2020年12月20日日曜日

クリスマス「神様の羊飼いたちへの思いやり」

  私たちの人生には「思いやり」が必要です。自分のことを愛し、思いやりをもって接してくれる人がいないとしたら、どれだけ寂しい人生となるか。いや、寂しいでは済まない、生きていくのが難しくなります。私たちが思いやりをもって人に接する時、私たちはどれだけ幸せを味わうことになるか。いや、幸せ以上のこと、最も自分らしさが輝く姿と言えます。誰かが誰かを思いやる姿には美しさがあり、感動があります。私たちの人生には「思いやり」が必要なのです。

 聖書が繰り返し教える大事なメッセージの一つは、「世界を造られた神様は、神の民を愛し、思いやりをもって接して下さる」というもの。聖書の神を知らず、信じない。自分のことを愛し、思いやりをもって接して下さる方を無視して生きるというのは、大変不幸なこと。聖書の神様を知っている、信じているということが、私たちの人生にとって、どれだけ大切なことかとも思います。

 キリストの到来を覚えるアドベントを過ごし今日はクリスマス礼拝を迎えました。ここまで、キリストの誕生にまつわる場面の中から、神様が神の民をどのように愛し、思いやりをもって接してこられたかを確認してきました。このクリスマス礼拝では、イエス様が生まれたその日、羊飼いたちに注がれた神様の愛、これ以上ないほど思いやりをもって接せられた姿を見ていきます。この神様が、私たちの神であること。私にも、どれほどの愛と思いやりをもって接して下さっているのかを皆で確認しつつ、イエス様の誕生を祝う礼拝を送りたいと思います。

 聖書の中で、イエス様が誕生したその日のことを詳しく記されているのはルカの福音書二章になります。ルカは一章で、ザカリヤ、エリサベツ夫妻と、マリアを中心にイエス様の誕生までのいきさつを記しました。二章に入り、その冒頭で読者に疑問を抱かせることを記します。全知全能の神様がその力をもって、約束の救い主が飼葉桶に生まれるようにしたという記録です。

 ルカ2章1節、4節

「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。…ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。」

 

 神様は旧約聖書を通して、約束の救い主がどのようなお方か教えて下さっていました。その中の重要な知らせの一つは、救い主はベツレヘムで生まれるというものでした。ところが、ルカが一章で記したことは、救い主の父母として選ばれたヨセフとマリアは、ガリラヤのナザレという町の者であったということ。救い主誕生はベツレヘムにて。しかし親はナザレの者。これはどういうことか。二章になって、答えが記されます。出産のタイミングで、皇帝アウグストゥスの勅令により、ヨセフとマリアはベツレヘムへ行っていたというのです。絶大な権力を持ったローマ皇帝アウグストゥス。人類史上様々な権力者がいましたが、歴史上最も権力を持った者の一人に数えられる人。権力者の権力者。その皇帝アウグストゥスの勅令で、イエス様の誕生は預言通りベツレヘムとなりました。

 どれほどの権力者であろうとも神様のご支配のもとにある。神様の力はこの世界のあらゆるものを支配し、神様の言われたことは必ず実現するということです。ルカはその筆を通して、全知全能の神様の力は「罪人を救う」という約束実現へ向けて、間違うことなく完全に働いていると主張しているのです。

 しかししかし、そうだとすると、普通に考えればおかしな記録が続くのです。

 ルカ2章6節~7節

「ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」

 

 約束の救い主は、誕生してすぐに飼葉桶に寝かされた。衝撃的な記録です。家畜の食べ物を入れる餌箱。一般的に言えば、汚く臭いもの。赤子を寝かせるのに全く相応しくないもの。しかし救い主は飼葉桶に寝かされました。住民登録の勅令によって、多くの人が集まったベツレヘム。マリアは家畜小屋での出産、生まれた救い主は飼い葉桶に寝かされたのでした。ルカはイエス様が飼い葉桶に寝かされた理由を「宿屋には彼らのいる場所がなかった」と記しています。

しかし、これはおかしいと感じます。何しろこの直前に、皇帝アウグストゥスすら支配する神様の姿が記されているのです。「全世界を支配する方がベツレヘムの宿屋を押さえることが出来なかった」などということが、あるわけないのです。つまりルカが記す「宿屋には彼らのいる場所がなかった」というのは、あくまでも人間の問題を指摘している言葉でした。約束の救い主が誕生するのに、誰も気づかなかった。産気づく妊婦のために部屋を譲る者もいなかった。救い主を無視し自分中心に生きる者たちの世界。それでも神様は救い主を送られたのです。

