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2021年2月21日日曜日

一書説教(65)「ユダの手紙~自分自身を築き上げる~」ユダ1:17~21

 「信仰生活」を何かに例えると、皆様は何に例えるでしょうか。自分にとって楽しいもの、喜ばしいものに例えるでしょうか。それとも大変なもの、苦しいものに例えるでしょうか。聖書の中に信仰生活を例える表現が出てきますが、競走や、拳闘、戦闘と、その多くは大変なもの、苦しいイメージです。

キリスト教は恵みの宗教。行いが正しいから救われるのではない。何か出来るから恵みを受けられるのではない。私たちがすることではなく、神様がして下さることが大事。私たちは無条件に愛され、価無しに救われたのです。この視点だけであれば、信仰生活は楽しいもの、喜ばしいイメージなはず。しかし、私たちは何も取り組まなくて良いと教えられているわけではありません。信仰を守り、信仰のために戦うように。信仰者として意識し、取り組むべきことが多くあることも示されています。そして、それは実に大変なもの。信仰生活が大変なものに例えられているのは、むしろこの部分に焦点が当たっているからでしょう。

 

 ところで信仰生活において「神様がして下さること」と「私がすること」を、聖書の教える通りに受け取り続けることは意外と難しいことです。

神様の愛は変わらない、キリストによって何をしても罪赦されるのであるから好きなように生きるという放縦、自堕落の道か。あれもしないといけない、これもしないといけないと信仰生活を義務、責務に感じる。自分の正しさを示すために信仰生活を送る律法主義の道か。私たちは、どちらかに傾きやすいものです。

恵みを受けるために良い行いをするのではなく、恵みを受けたらから良い行いをする。良い行いが出来ること自体も恵みである。このことは頭では理解出来ても、実際の信仰生活の歩みの中でその通りに生きることは難しいものです。いかがでしょうか。自分自身の信仰生活を振り返った時、どちらかに傾いた歩みとなっていないでしょうか。

 

 六十六巻からなる聖書のうち、一つの書を丸ごと扱う一書説教。今日は通算六十五回目、新約篇の二十六回目、ユダ書となります。

 新約聖書は大きく四つに分類出来ます。イエス様の生涯を記した福音書が四つ。弟子たちの活躍を記した歴史書が一つ。新約聖書唯一の預言書が一つ。残り二十一は書簡でした。実に新約聖書の九分の七が書簡、これまで二十の手紙を読み残りは最後の一つとなりました。一章だけの小さな手紙、手のひら書簡、豆粒書簡、ユダ書。ユダを通して語られる言葉から、自分の信仰生活がどのようなものか、私たち皆で考えたいと思います。一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。

 

 ユダ書は次のように始まります。

 ユダ1章1節~2節

「イエス・キリストのしもべ、ヤコブの兄弟ユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストによって守られている、召された方々へ。あわれみと平安と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。」

 

 ユダとは「ほめたたえる」という意味で、よくある名前の一つ。この手紙を書いたユダはどのユダかと言えば、ヤコブの兄弟ユダと名乗っています。ヤコブという名前も多くありますが、ただ「ヤコブの兄弟ユダ」と名乗るだけで誰だか分かるとすれば、イエス様の肉の兄弟、ヨセフとマリアの子どものユダと考えられます。

聖霊によってイエスを産んだマリアは、その後で子どもを男子だけで四人産みました。ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ。この中のヤコブが、やがてエルサレム教会の重鎮となり、ヤコブ書を書いたと考えられ、この中のユダがこのユダ書を書いたと考えられます。

ユダは、イエスキリストの兄弟とは名乗らず、イエスキリストのしもべと名乗る。幼い時から、最も身近にイエスを見てきた自負を出さず、キリストによって救われたしもべとして手紙を記す。ユダの清々しさを感じます。

宛先は、「神に愛され、キリストに守られている方々」となっています。これまで確認した手紙は教会宛てでも個人宛てでも、特定の相手に記されたものが多かったですが、この手紙は全てのキリスト者へ向けて記されたもの。一つの教会に当てはまる内容というより、全てのキリスト者に当てはまる内容。普遍性の高い内容となります。

 

 キリストのしもべでありヤコブの兄弟であるユダから、全てのキリスト者へ。祝福の挨拶が記された後、手紙を書いた目的が記されます。

 ユダ1章3節

「愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。」

 

 ユダはもともと手紙を書こうとしていた。それも「救い」について、救済論をテーマとした手紙を書こうとしていたと言います。興味深い、読んでみたいと思うところ。しかし、その手紙は聖書になく、ユダがどのようなことを書こうとしていたのは天国での楽しみとなります。

 書きたいことがあった。しかし、それよりも緊急に書くべきことが出来た。何かと言えば、「信仰のために戦うよう」に勧めるというのです。「戦いに備えるように」ではなく、「戦いに出るように」。「合戦の招集」ではなく、「進軍の号令」。緊張感があります。一体、どのような戦いに出るのか。何が問題となっているのか。

 

 ユダ1章4節

「それは、ある者たちが忍び込んできたからです。彼らは不敬虔な者たちで、私たちの神の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定しているので、以下のようなさばきにあうと昔から記されています。」

 

 信仰の戦いに出るように、その理由をユダは「ある者たち」が忍び込んできたからと言います。異端の問題、偽教師の問題。ユダが戦うように号令をかけているのは、聖書の教えから外れるように働きかける者たちに対してでした。

その特徴は、不敬虔であり、恵みを放縦に変える、イエス・キリストを否定すること。この「不敬虔に生きる、恵みを放縦に変える、キリストを否定する」ことが教会の中に入りこむことを許さないように。その影響を受けないように。そのような考え方とは戦い抜くようにと言われます。誤った教え、偽教師の問題の中でも、特に不敬虔や放縦が問題となっているのです。

(ユダ書は5節以降、手紙の中盤部分で、不敬虔な者たち、恵みを放縦に変える者たちに対する裁きがどのようなものか、様々なものを引用しつつ取り扱います。今回の一書説教で、その部分は割愛します。)

 

 ところで二十一ある手紙を読み比べてみますと、早い段階で書かれた手紙が問題とする中に、割礼の問題がありました。救いにはキリストを信じる以外にすることがあるのか、割礼が必要なのか。救いには割礼が必要であるという考えに、パウロは徹底的に戦いました。ガラテヤ書は、特にこの問題を扱った書ですが、次のように記されています。

 ガラテヤ5章3節~8節

「割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたの邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。そのような説得は、あなたがたを召された方から出たものではありません。」

 

 大変強い調子。救われるのにキリストを信じる以外にすることがあるという考え方に徹底抗戦するパウロ。ガラテヤ書はパウロが書いた初期の手紙の一つですが、この時代の教会は、自分のすることが大事ということに傾き過ぎていた。

 ところがパウロが書いた最晩年の手紙では、次のように記しています。

 Ⅱテモテ3章1節~5節

「終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒瀆し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい。」

 

 後輩牧師テモテへ記した牧会指南書の中に、「困難な時代」が来ることの勧告がありました。不敬虔の者、恵みを放縦に変える者たちが現れる時が来る。言葉多く、注意喚起していました。

教会、信仰者はある時には、自分の力で信仰生活を成し遂げようとする律法主義の道に傾き、ある時には放縦、自堕落の道に傾く。右に左にフラフラしてしまう様が、二十一の書簡を見渡すことで確認出来ます。自分の力に頼る歩みをしてしまう、と思うと、神様の恵みの上にふんぞり返り好き勝手に生きてしまう。この問題は二千年前から続く信仰者の課題であることが確認出来ます。

 パウロは「困難な時代」が来ると告げていましたが、ユダ書では「ある者たちが忍び込んできた」と告げています。緊迫感が増しいよいよその時が来ている、戦いに臨むようにというユダの筆です。

 

これが、一つの教会に向けて書かれた手紙ではなく、全てのキリスト者に向けて記された手紙であることに注目します。キリストを信じる全ての者に、不敬虔に生きる、恵み放縦に変えるという危険性があるということです。

もし私たちが、「神様は無条件に私を愛して下さる」「キリストによって全ての罪が赦される」ことを理由に、不敬虔に生きることを良しとする、放縦に生きることを良しとするとしたら、それはイエス・キリストを否定する状態となっている。教会に恐ろしい問題を引き起こそうとしていることになっているのです。くれぐれも気を付けるようにと教えられます。

 

 このようにユダ書は信仰のために戦うように教える書ですが、それでは信仰のために戦うとはどのようなことでしょうか。

 ユダ1章17節~21節

「愛する者たち。あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語ったことばを思い起こしなさい。彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、嘲る者たちが現れて、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう。」この人たちは、分裂を引き起こす、生まれつきのままの人間で、御霊を持っていません。しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」

 

 「戦う」と言うと、敵対者がいて、打ち倒す印象です。不敬虔、放縦と戦うとなれば、不敬虔な者、放縦を勧める者と戦うイメージとなります。

しかしここでユダが言う具体的なことは、敵対者を倒すのではなく、自分自身に関することでした。「最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げる」「聖霊によって祈る」「神の愛のうちに自分自身を保つ」「主イエス・キリストのあわれみを待ち望む」こと。これがユダの提示する信仰における戦い方です。

 

 ところで興味深く、またどのように考えたら良いのか難しいと思うのが、ここでユダが言う「最も聖なる信仰」ということが、具体的にどのようなものか、この手紙の中に出てこないことです。「最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい」と言いながら、その「最も聖なる信仰」が何か触れていない。皆様は、この「最も聖なる信仰」とは何だと思うでしょうか。

何故ユダは、「最も聖なる信仰」が具体的に何なのか記さなかったのでしょうか。それは最も聖なる信仰がどのようなものか、知っている相手に書いているからでしょう。ユダは手紙の読者に対して「愛する者たち。あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語ったことばを思い起こしなさい。」と言いました。読者は、キリストの使徒たちが語った言葉を聞いている者、思い起こすことが出来る者。私たちに当てはめて言えば、聖書を知る者、信じる者ということ。つまり「最も聖なる信仰」とは、聖書の教える通りに信じる信仰。聖書の教えから外れない信仰という意味です。

 信仰の戦いの中心にあるのは、聖書の教える通りに信じる者として生きること。聖霊、神、キリストと三位一体の主との関係の中で、キリストに似る者となる歩みをすること。これが、不敬虔や放縦の歩みから、あるいは律法主義の歩みから、私たちを守るものでした。

 

 ところで、信仰の戦いに臨むように、「最も聖なる信仰の上に自分を築き上げるように」勧められた私たちが、それを自分の力で果たそうとしたら、結局のところ、律法主義的な歩みとなってしまう。ユダは最後の最後まで配慮して、次のように手紙を閉じていました。

