたということが書かれています。つまりはじめのちは二人とも、キリストをののしって「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え。」と言っていたわけです。別な言い方をしますと、この二人は二人共、人生の最期の最期になっても自分の罪を棚に上げて、キリストをののしっていたというわけです。すなわち、二人共罪人という意味では同等であるということを物語っています。一方が極悪人で、もう一方はそれよりもましな人間であるということではありません。一方が自分の罪に鈍感で、もう一方が自分の罪に敏感だったというのでもありません。一方が死後の世界を信じていなかったけれど、もう一方は死後の世界を信じていたというのでもありません。

 もともと二人共極悪人であり、自分の罪に超がつくほど鈍感であり、死後の世界が存在することなどこれっぽっちも信じていなかったのです。その証拠にこの二人は十字架にかかるまで、罪を犯し続けていたからです。もし死後の世界の存在を少しでも信じていたら、十字架につけられるほどまでには罪は犯し続けなかったことでしょう。そうなる前に、死後の裁きということが罪を犯し続けて生きているときに、きっとブレーキになったことだろうと思うわけです。

 さてところでそもそもこの二人は、なぜにこんなにまで極悪になったのでしようか。いつから悪に染まり始めたのかは分かりませんが、最初はごく小さな罪をドキドキしながら犯したことでしょう。私は一度物を盗んだことがあります。それは小学校の低学年の時、小学校の廊下にあった落とし物コーナーに置いてあった、大きなレンズの玉でした。それを一目見たときに「欲しい」と思って、思わず「あ、これ俺が落としたものだ」と言って、それをポケットに入れてしまいました。そのことを今も忘れていないということは、そういう嘘と盗みという罪を犯す時に、どれほどドキドキしていたことかということの証なのかも知れません。けれどもこの二人はそんな小さな罪から始まって、やがて平気で人を殺してしまうような罪を犯すようになっていったのだろうと思われます。

 

 さてところで、今朝この礼拝にいらっしゃっている方の中には、このように死刑に値するような罪を犯し続けているという生き方をしているという方は、まずいらっしゃらないと思います。そういたしますと、この二人の犯罪人と自分とは関係が何もないと思いますし、またそう思いたいことだろうと思います。けれども聖書が教える「罪」というものが、ただ単に外側に現れた行為だけのことではなく、内面の思いやあるいは口から出る言葉についても、それが「罪」として指摘されることがあるのだということを、今朝是非おぼえていただきたいのです。たとえば、「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。」とか、あるいは「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」という聖書のことばがあります。こういうことばによって自分の心の中を照らしてみるといかがでしょうか。

実際の行為としては、他人の心臓にナイフを突き刺したことはない。けれども憎しみという思いのナイフを突き刺したことは、何度あったことか。そして今もそのナイフを握っていて、どうしてもそのナイフを手放せないことか。また、実際の行為によって不倫はしたことはない。けれども情欲という思いを何度抱いてきたことか。そしてその思いから、今も離れられないでいることか。また聖書のあるところに、「舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。」(ヤコブ3:8)とあります。絶対に言ってはいけないと思っていることばを、どうしても言わずにいられなくなって言ってしまう。そしてそれによって、他人の心に大きな傷をつけて人間関係を破壊してしまう、ということはないでしようか。

これらの例は一言で言いますと、内面の罪を犯し続けることしかできないのだということを物語っているのです。聖書で、「なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。」(ローマ8:7)と言われています。「肉の思い」というのは、生まれながらの人間の心のことで、「神の律法」というのは、今まで言ってきた内面の思いへの神の教え、戒めのことです。「神の律法に服従しない」というのは、「『内面において、憎しみを持ったり欲情を抱いたりするな』とどんなに戒められても、人間の心はそれに服従しないのだ」ということです。「いや、服従できないのです」とまで念を押されているのです。

ですから、いくら外側の行為において紳士淑女であっても、心の中においては前科何犯、いや何十犯であり、それも死刑に値する罪を犯しているのだ。いや、罪を犯すことしかできないのだと、聖書は断言しています。もしこの聖書の断言に反対して、いや、私は絶対にそんなことはないという人がいらっしゃいましたら、ぜひ礼拝後にお話を聞きたいと思います。聖書に「善を行う者はいない。だれ一人いない」(詩篇14:3)とありますので、この断言から逃れることのできる者は一人もいないという断言もされているのです。これまでとてもとても暗いお話をしてしまいましたが、この十字架にかかった二人の死刑になるまで罪を犯し続けた姿というものが、実は神の律法を犯し続けて生きることしかできない私たちの姿を描いているということに通じているのだ、ということを知っていただきたいのです。

 

さてでは、こんな罪を犯すことしかできない「心に力を与えるもの」とは何なのだろうかという、今朝のテーマを考えたいと思います。最初に申し上げた通り、この二人は最初、二人共キリストに悪口を言っていました。両者ともまったく同じ極悪人として描かれていました。そして十字架にかけられて死にそうになっても、なおもキリストをのろうことしかできないという姿が描かれているのです。つまり、彼らのそれまでの人生に、その心の中を変えるような力を与えるものが何もないままに、十字架にぶらさげられているということなのです。

 

ところがそのうちの一人が、突然変わってしまったのです。「すると、もう一人が彼をたしなめて言った。『おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことは何もしていない。』」(40節、41)

この人はこの時、2つのことを告白しています。1つは、「おれたちは自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。」と言っています。これは、自分が悪かったのだという告白です。それまでの人生では、決して思わなかったでしょう自分の罪を告白しているのです。もう1つは、「だがこの方は、悪いことは何もしていない。」という、イエス・キリストの無罪性についてです。イエス様は罪が何もないのに、今目の前で刑罰を受けているのだという告白です。

