2021年1月17日日曜日

信仰生活の基本(3)「交わり~一つのからだとして~」Ⅰコリント12:19~27

 私たちは日々、様々なものから影響を受けています。どこに住むか、何を食べるか。どのような知識、どのような技術を手にするか。どのような立場にいるのか、何をするのか。そして、誰とともにいるのか。非現実的な想像ですが、十年前に戻り、全く異なる場所で全く異なる人とともに生きるとしたら、今の自分とは体も心も人格も、大きく異なるのではないかと思います。人間は、環境と周りにいる人から影響を受ける存在。皆様はこれまでの人生を振り返り、自分に大きな影響を与えたものは何だと考えるでしょうか。

 聖書には次の言葉があります。

 箴言27章17節

「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。」

 

 鉄を研ぐのには鉄が有用。鉄を研ぐのに、粘土では役に立たないのです。それでは人は何によって影響を受けるのか。私たちは様々なものから影響を受けますが、特に何から影響を受けるのか、何によって研がれるのかと言えば周りにいる人、それも「友」と呼べる親しい存在から、大いに影響を受けるという格言です。

表現を換えると、私たちは交わりを通して変えられる。私たちは交わりを通して、磨かれていくということです。いかがでしょうか。「人」に注目した時、皆様はこれまでの人生で、誰の影響を大きく受けてきたでしょうか。自分に大きな影響を与えたのは誰でしょうか。

 

ところで人から、友から、交わりから受ける影響は、良いものもあれば、悪いものもあります。

 箴言13章20節

「知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける。」

 

 私たちは周りにいる人から大きく影響を受ける存在。良い影響、悪い影響を相互に与えながら私たちは生きています。私たちの人生から親しい交わりがなければ、どれ程寂しいものになるかと思います。しかし同時に、交わりを通して、辛く苦しい思いをすることもあります。一般的に、私たちが抱える悩みの九割以上は人間関係に関する悩みと言われますが、私たちは周りの人から多くの良いものを得ると同時に、多くの苦しみも得ることになります。周りの人を祝福することもあれば、周りの人を傷つけることもあります。

 

 強い言葉で気を付けるように教えている、いや、交わりを避けるように教えている箇所もあります。

 Ⅰコリント5章9節~11節

「私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないようにという意味ではありません。そうだとしたら、この世から出て行かなければならないでしょう。私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。」

 

 「付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない。」とはだいぶ強い表現。それもわざわざ、「兄弟と呼ばれる者で」と確認されています。これは教会の中で明らかな悪、罪が示されていながら、それをそのまま放ってことのないように。兄弟姉妹が悪から立ち返るように働きかけることを勧める文脈の中で言われている言葉です。

その悪、罪が指摘されても、悔い改めない者たちと、何もないかのように交わりを続けることのないように。悪、罪を悔い改めない者と、そのまま交わらないように。何故交わりを持ってはいけなのか。交わりには、とても大きな影響力があるからです。淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者、そこから悔い改めようとしない者との交わりで、あなたが悪い影響を受けないようにと教えられています。(この箇所の直前で、パン種が粉全体に影響を与えることを例にして、粉全体を良い状態にするために、悪いパン種は取り除くように語られています。また交わりを避けることで、悪、罪を悔い改めないものに、その状況がどれ程危険なのか。交わりを避けることで、さらに悔い改めを促す意味もあります。)

 

 キリストを信じた者は罪赦された罪人。私たちは、神の子とされ、キリストに似る者へ変えられているものの、罪の性質が残っている者。心から大切にしたい、愛したいと願っても、正しく愛せない、傷つけてしまうことがある。このような私たちが交わる時に、祝福に満ちた交わりと、悪影響を与え合う交わりと両方起こり得るのです。

