新年明けましておめでとうございます。皆さまとともに元旦礼拝を奉げることが出来ること、大変嬉しく思っています。
一般的に「何を求めるのかで、その人の本性が分かる」と言われます。その人が何者として生きようとしているのかは、その人の願いに示される。そうだとすれば、「何を求めてきたのか」という視点で一年を振り返るというのは、自分を何者として生きてきたのかを確認することになります。これから一年「何を求めるのか」考えるというのは、自分は何者として生きたいのか考えることになります。日々の生活の中で私たちは大小様々な願いを持ちますが、自分の中心にある願いは何なのか。自分は何を求めて生きてきたのか。これから何を求めて生きるのか。今日考えたいと思います。そのうえで、聖書は私たちに何を求めて生きるように勧めているのか、皆で確認したいと思います。
「願う」ことをテーマに今朝皆様とともに確認したい聖書の箇所はルカの福音書11章です。ルカの11章は、前半は祈りがテーマとなっている箇所。その冒頭で、お祈りの手本として、「主の祈り」が教えられます。
ルカ11章1節~4節
「さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みにあわせないでください。』」
イエス様が祈っている姿がとても印象的だったのか。自分の祈りの貧しさを覚えたからなのか。弟子の一人が、祈りを教えて下さいと願います。この弟子が誰なのか記されていませんが、私たちからすると「よくぞ聞いてくれた!」と拍手喝采の質問。この質問に答えて、イエス様が教えられたのが「主の祈り」です。
神の一人子が教えてくれる注目の祈り、大きく前後半に分けることが出来ます。そして前半が驚愕の内容、神様のための祈りなのです。祈りとは自分の願いを叶えるためのものと考える者にとっては、考えもつかない祈り。「まさか、神様のために祈ることがあるとは!」と膝を打ちます。祈りの本質は、神の子として父に話しかけること。父の喜びを自分の喜びとする、自分の願いを父の願いに合わせていく。「主の祈り」は祈りの神聖さを教えられます。
この主の祈りを教えられたイエス様は、続けて「真夜中の友人」と言われるたとえ話を語ります。祈りがテーマのたとえ話ですが、とても興味深いもの。主の祈りの神聖さとはうってかわって、コミカルな印象のたとえ話です。真夜中に、旅をしている友のためにパンが必要になった。自分はパンを持っていないので近隣の友のところに行き、パンを求める。何しろ、当時はコンビニエンスストアなどありませんので、どうしても必要な時は友に頼るしかないのです。真夜中にそのようなことをするのは、頼られる方にとって迷惑なこと。断られるのが普通。友情、義理人情でパンを貰うことは出来ないでしょう。しかし、あくまで頼み続けるならば、そのしつこさによって、パンを貰うこともあるでしょう、というたとえ話なのです。
ルカ11章5節~8節
「また、イエスはこう言われた。『あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。』すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。』」
祈りがテーマのたとえ話において、しつこさが勧められている。何とも意外です。常識に反する程のしつこさ、無理強い、ゴリ押し。「これはかなわない」と神様が降参するような祈りを、神様ご自身が求めておられる。これが他ならぬイエス様の口から出たたとえ話というのに驚きますが、父なる神様を困らせるようなたとえ話は、その一人子であるイエス様にしか出来ないとも言えるでしょうか。(このたとえ話は、私たちに祈ることの大切さを教えるものです。私たちにとって父なる神様が、このたとえ話に出てくる近所の人のような存在であると教えているわけではありません。)
「主の祈り」「真夜中の友人」と続いて、祈りについてさらにイエス様の勧めがあるのが今日の箇所となります。
ルカ11章9節~10節
「ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」
非常に有名な言葉。「求めよ、探せ、叩け」と言われます。原典ギリシャ語を直訳するならば、「求め続けよ、探し続けよ、叩き続けよ」となっていまして、先の「真夜中の友人」のたとえ話の延長にある勧めという印象です。辛抱強く、粘り強く、祈ることが勧められているわけです。
そして、祈り続ける結果、求め続ける、探しまくり、叩きぬく時に、それは与えられると言うのです。「求める者は得、尋ねる者は見出し、叩く者は開かれるなり。」とです。
イエス様が、私たちに求めていることは、祈り続けること。それは分かります。「真夜中の友人」という仰天するようなたとえ話、続いて「求め続ければ与えられるぞ」との言葉。
神様は私のことをよく知っているのだから、祈らなくても良いではないか。私よりも、私に必要なものをご存知なのだから、私が願う必要はないではないか。私が悔い改めていること、感謝をしていることは、神様は知っているのだから、敢えて口に出さなくても。などなど、達観したかのような顔をして、祈らないというのは良くないこと。祈り続けることが求められているのは分かります。
しかし、それでは何を祈るのか。「求め続ければ与えられるぞ」と言われ、何を求めるのでも良いのか。辛抱強く、粘り強く求めていれば、どのような願いでも叶えられるのか、という疑問が沸いてきます。自分の欲望のままに、神様に求め続けるので良いのか。内容はともかく、求め続けることが大事ということが、果たしてあるのか。
聖書には次のような言葉があります。
ヤコブ4章2節~3節
「あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」