この、自分の罪の告白とキリストの無罪性の告白をして、では彼は次にどう出たのでしようか。この十字架刑は自分のやってきたことへの当然の報いだから、このまま野垂れ死にしようとしたでしようか。またきよいイエス様に対して、あまりにも醜い自分の姿を見ないように、イエス様に目をつむってくれと言ったでしょうか。そのどちらもノーでした。彼はこう言いました。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思いだしてください。」(42)

なんと、「私を思い出してください」と言ったのです。まったく罪を犯していないきよいお方に、これ以上に醜いことはないと思われる自分を、「思い出してください」とです。これはどういうことでしょうか。彼は「あなたが御国に入られるときには」と言っています。つまりイエス様は、この十字架によって死んでも天の王座に座られるお方である、つまり、きよい神であると告白しているのです。そんな方に、「私を思いだしてください」というのは、どういう願いでしょうか。それは、神であるあなたがどうか私をお救いくださいという、彼なりの救いを求める言い方なのです。

つまりこういうことです。自分は今まで罪を犯してきた、いや、犯し続けてきた。その罪に染まった自分が、このように十字架という極刑こそふさわしいと判定されるほどひどい罪を犯してきた。けれどもこの目の前におられるイエス様は、神でいらっしゃる。それも、こんな醜い私を救ってくださる神でいらっしゃる。恵みに満ちておられる神でいらっしゃる。そう信じている信仰告白だったのです。彼がこの時、イエス・キリストの十字架の意味をどれだけ知っていたのかは分かりません。キリストが罪がないのに十字架にかかったのは、この自分の罪の身代わりに死ぬためであるということを、どれだけ分かっていたのかということは分かりません。もしかすると彼の子ども時代に、親から旧約聖書のみことばを教えられていて、救い主の予言について少しは耳に入れていたのかもしれません。それはともかくとして、彼はただイエス・キリストが恵み深い神であり、こんなに罪深い者をも救ってくださる方なのだと信じたのです。

 

さて彼のそんな信仰にたいして、イエス様はあっと驚く祝福のみことばを彼に語られるのでした。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(43)

地上で何一つ良いことをせず、またできなかったこの男性に、イエス様はこれ以上にない祝福を約束されました。単にその罪を赦すというだけではありません。キリストと共にパラダイスに、天国に共にいるというのです。キリストを信じると信じた今日、今、あなたは神と共にいるのです、とです。ある人はこのキリストの約束があまりにも素晴らしいので、この箇所は金色で印刷すべきだと言うのです。聖書の中にこんなにも祝福に満ちたことばが語られている箇所は、他にどこにあるだろうかということでしょう。最悪の極悪人に、最上の祝福のことばが浴びせられたのです。まさに「福音」、グッドニューズ、良い知らせというものを、これ以上になく表しているキリストのみことばですので、金色で印刷しても足りないくらいに祝福に光り輝いています。

 

今日の礼拝のテーマは、「心に力を与えるもの」でした。罪を犯すことしかできず、神の律法に対してはまったく力のなかった者が、やがて神と共にいる祝福された者に変えられたその力は、どこから来たのでしょうか。それはこの時十字架にかかって、死んでいかれたイエス・キリストから来ているのです。このイエス・キリストこそ、罪を犯すことしかできない者に、その罪を赦し神と共に生きるという祝福を与える力をお持ちなのです。そしてそのキリストを信じる信仰によりまして、そんな驚くべき恵みをいただくことになるのです。

それも、このまま死んでやがて死後の裁きを受けてもしょうがない者を、キリストは何も裁かず、ご自分と共にいてくださる神であるということをこの43節によって私たちに知らせておられるのです。きっと彼は死んで天国に行ったとき、この時のキリストの十字架が、他でもないこの自分の身代わりに刑罰を受けるためだったのだと知らされて、どれほど驚き、そして感激し、そしてキリストを賛美しキリストに感謝をささげることになったことでしょうか。

彼はそんな祝福にあずかり、そしてこのあと間もなく死んでしまいました。けれども私たちは、特に今日死ぬ予定があるというわけではありません。ですから、このキリストが自分に恵み深い神であるということを信じてから死ぬまでの地上の生涯を、キリストと共に生きる喜びをいただいて生きていく祝福があるのです。罪を犯すことしかできない魂が新しく造りかえられて、心の中に「愛」という実を神様がならしてくださいます。そうやって「人生の本当の夜明け」を迎えることができるのです。そんな恵み深い救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、心に力を与えられて、祝福された人生を賜りますようにとお勧めしてお話を終わります。

2020年11月15日日曜日

一書説教(64)「ヨハネの手紙第三~大きな喜び~」Ⅲヨハネ1:1~8

  私たち人間は意味を求める存在と言われます。自分の人生に起こることも、自分が為すことも有意義であると願います。無意味であるというのは恐ろしいこと。苦しいこと、つらいことでも意味があると思えば受け入れ易く、楽しいこと、快いことでも無意味であると思えば虚しくなります。周りの人にとって自分の存在が大切であり喜びであると思えるのは幸いなこと。自分の存在が周りの人を傷つけ、悪い状態にしていると思うのは大変苦しいことです。

 ギリシャ神話に出てくる「シーシュポスの岩」の話。シーシュポスに下された罰は大きな岩を山頂に持っていくこと。シーシュポスが岩を持ち上げ山頂へ向かい、あと少しで山頂に届くところまで岩を持っていくと、岩はその重さで山の下まで転げ落ちていく。延々と続く無意味な労働が、シーシュポスに課された罰でした。日本の民間信仰には「賽の河原の石」があります。死んだ子どもは、三途の川の河原で石を積まなければならない。しかし石積みが終わる前に鬼が来て倒すため、完成することが出来ない。延々と続く無意味な作業。シーシュポスの岩にしても、賽の河原の石にしても、このような話が広く知られているというのは、「自分のしていることが無意味であると思うこと」に対する恐れを多くの人が抱いていることを物語ります。

