今年も1月から2月最初の主の日まで、信仰生活の基本的な事柄について説教で扱い、確認してゆきたいと思います。今朝は第一回目、礼拝について考えます。取り上げるのはマタイの福音書の最後、弟子たちが復活の主イエスを礼拝し、大宣教命令を与えられる場面です。
毎週の礼拝において、私たちは様々な恵みを受け取っています。共に賛美する恵み、共に祈る恵み、兄弟姉妹と出会える恵み、み言葉から教えられる恵み。皆様はこれまでどのような恵みを受けて来たでしょうか。他方、礼拝において、神は私たちにどの様な恵みを備えておられるのでしょうか。礼拝において私たちが受け取るべき恵みとは何なのでしょうか。また、皆様にとって、礼拝と普段の生活は関係しているでしょうか。主の日の礼拝が普段の生活にどの様な影響を及ぼしているのか、考えたことはあるでしょうか。今朝は、神が礼拝において与えてくださる恵みとは何か。礼拝と普段の生活の関係はどのようなものなのか。この個所を通して考えてみたいのです。
マタイ28:16~17「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。」
弟子たちが集まったのはガリラヤです。主イエスとともに都エルサレムに登った弟子たちにとっては、久しぶりの故郷です。エルサレムで弟子たちは大きな試練にさらされました。
主イエスが都の権力者に捕らえられた時、彼らは蜘蛛の子が散る様に逃げ去りました。裁判が行われた大祭司の家で様子を伺っていたペテロも、「お前もイエスの弟子だろう」と問われるや否や怖くなり、「イエスなど知らない、何の関係もない」と主を否定しました。彼らは自分たちの主を裏切ったのです。
しかし、主イエスは十字架の死から三日後墓の中から復活すると、何度も弟子たちの前に現れ「平安あれ」と語りました。繰り返し彼らと交わり、聖書を開いては十字架と復活の出来事とその意味を解き明かしました。ご自身こそ神が遣わした救い主であることを彼らに示されました。その上で、最初に彼らが弟子として召された故郷ガリラヤに行くよう命じたのです。主イエスは、彼らをもう一度弟子として召し、新しい歩みへと導くため礼拝に招いたのです。
マタイ28:17「そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。」
主イエスが弟子たちを新たな歩みへと導くための礼拝だというのに、「疑う者たちがいた」とあります。復活の主は既に何度も彼らの前に現れ、語っておられたというのに、彼らの中に疑う者たちがいたというのです。
意外とも感じますが、むしろ、こういうところに弟子たちの証言の現実味を感じます。主イエスの復活が、彼らにとっていかに信じがたいことであったか。主イエスと出会い、主イエスの語る言葉を耳にしたとしても、彼らが復活を確信するのに、聖書の教えと聖霊の助けが必要であったことを思います。もし、主イエスの復活が弟子たちの作り話であったなら、主イエスを礼拝するという、このクライマックスの場面で、「ある者は疑った」などという冷めたことを書かないと思うのです。
これは個人的な推測ですが、この福音書を書いたマタイ自身が疑っていた弟子のひとりだったのではないでしょうか。それを後で他の弟子にも話したところ、「いや実はあの礼拝の時、自分もまだ疑っていたんだ」と告白する弟子が何人かいたのでしょう。そうなければ、断定的に「ある者は疑った」等と書けないと思うのです。
しかし、主イエスの直弟子で使徒とも呼ばれるこの11人の中に疑った者等いるはずがない。疑ったのは11人以外の弟子であったに違いないと考える人々もいます。尤もな考えです。けれど、何度読んでもここに11人の弟子たち以外の者の存在が、私には見えてきません。「11人は礼拝した。しかし、ある者は疑った」とあります。11人は皆礼拝したけれど、ある者たちは礼拝しながら疑っていたと読めるのです。もしそうであれば、ここにあるのは私たち自身の礼拝の姿ではないでしょうか。
私たちはいつも完全な信仰をもって礼拝をささげているわけではありません。むしろ、神のことばを信じられないまま礼拝していることもあるでしょう。イエス・キリストが十字架の死によって人間の罪は赦されたと言うけれど、この私の罪は本当に赦されているのか。そんな気持ちを抱いて礼拝することもあるでしょう。主イエスの復活を確信できないまま、礼拝に臨むこともあるでしょう。あるいは、この世の心配事に捕らわれて、礼拝に集中できない時もあるのです。