 このように考えていきますと、イエス様が飼い葉桶に生まれ落ちたのは、この世界の表現で言えば「宿屋にはいる場所がなかったから」ですが、聖書の視点、神様の視点で言えば「神様の目的に沿って」起こったことです。全世界を支配される神様は、意図的に救い主を飼い葉桶に生まれさせた。何故なのか。その理由が今日の箇所に出てくるのです。

 ルカ2章8節~12節

「さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。』」

 

 約束の救い主誕生、人類史上最も重要な知らせが最初に届けられたのは、ベツレヘムの羊飼いたちでした。何故この人たちに伝えられたのか、分かりません。理由が全く分からない。極めて重要な知らせを受け取るのに相応しい立場の人は他にいくらでもいたのではないかと思うところ。何故最初の知らせが羊飼いたちだったのか分からないのですが、しかし、何としてもこの羊飼いたちには救い主に会ってもらいたいと神様が願ったことは分かります。

御使いは、救い主誕生が「今日ダビデの町」でのことだと告げました。まさにこの時、この町でのこと。羊飼いたちが会いに行こうと思えば、すぐに会える場所でのこと。そして「あなたがたのために」救い主が生まれたと指をさします。「いいですか、他でもない、あなたのために救い主が生まれたのですよ。」と。

 

 御使いが告げた言葉の中で特に重要なのは、この「あなたがたのために」という部分です。あなたと関係のない人が生まれたのではない。あなたの救い主が生まれたのですと告げているのです。そしてここでダメ押しとして用意されていたのが例の飼葉桶でした。

 飼葉桶、羊飼いたちにとっての「しるし」。この「しるし」の一つの意味は「目印」ということでしょう。御使いが告げた赤子が誰であるのか、明確に見つけるためのもの。この夜、ベツレヘムに何人の赤子がいたのか分からないですが、当然のこと、飼葉桶に眠る子は他にはいない。飼葉桶に寝ているというのは、この赤子こそ救い主であると分かるための「目印」です。しかし、どの赤子が救い主であるのか示すためだけであれば、他のしるしでも良かったと思います。生まれたてなのに髪が長いとか、特別は服を着ているとか、あるいは住所を告げるという方法も考えられます。そうではなく、飼葉桶に寝ていることがしるしであるのは、もう一つの重要な意味があったから。つまり、「あなたのための救い主」であることを示す意味がありました。羊飼いにとって飼葉桶は自分の生活を示すもの。もし本当に約束の救い主が生まれ、飼葉桶に寝ているとしたら。羊飼いたちにとって、それは自分の生活のど真ん中に来て下さる方。どれほど汚れていても、そのただなかに来て下さる救い主であることがこれ以上ないほど分かる「しるし」となっていたのです。

 

 羊飼いたちに「あなたのための救い主です」と伝えたいと考えた神様は、その力をもって、救い主が飼葉桶に眠るようにされた。全知全能の神様の力は、羊飼いが安心して救い主に会えるように。本当に私のための救い主だと受け止めることが出来るため使われていた。無理矢理ではない。強制するのでもない。羊飼いたちが喜んで救い主に会えるように配慮される神様。このような思いやりの方法があるのかと驚愕します。神様に愛されることが、どれほど幸いなことなのか。世界の造り主である方に、ここまで思いやりをもって接してもらう羊飼いたち。

 罪人のために徹底的に低くなられる救い主、神の民のためにこれ以上ないほど思いやりをもって接せられる神様。御使いの言葉を聞いた天の軍勢が、勢い余って登場し、大賛美をささげました。

 ルカ2章13節~14節

「すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。『いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。』」

 

 イエス様が誕生した夜、天の万軍の賛美が鳴り響きました。「神に栄光、地に平和」と。この栄光とは「罪人を救うために神が人となられた」という栄光。「飼葉桶に救い主が生まれた」という栄光。「この救い主はやがて十字架で殺される」という栄光。つまり、徹底的に低くなられる救い主。全知全能の力が愛のために用いられるという栄光でした。金銀財宝に囲まれた王宮で誕生するのが栄光なのではない。神の民を思いやり、飼葉桶に生まれることが栄光である。この聖書の視点を私たちはどれだけ持っているでしょうか。

 今日の交読文、皆で読んだ聖書箇所では、このことが次のようにまとめられていました。

 ピリピ2章6節~9節

「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」

 

 そしてこの救い、この愛によってもたらされる人と神様との平和によって、人同士の平和ももたらされる。キリストを信じる者は、互いに平和を作る者となる。互いに思いやりをもって生きる者となる。「天には栄光、地には平和。」私たちも、イエス様の誕生の意味をよく味わいつつ、この賛美をともにしたいと願います。