 米澤穂信という作家が書いた「ボトルネック」という本があります。人はどうしたら絶望するのかを描いたもの。主人公が、ある夢を見て絶望する物語です。皆様は、どのような夢を見たら絶望すると思うでしょうか。主人公が見た夢は、現実の世界と同じ世界であるものの、自分の代わりに別な人が生きているというもの。そして、自分の人生を他の人が生きると、現実よりも良い世界となっていくのです。「自分がいると周りの人が不幸になる、自分がいると世界は悪くなる」。そのように思うことが人を絶望へ導くという話。なるほどと思います。

 自分の人生に起こることに意味はない。あるとしても、悪いことしか起こらない。自分は人を傷つけ、悪影響を与えるしか出来ない。そのように思いながら生きるのは大変なこと。恐ろしいことです。

聖書は、世界を造られた神様は、造られた世界を放置しているのではなく、治めていると教えています。私たちの神様は造り主にして支配者である方。そして神様は私たち一人一人の人生に意味を与え、用いて下さる方だとも教えています。「あなたの人生に起こることには意味がある。」「あなた自身が為すことにも意味がある。」というのは、聖書が教える重要なメッセージの一つです。皆様は自分の人生に起こる様々な出来事に重要な意味があると思えるでしょうか。自分自身の為すこと、自分自身に重要な意味があると思えるでしょうか。

 

断続的に取り組んできました一書説教、今日は通算六十四回目となります。一書説教の歩みは今日含めて残り三回、いよいよ終わりが近づいてきました。今日扱うのはヨハネの手紙第三。十二弟子の一人、ヨハネが記した小さな書簡となります。この手紙を、私の人生に起こることにはどのような意味があるのか。私自身が為すことにどのような意味があるのか。私はそれを喜ぶことが出来るのか。考えながら読みたいと思います。

 一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。

 

 手紙自体に入る前に、「私の人生に起こることには意味がある。」「私が為すことに意味がある。」という聖書の教えに注目します。私たちの人生にはどのような意味があるのか。このテーマについて聖書は様々な表現で答えを出していますが、今日は次の言葉から考えたいと思います。

 ローマ8章28節~29節

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。」

 

 聖書中、極めて有名な聖句の一つ。「神を愛する人、神のご計画にしたがって召された人」というのは、イエス・キリストを救い主と信じる者のことです。この世界で起こりくる全てのことが、キリストを信じる者にとっては益となると言われています。多くの信仰者に愛され、同時に多くの信仰者が困惑する言葉。私の人生に起こりくることは意味がある。すべてのことがともに働いて益となると言われて良かったと思える。同時に、受け入れがたい出来事を前にした時、すべてのことがともに働いて益となると言われても、そうは思えない。納得できない。受け入れがたい言葉ともなります。

この「益」というのは、その人にとって嬉しいとか、良いと思えるという意味ではありません。目的に沿っていることを意味します。それでは、その目的とは何かと言えば、キリストを信じる者が、御子のかたちと同じ姿になること。キリストを信じる者が、キリストに似る者となることです。

つまり、キリストを信じる者にとって、その生涯に起こることは、その者がイエス様に似るという目的には沿ったものとして有効に働く。仮に本人にとって、嫌なこと、苦しく辛いことでも、キリストに似るという目的には沿った恵みであるというのです。この世界は、私がキリストに似る者となるために存在している。

 これはまた、自分の周りにいるキリスト者にも当てはまります。つまり、私の為すこと、私の存在自体が、周りにいるキリスト者がキリストに似る者へとなるために用いられている。私は、周りにいるキリスト者のために存在している。

 

 神様は世界を治める際の重要な指針の一つは、キリストを信じる者がキリストに似ること。その目的に沿って世界は治められている。この聖句を真実なものとして受け止める時、私たちがキリストに似る者となることに、神様が並々ならぬ思いを持たれていることが分かります。イエス・キリストの十字架で死と復活も、私たちがキリストに似るためのこと。神様の世界を支配される力、全知全能の力は、私たちがキリストに似る者となるように用いられている。人間的な表現が許されれば、神様は何としても、私たちをキリストに似る者としようとされているのです。

 このような神様の思いを、私たちはどれだけ真剣に受け止めてきたでしょうか。私自身、キリストに似る者となることを願ってきたのか。周りにいる信仰の仲間が、キリストに似る者へと変えられることを願ってきたのか。嬉しいことも、悲しいことも、私がキリストに似る者となるように与えられた恵みと受け止めてきたのか。キリストに似る者となるということにどれだけ真剣に向き合ってきたのか。心探られるところです。

 

 ヨハネの手紙第三。この小さな手紙の中には、キリストを信じる者がキリストに変えられていくことを喜ぶ姿がストレートに出てきます。神様の情熱を受け止めたヨハネの筆。書き出しは次のようなものです。

 Ⅲヨハネ1章1節~2節

「長老から、愛するガイオへ。私はあなたをほんとうに愛しています。愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」

 

 ヨハネが残した三つの手紙。第一の手紙は、宛先が記されていない特殊な手紙。一般的な手紙というより説教のような印象でした。第二の手紙は、選ばれた婦人と子どもたちに宛てて記されたもの。選ばれた婦人と子どもというのが、ヨハネのよく知る相手のことなのか、教会を指して使った言葉なのか、どちらの可能性もありました。どちらにしても、内容は具体的というより一般的なものでした。

 この第三の手紙は、ガイオに宛てたもの。ガイオとうのは当時よくある名前で、聖書の中にも、マケドニヤのガイオ(使徒19章29節)、デルベのガイオ(使徒20章4節)、コリントのガイオ(Ⅰコリント1章14節)と出てきます。ヨハネがこの三人の誰かに書いたのか、別のガイオに書いたのか分かりませんが、ともかくヨハネにとってとても親しい人物であることは分かります。三つの手紙のうち第一の手紙は説教的、第二の手紙は一般的、この第三の手紙は個人的な印象です。使徒ヨハネから親しい信仰の友ガイオに宛てた親書。

 