 先々週は「礼拝」先週は「伝道」を扱いましたが、今日は信仰生活の基本の中から「交わり」に注目します。聖書は繰り返し、キリスト者の交わりを持つように教えます。しかし、ともかくともにいれば良いというのではなく、目指すべき交わりがあることも示されています。それでは、私たちが目指す交わりとはどのようなものでしょうか。私たちはどのようなことに気を付けて、キリスト者の交わりに取り組めば良いのか、皆様とともに考えていきたいと思います。

 

 私たちが目指す交わりとは何かを考える上で、聖書の色々な箇所を挙げることが出来ると思いますが、今日はまず十字架直前、私たちのために祈られたイエス様の言葉に注目したいと思います。

 ヨハネ17章20節~21節

「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」

 

 「大祭司の祈り」と呼ばれる主イエスの祈り。十字架直前、イエス様は目の前にいる弟子たちのために祈り、続けて「弟子たちの言葉を通してイエス様を信じる人々のためにも願います」と祈ります。弟子たちの言葉を通して、イエスこそ救い主であると信じる者。これは、まさに私たちのこと。約二千年前のあの夜、イエス様は私のために祈られていたということに感動を覚えます。(蛇足ですが、復活し天に昇られたイエス様は、父なる神様のそばで、私たちのためにとりなしの祈りをして下さっていると聖書は教えています。二千年前に私のために祈られたイエス様は、まさに今も私のために祈っていて下さる方です。ヘブル7章25節)

それではイエス様は私たちのために何を願われたのか。「すべての人を一つにしてください。」という願いです。ここで「すべての人」と言われていますが、その後で、この「すべての人」とは別に「世が信じるようになるため」と出て来ます。つまり、「すべての人」というのは全人類のことではなく、「キリストを信じるすべての人」という意味です。イエス様は、キリストを信じる者たちが、「一つとなる」ことを強く願われたのです。

 キリストを信じる者たちが一つとなる。私たちが一つとなる。これはどういう意味でしょうか。私たちが全ての点で同じようになる、同じ意見を持つ、似た者となるということでしょうか。そうではないでしょう。

神様は私たち一人一人、異なる存在として造られました。違いは悪いことではなく、むしろ良いもの。教会として集められた私たちが多様であるというのは、教会の大きな魅力です。つまり、「一つとなる」というのは、全ての点で同じようになるという意味ではありません。皆が皆、同じ意見を持つようになることではありません。政治的主張で一つになるわけではない、趣味で一つになるわけでもない、社会的立場や性格で一つになるのでもない。教会は政党でも、サークルでも仲良しサロンでもないのです。

 

 ではイエス様が私たちに願っておられる一つになるとはどのような意味なのか。この祈りの後半で、イエス様は次のように言っています。

 ヨハネ17章26節

「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」

 

 一つとなるというのは、私たちの間に神様の愛があること。つまり、キリストを信じる者が「一つとなる」とは、神様の愛を受け取って、その愛で互いに愛し合うということでした。これが、イエス様が私たちに強く願っていること。私たちのための祈祷課題の筆頭に来るのが、神様の愛を受け取って、その愛で互いに愛し合うこと。私たちが一つとなること。これが私たちの目指す交わりです。

 この祈りをささげた後、イエス様は十字架にかかります。罪人を救うため、私たちを救うために。イエス様の十字架への道は、ここで祈られた願いが実現するためのものでした。私たちが、神様の愛を受け取って互いに愛し合う者となるというのは、文字通り、イエス様の命がけの願いなのです。

罪から救われるとは、どのような意味があるのか。キリストを信じると私たちはどのように変わるのか。キリストを信じることを通して、私たちは真実に神様を礼拝する者となり、喜んでキリストを伝える者となり、積極的に交わりに取り組む者となる。イエス様が何を願われ、そのために何をされたのか。今一度、よく確認したいと思います。

 

違いがあることを認め合い、受け入れ合う者となる。多様であればあるほど、良いと認めつつ、神様の愛を受け取り、互いに愛し合う者となる。イエス様が愛して下さったように、互いに愛しあう点では一致する者となる。この教会の多様性と一体性を、聖書は「キリストのからだ」と表現しました。

 

