2020年12月6日日曜日

アドベント(2)「神様のヨセフへの思いやり」マタイ1:18~25

 今朝はアドベントの礼拝の第二回目となります。今年のアドベントは「神様の思いやり」をテーマとして説教を進めています。先週が「マリアに対する神様の思いやり」、今週が「ヨセフに対する神様の思いやり」、来週第三回目が「博士たちに対する神様の思いやり」、そして最後が「羊飼いに対する神様の思いやり」。クリスマスに登場する様々な人々に対する神様の思いやりに目を留めながら、皆でクリスマスの恵みを味わうことが出来たらと願っています。

さて、ヨセフが生きていた時代、ユダヤの国はどのような状況にあったのでしょうか。この時代は旧約聖書最後の預言者マラキが登場してから既に400年が経過していました。この間ペルシャ、ギリシャ、ローマと異邦人の王の支配が続き、人々が苦しんでいたにもかかわらず、神は奇跡を起こして助けることも、預言者を遣わしてメッセージを語ることもありませんでした。神は沈黙しておられたのです。「神は何をしているのか。神は私たちを見捨てたのか。」そう感じる者もいたことでしょう。

もし、私たちがこの様な時代に生きていたとしたら、どんな人生を送るでしょうか。400年もの間神のことばを語る預言者も現れず、神の奇跡も起こらない。将来も見えず、希望を抱くことも難しい。そんな時代にあって、神に対して忠実に歩むことが出来るでしょうか。神に希望を置いて生きることはできるでしょうか。

しかし、そんな時代にありながら、「ヨセフは正しい人で」(10節)とある様に、ヨセフという人は神に対して忠実に生きていたのです。貧しくはありましたが、正しい人としてナザレ村では評判の人物であったのです。さらに、この時ヨセフには許嫁のマリアがいました。当時婚約期間は一年とされていましたから、ヨセフは近づきつつある結婚式を待つばかりだったのです。

けれども、幸せの絶頂ともいえるこの時、突然ヨセフの足元が崩れ、目の前が真っ暗になる様な出来事が起きました。マリヤが聖霊により身ごもったのです。

 

マタイ1:18~19「イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」

 

現代とは異なり当時子どもの結婚相手は親が決めていました。また、当時の婚約は現代でいう結婚と同じでした。まだ同居は許されないものの婚約者は法律上夫婦と見なされたのです。村の人々も二人を夫婦と考え、見守り、婚礼の日を待っていたのです。それがこの時代の文化でした。

果たして、マリアが聖霊によって身ごもったことをヨセフには分かってもらおうと説明したのか。それとも、すべてを神に任せて沈黙していたのか。聖書は明確にしていません。どちらの可能性もあります。しかし、どちらにしてもヨセフにとっては預かり知らない事であり、どう受け止めてよいのか、悩み苦しんだに違いありません。

 

当時のナザレ村は人口500人。小さな村であり、その多くが親戚関係にあったと言われますから、ヨセフは子供の頃から、マリアのことも両親のことも良く知っていた可能性があります。当時の共同体の人間関係は親密で結束が固く、普段は安心して生活できる場所でした。しかし、一旦罪を犯し、スキャンダルを起こした者には冷たい視線が向けられたのです。

よくマリアのことを知るヨセフですら、マリアに何か忌むべきことがあったと考えるしかない出来事です。まして他の人々がマリアの不貞を疑うことは十分あり得ました。そして、旧約聖書が定めるところによれば、不貞を犯した者には石打の刑、死刑が課せられます。但し、この頃ローマ帝国支配の下、ユダヤ人の死刑執行は禁じられていました。その代わり、石打に代わって世間のさらし者にするような非常に厳しいさばきが定められていたのです。

 

こうした状況の中、ヨセフは密かに離縁することを決心します。「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」(19節)新改訳聖書は「ヨセフは正しい人で」と読んでいますし、そう読むこともできます。しかし原文では「ヨセフは正しい人であったけれども」と読むこともできますし、個人的にはそう読むほうが良いと考えています。

正しい人とはただヨセフの人柄をさすだけではありません。聖書を学び、律法を守り行うことに忠実な人として、周囲から認められ、尊敬されていたということです。そういう人であれば、むしろマリアを裁判に訴えた方が筋は通ります。その方が世間に対して正しい人としての名誉を保つことが出来るのです。「この問題について私には罪がない。責任がない」と証明するのが普通の正しい人がとる態度だったのです。