 書き出しから繰り返し愛を伝えます。「愛するガイオへ。」「ほんとうに愛しています。」「愛する者よ。」手紙を書くということは、ガイオとは普段会えない状況だったのでしょう。そのような信仰の仲間に、愛を伝えたくてしょうがないヨハネ。その愛は、ガイオの人生に幸いがあるように、健康でいられるようにと祈ることにつながります。麗しい関係。

 学校の友人や、会社の同僚は仲間であると同時に競争相手にもなる。仲間の成功が羨ましく妬ましい場合もある。しかし信仰の仲間との関係は、一つの体というものでした。手が足と競争関係にはなり得ない。互いに支え合い励まし合う関係。「この人が生活の全ての点で神様からの恵みを受けるように。」心から祈れるのは幸いなことでした。

 皆様は、ヨハネにとってのガイオのような信仰の仲間がいるでしょうか。愛を伝えたくてしょうがない、祝福を心から願う人。あるいはガイオにとってのヨハネのような信仰の仲間がいるでしょうか。自分を愛し、祈り続けてくれる人。私たち皆で、ここに示されるような信仰の仲間との麗しい関係を築きたいと思います。

 

 手紙の内容ですが大きく二つに分けることが出来ます。前半はガイオに対する賞賛の言葉。後半は注意喚起の言葉。

 Ⅲヨハネ1章3節~8節

「兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます。私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。愛する者よ。あなたが、旅をしているあの兄弟たちのために行っているいろいろなことは、真実な行いです。彼らは教会の集まりであなたの愛についてあかししました。あなたが神にふさわしいしかたで彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それはりっぱなことです。彼らは御名のために出て行きました。異邦人からは何も受けていません。ですから、私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです。」

 

 聖書に記録されているキリスト召天後の弟子たちの記録。その多くはパウロに関するものです。パウロがどこで誰と何をしたのか、ある程度聖書から分かりますが、ヨハネについてはあまり記されていません。しかしここに記されていることから分かるのは、ヨハネもパウロと同様に、ヨハネ自身が行くことの出来ない教会を応援し励ますために、何人かの奉仕者を送り出していたこと。派遣していた者たちがヨハネのもとに帰ってきて、ガイオの姿を報告。その報告がヨハネにとって、大きな喜びでした。ガイオの姿、何が喜びだったのか。「真理に歩んでいる」こと。キリストを信じる者として生きていること。キリストに似る者となる歩みをしていること。それが嬉しい。

 

 キリストに似る者となる歩みというのは、ヨハネ自身もしていることです。ヨハネと言えば、イエス様と旅をしている時、自分たちを受け入れなかったサマリヤの村に対して、「天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と言った人(ルカ9章54節)。あまりの気性の粗さから、イエス様から雷の子と名付けられた人(マルコ3章17節)。イエス様が、十字架に架かることを予告された際、やがてイエス様の隣の座に着きたいと願い出た人。復活を告げられていても、信じていなかった人。しかし、神様はヨハネを造り変え、長らく使徒の働きをする者、五つもの書を残す聖書記者とし、その記述から愛の使徒と呼ばれる人となります。全てのことを働かせてキリストに似る者とされる恵みはヨハネ自身も頂いているもの。ヨハネは自分に与えられている恵みを喜んだでしょう。

同時に、ガイオの姿を聞いた時、その恵みがガイオにも与えられていることを大いに喜びます。罪人が神の子とされる。自分中心にしか生きられなかった者が、神を愛し隣人を愛する者へと変えられる。人を作り変える神様の御業を感嘆する喜びです。

 

 またヨハネは、「私の子どもたちが真理のうちを歩むことが嬉しい」と言っています。この「私の子ども」とは信仰の子どものこと。ヨハネの伝道によってキリストを信じた人のこと。おそらくガイオもその一人なのでしょう。ある人が、キリストを信じ、キリストに似る者となる歩みを始めた。その歩みに自分の人生が用いられていることの喜び。ヨハネからすると、ガイオがキリストに似る者となる歩みをしていることが喜びであり、その歩みに自分が用いられていることも喜びでした。

 

 このようにガイオの様子を聞き、称賛し、その姿を喜ぶヨハネは、後半では注意喚起をします。

 Ⅲヨハネ1章9節~11節

「私は教会に対して少しばかり書き送ったのですが、彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちの言うことを聞き入れません。それで、私が行ったら、彼のしている行為を取り上げるつもりです。彼は意地悪いことばで私たちをののしり、それでもあきたらずに、自分が兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人々の邪魔をし、教会から追い出しているのです。愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことのない者です。」

 

 派遣していた者たちがヨハネのもとに帰って来てなされた報告には、ガイオのような嬉しい報告もあれば、デオテレペスのような心配な報告もありました。デオテレペス。ここにしか名前が出てこない人で、どのような人かよく分かりません。かしらになりたがっている人。ヨハネの言うことを聞かず、意地悪い言葉でののしり、兄弟を受け入れようとしない。それどころか、正しい歩みをしている者を教会から追い出している人。残念な人。とはいえ、私たちはデオテレペスが聖書に登場することに励ましを受けます。キリストに似る歩みは、決して順風満帆ではない。罪の性質がむき出しになることもあるのです。私たちの歩みは、称賛されるばかりのものではない。ガイオのような姿を見せる時もあれば、デオテレペスのような姿を晒すこともあります。

 ヨハネはデオテレペスに手紙を書いたものの、受け入れてもらえなかった。そのためデオテレペスのもとに行き、彼のしている行為を取り上げると言います。無視するのではない。見捨てるのもない。何とかデオテレペスと関わろうとするヨハネ。かしらになりたがっているデオテレペスからすれば、していることを取り上げられるのは、つらいこと、嫌なことでしょう。しかし、デオテレペスがキリストに似るためには、それもまた必要なこと。