 ユダ1章24節~25節

「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン。」

 

 ユダは私たちに信仰の戦いをするように。「最も聖なる信仰の上に自分を築き上げるように」と言いました。しかし同時に、私たちがつまずかないように守ることが出来る方、傷のないものとして神の御前に立たせることが出来るのはイエス様なのだと言います。

 信仰の戦いをすること、自分自身を建て上げること、キリストに似る者となること。これらは私たちが取り組むことであり、同時に神様がして下さること。どちらかだけではなく、そのどちらもというのが、ユダの視点であり、聖書の視点でした。

 「神様がして下さること」と「私がすること」、どちらかだけに重きを置くと、律法主義的な信仰生活になるか、自堕落、放縦の信仰生活になる。聖書に記された教会の歩みを確認しても、自分自身の信仰生活を振り返ってもそう思います。くれぐれもどちらからだけでなく、両方の視点を持つように。神様から頂いた多くの恵みに目を留め、その恵みに応じる者として信仰者の歩みを全うしていきたいと思います。

 

 以上、書簡の最後の最後に位置するユダ書を確認しました。あとは是非とも、ご自身で読んで頂きたいと思います。

新約聖書に含められた二十一に及ぶ書簡を読み進め、多くのことを教えられてきた私たち。その最後のユダ書にて、「最も聖なる信仰の上に自分を築き上げるように」、「聖書の教える通りに信じる者として生きるように」と確認しました。しかもその歩みは自分で取り組むことであり、神様がして下さることだと受け取ることで、この書簡の歩みの総まとめとしたいと思います。

2021年1月31日日曜日

信仰生活の基本(5)「献金~喜んでささげる~」Ⅱコリント9:6~8

 ある小学生と信仰告白の学びをしていた時のこと。その日は献金についての学びの日でした。私はその子に自分のお金はいくら持っているか聞いたところ、500円と教えてくれました。全財産500円。

「その500円は誰のものですか?」と聞くと、「僕のものです。」との答え。それはそうです、「あなたの持っているお金はいくらですか?」と聞いて、「そのお金は誰のものですか?」と聞けば、当然自分のものという答えになります。しかし、私はそこで次の聖書箇所を開きました。

 詩篇24篇1節

「地とそこに満ちているもの世界とその中に住んでいるものそれは主のもの。」

 

 ここに書いてある視点で言えば、世界中にあるものは全て神様のものです。献金はもともと神様のものを神様にお返しすること。献金は返金とも言えます。

そこで私はその小学生の子に質問しました。「あなたの身体や心は誰のものですか?」すると「神様のものです。」との答え。「あなたの持っているものは、誰のものですか?」すると「神様のものです。」との答え。そこで私はもう一度質問しました。「あなたの500円は誰のものですか?」すると「それは僕のものです!」との答えでした。

自分の身体も心も、自分の持っている物も神様のもの。所有権は神様にあると認めても、500円は自分のものである。小学生の素直な応答に、面白く、微笑ましく思えるのと同時に、「お金」が、小学生の心にも多大な影響力を持つことに驚きます。

皆様は「あなたの持っているお金は誰のものですか?」と聞かれたら、「これは神様のものです。」と答えるでしょうか。言葉だけでなく、実際に神様のものとして生きているでしょうか。

 年の始めから信仰生活の基本をテーマに説教を続けてきました。「礼拝」「伝道」「交わり」「祈り」を扱い、今日は「献金」に注目します。聖書はお金について、どのようなことを教えているのか。私たちはささげることにどのように取り組んだら良いのか。ともに考えていきたいと思います。

 

 神様が私たち人間を造られた時、神様を第一として生きる時に最も良い状態となるようにされました。言葉を代えると、神様以外のものを第一として生きる時、私たちは悲惨な状態となります。人生の土台とし、それに向かって忠実に、希望をおいて生きる何か。本当は神様だけしか与えることの出来ない私たちの生きる意味、希望、幸福が、それにあるのではないかと思う何か。それ自体は悪いものではなくても、それが自分にとって「神」となる時、私たちは人生を台無しにすることがある。

 「家族」を大事にする。とても良いこと。しかし家族が自分にとって第一となる時、私たちは悲惨な状態になります。「仕事」を大事にする。それも良いこと。しかし仕事が自分にとって第一となる時、私たちは悲惨な状態になる。「お金」も同様でした。金銭は生きていくのに必要なもの、大事なもの。聖書の中にも、神様が祝福して下さった結果として、財産を得る信仰者の姿が多くあります。金銭も神様が下さる恵みの一つ、お金自体が悪いものではない。しかし、お金を第一とする時、金銭を神とする時、私たちの人生は悲惨なことになるのです。

 ルカ16章13節~15節

「『どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。』金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。』」

 

 イエス様は二人の主人に仕えることは出来ないと言われます。何を第一にするのか。第一にするものを二つ持つことは出来ないのです。そして、この問題は、富以外にも色々と当てはまります。あなたがたは、神と「成功」に仕えることは出来ない。あなたがたは、神と「地位」に仕えることは出来ない。あなたがたは、神と「恋愛」に仕えることは出来ない。あなたがたは、神と「趣味」に仕えることは出来ない…。色々と考えられる中でイエス様は「神と富に仕えることは出来ない」と言いました。富が多くの人にとって、神様にとって代わりやすいもの、私たちにとって第一となりやすいものだからでしょうか。

注目したいのは「富に仕える」という表現です。本来、富は人が自由に使うもの。富に人格はなく、敢えて主従関係で表現するならば、人が主で富は従なのです。しかしイエス様は、富に仕えることがある、富を主人とすることがあると示唆しています。お金を愛し、お金に信頼を置き、お金を追求する。金銭の奴隷となる、金銭に支配されることがある。いや、そういうこともあるかもしれないという問題なのではなく、はっきりと注意されなければならないほど、身近な問題なのです。

 このイエス様の発言に、金銭を好むパリサイ人たちはあざ笑いました。富に仕える歩みなどするわけないという嘲笑でしょうか。パリサイ人といえば信仰生活に熱心で、生活の細部にいたるまで厳格に聖書の教えを守ることに取り組んだ人たち。聖書を読み、奉仕をし、祈り、礼拝する。人々から称賛されるような信仰生活を送った人たち。その人たちをして、自分の心がどのような状態にあるのか分からなかった。心を知る神様の前で、忌み嫌われる状態にあることに気づかなかったのです。

 

 聖書を読み通しますと、お金に気を付けるようにという注意は、実に多く記されています。いくつも挙げることが出来ますが、イエス様の注意喚起には次のようなものがあります。

 ルカ12章15節

「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

 

 人のいのちは財産にはない。言うまでもない、当たり前のこと。しかし、このように注意されないと、財産こそ自分のいのちと思う人が多くいる。財産を土台として人生を築き上げ、財産を失うと自分自身を失うかのように感じる人が多くいるということでしょう。そして、それが自分にとって危険である、悲惨であることになかなか気づかないのです。(この言葉の後でイエス様は「愚かな金持ち」のたとえ話をされます。イエス様のたとえ話の中には、理解しづらいものもありますが、この話は非常に分かりやすいもの。人のいのちは財産にはないことを簡潔明瞭に示すたとえ話でした。)

 パウロの注意は牧会者として胸を痛めながらの言葉となります。

 Ⅰテモテ6章8節~10節

「衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。」

 

 金銭に気を付けるように。とはいえ、金銭自体が悪なのではなく、生きる上で必要なもの。それではどれくらいあれば良いのかと言えば、パウロは衣食があれば、それで満足すべきですと明言しています。それ以上欲する人、金持ちになりたがる人は、大変な状態に陥る。これまで、金銭を追い求めた結果、信仰から迷い出て、苦しんだ信仰者を見てきた牧師パウロの必死な注意。

 ヤコブはとても強い言葉で注意します。

 ヤコブ5章1節~3節

「金持ちたちよ、よく聞きなさい。迫り来る自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐り、あなたがたの衣は虫に食われ、あなたがたの金銀はさびています。そのさびがあなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財を蓄えたのです。」

 

 聖書に記された歴代の信仰者の中には、様々な金持ちがいました。アブラハムも、ダビデも金持ち。ソロモンは人類史の中でも、極めて富が多かった人。お金が多いこと自体が悪ではないと思います。しかしその上で、ヤコブは「金持ちたちよ、泣き叫べ」と一刀両断します。財を蓄えるとは、終わりの日に裁きに会うことなのだと叱責します。とても強い言葉。

 

 他にも色々な箇所を挙げることが出来ますが、このように聖書は繰り返し金銭に気を付けるように教えていました。

 ところで、金銭に気を付けるというのは、他のことに気を付けるより難しいと思います。たとえば聖書は繰り返し、自分の「言葉」に気を付けるように教えています。そして、私たちは言葉で失敗する時に気が付きます。言うべきでないことを言う。言葉で自分も周りの人も傷つけてしまう。その時、自分の罪や悪、自分の問題に気が付きます。

 また聖書が繰り返し警告する問題には情欲、不倫の問題もあります。仮に不倫しているとして、自分が不倫しているのか、していないのか分からないということはありません。自分で悪を行っているという自覚はあるのです。

 ところが多くの場合、金銭について私たちは鈍感です。自分の心が富に仕えているのか、そうではないのか判断がつかない。聖書で繰り返し、お金に気を付けるようにと言われても、それは特別なお金持ちに対する言葉であって、自分には関係ないと思いやすいのです。いかがでしょうか。皆様は自分が富に仕えているかどうか、どのように考えてきたでしょうか。

 

 具体的に金銭にどのように気を付けたら良いのか。どのように自分の状態を判断したら良いのか。その一つの方法は、「喜んでささげること」が出来るかどうかです。

 今日の聖書箇所、第二コリントの8章、9章は、コリントの教会に献金を勧める内容となっています。献金を勧めるにあたって、パウロは丁寧に言葉を記しました。

 Ⅱコリント8章7節~8節

「あなたがたはすべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちからあなたがたが受けた愛にもあふれています。そのように、この恵みのわざ(献金)にもあふれるようになってください。私は命令として言っているのではありません。ただ、他の人々の熱心さを伝えることで、あなたがたの愛が本物であることを確かめようとしているのです。」

 

 コリントの教会と言えば、パウロの伝道によって立ち上がった教会。繰り返し手紙のやりとりがあり、何度も行き、長く留まった教会の一つ。手紙の中で、〇〇をしなさい、〇〇をしてはいけない、と命令として記す言葉も多くあります。しかし、この献金については、命令としては言わないと明言します。「命令として、献金してもらいたくない。言われたからやるものとしてもらいたくない。あなたがたの愛が本物であるように。」と言います。