しかし、ヨセフはマリアをさらし者にはしたくはありませんでした。悩みに悩んだ末、内密に離縁しようと決めたのです。自分の正しさ、自分の名誉を守るよりマリアを守る。ヨセフのマリアへの思いやりが感じられます。

けれども、ヨセフがマリアと縁を切ったとしても、いつか必ず村中の噂になるでしょう。福音書には、後にナザレ村の人々が主イエスについて「あれはマリアの息子だ」という場面が出てきます。当時は父親の名前で「ヨセフの息子」と呼ぶのが普通でしたから、マリアの息子という言い方には、イエスはヨセフの息子ではないという非難が込められています。また、主イエスを快く思わない宗教家たちも「私たちは姦淫によって生まれたのではありません。」と皮肉を込めて語っています。つまり、ヨセフもマリアも主イエスも、生涯この点で人々から非難や嘲りを受け続けたのです。

 

それにしても、何故神はせめてヨセフに対し、もっと早い段階で真実を伝えてくれなかったのでしょうか。何故悩み苦しむヨセフをそのままにしておいたのでしょうか。

私たちの人生には苦しい事、辛い事が沢山あります。中でも最も苦しく辛いのはどんなことでしょうか。恐らく、自分のことや愛する人に関わることで、人間の知恵や経験、努力が何の役にも立たない、そんな現実に向き合わなければならない事ではないでしょうか。

ヨセフはこれまで聖書の律法を忠実に守ってきました。律法はよいものです。道徳も良いものです。私たちを間違いから守ってくれることもあれば、私たちの行動にブレーキをかけてくれることもあります。しかし、一旦問題が起こった時、正しさだけでは現実に対応できないことがあります。思いやりがなければ窮地に陥った人を救うことはできないのです。

その点、自分の名誉を守るため許嫁を裁判に訴えるという権利を捨て、密かに離縁することでマリアを守ろうとしたヨセフの行動に、私たちも見習う必要があると思うのです。しかし、思いやりに富むヨセフの行動も実は無力でした。ヨセフはマリアをさらし者にしないことを願いましたが、それでもマリアは世間に恥をさらして生きるしかなかったのです。その現実を前にしてヨセフは悩み続けました。新改訳聖書はそれを「思いめぐらす」と訳していますが、この言葉はむしろヨセフの心の中の深い葛藤を意味するものです。その様な時み使いが現れました。

 

マタイ1:20~25「彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。」

 

主の使いは「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。」と命じます。しかし、マリアを妻として迎えることは、ヨセフにとって非常に勇気のいる事でした。何故なら、マリアを妻として迎えることによって、マリアに対する人々の非難や嘲りをヨセフ自身も引き受けることになるからです。正しい人として歩み、人々から尊敬されていたヨセフにとって、不貞を犯した女の夫として非難され、嘲られる程辛いことはなかったでしょう。

しかし、たとえそうであったとしても、ヨセフはマリアを守るために自分の名誉を守る権利を捨てたばかりか、彼女に向けられる人々の非難や嘲りを自らも背負うことを覚悟して、神に従ったのです。「ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。」

自分よりも弱い立場にある者を守るため、自分の権利を捨てたヨセフ。自分よりも不利な立場にある者を支えるため、自らも非難や嘲りを受けることを覚悟したヨセフ。本当の正しさとは何か、本当の愛とは何か。それを、私たちに教えてくれる信仰者の生き方がここにあるのです。

 

しかし、ヨセフにとってこの決断は決して容易なものではありませんでした。その心には葛藤がありました。厳しい現実に直面したヨセフは無力を感じ、悩み苦しんでいたのです。そうだとすれば、そんなヨセフを正しい決断に導いたものとは一体何だったのでしょうか。何故、ヨセフはマリアを妻として迎えるという困難な道を選ぶことが出来たのでしょうか。

それは、神の思いやりがあったからです。神ご自身が力を尽くしてヨセフを支えてくださったからです。それでは、神の思いやりとは何だったのでしょうか。

 