 信仰者の歩み、キリストに似る者となる歩みには、励まし合い祈り合う関係だけでなく、注意し合うこと、正しくあるように働きかける関係も必要であることが教えられます。

 

 以上、個人的な小さな手紙、ヨハネの手紙第三を見てきました。読むとなればすぐ読める書。是非とも、今日はヨハネの手紙第三を手にとって頂きたいと思います。

 私の人生には起こることには意味がある。神様がこの世界に起こる全てのことを通して、私をキリストに似る者へと変えて下さる。また私が為すことにも意味がある。私が為すことを通して、周りにいる人がキリストに似る者へと変えられていくように神様が用いて下さる。この世界観に立って、今の自分の歩みを見たいと思います。

 この手紙に示されたヨハネとガイオの姿に励ましを受けて、私たちにも同じ時代、キリストに似る者へ変えられていく歩みをともにする教会の仲間が与えられていることを大いに喜びたいと思います。私たち皆で、互いに愛し合い、仕え合い、祈り合い、励まし合う関係を築き上げたいと思います。

罪人が神の子とされる。自分中心にしか生きられなかった者が、神を愛し隣人を愛する者へと変えられる。人を作り変える神様の恵みが私にも与えられ、教会の仲間にも与えられていることを、大いに喜ぶ者でありたいと思います。

2020年11月8日日曜日

成長感謝礼拝「自分の存在価値、知っていますか?」創世記3:1~13

 私が好きな脚本家に山田太一という人がいます。山田太一さんが書いた脚本に「夕暮れて」という作品があり、随分前ですがテレビで放映されました。定年退職をした主人公とその息子夫婦と孫、四人家族の物語です。

ドラマは定年を迎えた主人公の男性が新たな職場に出勤するところから始まります。息子の嫁が玄関まで出てきて「お父さん、初出勤おめでとうございます。また今日から頑張ってくださいね」と声をかけると、主人公は出かけてゆきます。ところが彼が向かったのは新たな職場ではなく、電車で二駅先にある公園でした。実はこの男性、内定した会社から土壇場になって断られ、仕事を失っていたのです。それを家族に打ち明けることが出来ぬまま出勤当日を迎えてしまったのです。以降毎日公園のベンチに座っては夕方になると家に帰り、「充実した仕事をしている」と家族には告げるようになります。名のある会社で仕事をし、家族を養うことに自分の存在価値を見出していた主人公は、肩書も仕事も収入も失った自分を恥じていたのです。

問題を抱えていたのは主人公ばかりではありませんでした。息子夫婦も問題を抱えていたのです。40代の息子は会社で常に成果を求められ、プレッシャーに苦しんでいました。家に帰ると、父親からは「俺が若い頃はもっとバリバリ働いていた」と叱られるわ、子供からはお金を求められるわ。心休まる場所がないと感じていたのです。そこで、ある日ゆっくりできる場所を求めて家を出、アパートで独り暮らしを始めることになります。この男性、会社でも家でも自分の存在価値を見出せずにいたのです。

他方、夫の行動にショックを受けたのは妻です。彼女は「家ではゆっくりできない」という夫の言葉に傷つき、怒りを感じました。彼女は夫を含め家族がゆっくりできる家庭を作るために努力をしてきたのです。夫の行動はそんな彼女の努力を無にするものと聞こえたのです。そんな妻もある日高校の同級生と再会し、その男性とのデートに心満たされるようになる。そんな物語です。

 

いつから私たち人間は肩書のない自分を恥ずかしく思い、本当の自分の姿を隠すようになったのでしょうか。いつから私たち人間は社会でも家庭でも、ありのままの自分でいられなくなったのでしょうか。いつから私たち人間はたとえそれが道徳的に間違った関係であったとしても、誰かから認められ愛されることを願うようになったのでしょうか。いつそして何故、人間は自分の存在価値を見失ってしまったのでしょうか。それは、私たち人間が神から離れた時であると聖書は教えています。それではもともと神と人間とはどのような関係にあったのでしょうか。

 

創世記1:27「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」

創世記2:25「そのとき、人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。」

 

聖書によれば、人間は神のかたちとして創造されました。神と同じく人格を持ち、自由意志を持ち、働くことが出来、人を愛することが出来る存在として創造されたのです。神ではありませんが、神の創造した世界の中で最高の存在として人間は造られたのです。そして、その時人間は裸の自分つまりありのままの自分でを恥じてはいませんでした。神にありのままの自分が愛されていることを知り、喜び、満足していたのです。

しかし、神が与えたただ一つの戒めを破り、神から離れて生きるようになった時、人間の心から神に愛されている喜びは消えさりました。ありのままの自分を恥じ、神と隣人を恐れ、本当の自分を隠すようになったのです。神に信頼することをやめた時、人間は自分の存在価値を見失ってしまったのです。この悲劇は神に敵対する存在、サタンの誘惑から始まりました。

 

創世記3:15「さて蛇は、神である【主】が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」

女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」

 

 サタンの誘惑は巧みです。神の言葉にほんの少しの嘘を混ぜて人間にささやくのです。サタンはさも人間のためと見せかけて、実は人間を神から引き離そうとするのです。人間の心に「本当の神はあなたが思っているように良い神様でも恵み深い神様ではないのだよ」と語りかけるのです。

 最初、蛇の姿を借りたサタンは「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」とエバに語りかけました。神がただ一つ食べてはならないと命じた禁断の木の実の存在をエバに意識させるためです。それに誘われたエバはこう答えます。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」 

神は食べてはいけないと言っただけなのに、エバが触ってもいけないと拡大誇張したところに、神への反発心が伺えます。神は必ず死ぬと言ったのに、エバが死ぬといけないからと言い換えたところに、神を侮る心が芽生えているように見えます。サタンの誘惑はエバを崖っぷちの手前まで導くことに成功したのです。