 困窮している人に経済的な支援がいくことが目的であれば、命令でも強制でも良いところ。「使徒であり、教会をはじめた私の言うことを聞きなさい。」と言って、献金を促し、困窮している人を助ける方法もあります。しかし、それはしたくない。何故なのか。それは、コリント教会のことを思ってのことでした。

 命令として献金してもらいたくな。では、どのように献金してもらいたいと言うのか。

 Ⅱコリント8章6節~8節

「私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。」

 

 神様は私たちを無条件に愛するお方。私たちが、何が出来るとか、出来ないで、その愛が変わることのないお方。私たちが神様から離れたのに、私たちを救うために一人子を送って下さった方。聖書は繰り返し、神様の愛が無限であり不変であることを教えています。そのうえでパウロはここで、「神は、喜んで与える人を愛してくださる」と言います。

 そしてここに、命令ではなく、献金を勧めていた理由があります。お金に支配されない生き方の一つが、喜んでささげることだからです。いやいやながらでもなく、強制されてでもなく、喜んで自分のものを分かち合う。神様から与えられたものを、他の人のために使う。それこそ、富を支配する生き方であり、神様に愛される生き方なのです。

 

 このように考えますと、富に仕えるとは、自分のために富を使うこと。富を第一とするとは、結局のところ自分を第一とすること。そして、これは罪の性質そのものでした。私が良いように生きる。他の人よりも私が優先される。この思いが富の分野であらわれると、富に仕える者、富を第一にする者として生きることになります。

 罪の奴隷とならないように。富の奴隷とならないように。神の子として生きるように。「豊かに撒く者は豊かに刈り入れます。喜んでささげる者は神様に愛されます。」と勧めるパウロの言葉をしっかりと受け止めたいと思います。

 

 それでは私たちはどのようにしたら、喜んでささげる者として生きることが出来るのか。コリント教会へ献金を勧める中で、パウロが告げた言葉に注目して終わりにしたいと思います。

 Ⅱコリント8章9節

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

 

 神であるイエス様が人となり十字架で死ぬ。それは、富んでおられた方が貧しくなることだと言います。もしイエス様が富を手放さなければ、つまり人となり十字架での死を選ばなければ、私たちは貧しさの極み、罪の中で死んだままの者でした。イエス様が貧しさを選ばれたので、つまり人となり私たちの身代わりに十字架で死なれたので、私たちは富の極み、天国を継ぐ者となったのです。

 パウロは献金の勧めの件で、この言葉を記しました。つまり喜んでささげる者となる歩みは、イエス様がその富を私のためにどのように用いたのか考えることから始まると言えます。この主イエス・キリストの恵みを知る者は、金銭のことで心配する必要はありません。神の一人子の十字架の死が、神様がどれ程私たちを愛し、守ろうとしているか証明しているからです。もはや、誰かの富をうらやむ必要もありません。神の子とされた私たちは、イエス様の富を受け継ぐ者となったのです。

 主イエス・キリストの恵みを知ること。イエス様が下さる救いとはどのようなものなのか。私は何者とされたのか。神様は、この知識と理解と経験を通して、私たちをいつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者と変えて下さるのです。

 

 以上、お金について、ささげることについて、聖書が教える一側面を確認しました。聖書は繰り返し、金銭に気を付けるように教えていました。いつの間にか、富に仕える歩みとなってしまう。富に対する思い、金銭に対する思いについて、皆で自分の状態を確認したいと思います。

主イエス・キリストの恵みをしっかりと受け取る者として、喜んでささげる者、富の奴隷ではなく神の子として生きていく幸いを皆様とともに味わいたいと思います。

2021年1月17日日曜日

信仰生活の基本(3)「交わり~一つのからだとして~」Ⅰコリント12:19~27

 私たちは日々、様々なものから影響を受けています。どこに住むか、何を食べるか。どのような知識、どのような技術を手にするか。どのような立場にいるのか、何をするのか。そして、誰とともにいるのか。非現実的な想像ですが、十年前に戻り、全く異なる場所で全く異なる人とともに生きるとしたら、今の自分とは体も心も人格も、大きく異なるのではないかと思います。人間は、環境と周りにいる人から影響を受ける存在。皆様はこれまでの人生を振り返り、自分に大きな影響を与えたものは何だと考えるでしょうか。

 聖書には次の言葉があります。

 箴言27章17節

「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。」

 

 鉄を研ぐのには鉄が有用。鉄を研ぐのに、粘土では役に立たないのです。それでは人は何によって影響を受けるのか。私たちは様々なものから影響を受けますが、特に何から影響を受けるのか、何によって研がれるのかと言えば周りにいる人、それも「友」と呼べる親しい存在から、大いに影響を受けるという格言です。

表現を換えると、私たちは交わりを通して変えられる。私たちは交わりを通して、磨かれていくということです。いかがでしょうか。「人」に注目した時、皆様はこれまでの人生で、誰の影響を大きく受けてきたでしょうか。自分に大きな影響を与えたのは誰でしょうか。

 

ところで人から、友から、交わりから受ける影響は、良いものもあれば、悪いものもあります。

 箴言13章20節

「知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける。」

 

 私たちは周りにいる人から大きく影響を受ける存在。良い影響、悪い影響を相互に与えながら私たちは生きています。私たちの人生から親しい交わりがなければ、どれ程寂しいものになるかと思います。しかし同時に、交わりを通して、辛く苦しい思いをすることもあります。一般的に、私たちが抱える悩みの九割以上は人間関係に関する悩みと言われますが、私たちは周りの人から多くの良いものを得ると同時に、多くの苦しみも得ることになります。周りの人を祝福することもあれば、周りの人を傷つけることもあります。

 

 強い言葉で気を付けるように教えている、いや、交わりを避けるように教えている箇所もあります。

 Ⅰコリント5章9節~11節

「私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないようにという意味ではありません。そうだとしたら、この世から出て行かなければならないでしょう。私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。」

 

 「付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない。」とはだいぶ強い表現。それもわざわざ、「兄弟と呼ばれる者で」と確認されています。これは教会の中で明らかな悪、罪が示されていながら、それをそのまま放ってことのないように。兄弟姉妹が悪から立ち返るように働きかけることを勧める文脈の中で言われている言葉です。

その悪、罪が指摘されても、悔い改めない者たちと、何もないかのように交わりを続けることのないように。悪、罪を悔い改めない者と、そのまま交わらないように。何故交わりを持ってはいけなのか。交わりには、とても大きな影響力があるからです。淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者、そこから悔い改めようとしない者との交わりで、あなたが悪い影響を受けないようにと教えられています。(この箇所の直前で、パン種が粉全体に影響を与えることを例にして、粉全体を良い状態にするために、悪いパン種は取り除くように語られています。また交わりを避けることで、悪、罪を悔い改めないものに、その状況がどれ程危険なのか。交わりを避けることで、さらに悔い改めを促す意味もあります。)

 

 キリストを信じた者は罪赦された罪人。私たちは、神の子とされ、キリストに似る者へ変えられているものの、罪の性質が残っている者。心から大切にしたい、愛したいと願っても、正しく愛せない、傷つけてしまうことがある。このような私たちが交わる時に、祝福に満ちた交わりと、悪影響を与え合う交わりと両方起こり得るのです。

 先々週は「礼拝」先週は「伝道」を扱いましたが、今日は信仰生活の基本の中から「交わり」に注目します。聖書は繰り返し、キリスト者の交わりを持つように教えます。しかし、ともかくともにいれば良いというのではなく、目指すべき交わりがあることも示されています。それでは、私たちが目指す交わりとはどのようなものでしょうか。私たちはどのようなことに気を付けて、キリスト者の交わりに取り組めば良いのか、皆様とともに考えていきたいと思います。

 

 私たちが目指す交わりとは何かを考える上で、聖書の色々な箇所を挙げることが出来ると思いますが、今日はまず十字架直前、私たちのために祈られたイエス様の言葉に注目したいと思います。

 ヨハネ17章20節~21節

「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」

 

 「大祭司の祈り」と呼ばれる主イエスの祈り。十字架直前、イエス様は目の前にいる弟子たちのために祈り、続けて「弟子たちの言葉を通してイエス様を信じる人々のためにも願います」と祈ります。弟子たちの言葉を通して、イエスこそ救い主であると信じる者。これは、まさに私たちのこと。約二千年前のあの夜、イエス様は私のために祈られていたということに感動を覚えます。(蛇足ですが、復活し天に昇られたイエス様は、父なる神様のそばで、私たちのためにとりなしの祈りをして下さっていると聖書は教えています。二千年前に私のために祈られたイエス様は、まさに今も私のために祈っていて下さる方です。ヘブル7章25節)

それではイエス様は私たちのために何を願われたのか。「すべての人を一つにしてください。」という願いです。ここで「すべての人」と言われていますが、その後で、この「すべての人」とは別に「世が信じるようになるため」と出て来ます。つまり、「すべての人」というのは全人類のことではなく、「キリストを信じるすべての人」という意味です。イエス様は、キリストを信じる者たちが、「一つとなる」ことを強く願われたのです。

 キリストを信じる者たちが一つとなる。私たちが一つとなる。これはどういう意味でしょうか。私たちが全ての点で同じようになる、同じ意見を持つ、似た者となるということでしょうか。そうではないでしょう。

神様は私たち一人一人、異なる存在として造られました。違いは悪いことではなく、むしろ良いもの。教会として集められた私たちが多様であるというのは、教会の大きな魅力です。つまり、「一つとなる」というのは、全ての点で同じようになるという意味ではありません。皆が皆、同じ意見を持つようになることではありません。政治的主張で一つになるわけではない、趣味で一つになるわけでもない、社会的立場や性格で一つになるのでもない。教会は政党でも、サークルでも仲良しサロンでもないのです。

 

 ではイエス様が私たちに願っておられる一つになるとはどのような意味なのか。この祈りの後半で、イエス様は次のように言っています。

 ヨハネ17章26節

「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」

 

 一つとなるというのは、私たちの間に神様の愛があること。つまり、キリストを信じる者が「一つとなる」とは、神様の愛を受け取って、その愛で互いに愛し合うということでした。これが、イエス様が私たちに強く願っていること。私たちのための祈祷課題の筆頭に来るのが、神様の愛を受け取って、その愛で互いに愛し合うこと。私たちが一つとなること。これが私たちの目指す交わりです。

 この祈りをささげた後、イエス様は十字架にかかります。罪人を救うため、私たちを救うために。イエス様の十字架への道は、ここで祈られた願いが実現するためのものでした。私たちが、神様の愛を受け取って互いに愛し合う者となるというのは、文字通り、イエス様の命がけの願いなのです。

罪から救われるとは、どのような意味があるのか。キリストを信じると私たちはどのように変わるのか。キリストを信じることを通して、私たちは真実に神様を礼拝する者となり、喜んでキリストを伝える者となり、積極的に交わりに取り組む者となる。イエス様が何を願われ、そのために何をされたのか。今一度、よく確認したいと思います。