 さて御使いの言葉と賛美を聞いた羊飼いたちは、救い主に会いに行きます。

 ルカ2章15節~20節

「御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。『さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。』そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」

 

 私のために生まれた救い主に会いたい。飼葉桶に眠る赤子に会いたい。この時の羊飼いたちの足取りの明るさ、軽さを想像します。

 ところで、この時のマリアとヨセフの思いはどのようなものだったでしょうか。マリアもヨセフも救い主を産むことを告げられました。マリアには、親類エリサベツとの交わりも与えられました。神が人となる不思議。処女が子どもを産む不思議を覚えながらも、神様の言葉を信じた二人。そしてついに出産を迎えたのです。

しかし、この出産は悲惨でした。いつ出産してもおかしくない状況での旅。初めての出産で、陣痛が始まり、宿屋も見つからない。やっとのことで見つけた家畜小屋で出産を迎える。産み落とされた赤子を寝かせるのに、飼葉桶しかなかった。自分は約束の救い主を産んだはず。たしかに、処女のまま男の子を産むことになった。それにもかかわらず、この状況の悲惨さは何なのか。神様は助けて下さらないのか。この時に宿屋も確保できなかった自分たちに、救い主の親として使命を果たせるのか。途方に暮れるほどの緊張と恐れ、不安の中にいた二人。

 そこに、羊飼いたちが駆けつけてきたのです。知人、友人ではない珍客羊飼いたちが、飼葉桶に寝ている赤子を探していると言う。この不思議。聞いてみると、御使いに告げられて来たこと。それも飼葉桶に寝ていることが「しるし」であったというのです。

 この羊飼いたちの訪問が、マリアとヨセフにとってどれ程の慰めと励ましになったでしょうか。この赤子は本当に約束の救い主であるということ。宿屋を確保することも出来なかったのではなく、飼葉桶に産み落とすように導かれていた。ルカはわざわざ、マリアが「これらのことをすべて心に納めて、思い巡らしていた。」と記しています。

 神様が羊飼いたちをこれ以上ない程思いやりをもって導いた結果、約束の救い主は飼葉桶に生まれました。そして、この羊飼いたちの訪問は、マリアとヨセフにとって、これ以上ない程の慰め、励ましとなっていた。私たちの神様は名監督、名プロデューサー、思いやりの玉突きを起こす方。この神様に愛されることが、どれほど幸いなことなのか。世界の造り主である方に、ここまで思いやりをもって接してもらう幸いを覚えます。

 

 人間が神から離れ、神を無視して生きているのに、その人間を救うために救い主が生まれた。神が人となるという奇跡中の奇跡が、罪人を救うためになされた。これだけで考えられない大きな恵みです。しかし、救い主誕生の記録を見ますと、神様はこの出来事にかかわる全ての者に思いやりをもって接して下さっていることが分かります。

 パウロが大声で神様を賛美していた言葉が思い出されます。

 ローマ8章32節

「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」

 

 救い主を産むマリアには、親類エリサベツが備えられていました。正しい人ヨセフには、絶妙のタイミングで御使いが遣わされました。天文学に通じる東方の博士たちは星が用意され、羊飼いたちには飼葉桶が用いられました。

「何としてでも罪人を救いたい。」「安心して信頼してほしい。」「喜びとともに救い主に会ってほしい。」そのように願われる神様は、ご自身の力を、私たちを愛するために用います。私たちの神様は、思いやりの神様。この神様に愛され、守られ、導かれて今の私たちがあることを覚えたいのです。

 私たちの人生には「思いやり」が必要です。しかし私自身のことを含め、人間の思いやりは様々な限界があります。思いやりをもって接しているつもりでも、どこか打算的、どこか自己中心的に生きてしまう私たち。思いやりをもって接しているつもりでも、相手にとってはそれが悪影響となってしまう私たち。思いやりをもって接し合う関係が築けたと思っても、その関係を壊してしまう私たち。人間の思いやりには限界があります。

 神様の思いやりは無限です。文字通り無限の思いやり。この神様を知らないで生きるのは恐ろしいこと。この神様の思いやりを意識しないで生きるのは悲惨なこと。この神様の思いやりに気づかないで生きるのは勿体ないこと。

 キリスト誕生の出来事に(もっと言えば聖書全体を通して)示された思いやりの神様が、私の神であること。マリア、ヨセフ、博士たち、羊飼いたちに愛と思いやりをもって接せられた神様は、私にも同じように愛と思いやりをもって接して下さることを確認して、救い主誕生をお祝いしたいと思います。

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