 そこにサタンは決定打を打ち込みました。「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」ついにサタンは神の言葉を全面否定して見せます。そして神は、善悪の木の実を食べる事であなたがた人間が善悪を知る者となることを嫌い、それを禁じたと断定したのです。つまり、神はあなたが信じている様な良い神でも、恵みの神でもないと吹き込んだのです。神は一番良いものをあなた方人間に与えたくないと思っている。神にとってあなた方人間はそれ程大切な存在ではない嘘を告げたのです。しかし、この言葉がエバを行動に駆り立てるのです。

 

 創世記3:67「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。」

 

 もともと善悪を知るつまり善悪の判断を下すことが出来るのは、善悪を定めた神おひとりです。それを、神を退け人間が自由に善悪の判断をすることが出来ると言う考え方はここから生まれたのです。しかし、その結果は悲惨なものでした。人間はありのままの自分を恥じ、隣人と神の目から本当の自分を隠して生きることになったからです。

 そして、この時から今に至る迄私たちは同じことを繰り返しているのではないでしょうか。我が家の子どもたちが小学生の頃のことです。家に帰るとリビング一面にごみ箱のごみが散乱していました。その時家にいたのは三人の子どもたちのみでしたから、私は子供たちに「誰がやったのか」と大声で問いました。しかし、誰も何も答えません。そこで、子供たちを床に正座させると「パパは絶対に怒らないから、正直に言って欲しい」と伝えたのです。

すると恐る恐る次男が手を挙げました。それを見た私は「何でこんなことをしたんだ。どうしてさっき正直に言わなかったんだ」と思わず大声で責めたのです。するとそれを見た長女が「パパ、絶対に怒らないって言ったのに、怒ってる~」。鋭い視線を向けてきました。その時私は「いや、パパは怒ってるんじゃない。ただ理由を聞いているだけなんだ」と言い、怒りを隠そうとしました。約束したにもかかわらず怒ってしまった自分を恥じていたからです。

 しかし、神は違います。神はご自分に背いたアダムとエバに対し大声を上げることも、責めることもなく、優しく語りかけたのです。

 

 創世記3:811「そよ風の吹くころ、彼らは、神である【主】が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。神である【主】は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」主は言われた。「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」

 

 逃げる人間と呼びかける神。隠れる人間と探す神。人間が恵みの神を見失っても、神は人間を見失うことはない。たとえ人間がどんな罪を犯しても、どれ程神から遠く逃げようとも、どこに隠れようとも、神にとって私たち人間がいかに大切な存在であるのか、愛の対象であるのか。その真理をこの個所は示しているのです。

 神は彼らが善悪の木の実を食べたことも、その理由も知っていました。どこに隠れているかも、罪を犯した自分を恥じていることも、神を恐れていることも、それらすべてを知っておられました。知ったうえで問いかけているのです。彼らが神に対して何をしたのか。何故自分を恥じているのか。何故隠れているのか。彼らが自らの言葉で語るのを待っておられたのです。そして、今も神は私たちが自ら罪を告白し、ご自身に立ち帰ることを願っているのです。しかし残念なことに、アダムとエバは自分の罪を認めず、責任を隣人と神に転嫁しました。

 

 創世記3:1213「人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。神である【主】は女に言われた。「あなたは何ということをしたのか。」女は言った。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」

 

 ついこの間まで「私の肉の肉、骨の骨」と告白し、喜んでいたエバを「この女が」と言い捨てたアダムは、妻と妻を与えた神に責任を転嫁しています。自らの意志をもって木の実を食べるたにも関わらず、エバは「サタンに誘惑されたから」と責任逃れをしたのです。言い訳、責任逃れ、自己正当化。政治家も役人も学校の先生も、父親も母親も子供も、善悪の判断は神ではなく、自分が行うという高慢さに基づいて行動しているのです。

 ここまで来ると、さすがに神も人間を見捨てるのではないか、見捨てられ当然ではないかと思いきや、321節にはこうあります。

 

創世記3:21「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を造って彼らに着せられた。」

 

何と神は見捨てるどころか、皮の衣をもって罪人を守り、生かしたのです。しかし、その為には罪なき動物が屠られ、血を流す。そんな人間の身代わりとなる尊い命の犠牲が必要であったと創世記は語るのです。そして、実はこの屠られた動物こそ来るべき救い主イエス・キリストの影なのです。このことを使徒パウロは次のように教えています。

 

コリント5:21「神は、罪を知らない方(イエス・キリスト)を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方(イエス・キリスト)にあって神の義となるためです。」

 

二千年前、神は罪なきイエスを私たちの代わりに罪人としてさばき、十字架で死に至らしめました。それは私たちの罪を赦し、私たちを義と認めるためだったのです。本当なら私たちが受けるべき神の怒りと罰をイエスが受け、本当なら私たちが受ける資格等ないイエスの義を神は私たちに与えてくださったのです。これこそ神がイエス・キリストの尊い命の犠牲をもって開いてくださった罪からの救いの道、福音なのです。

イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪の赦しが私たちの行いとは関係なく、既に完了していることを示しています。私たちが隠している罪も告白できないでいる弱さや失敗も、そのすべてを知りながら、それでも私たちを愛し、受け入れてくださる神が生きておられることを教えています。エデンの園でサタンがエバに吹き込んだ神のイメージ、「神は一番大切なものを与えるほど良い神でも恵みの神でもない」というあの神のイメージが全く間違いであること、神は一番大切な御子イエスを私たちに与えてくれた恵みの神であることを、今も十字架は語っているのです。

そして、十字架の福音を信じる私たちは何が善で何が悪なのか、何が良いことで何が恥ずべきことなのか、その判断を下す立場から下りなければなりません。そこに立つべきお方は私たちではなく神であると認め、神にその立場を空け渡さなければならないのです。神が尊いと言っている自分を恥ずべき者と考えてはいけないし、神が罪と示しているものを罪と認め、悔い改めなければなりません。神が赦したと言われる罪を自分が赦さないと言うのも不信仰なのです。

