Ⅰ.あいさつ、イントロ
皆さんおはようございます。本日はマタイ2章から「神様の博士たちへ思い遣り」というテーマで説教をさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。そろそろクリスマスも近づき幼稚園でも素敵なページェントがありました。子どもたちが演じる役にも様々なものがあるそうですが、年長・ひかり組の愛基の話によると役決めの際には、天使の役に人気が集中して3人の所に9人もの応募があった様です。次の時の話し合いで、先生たちの工夫による他の役へのお勧めと子どもたちの譲り合いにより4人まで希望者は減り最後はくじ引きで決めたそうです。譲ってくれた子どもの優しさや先生たちの柔軟性にも感謝ですが、もしも駄目だったら親しいお友達のいるナレーター役にしようかと考えていた愛基も天使の役をすることができる様になったと言っていました。ちょっと面白いなと思ったのは、一般的にも可愛らしいイメージのあるであろう天使はともかくとして、本来怖い役のはずの「ヘロデ王様」にも人気が集中して3人の中からくじ引きである男の子に決まったそうです。男の子は王様になりたがるのかも知れません。とても上手に役の出来そうな男の子だそうなので、きっと良い味のある役を演じてくれる事と思います(12/11に本番が行われました)。
今日の聖書箇所マタイ2章には、イエス様の幼児時代の非常に印象的なできごとが記されます。クリスマス・ページェントでもおなじみのストーリーです。遠い外国の「東の方からの博士たち」が、わざわざ「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を礼拝しに来るのに、ユダヤ人の王であるヘロデはその方を殺そうとします。これはメシヤとしてのイエス様の生涯の“神の国の宣教”に対する迫害をまさに預言している出来事とも言えます。この博士たちの幼子イエス様訪問のエピソードはマタイ福音書にのみ出て来ます。イエス様をメシヤとして描くというマタイ福音書のテーマを強調しています。マタイ福音書でおなじみの旧約聖書の預言の成就であり、キリスト誕生の場所についてのミカ5:2の成就です。この話では、この世の王であるヘロデと真のユダヤ人の王であり私たちの王であるイエス様の対比を強調しています。そして、マタイ福音書巻末の大宣教命令にあるようにイエス様が全ての民族のメシヤ(油注がれた救い主)である事を示すものです。
Ⅱ.東方の博士たち
マタイ2章1節〜2節。
イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
「ヘロデ王の時代」とあり、ヘロデ王の在位は紀元前37〜4年と言われます。彼はローマ帝国から任ぜられたイドマヤ(エドム)人という外国人の王でした。「ヘロデ大王」とも呼ばれています。このエピソードはヘロデ王が亡くなる少し前のことだと19節にあり、ヘロデ王の死が紀元前4年と分かっており、その時イエス様はすでに2歳くらいであったと考えられます。そうするとイエス様の誕生は正確には紀元前5〜6年頃と予想されます。もちろん、イエス様の誕生年が今の西暦の基準となっていますから、通説ではイエス様のお生まれは紀元0年という事ですが、実際にはその数年前であったようです。紀元前はアルファベット略語でBC(Before Christ)、紀元後はAD(Anno Domini、ラテン語「主の年に」)というのは一般的にも有名な事ですね。救い主の誕生は教会の中だけに留まらず、今の私たち人類の歴史を2分するような歴史的大ニュースであったという事がよく分かります。
場所は「ユダヤのベツレヘム」。ベツレヘムはエルサレムの南8キロにあるイスラエルの歴史における象徴的な“王様”ダビデの生まれ故郷として由緒ある町です。ヘブライ語で、パンの家 を意味しており、自らを神のパン・いのちのパン(ヨハネ6:33,35)と呼ばれたイエス様、ダビデの子孫としてのメシヤであるイエス様のお誕生に相応しい町の名です。
「東の方からの博士たち」とあり、彼らの出身地について昔からいろいろと予想され、黄金、乳香、没薬の贈り物からアラビア地方とするもの、占星術の本拠地バビロンとするもの、またはバビロンを倒し古代に繁栄を誇ったペルシャとするものなどいろいろとあります。占星術は古代においては、天体の運行を観測、研究して暦や農業などに活かしていくという大切な科学でもありました。ですから、博士を表すマゴスというギリシャ語は一般的には魔術師(使徒13:6)などと訳されますが、ここでは魔術師というよりは博士という訳が相応しいでしょう。英語では“wise men”(ESV訳)となっています。
彼らは、その占星学に基づいて、天体の運行の兆しから何か非日常的な出来事が起こった事を悟った様です。彼らは「ユダヤ人の王」の到来を悟り、首都エルサレムのヘロデ王宮へとやって来たのでした。「ユダヤ人の王」になぜ外国人の彼らが興味を持ったかと言えば、かつてのアッシリヤ、バビロン、ペルシャへのユダヤ人捕囚が影響しているでしょう。ユダヤ人たちが捕囚されたり、強制的な移住で散らされた事によって、その地の人々は、メシヤ=油注がれた者 約束の救い主の到来の情報をよく知っていました。そして、その星は幼子イエス様のいる家にまで彼らを導いたのです。