つまり、何らかの欠けをもった信仰、不完全な信仰で礼拝をささげているのが、私たちの現実ではないかと思うのです。しかし、心打たれるのは、そんな弟子たちに近づく主イエスの姿です。
マタイ28:18「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」
「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられている」とは、主イエスがこの世界の王の王、主の主であるとの宣言です。この後主イエスは天に上り、父なる神の右の座に着くことによって、それを証明しました。
この時代、王に近づくことが出来るのはごく限られた者たちでした。王が許可を与えなければ、たとえ妻であっても近づくことはできなかったのです。王の近くに行けることはそれほどの栄誉でした。しかし、それ以上の栄誉があったのです。それは、王自らその人に近づき、王自ら賞賛や感謝のことばを語りかけたり、大切な使命を託すことです。
しかし、この時、王の王、主の主なるイエス・キリストが自ら近づき、語りかけたのは、そんな栄誉に価する者たちだったでしょうか。そうではありませんでした。王なるイエスが近づいたのは、イエスに愛されながら、イエスを裏切った弟子たちです。十字架の死のことも、復活のことも教えられていたにもかかわらず、それを理解せず、信じることもできなかった愚かな弟子たちです。復活の主イエスと出会い、交わり、聖書の解き明かしを聞いていたにもかかわらず、未だ疑いつつ礼拝をしていた者たちを含む信仰者たちなのです。彼らは皆王なる主イエスに近づき、親しく語りかけていただく資格も価値もない罪人だったのです。
「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた」とあります。主イエスは疑わずに礼拝している者たちにだけ語りかけたのではありません。疑わないで礼拝する者にも、疑いつつ礼拝する者にも近づき、親しく語りかけ、大切な使命を託したのです
信じて礼拝する者も、疑いつつ礼拝する者も、喜んで礼拝する者も、悩みつつ礼拝する者も、私たち自身の姿です。しかし、そんな私たちのところに、主イエスは近づいてこられるのです。主イエスによって信じていた者はその信仰を深め、疑った者は新しく信じる者とされるのです。喜んで礼拝する者も、悩みつつ礼拝する者も、主イエスによって一つにされ、皆この世に遣わされるのです。
マタイ28:19~20a「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」
40年ほど前のことになります。大学生の私が東京の杉並教会に行き始めた頃、礼拝後の求道者クラスを担当しておられたのはF・フォックスウェル宣教師でした。フォックスウェル宣教師は戦後まもなく来日し、四日市教会の前身高砂町集会を導いてくださった宣教師です。
その求道者クラスから受洗者がでると、フォックスウェル宣教師がこんな証をしてくれました。「私は主イエスの大宣教命令によって日本に来ました。戦後まもなく貨物船に乗ってきました。船にはガードレールもなく、よく揺れました。妻と散歩をしようと甲板を歩くと海に落ちてしまいそうになるので、船底にいることが多かったのです。何日もたち、ようやく船底の窓から夜の明かりが見えた時、心に恐れが満ちて来て、神様、たった一人でも良いです。どうか、私を通してイエス様を信じる人を起こしてください。そう祈り続けました。私の様な者が人を信仰に導くことが出来るのか、不安と疑いを消し去ることが出来なかったのです。洗礼を受けたあなたの存在は、神様がそんな不信仰な私に与えてくださった最高の贈り物です。」
クリスチャンとしての私たちの存在は、主イエスの大宣教命令に従った人々の祈りと労苦によって支えられているのです。
大宣教命令は「弟子にする」という言葉に集約されます。私たちが出てゆくこと、洗礼を授けること、教えること。それらが「弟子とする」という言葉にかかっています。中でも特に大切なのは「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」だと言われます。マタイの福音書では、これまで教えることは主イエスの役割でしたが、ここで初めて教えることが弟子たちに託されたのです。そして、弟子たちが教えるのは主イエスの教え、福音の教え、神の国の教えなのです。
