聖書の神を信じる者。神の民はどのように生きるのか。一つの答えは「救い主を待つ」というものです。神を信じる者は、救い主を待つ者です。
旧約の時代、神の民は、約束の救い主が来ることを待ち望むようにと教えられました。旧約聖書最後のマラキ書は「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」というキリストの到来の預言で閉じられています。主イエスが来られた新約の時代、神の民は、もう一度来ると約束されたイエス様の再臨を待ち望むように教えられました。新約聖書最後のヨハネの黙示録は「これらのことを証しする方が言われる。『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」という再臨の預言と、それに応じる祈りで閉じられています。聖書は、信じる者に対して、救い主が来られるのを待つ者として生きるように教えていました。
今日から待降節に入ります。「待降節」「アドベント」。私たち信仰者はいつでもイエス様の到来を待つ者として生きるように教えられていますが、特にこの時期は救い主の到来を待つことに集中したいと思います。
今年のアドベント、礼拝説教ではキリストの誕生にかかわりのある人たちに焦点を当てつつ、神様がそれぞれの人にどのような愛や配慮、思いやりをもたれて接せられたのか見ていきたいと思います。今日はルカの福音書より、救い主の母として選ばれたマリアに焦点を当てます。救い主誕生という大奇跡の最中、神の民を大切にされる神様の姿を皆で見ていきたいと思います。
イエス様の生涯の記録は聖書の中、四つの福音書に記されています。そのうち誕生について最も詳しく記しているのはルカの福音書。冒頭はマリアの親類にあたる「祭司ザカリヤとエリサベツ夫妻」のことから記されます。
ルカ1章5節~7節
「ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。」
神の前に敬虔に生きてきたザカリヤとエリサベツ夫妻。子どもが与えられることを願いつつも、与えられない寂しさを抱えた老夫婦。この老夫婦に素晴らしい知らせが届きます。御使いを通して告げられたのは、念願の子どもが与えられること。その子は、神様の重要な働きを為す人物となること。ザカリヤにとって、ひたすらに良いこと。嬉しいこと。ただただ、嬉しい知らせでした。ところが、当初ザカリヤはこの知らせを信じることが出来ませんでした。受けとめきれなかったといいます。
ルカ1章18節
「ザカリヤは御使いに言った。『私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。』」
興味深く、面白いところ。神の前に正しいと評されたザカリヤ。旧約聖書に精通した祭司。当然のこと、アブラハムと不妊の妻サラが老齢になって子どもが与えられたことも知っていました。そして、長らく祈り願ってきたこと。それでも、子どもが与えられるという知らせを、受けとめきれなかった。人間ザカリヤです。あまりに嬉しい知らせ。しかし、この知らせ自体が自分の妄想だったらどうしようか、という恐れでしょうか。悪い知らせを受け入れたくないというのは分かりやすいのですが、あまりに嬉しい知らせを受け止めきれなかったという場面。このザカリヤを神様は慮ってくださり、神の言葉を素直に信じる者へと導かれました。
このザカリヤとエリサベツ夫妻の出来事を経て、御使いはマリアに現れて、「あなたは約束の救い主を産むのだ」と告げました。
ルカ1章28節~33節
「御使いは入って来ると、マリアに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると、御使いは彼女に言った。『恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。』」
有名な受胎告知の場面。婚約中のマリアに、救い主を産むことが宣言される場面。御使いはマリアに「おめでとう、恵まれた方。」「あなたは神から恵みを受けたのです。」と声をかけます。
「あなたは子どもを産みます。」という知らせ。しかし、これは「ザカリヤ、エリサベツ夫妻」と「マリア」では、意味が全く異なります。「ザカリヤ、エリサベツ夫妻」にとって、子どもが与えられるというのは念願であり、ただただ良いこと。しかしマリアにとって、このタイミングで子どもが与えられるというのは、考えてもいないこと。しかもマリアにとって良いこととは言えないものでした。婚約中のマリアが男の子を産む。それが実現したら、婚約者のヨセフにどのように思われるのか。社会的にどのように扱われるのか。悲劇が予想されます。それも、不妊とか老齢の問題ではなく、男性との性的関係無しで、聖霊によって身籠るという知らせ。受け入れがたい、信じがたい知らせ。しかし御使いとのやりとりを経て、マリアはこの知らせを受け止めました。
ルカ1章38節