博士たちへの神様のお導き; 本来、ユダヤ人に向けて旧約預言の成就を強調しているマタイ福音書において、最初の救い主への礼拝という最も重要な場面を、外国人の博士たちに任せられたという神様のご配剤・ご配慮というものは非常に興味深い。このことは、将来のイエス様が大宣教命令によって表された『全ての民族の救い主』という点をよく表している。
Ⅲ.恐れ戸惑ったヘロデ王 〜本当の王はどなたか〜
マタイ2章3節〜6節。
これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」
本来のユダヤ人の王朝であるハスモン王家の内紛に乗じて、ローマの元老院に取り入って王に任じられたイドマヤ人ヘロデは、ユダヤ人の支持を得ようとエルサレムの神殿建設や多くの公共事業に取り組みました。王としての正統性を得るためにハスモン家の王女マリアンメと結婚もしました。しかし、その意図は果せず疑いの心から晩年には妻子たちまで処刑してしまいます。ですから、晩年のヘロデは「ユダヤ人の王」誕生の知らせに大きく「動揺し」ました。またヘロデ王の残忍で疑い深い性格を知っているエルサレムの人々も不穏な事態を予測して不安に陥りました。
ヘロデは祭司長や学者たちを集めキリスト誕生の地はどこかと問いただし、彼らはミカ5:2に基づき「ベツレヘム」と答えます。これは「ベツレヘム・エフラテという小さい町からイスラエルを治める者が出る」という預言の内容の成就でした。引用元の文章では、「ユダの氏族の中で、あまりにも小さい」と言われていたのが、『決して一番小さくはない』と引用の際、あえて変えられているのが大きな特徴です。これはキリスト生誕地となったベツレヘムの価値を強調している表現と考えられます。ベツレヘムは、名高い王ダビデの出身地という歴史はあれど、当時はユダの氏族の中では最も小さいと呼ばれるような極ありふれた一地方となっており、決して経済・貿易や軍事などの中心地では無かったのでしょう。しかし、その様なごくありふれた小さな町に、神様は欠かせない役割をお与えになりました。神様の小さい者へのあわれみがここにもよく表されています。
ヘロデ大王は、救い主降誕に当たり悪役とも言える役割を果たしましたが、政治的にはやり手でもありました。彼はローマに取り入ってユダヤ地域を支配し、33年間もの間ユダヤの王として君臨しました。神殿、宮殿、劇場、競技場を建設し、港の設備を充実させ地中海貿易を盛んにさせました。都市水路も建設しました。しかし、彼は外国人であったため、ユダヤ主義を主張するユダヤ人達からは軽蔑されてもいたようです。問題は、彼の晩年に特に強まった猜疑心の強さです。彼はベツレヘム近辺の2歳以下の幼子を残らず殺させたというエピソード(16節)の様に、とても残忍な面を持っており、疑いの心から家族を初めとして多くの人を殺害しました。イエス・キリストが生まれたのはその最晩年で猜疑心も最高潮に達した時でした。ヘロデの心は己の安泰を揺さぶる重大な事が起こりはしないかと不安でいっぱいでした。彼の頭の中を駆け巡っているのは、常に地上の事でした。そしてそこで自分が成功して自分の繁栄を守る事でした。
ヘロデ王の姿から; ヘロデは自分自身をまさに王としていた(約束のメシヤをも頑なに認めなかった)。またエルサレムの人々もヘロデを恐れるあまり、主の誕生の喜びや主の礼拝への思いよりも、実生活の安定の破壊を恐れた。ヘロデは自分の繁栄を何よりも欠かせない事として第一と考えていた。仕えるよりも支配することを考えて、自分の立場を追われる事を何よりも恐れていた。
(適用)今、私たちの心の中心の王座に座っているものは何でしょうか。自分自身か、お金や財産、他者からの賞賛や名声、もしくは仕事や物事の成功であったり、人からの愛情、生活の安定など、それがいかなるものであれ、本来、適切に用いるならば良いものであったとしても、私たちが神以上にそれを欲するならば、それは私たちの心の偶像となってしまう事があり得ます。私たちは二人の主人に仕える事は出来ないからです。アドベントのこの時に、心の偶像を心の王座から退け、唯一の主であり王であるお方を心の王座にお迎えしましょう。ただ聖霊によってその様な心の一新が可能となります。主はあわれみ深く赦しをもってあなたを今日も招いてくださっています。
Ⅳ.物語の結末とまとめ
マタイ2章7節〜12節。
そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。
それからヘロデは、幼子であるキリストの年齢を知るため、いつ星が現れたのか博士たちから「ひそかに」聞き出します。「ひそかに」という言葉に彼の後ろめたい気持ち・何か悪い事をしているという自覚が現れています。「行って拝む」という言葉はヘロデの嘘偽りであることはその後幼子を虐殺した彼の行動からも明らかです。しかし、たとえ人を欺くことは出来ても神様を欺くことは決して出来ません。主は博士たちと父ヨセフに夢で告げられ、ヘロデの悪しき企てはくじかれ、幼子イエス様は難を逃れます。