十字架の福音は自分を恥じ、神と人とを恐れる思いから私たちを解放してくれます。肩書があろうがなかろうが、何が出来ても出来なくても、どんな過ちや罪を犯そうとも、もう本当の自分を隠さなくても良いのです。私たちの存在がイエス・キリストと等しく大切でかけがえのないものであることを、神が示してくださったからです。

また十字架の福音は、私たちを罪の悔い改めに導いてくれます。私たちに代わり神のさばきを耐え忍ばれた主イエスの愛を受け取り安らぐ時、たとえ何度失敗したとしても、私たちは神のみこころに従って歩み続けることができるのです。

2020年11月1日日曜日

使徒の働き(4)「主のみ名を呼び求める者は」使徒2:14~36

 今私が礼拝説教を担当する際使徒の働きを読み進めていますが、今日はその第四回目となります。

新約聖書の第五巻目「使徒の働き」のテーマは、イエス・キリストの弟子たちによる福音伝道と教会形成です。ユダヤの都エルサレムに誕生したキリストの教会がギリシャローマの世界にまで達する様子を描いているのです。

先回と言っても一か月前になりますが、私たちはエルサレム神殿の一角に集る弟子たちに対し天から聖霊がくだされた事、ペンテコステの出来事を確認しました。この日ユダヤでは年に一度の収穫祭が祝われ、エルサレムには様々な国から巡礼者が集まり賑わっていました。すると朝早く激しい音が響き炎の様な舌が現れ、弟子たちに聖霊が下ると、彼らは習ったことのない外国語で人々に神が行った救いのわざについて語り始めたというのです。

それ以来、キリストの教会はこの出来事を記念して、ペンテコステの礼拝をささげてきました。何故、キリストの教会はこの出来事を記念するようになったのでしょうか。何故この日弟子たちに起こった事がそれ程大切なことだったのでしょうか。その日これを見、驚いた人々の中には「あいつらは朝っぱらから酔っぱらってやがる」と弟子たちをからかう者もいたようです。ペテロは彼らの声を遮ると、自ら声を張り上げペンテコステ、聖霊降臨の意味を語り出したのです。

 

2:1421「ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られたことです。『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。』

 

注目すべきは、ペテロと彼と共に立ち上がった使徒たち11人の大胆さです。ついこの間まで都の人々の目を恐れ、身を隠していた弟子たちが大胆にも公衆の前に姿を現したのです。ペテロは大声を上げると人々を見つめ、「みなさん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい」と語り出したというのです。

何故でしょうか。エルサレムが彼らにとって安全な町に変わったのでしょうか。都の人々が好意的になったのでしょうか。そうではありませんでした。主イエスが十字架につけられたのは僅か二か月前の事。「イエスを十字架につけろ」と叫んだ人々の熱狂は未だ冷めやらず。宗教家も民衆もその多くは反イエス、アンチキリストの状態にありました。都は弟子たちにとって決して安全な場所ではなく、むしろ危険な場所だったのです。

そうだとすれば、何故ペテロは臆することなく人々の前に立ち、彼らの目を見つめ、声を上げ語り出す程大胆になれたのか。一体何がペテロに起こり、彼を変えたのか。これは大切な点ですので、後程取り上げたいと思います。

ところで、ペテロが説教の冒頭で取り上げたのは旧約の預言者ヨエルの預言です。最初に「終わりの日」という言葉が出てきますが、これは二千年前主イエスが到来してから、やがて再臨するまでの期間全体を示す独特の表現でした。その終わりの日「息子も娘も」つまり男も女も、青年も老人も、「しもべもはしためも」つまり社会的な身分や立場に一切関係なく、神を信じるすべての人に聖霊が注がれ、すべての人が神の言葉を語り、すべての人が神の救いに預かる。これがヨエルの預言でした。ペテロはこの預言が今日エルサレムの町で実現したと宣言しているのです。そして、この日から神の救いの言葉は山を越え、海を越え、世界中に広がってゆくと告げたのです。

他方、この時代は苦難や災いがもたらされる時代でもあります。19節から21節「また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。」血と火と立ち上る煙。これらは聖書において、神に敵対する者にもたらされる苦難を示しています。太陽は闇に、月は血に変わるとは、神に逆らう世界に下される災いを指しています。

そして「血」と聞くと思い起こすのは、旧約の昔イスラエルの民を奴隷とし苦しめたエジプトの王パロに対して神がもたらした災いです。神はナイル川を打ち、その水を血に変え、エジプトの経済を混乱させ、奢れるパロを苦しめたのです。また、「火と立ち上る煙」と聞いて頭に浮かぶのは、やはり旧約の時代、神にさばかれたソドムとゴモラの町です。経済的繁栄を誇ったソドムとゴモラは人間の欲望と暴力が横行する悪徳の町であり、そこでは信仰の人ロトが苦しめられていました。神が天から火を降らせソドムを焼き尽くすと、立ち上る煙の中からロトは救出されたのです。

そして、主の大いなる輝かしい日つまり主イエスが地上に戻ってくる日の直前、太陽が闇に、月が血に変わるという天変地異、世界大の災いが起こるとペテロは語っています。  

それにしても、神は何故この地上に苦難や災いが起こることを許可されるのでしょうか。それは人間が自らの罪を悟り、神に立ち帰るためです。神が最後のさばきを行う前に、その予兆として様々な苦難や災いをもたらされる。そうペテロは言うのです。しかし、人々が苦難や災いの中で自らの罪を悟り神に立ち帰るとしても、もしこの地上に救いの道を宣べ伝える者がいなければ、誰一人として救われることはできません。だから、神は今日この日、神の救いの道を宣べ伝え、証しする者たちの群れ、キリストの教会を建て上げられた。そうペテロは教えているのです。

こうしてヨエルの預言を説明し終えると、神が主イエスによって開いた救いの道とは何なのか。神は主イエスによって何を行い、あなた方は主イエスに対しどう応答したのか。息つぐ間を惜しむかのようにペテロは語ります。先ずは十字架についてです。