「マリアは言った。『ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。』すると、御使いは彼女から去って行った。」
聖書の中でも珠玉の献身の場面。ザカリヤの姿と比較すると、この時のマリアの素直さ、神様の言葉に対する従順さが際立ちます。神様の言葉にかくも従順である一人の信仰者を通して、イエス・キリストの誕生があり、全世界に救いの御業が広がりました。神様の知らせに、このように応じる者でありたいと思うマリアの姿でした。
ところで、「男の子を産む、救い主を産む、神に不可能なこと無し」と言われ、「その通りになるように」と応じたマリアですが、その後、出産までどのように過ごしたのでしょうか。もし、自分がマリアの立場だったら何をするでしょうか。
婚約者ヨセフへ相談するでしょうか。(マタイの福音書に記されているヨセフの姿からは、マリアはヨセフにしっかりと相談していなかったように思われます。)親や友に相談するでしょうか。(マリアは親や友に相談したかもしれませんが、聖書には記されていません。)現代であれば、妊娠検査薬で調べるか、産婦人科に行くでしょうか。
実際にマリアが取り組んだこと。それは御使いの知らせの中に出て来た、親戚エリサベツのもとに行くことでした。御使いは、不妊で老齢のエリサベツの妊娠を一つの証として、神に不可能なことはないと告げていました。そのためマリアはエリサベツのもとに行くことが、自分の状況の助けになると思ったようです。そして実際に、エリサベツに会うことは、マリアにとって重要な意味のあることになります。
ルカ1章39節~41節
「それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。」
マリアはエリサベツのもとを訪れます。これは受胎告知の場面から、どれ位経ってからなのか。御使いはマリアに対して、エリサベツは妊娠して六か月と伝えています。(ルカ1章36節)またマリアはエリサベツを訪問し三か月滞在し、その後でエリサベツは出産したことが記録されています。(ルカ1章56節)一般的な妊娠期間は約十か月ですので、つまりこの訪問は受胎告知の後一か月以内のこと。アリア自身、身体に変化がなく、本当に妊娠しているか分からない時のこと。
この時のマリアの思いを想像します。御使いから知らせを受け、自分はそれを信じている。しかし、他の人に信じてもらえるものとは思えない内容。夢でも見たのではないか。ヨセフを裏切りながら、おかしな言い訳を言っていると思われないか。これから自分はどうなってしまうのか。恐れ、戸惑い、困惑を抱えながらの訪問だったと思います。ザカリヤの家に着き、おそるおそるエリサベツに声をかけるマリア。その時、驚くべきことが起こります。
ルカ1章42節~45節
「そして大声で叫んだ。『あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました。主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。』」
マリアは挨拶しただけ。まだ状況説明もしていない。しかしエリサベツは大声で叫び、「あなたは女の中で最も祝福された方」と呼び掛け、「あなたの胎の実」と言い、そのうえマリアを「私の主の母」と認めます。エリサベツの胎内にいるのは、救い主の前触れをすると言われたザカリヤとの子。その子も胎内で喜んで踊ったと言います。そして「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」と祝福の言葉を述べる。夫ザカリヤが、当初信じられなかったのと比べて、あなたは信じることが出来る幸いを得た人だと告げる。
このエリサベツの言葉を聞いた時、マリアはどれほど励ましを受けたでしょうか。マリアは御使いの言葉を信じていました。しかし、まだ実感を持てない状況。そこに神様が備えておられたのはエリサベツでした。この言葉を聞いて、マリアは御使いの言葉をより確かなものと信じることが出来でしょう。また自分が救い主を産むことは自分が信じているだけではない。同じように信じている人がいることが、どれほどの励まし、慰めとなったでしょうか。
ところで、エリサベツは約束の救い主を産むマリアのことを「女の中で最も祝福された方」と呼びました。しかし、なぜ約束の救い主を産むことが、祝福なのでしょうか。マリアにとって、救い主を産むことは、どのような意味で良いことなのでしょうか。
それはこの出産を通してマリアが「主によって語られたことは必ず実現する」ことを体験するから。御使いの告げたことが真実であることを自分の体験として経験出来る。いや御使いがマリアに告げたことだけでなく、旧約聖書で繰り返し約束されていた救い主到来を、自分の身体で体験出来る。主によって語られたことが実現することに、マリア自身が大いに用いられる幸いをエリサベツは告げていました。
このエリサベツの言葉を受けて、マリアの口をついたのが、マリアの賛歌となります。