 

違いがあることを認め合い、受け入れ合う者となる。多様であればあるほど、良いと認めつつ、神様の愛を受け取り、互いに愛し合う者となる。イエス様が愛して下さったように、互いに愛しあう点では一致する者となる。この教会の多様性と一体性を、聖書は「キリストのからだ」と表現しました。

 

Ⅰコリント12章19節~27節

「もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。目が手に向かって『あなたはいらない』と言うことはできないし、頭が足に向かって『あなたがたはいらない』と言うこともできません。それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」

 

 コリント人への手紙と言えば、パウロが教会とは何かを様々な表現で語った書。教会とは「神の畑」「神の建物」「神の宮」「聖霊の宮」と語ってきたパウロが、ここで「キリストのからだ」という言葉を見つけます。教会は「キリストのからだ」。パウロの書簡には何度も出てくる表現ですが、最初に出てくるのは、この箇所です。

「それぞれ違いがあることが大事であると同時に一体である。」「それぞれ自分のために存在しているのではなく、からだ全体のために存在している。」「体は頭の願う通りに動くもの。キリストのからだとは、キリストの願う通りに生きる者たちである。」「キリストが天に昇られた後、キリストの働きをする者たち。」キリストのからだという言葉の中に、教会の様々な側面を見出すことが出来る言葉。含蓄に富む表現です。

 

私たちは日々の生活の中で、どれだけ自分がキリストのからだであること、周りにいる教会の仲間が同じ一つのからだであることを意識しているでしょうか。私たちは生活の多くの場面で、競争関係の中にいます。学校でも、職場でも、地域の中でも。様々な側面で評価され、比較されます。自分自身も意識的にも無意識のうちにも、周りの人と自分を比較します。競争関係というのは、一つからだとは違います。自分よりも優れているという相手は疎ましく、自分よりも劣っている相手は蔑むことになる。周りにいる人の成功は妬ましく、周りの人の失敗は暗い喜びとなる。このような競争意識が教会の交わりに持ち込まれると、大変辛い教会生活となります。目が手に向かって「あなたはいらない」というような思い。頭が足に向かって「あなたはいらない」というような交わりになってしまう。それは決して、本来のキリストのからだの姿ではなく、一つとなる交わりではないのです。

 これまでの信仰生活を振り返る時に、どれだけ真剣に、キリストの体として生きてきたのか。私たち皆で再確認したいと思います。

 

 以上、私たちが目指す交わりは「神様の愛を受け取り、互いに愛し合う」交わり、「キリストのからだ」としての交わりであることを見てきました。しかし、最初に確認したように、私たちは罪赦された罪人、私たちが交わる時に、祝福に満ちた交わりと、悪影響を与え合う交わりと両方起こり得るのです。どうしたら「キリストのからだ」としての交わりとなることが出来るのでしょうか。今日、交読文として皆で読んだ箇所を確認して、説教のまとめとします。

 ピリピ2章1節~11節

「ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」

 

 私たちの目指す交わりとは何か。どのような思いで教会の仲間に接したら良いのか。この箇所では「何事も利己的な思いや虚栄からすることなく、へりくだって、互いに自分よりもすぐれた者と思う。自分のことだけでなく、他の人のことも顧みる。」とまとめられています。

 そしてこれは、罪人にはとても出来ないことでした。そもそも、罪の性質とは、利己的で虚栄に生きようとするもの。自分こそ優れていると思い、他の人を見下すもの。自分のことだけを大事とするものです。ここに記されることは、私の能力とか、努力で出来るような生き方ではない。イエス様に変えてもらうしか、このような生き方は出来ないのです。

だからでしょう。「キリストにあって」励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみがあるなら、と言われています。愛する人を本当に愛するために。大切な人を本当に大切にするために。キリストのからだとして交わりに生きるために、私たちが真っ先に取り組むべきは、キリストとともにいること、イエス様につらなること、イエス様とともに生きること、イエス様の愛を受け取り続けること、イエス様のいのちで生きること、でした。

 

これ以上ないほど、徹底的に私を愛して下さった。そのイエス様のいのちを頂いたことを忘れないように。キリスト・イエスにある思いを、私たちの間で抱くように。私たちのこの一年が、神様の愛を受け取り、互いに愛し合う交わりに取り組む歩みとなりますように祈ります。

2021年1月10日日曜日

信仰生活の基本(2)「伝道~遣わされる者~」イザヤ6:1~8

  年が明けてから数回の礼拝にて、信仰生活の基本をテーマとする説教に取り組んでいます。信仰生活の基本のうち、先週は礼拝に注目し、今週は伝道となります。

聖書の福音を伝える。世界の造り主、私たちの救い主を伝える。「伝道」。教会の中で、これまで何度も伝道の重要性は語られてきました。私たちは、キリスト者にとって伝道することがいかに重要であるか知っていますが、今朝、再度伝道することの意味に注目します。今一度、キリストを信じることで、私たちはどのような者となるのか、皆で再確認したいと思います。

 

 ローマ10章14節~15節

「しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。『なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は』と書いてあるようにです。」

 

 ある人が主の御名を呼び求めるためには、信じることが必要。主を信じるためには、福音を聞かなければならない。福音を聞くためには、それを宣べ伝える人が必要。宣べ伝える人は、神様から遣わされなければならない。短くまとめると、ある人がキリストを信じるためには、福音が宣べ伝える人が必要である、ということ。

福音を宣べ伝える人がいなければ、信じることが出来ない。言うまでもないこと。当たり前のこと。しかし私たちは、この当たり前のことを当たり前として受け取っているでしょうか。この当たり前のことを日々の生活の中で確認しているでしょうか。

自分の周りにいる人が、キリストを信じるためには、福音を宣べ伝える人が必要。家族、友人、知人、同僚を思い浮かべた時、その人がキリストを信じるためには、福音を宣べ伝える人が必要であり、それは自分の役割であると考えているか。問われるところです。

 

 ところで、この当たり前と思えることを著者パウロはイザヤ書を引用して「良いことの知らせを伝える人々の足は美しい」とまとめました。福音を宣べ伝える人の足は美しい。

足が美しい。面白い表現であり、少し違和感があります。良い知らせを伝えるのは、足ではなく口ではないのかと思います。足は伝えることは出来ないはず。

また日本語で「足」というと悪いイメージが多いように思います。「足が付く」といえば、悪事がばれること。「足を洗う」と言えば、悪事から抜けること。「足が出る」と言えば予算オーバー。「足が早い」と言えば、腐りやすい。「地に足がついていない」と言えば、考えや行動が落ち着いていない。「馬脚を現す」と言えば悪い本性がばれること。どうも「足」はイメージが良くない。そもそも足は、一番汚れやすいところ。

 しかし、ここで足は称賛の対象となります。良い知らせを告げる口ではなく、野を越え山を越え、良き知らせを届けた足、それが汚れていても、働きによって汚れた足こそ美しいと。何故、足なのでしょうか。ここで言う「足」とは、良い知らせを運ぶ者の働き、労苦のことでしょう。良い知らせを宣言するのは口でしょう。しかし、宣言するまでのあらゆる働き、その労苦こそ美しいと言われるのです。

 

 引用元であるイザヤ書は次のような内容でした。

 イザヤ52章7節

「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神は王であられる』とシオンに言う人の足は。」

 

 これはバビロン捕囚からの解放という良い知らせの預言の箇所です。私たちが持っている様々な通信技術のない古代において、知らせは使者が届けるものでした。知らせを届けることは大変なこと。大変な労力を払い、危険を乗り越えて、使者は知らせを届けます。

バビロン捕囚からの解放。奴隷からの解放という良い知らせを届ける者は、喜び勇んで、何としてでもこの知らせを仲間に届けようと努めたでしょう。重要な良い知らせを届けるという役割につけたことを大いに誇るでしょう。待ちに待った知らせを受け取る者たちは、その使者をねぎらい、その働きは美しいと称賛するのです。

パウロはこのイザヤ書の言葉を引用して、福音を伝える者の働きも美しいと言います。ある人に福音を伝えるという時、私たちは様々なことに取り組みます。顔を合わせて聖書の話をするだけが福音を伝えることではない。良い知らせを伝える「足」として、あらゆることに取り組む。その働き全てが美しいですよ、との励ましです。福音を宣べ伝える働きに携わる時、私たちはとても重要なこと、美しい働きをしていると覚えるべきでした。

 

 それはそれとしまして、イザヤ書に記されている良いことはバビロン捕囚からの解放です。それではローマ書にある「良いこと」とは何でしょうか。(この説教の中で、福音とか、イエス様ご自身として話してきましたが、ローマ書がどのように表現しているのか確認します。)それはこの少し前に出てくる内容です。

 ローマ10章11節~13節

「聖書はこう言っています。『この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。』ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。『主の御名を呼び求める者はみな救われる』のです。」

 

 良い知らせの中心は何か。短くまとめるとどうなるのか。それは「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」という知らせです。聖書の中心的なメッセージ。私たち人間にとって最も重要な知らせ。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」。この言葉もパウロが引用したもので、預言者ヨエルの言葉です。ペンテコステの際、ペテロの説教でも引用されたもので有名です。

「御名」とは、その人ご自身や、その業績を示すもの。主の御名を呼び求めるとは、神様が私たちにして下さったこと、イエス様の贖いの御業が、私のためであったと告白すること。主イエスが私の救い主であると告白すること。そのように、主の御名を呼び求める者は、誰でも罪から救われるのです。

 

 また「主の御名」以外に救いはないことも聖書は教えていました。

 使徒4章12節

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」

 

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」との知らせは、積極的な表現ですが、反対の側面もある。つまり、主の御名を呼び求めない者は誰でも滅びるのです。主の御名を呼び求めて滅びる者はいないし、主の御名を呼び求めないで滅びない者もいない。私たち人間の前には二つの道しかない。主の御名を呼び求めて救われる道か、主の御名を呼び求めないで滅びる道か。人はどちらかを選ぶことになる。

このように考えると、聖書の教える良い知らせを伝える働きが、本当に重要であることが分かります。この知らせによって一人の人生が変わる。それも永遠の人生が変わるのです。

 

 ところで、「良い知らせを宣べ伝えるように」と教えられていますが、宣べ伝える者、使者となるのに一つ条件がありました。それは神様から遣わされているということ。「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。」と確認されています。遣わされずに、この良い知らせの使者となることは出来ないのです。

 ここまで、信仰生活の基本として「伝道」を挙げてきましたが、そもそも「伝道」するのは、神様から遣わされた者がすること。私たちは神様から遣わされた者なのでしょうか。

 