願わないことの問題と、願うにしても、何をどのように願うのかが問題とされています。そしてここで、求めても受けられないことがあると、明確に教えられています。求め続けても与えられないことがある。そうだとすれば、「真夜中の友人」のたとえ話や、「求め続ければ与えられる」という言葉は、ともかく願い続ければ願いが叶うと教えているものではないということです。求めるべきものがあり、それを求め続けるように教えているたとえ話、言葉であると分かります。それでは、私たちが求めるべきものとは何なのか。
ルカ11章11節~13節
「『あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。』」
地上の親でさえ、子の求めに応じて良いものを与えるのであれば、天の父は尚更のこと。天の父は求めるものに「聖霊」を下さらないことがあるでしょうか、と言われます。良いものを下さる神様は、求める者に「聖霊」を与えて下さらないことはない。つまり、私たちが求めるべきは「聖霊」だと教えられるのです。
それでは「聖霊」を求めるとは、どのような意味でしょうか。聖霊なる神様は、私たちに様々な恵みを与えて下さいます。中でもキリストを信じた者に与えられる恵みは、聖書のことを良く理解することが出来る恵み。神様のことを知ることが出来る恵み。神様を信頼することが出来る恵み。神様に従うことが出来る恵み。神の子として喜んで生きていくことが出来る恵みを下さる。聖霊を求めるとは、このような恵みを下さる聖霊を求めることと理解出来ます。また「聖霊」とは三位一体の第三位各の方。神様ご自身です。聖霊を求めるとは、神様ご自身を求めることと理解出来ます。
私たちが祈り続けるべきこと、求め続けるべきことは、「神様、あなたのことをより知ることが出来るようにして下さい。」「神様、あなたとともに生きる人生を送らせて下さい。」「神様、あなたを信頼することを身につけさせて下さい。」「神様、聖書の知識を頭だけでなく、全身全霊で受けとめる者であらせて下さい。」「神様、あなたご自身を私に下さい。」ということです。
神様が私たちに求めていることは、「神を求める」こと。求め続けること。そうすれば、与えられると約束でした。神様を知ることを求めるように。神様を信頼することを求めるように。神様ご自身を求めるように。求める者に、聖霊を下さらないことはない。このキリストの命令と約束に、私たちはどのように応じるでしょうか。
「神を求める」こと。これは、この箇所だけで言われていることではなく、聖書の様々なところで、私たちに命じられていることです。
そもそも、人間が「神のかたち」に創られたというのは、「神を求める」存在として創られたということでした。私たちが創られた目的は、私たちが神を求めて生きる存在となることです。
ところが人間は堕落しました。罪の結果、人は神様以外のものを求めるようになりました。財産、地位、名誉、快楽。もともと「神を求める」存在であった者が、他のものを求めるようになること。これが聖書の教える罪の本質でした。その罪人がキリストによって救われた結果、「神を求める」生き方となります。罪からの解放とは、神様を求める人生へとなるという側面もありました。つまり、キリストが私たちを救う目的は、私たちが神を求めて生きる存在となることです。
このように考えると、創造の御業も、贖いの御業も私たちが神様を求める者として生きるためにあると言うことが出来ます。私たちが神を求めて生きることを、神様はどれ程願われているのか。
神を求めるように。そうすれば、神様を見出すというのは、聖書で度々語られてきたメッセージです。多くの箇所がありますが、有名なところをいくつか挙げますと、
イザヤ55章6節~7節
「主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」
また次の箇所もあります。
エレミヤ29章12節~14節
「あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。わたしはあなたがたに見出される──主のことば──。」
詩篇の中には、神様が下さる最大のものは、神様ご自身であると告白する祈りが多数出てきます。
詩篇73篇26節
「この身も心も尽き果てるでしょう。しかし神は私の心の岩とこしえに私が受ける割り当ての地。」
私が頂く永遠の相続は、神様ご自身である。驚きの告白ですが、これこそキリスト者の最大の幸いでした。
神様が私たちに願われているのは、私たちが神様を求めること。求め続けること。そして、神様ご自身を受けるということが、どれ程私たちにとって幸いなことなのか。聖書全体で教えられていることでした。
新しい年を迎えた私たち。喜びと期待を持ってこの一年を生きるために、私たちが取り組むべきことは何か。一つの大事なことは、神を求めること。神様を求める。神様をより知る者となるように。神様を信頼して生きることが出来るように。神様ご自身を下さいと願う。何しろ、その祈りに答えると約束されているのです。この一年、私たちは何を願って生きるのか。何者として生きていきたいのか。どのような年にしたいのか。一年の抱負や目標を考える時に、神様を求めることを忘れないようにと思います。
私たち皆で、神様をもっと知りたい。神様を信頼する経験をもっと味わいたい。そのような神様への渇望を持ち続ける者となりたいと思います。2021年が終わる頃、この一年は何をしたのかと自分で振り返る時、神様を求め続けたと言いたい。いや、この一年だけでなく、生涯を通して、神様をより知る者となる歩みをしたい。「あなたは誰ですか。」と問われた時に、「私は神を求める者です。」と答えたいのです。
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