Ⅰコリント12章19節~27節

「もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。目が手に向かって『あなたはいらない』と言うことはできないし、頭が足に向かって『あなたがたはいらない』と言うこともできません。それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」

 

 コリント人への手紙と言えば、パウロが教会とは何かを様々な表現で語った書。教会とは「神の畑」「神の建物」「神の宮」「聖霊の宮」と語ってきたパウロが、ここで「キリストのからだ」という言葉を見つけます。教会は「キリストのからだ」。パウロの書簡には何度も出てくる表現ですが、最初に出てくるのは、この箇所です。

「それぞれ違いがあることが大事であると同時に一体である。」「それぞれ自分のために存在しているのではなく、からだ全体のために存在している。」「体は頭の願う通りに動くもの。キリストのからだとは、キリストの願う通りに生きる者たちである。」「キリストが天に昇られた後、キリストの働きをする者たち。」キリストのからだという言葉の中に、教会の様々な側面を見出すことが出来る言葉。含蓄に富む表現です。

 

私たちは日々の生活の中で、どれだけ自分がキリストのからだであること、周りにいる教会の仲間が同じ一つのからだであることを意識しているでしょうか。私たちは生活の多くの場面で、競争関係の中にいます。学校でも、職場でも、地域の中でも。様々な側面で評価され、比較されます。自分自身も意識的にも無意識のうちにも、周りの人と自分を比較します。競争関係というのは、一つからだとは違います。自分よりも優れているという相手は疎ましく、自分よりも劣っている相手は蔑むことになる。周りにいる人の成功は妬ましく、周りの人の失敗は暗い喜びとなる。このような競争意識が教会の交わりに持ち込まれると、大変辛い教会生活となります。目が手に向かって「あなたはいらない」というような思い。頭が足に向かって「あなたはいらない」というような交わりになってしまう。それは決して、本来のキリストのからだの姿ではなく、一つとなる交わりではないのです。

 これまでの信仰生活を振り返る時に、どれだけ真剣に、キリストの体として生きてきたのか。私たち皆で再確認したいと思います。

 

 以上、私たちが目指す交わりは「神様の愛を受け取り、互いに愛し合う」交わり、「キリストのからだ」としての交わりであることを見てきました。しかし、最初に確認したように、私たちは罪赦された罪人、私たちが交わる時に、祝福に満ちた交わりと、悪影響を与え合う交わりと両方起こり得るのです。どうしたら「キリストのからだ」としての交わりとなることが出来るのでしょうか。今日、交読文として皆で読んだ箇所を確認して、説教のまとめとします。

 ピリピ2章1節~11節

「ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」

 

 私たちの目指す交わりとは何か。どのような思いで教会の仲間に接したら良いのか。この箇所では「何事も利己的な思いや虚栄からすることなく、へりくだって、互いに自分よりもすぐれた者と思う。自分のことだけでなく、他の人のことも顧みる。」とまとめられています。

 そしてこれは、罪人にはとても出来ないことでした。そもそも、罪の性質とは、利己的で虚栄に生きようとするもの。自分こそ優れていると思い、他の人を見下すもの。自分のことだけを大事とするものです。ここに記されることは、私の能力とか、努力で出来るような生き方ではない。イエス様に変えてもらうしか、このような生き方は出来ないのです。

だからでしょう。「キリストにあって」励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみがあるなら、と言われています。愛する人を本当に愛するために。大切な人を本当に大切にするために。キリストのからだとして交わりに生きるために、私たちが真っ先に取り組むべきは、キリストとともにいること、イエス様につらなること、イエス様とともに生きること、イエス様の愛を受け取り続けること、イエス様のいのちで生きること、でした。

 

これ以上ないほど、徹底的に私を愛して下さった。そのイエス様のいのちを頂いたことを忘れないように。キリスト・イエスにある思いを、私たちの間で抱くように。私たちのこの一年が、神様の愛を受け取り、互いに愛し合う交わりに取り組む歩みとなりますように祈ります。

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