 

2:2223「イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。」

 

一見すると、ペテロは主イエスを十字架の死に追いやったユダヤ人を批判しているように見えます。しかし、積極的に加担することはなかったものの、イエスの十字架を前に我が身を守るため主を裏切ったペテロが、自分に人を批判する資格があると考えていたとは思えません。むしろ、ペテロの言葉のポイントはユダヤ人の犯した罪にもかかわらず、神は計画通り主イエスを十字架につけ、死に至らしめたという点にあります。神はユダヤ人の罪も弟子の裏切りも、すべてを予め知ったうえで、主イエスの十字架の死を定めていたとペテロは言いたのです。

次は復活です。主イエスの十字架の死が神のみ心であったように、主イエスの体の復活もまた神のみこころであり、神が定めたことだったのです。そして、ペテロは主イエスの肉体の復活が、既に旧約聖書において預言されているとし、ダビデの詩篇から引用しています。ダビデはイスラエルの王として活躍したと同時に神を賛美する詩人としても優れた作品を残していました。その詩篇の中には、やがて神が遣わす救い主に関する預言所謂メシア預言も含まれていたのです。

 ペテロはそれらメシア預言の中から二つをイエスの復活の預言として、一つをイエスが天に挙げられたことの預言として引用しています。それによって自分たちが目撃した主イエスの復活と昇天が夢でも幻でもなく、神の定めであり、歴史の事実であると説いているのです。この点を踏まえ、この方、私とある所をイエス、主とある所を父なる神と置き換え読んでみます。

 

2:2432「しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方(イエス)が死につながれていることなど、あり得なかったからです。ダビデは、この方について次のように言っています。『私(イエス)はいつも、主(父なる神)を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も、望みの中に住まいます。(父なる神よ)あなたは、私(イエス)のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者(イエス)に滅びをお見せにならないからです。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。』兄弟たち。父祖ダビデについては、あなたがたに確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日に至るまで私たちの間にあります。彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人(イエス)を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼(イエス)はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」

 

こうして読み直すと、主イエスが十字架の死に際し、肉体の復活を確信し喜んでおられたことを私たちは確認できます。同時に、主イエスを信じる私たちの将来の復活も確心することが出来ると思います。三つ目は昇天です。主イエスが天に挙げられることも神のご計画であることがダビデの預言によって再度確認されています。

 

2:3336「ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。ダビデが天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。『主(父なる神)は、私の主(イエス)に言われた。あなた(イエス)は、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。』ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

 

「神はあなた方の罪を赦すためにイエスを十字架の死に追いやり、あなた方に永遠の命をもたらすためにイエスをよみがえらせ、あなた方に聖霊を与えるためにイエスを天に挙げられた。イエスこそ神があなた方のために遣わした救い主であるのに、あなた方は神のみ心を悟らず、イエスを拒んだ。しかし、今あなた方はイエスにどう応答するのですか。再びイエスを拒むのですか、それとも信じるのですか。」こうして、神が主イエスによって私たちのために行った救いのわざを説き終え、ペテロは説教を閉じたのです。人々がどう応答するのかは次回に扱うことにします。

さて最後に考えたいのは、人を恐れ身を隠していた、ペテロと11人の使徒たちが大胆かつ確信に満ちて生きる者へと変わった理由です。その最大の理由はペテロ自身が説教で語った事、神が主イエスによって彼らのためにしたことの意味を理解し、それを信じたからです。復活の主イエス地上にいた間、弟子たちのために行ったのは聖書を開き、ご自分の死と復活にどの様な意味があり、どれ程の神の恵みがあるのかを繰り返し教えたことです。

 

ルカ24:4548「それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。」

 

弟子たちは、聖書を通して主イエスが自分たちに代わり自分たちが受けるべき神の怒りを受け、十字架で死なれたこと。主イエスが自分たちに永遠の命をもたらすために復活してくださったことを確信した時、神の犠牲的な愛に捕らわれて心を変えられ、大胆な行動へと導かれたのです。

信仰の仲間の存在も大きかったと思います。この場面、説教を語るのはペテロ一人でしたが、ペテロと共に立ちあがった11人の仲間がいました。神殿には他にもペテロのために祈る兄弟姉妹たちもいました。ペテロは彼らの存在によって支えられていたのです。福音を伝え福音を証する働き、それは教会全体が協力しておこなうわざであったし、そうあるべきなのです。

私たちも同じではないでしょうか。神を離れ、神に背いて生きて来た私たちのために、神はイエス・キリストを与えてくださいました。私たちも主イエスを信じ、自らの罪を告白して罪の赦しと永遠の命を受け取る時、神の愛が私たちの心を捕え、私たちは新しく作り変えられていくのです。

私たちはペテロたちと同じく終わりの時を歩んでいます。そして、ペテロが語った様に、私たちが歩む時代は決して明るく希望に満ちた時代ではありません。私たちが生きる世界は平和な世界でもないのです。かってのエジプトがそうであったように、力ある者が弱き者を支配し、虐げ、時には命さえも奪う。そんな時代なのです。かってのソドムとゴモラがそうであったように、経済的には繁栄を謳歌するとしても、人々は神を無視して欲望のままに生き、悪徳がはびこる世界、神を信じる者にとっては心を痛めるべき世界なのです。この世界は神が警告としてもたらす大規模な災いに繰り返し悩まされる場所なのです。そして私たちキリスト者もこれらの苦難と災いを免れることはできません。しかし、それでも神がこの世界をあわれみ、この世界を新天新地へと造り変える計画を着々と進行していることを私たちは知っています。この世界のために、神がイエス・キリストを通してただ一つの救いの道を開いてくれたことをキリスト者は知っているのです。だからこそ、主イエスの福音を証し宣べ伝えることが教会の使命、私たち四日市キリスト教会の使命なのです。