この日ガリラヤの山における礼拝で、弟子たちは近づいて来る復活の主の手とわき腹に十字架の傷があるのを見たはずです。彼らの罪のために主イエスが受けたその傷を見詰めながら、彼らは歩んできた道を振り返り、罪を悔い改めたのです。
弟子たちはそれまで「自分たちの中でだれが一番偉いのか」を考えながら歩んできました。彼らの願いは主イエスと共に都に上り、人々に認められるような存在になることでした。彼らはしばしば「誰が一番偉いのか」について争いました。その度に、主イエスから「神の国で一番偉いのは、人を支配する者ではなく、人に仕える者だ」と戒められていたのです。
その願いが十字架によって潰えた時、彼らは主イエスに従うことをやめました。主イエスのもとから離れ去りました。つまり、彼らは主イエスに従うよりも、都の人々に認められるような存在になりたいという自分の願望に従っていたのです。彼らは主イエスを愛するよりも、人々に認められる地位や肩書を持つ自分を愛していたのです。
この自己中心の信仰は決して他人ごとではありません。この世を歩む私たち自身の姿でもあります。私たちも主イエスに従うと言いながら、自分の願いや欲望に従って歩んではいないでしょうか。主イエスを愛すると言いながら、人々に認められる様な自分を愛してはいないでしょうか。「人に仕える者となれ」と命じられながら、人を支配しようとしているのではないでしょうか。
けれども、礼拝において、そんな私たちに主イエスは親しく近づき、変わることのない愛を示してくださいます。主イエスの前で私たちは罪を悔い改め、罪の赦しの恵みを受け取ります。主イエスの恵みによって遜り、人に仕える者へと造り変えられてゆくのです。
大宣教命令とは、礼拝において罪を悔い改め、主イエスの福音を信じた私たちが、この世にあって主イエスの教えに従って生きることです。この世の価値観ではなく、主イエスが教える価値観によって生活することなのです。礼拝において、私たちは主イエスの弟子として召され、みながこの世の生活へと遣わされるのです。
主イエスの弟子とは、日曜日は信仰によって生き、普段の日はこの世の価値観によって生きる者ではありません。日曜日は福音中心、普段の日は努力と行い中心でもないのです。礼拝で受けとる十字架と復活の福音が、常に私たちの歩みの中心になければならないのです。礼拝とは、罪人を生きかえらせ、主イエスの弟子としてこの世に遣わすため、神が与えられた恵みの時なのです。
しかし、私たちは唯一人この世に出てゆくのではありません。主イエスが共におられるのです。
マタイ28:20b「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
主イエスによる救いのわざは二千年前完了しました。主イエスの十字架の死と復活によって、私たちの救いと信仰の歩みに必要なすべてのものは、主イエスのもとにあることが示されたのです。
しかし、だからと言って主イエスは私たちから遠く離れてしまわれたのではありません。遠く離れるどころか、世の終わりまで私たちと共にこの地上にあり、私たちと共に困難多きこの世を歩んでくださると約束しているのです。
主イエスは、人々を恐れある家に身を隠していた弟子たちのところに現れ、平安あれと告げました。この目で見なければ信じないと語る、不信仰な弟子トマスに近づき「わたしの体に触って見なさい」と勧めました。主イエスが十字架で死なれたことに失望した弟子たちに現れると、聖書を開いてご自分のことについて解き明かしをされました。主イエスは、ガリラヤ湖での夜通し働いて疲れ切った弟子たちのために、朝の食事を用意されました。主の弟子としての資格なしと苦しむペテロの前に現れると、その愛によって彼を慰め励ましました。
私たちが人を恐れる時、不信仰に陥る時、失望している時、仕事をしている時、疲れ切っている時、空腹の時、悩む時、主イエスはともにいてくださるのです。たとえ主から離れても、何の働きがなくても、主イエスが私たちを切り捨てることは絶対にないのです。これからの一年、主の日の礼拝において、私たちは共におられる主イエスの存在を確認し、主イエスの弟子として、各々の家庭、職場、社会へと出てゆきたいと思うのです。
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