博士たちは再び星に助けられてベツレヘムで幼子を見付け出しました。彼らは幼子イエス様を拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げ、ひれ伏して主を礼拝しました。それらはより、黄金は王に、乳香は聖なる神に、没薬は死者の防腐剤として使われたためにキリストの死を示しているという解釈もされてきましたが、むしろシェバの女王がダビデの子であるソロモンを沢山の黄金や香料を携えて訪問したように「王に相応しい贈り物」という事なのでしょう。そして彼らは夢での主のお告げに従いヘロデの所には立ち寄らずに別の道から帰って行きました。
まとめ;博士たちに示された主のあわれみと恵み
こうして「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を最初に礼拝したのは驚くべきことに外国人である博士たちでした。この逆転はマタイ福音書においては非常に例外的な事でした。マタイの福音書では救いはまずユダヤ人に優先的に示される(「イスラエルの家の失われた羊たち」 マタイ10:6,15:24)という事は大前提となっていたからです。時間的・身体的・経済的犠牲を惜しまずにやって来た外国人の博士たちは、イエス様誕生の場所を知りながら行動できなかったユダヤ人の宗教的指導者たち、また殺意を抱くヘロデとは対照的でした。神様が当時の占星術の専門家たちにキリストの誕生を知らせることを良しとしたのは、彼らの熱意と献身をよく見られたからこそと言えるでしょう。もちろん神様が占星術を推奨するという事はありえません。しかし、神様は彼らの救い主を求める心、礼拝を求める心をよく見られ、それを受け止めてあわれみを示されたのです。
小さなものが主の力によって大きくされる、本来相応しくないものが、主の恵みと選びによって礼拝者とされる。王という立場に固執し恐れるヘロデ王とはまさに対照的な姿です。この様に、ヘロデ王に代表される様な『常に自分の力で自分の繁栄を求める、自己の繁栄優先志向の世界』には常に疑いや恐れがつきまといますが、主である神様を王として、神様を礼拝して歩んでゆく道は決して揺るぐ事がありません。キリストは、私たちが造られた目的に従って神様の前で歩むことが出来るように、私たちの罪(自己中心の心、自分を王とし神様から離れてしまう心)の罰を十字架上で代わりに負い私たちを救うために人となってこの地上に来て下さいました。救い主イエス・キリストのお誕生を心から喜び、神様の前に、この様な罪深くまことに相応しくない者が、ただ恵みによって礼拝者とされた事に心から感謝をお捧げし、真の王であるイエス様に心からの礼拝をお捧げしてまいりましょう。
辞書には「思いやり(思い遣り)」という言葉は、「相手の立場で考える」、「他人の身の上や心情に心を配ること」とか、「同情」「想像」「思慮・分別」という意味だとあります。
まとめると、他人の立場で物事を考え(状態の理解)、その人の心にも気を配り同情する事(心を理解、共感)と言えるでしょう。全てを知っておられる神様にとって、その人の置かれている状態・心についてはすでに完全に理解しておられるでしょう。神様の“思い遣り”とは私なりに考えますに、全知である神なるお方が私たちに心を向け、心を汲み取り、共に心配してくださる事に尽きる様に思います。どんなに全てを知っておられる優れた方がいるとしても、心砕いて共感してくださる事なしには私たちにはどうしても癒され切らない部分があるからです。共に心配してくださるお方の象徴的な表現が“インマヌエル”であり、この言葉もやはりマタイ福音書のみに出てくるものです。
今日の聖書箇所から、外国人であり占星術を営むような本来で言えば、待望のメシヤへの礼拝者としての優先順位から遠く外れていた博士たちの心を神様はよく見ておられ、彼らの礼拝を求める心への深い共感をもって彼らを豊かに招いて下さいました。また、その彼らのひたむきな姿は、イスラエルの心ある人たちへの悔い改めへの呼び掛けともなった事でしょう。私たち1人1人の信仰はまことにからし種のような小さなものですが、神様は聖霊の働きによってそれを深い主への信頼へと変えてくださいます。博士たちは宝を携えてやってきました。あなたの人生も神様を礼拝し、主の素晴らしさを証することによって、造られた目的に従って歩むものとされ、まさに人生は宝物とされます。しかし、同時にその様なあなたの人生は主にあって他の兄弟姉妹がたの宝ともなっています。ひたむきに救い主を求め、礼拝を求めていった彼らの歩みの姿のマタイによる記録によってミカ書の預言の実現は証明されました。また、さらには大宣教命令へと続く、イエス様が全ての民族の救い主である事の証明ともなりました。ユダヤ人に向けて旧約聖書からの連続を強く意識して書かれたマタイ福音書で、初めての救い主礼拝を行ったのが外国人であったと意義は誠に大きいと思います。主を礼拝し、神を愛し隣人を愛するあなたの人生はあなたの思いを超える形で用いられ、隣人たちへの宝とも変えられているのです。
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