 神様から遣わされるとはどのようなことなのか。誰が遣わされているのか。私たちは、神様から遣わされた者なのか。このことを、イザヤが預言者として遣わされる場面から確認していきたいと思います。

 イザヤ書6章1節~4節

「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。』その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。」

 

イザヤが預言者として召される場面。(再召命とも考えられています。)神殿にいたイザヤが幻を見たのか。神殿ごと幻だったのか。どちらか分かりませんが、イザヤは高くあげられた王座に座しておられる主を見ます。神を見るという経験。それとともに、その主を礼拝する御使いセラフィムの姿です。

「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」御使いの賛美は、凄まじいまでの迫力でした。何しろその賛美の声のために、神殿の敷居のもといはゆるぎ、煙で満ちあふれたといいます。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。」神様が神様だから素晴らしい。神様が、神様としておられることが素晴らしい。足も顔も隠す御使いたち。己を隠し、ひたすらに主を賛美する御使いたち。圧巻の場面。

ところで罪ある人間が神様を見る、神様と交わるという時、いったい何が起こるのか。イザヤが経験したことは、まさにこのこと。罪人が神様と交わると何が起こるのか。

 

 イザヤ6章5節

「私は言った。『ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。』」

 

 イザヤは、自分が汚れたもので、その自分が万軍の主を見たために「私は滅ぶ」と言いました。罪ある者、汚れた自分が神を見た、「私は滅ぶ」という感覚。これはイザヤ特有のものかというと、そうではありません。聖書に出てくる何人もの信仰者が同じ告白をし、実際に死んだ記録もあります。(Ⅱサムエル6章など)罪人がそのまま神様と交わるならば死ぬというのが、聖書が教えるところです。

しかし、罪ある者が神様と交わっても死なない方法がありました。イザヤはこの時、その経験をします。

 

 イザヤ6章6節~7節

「すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。彼は、私の口にそれを触れさせて言った。『見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。』」

 

死を覚悟したイザヤのもとに、御使いの一人が飛んできます。手には祭壇の上にあった燃えさかる炭をもち、それをイザヤの口に触れさせる。イザヤが「私はくちびるの汚れた者」と言ったことに対応して、口に炭を触れさせたのでしょうか。この時、御使いは「あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」と宣言します。罪が赦される。これこそ人間が神様と交わっても死なない方法でした。

 

つまり、罪ある者が神様と交わるという時、次のうち、どちらかが起こると言えます。一つは「死」。罪ある者が、聖なる神様を見ようものなら死ぬということ。もう一つは「咎が取り除かれる」。罪が赦され、聖なる神様と交わるのに相応しいものにされる。このどちらかでした。そして、イザヤはこの時、罪の赦しを宣告されたのです。

 この罪が赦されるという経験がイザヤにとって極めて重要なことでした。罪を赦された者として、イザヤは遣わされる者として生きていくことになります。

 

 イザヤ6章8節

「私は主が言われる声を聞いた。『だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。』私は言った。『ここに私がおります。私を遣わしてください。』」

 

 罪が赦されるとは、どのような意味があるのか。

その一つの意味は、神様と交わることが出来る存在となること。罪ある自分が主を見たために「もうだめだ」と言っていたイザヤが、罪を赦された結果、どうなったでしょうか。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」という主の声を聞き、それに「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と答えます。この近さ。主の声を聞き答える、この交わり。罪が赦されることの一つの意味。それは、神様と交わることが出来るということでした。

 そしてもう一つの意味、もう一つの側面は、使命が与えられること。死を覚悟していたイザヤが、「私を遣わしてください。」と願い出る。何故なのか。罪が赦された者は、神様のことを伝える者、聖書を伝える者となるからです。

イザヤが預言者として召されていく場面が示しているのは「罪が赦された者は、神様と交わる者となり、神様と交わる者は、神様を伝える者となる」ことでした。

 

 ペテロは、このことを簡潔に、次のようにまとめています。

 Ⅰペテロ2章9節

「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」

 

 私たちは「良い知らせを宣べ伝えるように」と教えられていますが、宣べ伝える者、使者となるのに一つ条件がありました。神様から遣わされているかどうか。では私たちは神様から遣わされているでしょうか。はい、遣わされています。なぜ遣わされていると言えるのでしょうか。キリストを信じているからです。

 キリストを信じる者は、イエス様の御業によって罪から赦された者。私たちは、イエス様によって完全に罪を赦された者です。罪を赦された者というのは、神様と交わり者であり、神様を宣べ伝える者なのです。キリストを信じることで、私たちはどのように変えられたのか。これから何者として生きていくのか。新たな年を迎えて、今一度思いを新たに信仰者の歩みを進めていきたいと思います。

 

 以上、ローマ書、イザヤ書より伝道することの重要性と、キリストを信じる私たちが遣わされた者であることを確認しました。

今、自分が信じている聖書の中心的なメッセージ。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」という福音を、知り、信じることが出来ていることは、とても大きな恵みであることを、改めて味わいたいと思います。自分が、聖書の福音を信じることが出来たのは、私のもとにこの知らせを届けてくれた立派な「足」があったから。私が福音を信じるために、多くの働きがあったのです。次は私たちの番。良い知らせを告げる美しい「足」となる決意を今日、新たにしましょう。私の周りにいる人を覚え、祈り、教会に誘い、福音を伝える。

私たち皆で、遣わされた者として、良いことの知らせを伝える働きに取り組みたいと思います。

2021年1月1日金曜日

元旦礼拝「求めるべきもの」ルカ11:9~13

 新年明けましておめでとうございます。皆さまとともに元旦礼拝を奉げることが出来ること、大変嬉しく思っています。

 一般的に「何を求めるのかで、その人の本性が分かる」と言われます。その人が何者として生きようとしているのかは、その人の願いに示される。そうだとすれば、「何を求めてきたのか」という視点で一年を振り返るというのは、自分を何者として生きてきたのかを確認することになります。これから一年「何を求めるのか」考えるというのは、自分は何者として生きたいのか考えることになります。日々の生活の中で私たちは大小様々な願いを持ちますが、自分の中心にある願いは何なのか。自分は何を求めて生きてきたのか。これから何を求めて生きるのか。今日考えたいと思います。そのうえで、聖書は私たちに何を求めて生きるように勧めているのか、皆で確認したいと思います。

 

「願う」ことをテーマに今朝皆様とともに確認したい聖書の箇所はルカの福音書11章です。ルカの11章は、前半は祈りがテーマとなっている箇所。その冒頭で、お祈りの手本として、「主の祈り」が教えられます。

 ルカ11章1節~4節

「さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みにあわせないでください。』」

 

 イエス様が祈っている姿がとても印象的だったのか。自分の祈りの貧しさを覚えたからなのか。弟子の一人が、祈りを教えて下さいと願います。この弟子が誰なのか記されていませんが、私たちからすると「よくぞ聞いてくれた!」と拍手喝采の質問。この質問に答えて、イエス様が教えられたのが「主の祈り」です。

 神の一人子が教えてくれる注目の祈り、大きく前後半に分けることが出来ます。そして前半が驚愕の内容、神様のための祈りなのです。祈りとは自分の願いを叶えるためのものと考える者にとっては、考えもつかない祈り。「まさか、神様のために祈ることがあるとは!」と膝を打ちます。祈りの本質は、神の子として父に話しかけること。父の喜びを自分の喜びとする、自分の願いを父の願いに合わせていく。「主の祈り」は祈りの神聖さを教えられます。

 この主の祈りを教えられたイエス様は、続けて「真夜中の友人」と言われるたとえ話を語ります。祈りがテーマのたとえ話ですが、とても興味深いもの。主の祈りの神聖さとはうってかわって、コミカルな印象のたとえ話です。真夜中に、旅をしている友のためにパンが必要になった。自分はパンを持っていないので近隣の友のところに行き、パンを求める。何しろ、当時はコンビニエンスストアなどありませんので、どうしても必要な時は友に頼るしかないのです。真夜中にそのようなことをするのは、頼られる方にとって迷惑なこと。断られるのが普通。友情、義理人情でパンを貰うことは出来ないでしょう。しかし、あくまで頼み続けるならば、そのしつこさによって、パンを貰うこともあるでしょう、というたとえ話なのです。

 

 ルカ11章5節~8節

「また、イエスはこう言われた。『あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。』すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。』」

 

 祈りがテーマのたとえ話において、しつこさが勧められている。何とも意外です。常識に反する程のしつこさ、無理強い、ゴリ押し。「これはかなわない」と神様が降参するような祈りを、神様ご自身が求めておられる。これが他ならぬイエス様の口から出たたとえ話というのに驚きますが、父なる神様を困らせるようなたとえ話は、その一人子であるイエス様にしか出来ないとも言えるでしょうか。(このたとえ話は、私たちに祈ることの大切さを教えるものです。私たちにとって父なる神様が、このたとえ話に出てくる近所の人のような存在であると教えているわけではありません。)

 

 「主の祈り」「真夜中の友人」と続いて、祈りについてさらにイエス様の勧めがあるのが今日の箇所となります。

 ルカ11章9節~10節

「ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」

 

 非常に有名な言葉。「求めよ、探せ、叩け」と言われます。原典ギリシャ語を直訳するならば、「求め続けよ、探し続けよ、叩き続けよ」となっていまして、先の「真夜中の友人」のたとえ話の延長にある勧めという印象です。辛抱強く、粘り強く、祈ることが勧められているわけです。

 そして、祈り続ける結果、求め続ける、探しまくり、叩きぬく時に、それは与えられると言うのです。「求める者は得、尋ねる者は見出し、叩く者は開かれるなり。」とです。

 

 イエス様が、私たちに求めていることは、祈り続けること。それは分かります。「真夜中の友人」という仰天するようなたとえ話、続いて「求め続ければ与えられるぞ」との言葉。

神様は私のことをよく知っているのだから、祈らなくても良いではないか。私よりも、私に必要なものをご存知なのだから、私が願う必要はないではないか。私が悔い改めていること、感謝をしていることは、神様は知っているのだから、敢えて口に出さなくても。などなど、達観したかのような顔をして、祈らないというのは良くないこと。祈り続けることが求められているのは分かります。

 

 しかし、それでは何を祈るのか。「求め続ければ与えられるぞ」と言われ、何を求めるのでも良いのか。辛抱強く、粘り強く求めていれば、どのような願いでも叶えられるのか、という疑問が沸いてきます。自分の欲望のままに、神様に求め続けるので良いのか。内容はともかく、求め続けることが大事ということが、果たしてあるのか。

 

 聖書には次のような言葉があります。

 ヤコブ4章2節~3節

「あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」

 