第一に、神がヨセフに与えた思いやりとは神のことばです。皆様はみ使いが現れた時、「ヨセフよ」とは言わず、「ダビデの子ヨセフよ」と語りかけたことに気がつかれたでしょうか。何故ダビデの子ヨセフと語りかけたのでしょうか。

マタイの福音書の冒頭(1:1~17)はご存じの通り、イエス・キリストの系図です。その系図が示すメッセージの一つは、キリストはダビデ王の子孫から生まれること、ヨセフもまたダビデ王の子孫であることです。ダビデはその昔イスラエルを統一した偉大な王ですが、実は神はそのダビデ王と重要な契約を結んでいました。

 

サムエル7:11b~13【主】はあなたに告げる。【主】があなたのために一つの家を造る、と。あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子(子孫)をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

この時、神はダビデに「あなたの子孫から神が支配する永遠の国を建てる王が生まれる」と約束しました。この時以来、イスラエルの民はダビデの家系から生まれる一人の王を来るべき救い主として待望してきました。ヨセフもその一人であったのです。ですから、「ダビデの子ヨセフ」との語りかけを聞き、「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」とのことばを耳にした時、ヨセフは待ち望んでいた救い主の到来を確信することができたのです。

何故自分がダビデの子孫として生まれたのか。何故自分の許嫁のマリアが聖霊によって身ごもったのか。何故自分がマリアを妻として迎えるべきなのかが理解できたと思います。自分たちが直面している苦しみを通して救い主が生まれ、多くの人が罪から救われる。この神のことばに支えられて、ヨセフは苦しみを受けとめ、神のみ心に従うことが出来たのです。

ヨセフと同じく、私たちも神のことばによって人生に起こる苦しみの意味を理解し、受けとめる時、神に従うことが出来るのです。神のことばが私たちの信仰の歩みを支えてくれるのです。

 

第二に、神がヨセフに与えた思いやりは、ヨセフとともにいること、ヨセフの苦しみを担うことでした。主イエスはインマヌエルの神、私たちと共におられる神です。高いところにおられる神の御子が、低いところに来られて人となられた。世界を創造した神が、人間の赤ん坊になられた。私たちはこの事実をどう理解したらよいのでしょうか。

CS・ルイスという人は言いました。「神が人となられるということが、どのようなことかを知りたいなら、あなたがナメクジになった時のことを考えてみるといい。」もし、目の前に一匹のナメクジが現れたら、皆様はそのナメクジを歓迎するでしょうか。素晴らしい存在として、崇めるでしょうか。そんなことをする人はひとりもいないでしょう。私たちはナメクジの存在など気にも留めません。それどころか、虫の居所が悪ければ踏みつぶしてしまうかもしれません。

ユダヤの人々の主イエスに対する反応も同じでした。多くの人々は主イエスの「悔い改めよ。神の国は近づいたから」というメッセージを無視しました。主イエスは飢えと渇きに悩まされ続けました。宗教家たちは主イエスを十字架刑で抹殺し、人々は十字架の主を自称救い主と非難し、あざ笑ったのです。

主イエスは人としてそれらの苦しみ悩みを経験されました。完全に正しい人であるのに、私たちに代わり、罪人として十字架につけられました。人々の非難や嘲りに耐え、神のさばきによる痛みを忍び通して、私たちに罪の赦しと永遠の命をもたらしてくださったのです。この時ヨセフが経験していた苦しみも、私たちが人生で経験するあらゆる苦しみをも自ら味わい、誰よりも良く分かってくださる神として、主イエスは私たちと共にこの地上を歩んでくださるのです。

 

このインマヌエルの神、イエス・キリストを、私たちは赤ん坊を腕に抱くように心に迎えることが出来ます。クリスマスの恵みとは、神が共におられるという恵みです。ヨセフがそうであったように、私たちはもうひとりで、悩み苦しまなくても良いのです。十字架の主イエスが私たち共に歩んでくださるのです。それさえあれば、もう何もなくても良いと思える程のイエス・キリストという恵みを、誰もがただで受け取ることができるのです。

このアドベント、私たち一人一人がイエス・キリストを心に迎えるように、愛する人々がイエス・キリストを心に迎えられるように。そう願いつつ信仰の歩みを続けてゆきたいと思います。

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