ルカ1章46節~47節
「マリアは言った。『私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。』」
一般的に、「マリアの賛歌」、あるいは「マニフィカト」と言われる賛歌です。「マニフィカト」とは「あがめる」という意味。原典のギリシャ語では、「メガリュノー」という言葉で、大きくするという意味。「わが魂は主を大きくする。」「わが魂は主を大いなる方とする。」「わが魂は主をあがめる。」です。
約束の救い主の誕生を前に、マリアは何を思ったのか。救い主の誕生は、マリアにとって、どうしようもなく嬉しいことだったのです。たましいも霊も喜びで振るえ、主を褒め称える思いで満たされ出てきた言葉が、わが魂は、主をメガリュノーする。わが魂は、主をマニフィカトする。わが魂は、主をあがめる、という言葉でした。ともかく神様を賛美したい。ともかく主をあがめたい。大変に嬉しいという思いでした。救い主の誕生を前にしたマリアの第一の思いは、賛美であり喜びでした。
私を罪から救う方が生まれた。この知らせを、私たちはどのように受け止めているでしょうか。キリストの到来を覚えるアドベントの時、どれ程の喜びを味わっているでしょうか。
信仰生活、教会生活が、何年、何十年と続くうちに、キリストの誕生はよく知ったこと。感動も、喜びもなく、アドベント、クリスマスを過ごしてしまうということが起ります。
マリアの姿を前に、私たち皆で、今一度救い主が生まれるという知らせに集中したいと思います。世界の創り主が、私のために人となられた。この知らせに感動や喜びはあるのか。もしないとしたら、何故、喜びや感動がないのか。よくよく確認したいと思います。今一度、マリアが感じている感動、喜び、賛美をともに味わいたいと思うのです。
ルカは母マリアに焦点を当てつつキリストの誕生を記しました。その筆は、マリアだけに焦点を当てたものではなく、ザカリヤ、エリサベツとの関係の中で、マリアの姿を記します。
神が人となる。それも罪人を救うため、死ぬために生まれる。奇跡の奇跡にして恵みの恵み。神様は、この救い主誕生という極めて重要な出来事を、マリアという信仰者を通して実現しようとされました。実現に際して、神様はマリアに使命だけを与えて終わりとはしませんでした。神に不可能なことはない証として、励ましと祝福を伝える者として、エリサベツを備えて下さっていた。また次週確認しますが、婚約者ヨセフも守り導いて下さいます。「約束の救い主誕生という大事の前に、マリアの人生や思いという小事など関係ない」というのではない。マリアの思い、マリアの人生も守り、支えて下さる神様。
もっと言えば、この出来事はエリサベツにとっても大きな喜びだったと思います。長らく願いながらも子どもが与えられなかった。これまでの苦しみや悲しみ。しかし、それは神に不可能なことはないと証するためのものであった。マリアが、神のことばは必ず実現すると信じる一つの証となるためでもあったのです。苦しみや悲しみに重要な意味があったと知ることは、エリサベツやザカリヤにとって、大事なことでした。
世界を支配する神様は、それぞれの人に使命と力を与えながら、互いに励まし合い支え合う関係をも与えて下さる。守られ、導かれる神の民は、主によって語られたことは必ず実現すると確信する者へ整えられていく。このマリアに注がれた神様の思いやり、配慮、愛は、私たちにも与えられていることを今日覚えたいと思います。私たちにも使命と力が与えられている。私たちにも、互いに励まし合い、支え合う関係が与えられている。私たちの人生に起こりくる様々な出来事にも意味があり、神様は全てのことを通して私たちが「主の言葉は必ず実現する」と確信する者へ変えて下さる。神様の私たちへの思いやりを前に、一同で首を垂れるようにと思います。
待降節、アドベント、キリストの到来を待ち望む時。マリアが抱いた喜びと同じ様に、私たちもキリストの到来を喜びたいと思います。マリアが抱いた確信と同じように、私たちも主の言葉は必ず実現するという確信を持ちたいと思います。
いや、もっと言えば、私たちは、マリア以上にキリストの到来の意味を教えられた者たちです。マリアは、約束の救い主が来るということで、大きな喜びに満たされました。私たちは、その救い主が、私たちの身代わりとして、十字架にかかることを知っています。そしてこの時、マリアの胎に宿られたキリストが、今度は御国の完成のために来られるということも知っています。キリストの到来の意味を、より教えられている私たち。マリアとともに、マリア以上に、キリストの到来を喜び、主をあがめる者でありたいと思います。
イエス様が来られたこと、イエス様がもう一度来られること。そのこと自体が、どれほど神様が私を思いやり、配慮し、愛しておられることの実現なのか確認しつつ、クリスマスへと歩みを進めていきたいと思います。
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