 願わないことの問題と、願うにしても、何をどのように願うのかが問題とされています。そしてここで、求めても受けられないことがあると、明確に教えられています。求め続けても与えられないことがある。そうだとすれば、「真夜中の友人」のたとえ話や、「求め続ければ与えられる」という言葉は、ともかく願い続ければ願いが叶うと教えているものではないということです。求めるべきものがあり、それを求め続けるように教えているたとえ話、言葉であると分かります。それでは、私たちが求めるべきものとは何なのか。

 

 ルカ11章11節~13節

「『あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。』」

 

 地上の親でさえ、子の求めに応じて良いものを与えるのであれば、天の父は尚更のこと。天の父は求めるものに「聖霊」を下さらないことがあるでしょうか、と言われます。良いものを下さる神様は、求める者に「聖霊」を与えて下さらないことはない。つまり、私たちが求めるべきは「聖霊」だと教えられるのです。

 それでは「聖霊」を求めるとは、どのような意味でしょうか。聖霊なる神様は、私たちに様々な恵みを与えて下さいます。中でもキリストを信じた者に与えられる恵みは、聖書のことを良く理解することが出来る恵み。神様のことを知ることが出来る恵み。神様を信頼することが出来る恵み。神様に従うことが出来る恵み。神の子として喜んで生きていくことが出来る恵みを下さる。聖霊を求めるとは、このような恵みを下さる聖霊を求めることと理解出来ます。また「聖霊」とは三位一体の第三位各の方。神様ご自身です。聖霊を求めるとは、神様ご自身を求めることと理解出来ます。

 私たちが祈り続けるべきこと、求め続けるべきことは、「神様、あなたのことをより知ることが出来るようにして下さい。」「神様、あなたとともに生きる人生を送らせて下さい。」「神様、あなたを信頼することを身につけさせて下さい。」「神様、聖書の知識を頭だけでなく、全身全霊で受けとめる者であらせて下さい。」「神様、あなたご自身を私に下さい。」ということです。

 神様が私たちに求めていることは、「神を求める」こと。求め続けること。そうすれば、与えられると約束でした。神様を知ることを求めるように。神様を信頼することを求めるように。神様ご自身を求めるように。求める者に、聖霊を下さらないことはない。このキリストの命令と約束に、私たちはどのように応じるでしょうか。

 

 「神を求める」こと。これは、この箇所だけで言われていることではなく、聖書の様々なところで、私たちに命じられていることです。

そもそも、人間が「神のかたち」に創られたというのは、「神を求める」存在として創られたということでした。私たちが創られた目的は、私たちが神を求めて生きる存在となることです。

ところが人間は堕落しました。罪の結果、人は神様以外のものを求めるようになりました。財産、地位、名誉、快楽。もともと「神を求める」存在であった者が、他のものを求めるようになること。これが聖書の教える罪の本質でした。その罪人がキリストによって救われた結果、「神を求める」生き方となります。罪からの解放とは、神様を求める人生へとなるという側面もありました。つまり、キリストが私たちを救う目的は、私たちが神を求めて生きる存在となることです。

このように考えると、創造の御業も、贖いの御業も私たちが神様を求める者として生きるためにあると言うことが出来ます。私たちが神を求めて生きることを、神様はどれ程願われているのか。

 

 神を求めるように。そうすれば、神様を見出すというのは、聖書で度々語られてきたメッセージです。多くの箇所がありますが、有名なところをいくつか挙げますと、

 イザヤ55章6節~7節

「主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」

 

 また次の箇所もあります。

 エレミヤ29章12節~14節

「あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。わたしはあなたがたに見出される──主のことば──。」

 

 詩篇の中には、神様が下さる最大のものは、神様ご自身であると告白する祈りが多数出てきます。

 詩篇73篇26節

「この身も心も尽き果てるでしょう。しかし神は私の心の岩とこしえに私が受ける割り当ての地。」

 

 私が頂く永遠の相続は、神様ご自身である。驚きの告白ですが、これこそキリスト者の最大の幸いでした。

 神様が私たちに願われているのは、私たちが神様を求めること。求め続けること。そして、神様ご自身を受けるということが、どれ程私たちにとって幸いなことなのか。聖書全体で教えられていることでした。

 

 新しい年を迎えた私たち。喜びと期待を持ってこの一年を生きるために、私たちが取り組むべきことは何か。一つの大事なことは、神を求めること。神様を求める。神様をより知る者となるように。神様を信頼して生きることが出来るように。神様ご自身を下さいと願う。何しろ、その祈りに答えると約束されているのです。この一年、私たちは何を願って生きるのか。何者として生きていきたいのか。どのような年にしたいのか。一年の抱負や目標を考える時に、神様を求めることを忘れないようにと思います。

私たち皆で、神様をもっと知りたい。神様を信頼する経験をもっと味わいたい。そのような神様への渇望を持ち続ける者となりたいと思います。2021年が終わる頃、この一年は何をしたのかと自分で振り返る時、神様を求め続けたと言いたい。いや、この一年だけでなく、生涯を通して、神様をより知る者となる歩みをしたい。「あなたは誰ですか。」と問われた時に、「私は神を求める者です。」と答えたいのです。

「求めなさい、探しなさい、叩きなさい」とのキリストの勧めに応える歩みを、私たち皆でしていきたいと思います。

2020年12月20日日曜日

クリスマス「神様の羊飼いたちへの思いやり」

  私たちの人生には「思いやり」が必要です。自分のことを愛し、思いやりをもって接してくれる人がいないとしたら、どれだけ寂しい人生となるか。いや、寂しいでは済まない、生きていくのが難しくなります。私たちが思いやりをもって人に接する時、私たちはどれだけ幸せを味わうことになるか。いや、幸せ以上のこと、最も自分らしさが輝く姿と言えます。誰かが誰かを思いやる姿には美しさがあり、感動があります。私たちの人生には「思いやり」が必要なのです。

 聖書が繰り返し教える大事なメッセージの一つは、「世界を造られた神様は、神の民を愛し、思いやりをもって接して下さる」というもの。聖書の神を知らず、信じない。自分のことを愛し、思いやりをもって接して下さる方を無視して生きるというのは、大変不幸なこと。聖書の神様を知っている、信じているということが、私たちの人生にとって、どれだけ大切なことかとも思います。

 キリストの到来を覚えるアドベントを過ごし今日はクリスマス礼拝を迎えました。ここまで、キリストの誕生にまつわる場面の中から、神様が神の民をどのように愛し、思いやりをもって接してこられたかを確認してきました。このクリスマス礼拝では、イエス様が生まれたその日、羊飼いたちに注がれた神様の愛、これ以上ないほど思いやりをもって接せられた姿を見ていきます。この神様が、私たちの神であること。私にも、どれほどの愛と思いやりをもって接して下さっているのかを皆で確認しつつ、イエス様の誕生を祝う礼拝を送りたいと思います。

 聖書の中で、イエス様が誕生したその日のことを詳しく記されているのはルカの福音書二章になります。ルカは一章で、ザカリヤ、エリサベツ夫妻と、マリアを中心にイエス様の誕生までのいきさつを記しました。二章に入り、その冒頭で読者に疑問を抱かせることを記します。全知全能の神様がその力をもって、約束の救い主が飼葉桶に生まれるようにしたという記録です。

 ルカ2章1節、4節

「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。…ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。」

 

 神様は旧約聖書を通して、約束の救い主がどのようなお方か教えて下さっていました。その中の重要な知らせの一つは、救い主はベツレヘムで生まれるというものでした。ところが、ルカが一章で記したことは、救い主の父母として選ばれたヨセフとマリアは、ガリラヤのナザレという町の者であったということ。救い主誕生はベツレヘムにて。しかし親はナザレの者。これはどういうことか。二章になって、答えが記されます。出産のタイミングで、皇帝アウグストゥスの勅令により、ヨセフとマリアはベツレヘムへ行っていたというのです。絶大な権力を持ったローマ皇帝アウグストゥス。人類史上様々な権力者がいましたが、歴史上最も権力を持った者の一人に数えられる人。権力者の権力者。その皇帝アウグストゥスの勅令で、イエス様の誕生は預言通りベツレヘムとなりました。

 どれほどの権力者であろうとも神様のご支配のもとにある。神様の力はこの世界のあらゆるものを支配し、神様の言われたことは必ず実現するということです。ルカはその筆を通して、全知全能の神様の力は「罪人を救う」という約束実現へ向けて、間違うことなく完全に働いていると主張しているのです。

 しかししかし、そうだとすると、普通に考えればおかしな記録が続くのです。

 ルカ2章6節~7節

「ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」

 

 約束の救い主は、誕生してすぐに飼葉桶に寝かされた。衝撃的な記録です。家畜の食べ物を入れる餌箱。一般的に言えば、汚く臭いもの。赤子を寝かせるのに全く相応しくないもの。しかし救い主は飼葉桶に寝かされました。住民登録の勅令によって、多くの人が集まったベツレヘム。マリアは家畜小屋での出産、生まれた救い主は飼い葉桶に寝かされたのでした。ルカはイエス様が飼い葉桶に寝かされた理由を「宿屋には彼らのいる場所がなかった」と記しています。

しかし、これはおかしいと感じます。何しろこの直前に、皇帝アウグストゥスすら支配する神様の姿が記されているのです。「全世界を支配する方がベツレヘムの宿屋を押さえることが出来なかった」などということが、あるわけないのです。つまりルカが記す「宿屋には彼らのいる場所がなかった」というのは、あくまでも人間の問題を指摘している言葉でした。約束の救い主が誕生するのに、誰も気づかなかった。産気づく妊婦のために部屋を譲る者もいなかった。救い主を無視し自分中心に生きる者たちの世界。それでも神様は救い主を送られたのです。

 このように考えていきますと、イエス様が飼い葉桶に生まれ落ちたのは、この世界の表現で言えば「宿屋にはいる場所がなかったから」ですが、聖書の視点、神様の視点で言えば「神様の目的に沿って」起こったことです。全世界を支配される神様は、意図的に救い主を飼い葉桶に生まれさせた。何故なのか。その理由が今日の箇所に出てくるのです。

 ルカ2章8節~12節

「さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。』」

 

 約束の救い主誕生、人類史上最も重要な知らせが最初に届けられたのは、ベツレヘムの羊飼いたちでした。何故この人たちに伝えられたのか、分かりません。理由が全く分からない。極めて重要な知らせを受け取るのに相応しい立場の人は他にいくらでもいたのではないかと思うところ。何故最初の知らせが羊飼いたちだったのか分からないのですが、しかし、何としてもこの羊飼いたちには救い主に会ってもらいたいと神様が願ったことは分かります。

御使いは、救い主誕生が「今日ダビデの町」でのことだと告げました。まさにこの時、この町でのこと。羊飼いたちが会いに行こうと思えば、すぐに会える場所でのこと。そして「あなたがたのために」救い主が生まれたと指をさします。「いいですか、他でもない、あなたのために救い主が生まれたのですよ。」と。

 

 御使いが告げた言葉の中で特に重要なのは、この「あなたがたのために」という部分です。あなたと関係のない人が生まれたのではない。あなたの救い主が生まれたのですと告げているのです。そしてここでダメ押しとして用意されていたのが例の飼葉桶でした。

 飼葉桶、羊飼いたちにとっての「しるし」。この「しるし」の一つの意味は「目印」ということでしょう。御使いが告げた赤子が誰であるのか、明確に見つけるためのもの。この夜、ベツレヘムに何人の赤子がいたのか分からないですが、当然のこと、飼葉桶に眠る子は他にはいない。飼葉桶に寝ているというのは、この赤子こそ救い主であると分かるための「目印」です。しかし、どの赤子が救い主であるのか示すためだけであれば、他のしるしでも良かったと思います。生まれたてなのに髪が長いとか、特別は服を着ているとか、あるいは住所を告げるという方法も考えられます。そうではなく、飼葉桶に寝ていることがしるしであるのは、もう一つの重要な意味があったから。つまり、「あなたのための救い主」であることを示す意味がありました。羊飼いにとって飼葉桶は自分の生活を示すもの。もし本当に約束の救い主が生まれ、飼葉桶に寝ているとしたら。羊飼いたちにとって、それは自分の生活のど真ん中に来て下さる方。どれほど汚れていても、そのただなかに来て下さる救い主であることがこれ以上ないほど分かる「しるし」となっていたのです。

 

 羊飼いたちに「あなたのための救い主です」と伝えたいと考えた神様は、その力をもって、救い主が飼葉桶に眠るようにされた。全知全能の神様の力は、羊飼いが安心して救い主に会えるように。本当に私のための救い主だと受け止めることが出来るため使われていた。無理矢理ではない。強制するのでもない。羊飼いたちが喜んで救い主に会えるように配慮される神様。このような思いやりの方法があるのかと驚愕します。神様に愛されることが、どれほど幸いなことなのか。世界の造り主である方に、ここまで思いやりをもって接してもらう羊飼いたち。

 罪人のために徹底的に低くなられる救い主、神の民のためにこれ以上ないほど思いやりをもって接せられる神様。御使いの言葉を聞いた天の軍勢が、勢い余って登場し、大賛美をささげました。

 ルカ2章13節~14節

「すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。『いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。』」

 

 イエス様が誕生した夜、天の万軍の賛美が鳴り響きました。「神に栄光、地に平和」と。この栄光とは「罪人を救うために神が人となられた」という栄光。「飼葉桶に救い主が生まれた」という栄光。「この救い主はやがて十字架で殺される」という栄光。つまり、徹底的に低くなられる救い主。全知全能の力が愛のために用いられるという栄光でした。金銀財宝に囲まれた王宮で誕生するのが栄光なのではない。神の民を思いやり、飼葉桶に生まれることが栄光である。この聖書の視点を私たちはどれだけ持っているでしょうか。

 今日の交読文、皆で読んだ聖書箇所では、このことが次のようにまとめられていました。

 ピリピ2章6節~9節

「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」

 

 そしてこの救い、この愛によってもたらされる人と神様との平和によって、人同士の平和ももたらされる。キリストを信じる者は、互いに平和を作る者となる。互いに思いやりをもって生きる者となる。「天には栄光、地には平和。」私たちも、イエス様の誕生の意味をよく味わいつつ、この賛美をともにしたいと願います。

 さて御使いの言葉と賛美を聞いた羊飼いたちは、救い主に会いに行きます。

 ルカ2章15節~20節

「御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。『さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。』そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」

 

 私のために生まれた救い主に会いたい。飼葉桶に眠る赤子に会いたい。この時の羊飼いたちの足取りの明るさ、軽さを想像します。

 ところで、この時のマリアとヨセフの思いはどのようなものだったでしょうか。マリアもヨセフも救い主を産むことを告げられました。マリアには、親類エリサベツとの交わりも与えられました。神が人となる不思議。処女が子どもを産む不思議を覚えながらも、神様の言葉を信じた二人。そしてついに出産を迎えたのです。

しかし、この出産は悲惨でした。いつ出産してもおかしくない状況での旅。初めての出産で、陣痛が始まり、宿屋も見つからない。やっとのことで見つけた家畜小屋で出産を迎える。産み落とされた赤子を寝かせるのに、飼葉桶しかなかった。自分は約束の救い主を産んだはず。たしかに、処女のまま男の子を産むことになった。それにもかかわらず、この状況の悲惨さは何なのか。神様は助けて下さらないのか。この時に宿屋も確保できなかった自分たちに、救い主の親として使命を果たせるのか。途方に暮れるほどの緊張と恐れ、不安の中にいた二人。

 そこに、羊飼いたちが駆けつけてきたのです。知人、友人ではない珍客羊飼いたちが、飼葉桶に寝ている赤子を探していると言う。この不思議。聞いてみると、御使いに告げられて来たこと。それも飼葉桶に寝ていることが「しるし」であったというのです。

 この羊飼いたちの訪問が、マリアとヨセフにとってどれ程の慰めと励ましになったでしょうか。この赤子は本当に約束の救い主であるということ。宿屋を確保することも出来なかったのではなく、飼葉桶に産み落とすように導かれていた。ルカはわざわざ、マリアが「これらのことをすべて心に納めて、思い巡らしていた。」と記しています。

 神様が羊飼いたちをこれ以上ない程思いやりをもって導いた結果、約束の救い主は飼葉桶に生まれました。そして、この羊飼いたちの訪問は、マリアとヨセフにとって、これ以上ない程の慰め、励ましとなっていた。私たちの神様は名監督、名プロデューサー、思いやりの玉突きを起こす方。この神様に愛されることが、どれほど幸いなことなのか。世界の造り主である方に、ここまで思いやりをもって接してもらう幸いを覚えます。

 

 人間が神から離れ、神を無視して生きているのに、その人間を救うために救い主が生まれた。神が人となるという奇跡中の奇跡が、罪人を救うためになされた。これだけで考えられない大きな恵みです。しかし、救い主誕生の記録を見ますと、神様はこの出来事にかかわる全ての者に思いやりをもって接して下さっていることが分かります。

 パウロが大声で神様を賛美していた言葉が思い出されます。

 ローマ8章32節

「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」

 

 救い主を産むマリアには、親類エリサベツが備えられていました。正しい人ヨセフには、絶妙のタイミングで御使いが遣わされました。天文学に通じる東方の博士たちは星が用意され、羊飼いたちには飼葉桶が用いられました。

「何としてでも罪人を救いたい。」「安心して信頼してほしい。」「喜びとともに救い主に会ってほしい。」そのように願われる神様は、ご自身の力を、私たちを愛するために用います。私たちの神様は、思いやりの神様。この神様に愛され、守られ、導かれて今の私たちがあることを覚えたいのです。

 私たちの人生には「思いやり」が必要です。しかし私自身のことを含め、人間の思いやりは様々な限界があります。思いやりをもって接しているつもりでも、どこか打算的、どこか自己中心的に生きてしまう私たち。思いやりをもって接しているつもりでも、相手にとってはそれが悪影響となってしまう私たち。思いやりをもって接し合う関係が築けたと思っても、その関係を壊してしまう私たち。人間の思いやりには限界があります。

 神様の思いやりは無限です。文字通り無限の思いやり。この神様を知らないで生きるのは恐ろしいこと。この神様の思いやりを意識しないで生きるのは悲惨なこと。この神様の思いやりに気づかないで生きるのは勿体ないこと。

 キリスト誕生の出来事に(もっと言えば聖書全体を通して)示された思いやりの神様が、私の神であること。マリア、ヨセフ、博士たち、羊飼いたちに愛と思いやりをもって接せられた神様は、私にも同じように愛と思いやりをもって接して下さることを確認して、救い主誕生をお祝いしたいと思います。

2020年11月29日日曜日

アドベント(1)「神様のマリアへの思いやり」ルカ1:39~45

 聖書の神を信じる者。神の民はどのように生きるのか。一つの答えは「救い主を待つ」というものです。神を信じる者は、救い主を待つ者です。

旧約の時代、神の民は、約束の救い主が来ることを待ち望むようにと教えられました。旧約聖書最後のマラキ書は「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」というキリストの到来の預言で閉じられています。主イエスが来られた新約の時代、神の民は、もう一度来ると約束されたイエス様の再臨を待ち望むように教えられました。新約聖書最後のヨハネの黙示録は「これらのことを証しする方が言われる。『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」という再臨の預言と、それに応じる祈りで閉じられています。聖書は、信じる者に対して、救い主が来られるのを待つ者として生きるように教えていました。

 今日から待降節に入ります。「待降節」「アドベント」。私たち信仰者はいつでもイエス様の到来を待つ者として生きるように教えられていますが、特にこの時期は救い主の到来を待つことに集中したいと思います。

今年のアドベント、礼拝説教ではキリストの誕生にかかわりのある人たちに焦点を当てつつ、神様がそれぞれの人にどのような愛や配慮、思いやりをもたれて接せられたのか見ていきたいと思います。今日はルカの福音書より、救い主の母として選ばれたマリアに焦点を当てます。救い主誕生という大奇跡の最中、神の民を大切にされる神様の姿を皆で見ていきたいと思います。

 

 イエス様の生涯の記録は聖書の中、四つの福音書に記されています。そのうち誕生について最も詳しく記しているのはルカの福音書。冒頭はマリアの親類にあたる「祭司ザカリヤとエリサベツ夫妻」のことから記されます。

 ルカ1章5節~7節

「ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。」

 

 神の前に敬虔に生きてきたザカリヤとエリサベツ夫妻。子どもが与えられることを願いつつも、与えられない寂しさを抱えた老夫婦。この老夫婦に素晴らしい知らせが届きます。御使いを通して告げられたのは、念願の子どもが与えられること。その子は、神様の重要な働きを為す人物となること。ザカリヤにとって、ひたすらに良いこと。嬉しいこと。ただただ、嬉しい知らせでした。ところが、当初ザカリヤはこの知らせを信じることが出来ませんでした。受けとめきれなかったといいます。

 ルカ1章18節

「ザカリヤは御使いに言った。『私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。』」

 

興味深く、面白いところ。神の前に正しいと評されたザカリヤ。旧約聖書に精通した祭司。当然のこと、アブラハムと不妊の妻サラが老齢になって子どもが与えられたことも知っていました。そして、長らく祈り願ってきたこと。それでも、子どもが与えられるという知らせを、受けとめきれなかった。人間ザカリヤです。あまりに嬉しい知らせ。しかし、この知らせ自体が自分の妄想だったらどうしようか、という恐れでしょうか。悪い知らせを受け入れたくないというのは分かりやすいのですが、あまりに嬉しい知らせを受け止めきれなかったという場面。このザカリヤを神様は慮ってくださり、神の言葉を素直に信じる者へと導かれました。

 

 このザカリヤとエリサベツ夫妻の出来事を経て、御使いはマリアに現れて、「あなたは約束の救い主を産むのだ」と告げました。

 ルカ1章28節~33節

「御使いは入って来ると、マリアに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると、御使いは彼女に言った。『恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。』」

 

 有名な受胎告知の場面。婚約中のマリアに、救い主を産むことが宣言される場面。御使いはマリアに「おめでとう、恵まれた方。」「あなたは神から恵みを受けたのです。」と声をかけます。

「あなたは子どもを産みます。」という知らせ。しかし、これは「ザカリヤ、エリサベツ夫妻」と「マリア」では、意味が全く異なります。「ザカリヤ、エリサベツ夫妻」にとって、子どもが与えられるというのは念願であり、ただただ良いこと。しかしマリアにとって、このタイミングで子どもが与えられるというのは、考えてもいないこと。しかもマリアにとって良いこととは言えないものでした。婚約中のマリアが男の子を産む。それが実現したら、婚約者のヨセフにどのように思われるのか。社会的にどのように扱われるのか。悲劇が予想されます。それも、不妊とか老齢の問題ではなく、男性との性的関係無しで、聖霊によって身籠るという知らせ。受け入れがたい、信じがたい知らせ。しかし御使いとのやりとりを経て、マリアはこの知らせを受け止めました。

 

 ルカ1章38節

「マリアは言った。『ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。』すると、御使いは彼女から去って行った。」

 

 聖書の中でも珠玉の献身の場面。ザカリヤの姿と比較すると、この時のマリアの素直さ、神様の言葉に対する従順さが際立ちます。神様の言葉にかくも従順である一人の信仰者を通して、イエス・キリストの誕生があり、全世界に救いの御業が広がりました。神様の知らせに、このように応じる者でありたいと思うマリアの姿でした。

 

 ところで、「男の子を産む、救い主を産む、神に不可能なこと無し」と言われ、「その通りになるように」と応じたマリアですが、その後、出産までどのように過ごしたのでしょうか。もし、自分がマリアの立場だったら何をするでしょうか。

 婚約者ヨセフへ相談するでしょうか。(マタイの福音書に記されているヨセフの姿からは、マリアはヨセフにしっかりと相談していなかったように思われます。)親や友に相談するでしょうか。(マリアは親や友に相談したかもしれませんが、聖書には記されていません。)現代であれば、妊娠検査薬で調べるか、産婦人科に行くでしょうか。

 実際にマリアが取り組んだこと。それは御使いの知らせの中に出て来た、親戚エリサベツのもとに行くことでした。御使いは、不妊で老齢のエリサベツの妊娠を一つの証として、神に不可能なことはないと告げていました。そのためマリアはエリサベツのもとに行くことが、自分の状況の助けになると思ったようです。そして実際に、エリサベツに会うことは、マリアにとって重要な意味のあることになります。

 

 ルカ1章39節~41節

「それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。」

 

 マリアはエリサベツのもとを訪れます。これは受胎告知の場面から、どれ位経ってからなのか。御使いはマリアに対して、エリサベツは妊娠して六か月と伝えています。(ルカ1章36節)またマリアはエリサベツを訪問し三か月滞在し、その後でエリサベツは出産したことが記録されています。(ルカ1章56節)一般的な妊娠期間は約十か月ですので、つまりこの訪問は受胎告知の後一か月以内のこと。アリア自身、身体に変化がなく、本当に妊娠しているか分からない時のこと。

この時のマリアの思いを想像します。御使いから知らせを受け、自分はそれを信じている。しかし、他の人に信じてもらえるものとは思えない内容。夢でも見たのではないか。ヨセフを裏切りながら、おかしな言い訳を言っていると思われないか。これから自分はどうなってしまうのか。恐れ、戸惑い、困惑を抱えながらの訪問だったと思います。ザカリヤの家に着き、おそるおそるエリサベツに声をかけるマリア。その時、驚くべきことが起こります。

 ルカ1章42節~45節

「そして大声で叫んだ。『あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました。主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。』」

 

 マリアは挨拶しただけ。まだ状況説明もしていない。しかしエリサベツは大声で叫び、「あなたは女の中で最も祝福された方」と呼び掛け、「あなたの胎の実」と言い、そのうえマリアを「私の主の母」と認めます。エリサベツの胎内にいるのは、救い主の前触れをすると言われたザカリヤとの子。その子も胎内で喜んで踊ったと言います。そして「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」と祝福の言葉を述べる。夫ザカリヤが、当初信じられなかったのと比べて、あなたは信じることが出来る幸いを得た人だと告げる。

 このエリサベツの言葉を聞いた時、マリアはどれほど励ましを受けたでしょうか。マリアは御使いの言葉を信じていました。しかし、まだ実感を持てない状況。そこに神様が備えておられたのはエリサベツでした。この言葉を聞いて、マリアは御使いの言葉をより確かなものと信じることが出来でしょう。また自分が救い主を産むことは自分が信じているだけではない。同じように信じている人がいることが、どれほどの励まし、慰めとなったでしょうか。

 

 ところで、エリサベツは約束の救い主を産むマリアのことを「女の中で最も祝福された方」と呼びました。しかし、なぜ約束の救い主を産むことが、祝福なのでしょうか。マリアにとって、救い主を産むことは、どのような意味で良いことなのでしょうか。

それはこの出産を通してマリアが「主によって語られたことは必ず実現する」ことを体験するから。御使いの告げたことが真実であることを自分の体験として経験出来る。いや御使いがマリアに告げたことだけでなく、旧約聖書で繰り返し約束されていた救い主到来を、自分の身体で体験出来る。主によって語られたことが実現することに、マリア自身が大いに用いられる幸いをエリサベツは告げていました。

 

 このエリサベツの言葉を受けて、マリアの口をついたのが、マリアの賛歌となります。

 ルカ1章46節~47節

「マリアは言った。『私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。』」

 

 一般的に、「マリアの賛歌」、あるいは「マニフィカト」と言われる賛歌です。「マニフィカト」とは「あがめる」という意味。原典のギリシャ語では、「メガリュノー」という言葉で、大きくするという意味。「わが魂は主を大きくする。」「わが魂は主を大いなる方とする。」「わが魂は主をあがめる。」です。

 約束の救い主の誕生を前に、マリアは何を思ったのか。救い主の誕生は、マリアにとって、どうしようもなく嬉しいことだったのです。たましいも霊も喜びで振るえ、主を褒め称える思いで満たされ出てきた言葉が、わが魂は、主をメガリュノーする。わが魂は、主をマニフィカトする。わが魂は、主をあがめる、という言葉でした。ともかく神様を賛美したい。ともかく主をあがめたい。大変に嬉しいという思いでした。救い主の誕生を前にしたマリアの第一の思いは、賛美であり喜びでした。

 私を罪から救う方が生まれた。この知らせを、私たちはどのように受け止めているでしょうか。キリストの到来を覚えるアドベントの時、どれ程の喜びを味わっているでしょうか。

信仰生活、教会生活が、何年、何十年と続くうちに、キリストの誕生はよく知ったこと。感動も、喜びもなく、アドベント、クリスマスを過ごしてしまうということが起ります。

マリアの姿を前に、私たち皆で、今一度救い主が生まれるという知らせに集中したいと思います。世界の創り主が、私のために人となられた。この知らせに感動や喜びはあるのか。もしないとしたら、何故、喜びや感動がないのか。よくよく確認したいと思います。今一度、マリアが感じている感動、喜び、賛美をともに味わいたいと思うのです。

 

 ルカは母マリアに焦点を当てつつキリストの誕生を記しました。その筆は、マリアだけに焦点を当てたものではなく、ザカリヤ、エリサベツとの関係の中で、マリアの姿を記します。

神が人となる。それも罪人を救うため、死ぬために生まれる。奇跡の奇跡にして恵みの恵み。神様は、この救い主誕生という極めて重要な出来事を、マリアという信仰者を通して実現しようとされました。実現に際して、神様はマリアに使命だけを与えて終わりとはしませんでした。神に不可能なことはない証として、励ましと祝福を伝える者として、エリサベツを備えて下さっていた。また次週確認しますが、婚約者ヨセフも守り導いて下さいます。「約束の救い主誕生という大事の前に、マリアの人生や思いという小事など関係ない」というのではない。マリアの思い、マリアの人生も守り、支えて下さる神様。

 もっと言えば、この出来事はエリサベツにとっても大きな喜びだったと思います。長らく願いながらも子どもが与えられなかった。これまでの苦しみや悲しみ。しかし、それは神に不可能なことはないと証するためのものであった。マリアが、神のことばは必ず実現すると信じる一つの証となるためでもあったのです。苦しみや悲しみに重要な意味があったと知ることは、エリサベツやザカリヤにとって、大事なことでした。

 世界を支配する神様は、それぞれの人に使命と力を与えながら、互いに励まし合い支え合う関係をも与えて下さる。守られ、導かれる神の民は、主によって語られたことは必ず実現すると確信する者へ整えられていく。このマリアに注がれた神様の思いやり、配慮、愛は、私たちにも与えられていることを今日覚えたいと思います。私たちにも使命と力が与えられている。私たちにも、互いに励まし合い、支え合う関係が与えられている。私たちの人生に起こりくる様々な出来事にも意味があり、神様は全てのことを通して私たちが「主の言葉は必ず実現する」と確信する者へ変えて下さる。神様の私たちへの思いやりを前に、一同で首を垂れるようにと思います。

 

 待降節、アドベント、キリストの到来を待ち望む時。マリアが抱いた喜びと同じ様に、私たちもキリストの到来を喜びたいと思います。マリアが抱いた確信と同じように、私たちも主の言葉は必ず実現するという確信を持ちたいと思います。

いや、もっと言えば、私たちは、マリア以上にキリストの到来の意味を教えられた者たちです。マリアは、約束の救い主が来るということで、大きな喜びに満たされました。私たちは、その救い主が、私たちの身代わりとして、十字架にかかることを知っています。そしてこの時、マリアの胎に宿られたキリストが、今度は御国の完成のために来られるということも知っています。キリストの到来の意味を、より教えられている私たち。マリアとともに、マリア以上に、キリストの到来を喜び、主をあがめる者でありたいと思います。

 イエス様が来られたこと、イエス様がもう一度来られること。そのこと自体が、どれほど神様が私を思いやり、配慮し、愛しておられることの実現なのか確認しつつ、クリスマスへと歩みを進めていきたいと思います。