ある小学生と信仰告白の学びをしていた時のこと。その日は献金についての学びの日でした。私はその子に自分のお金はいくら持っているか聞いたところ、500円と教えてくれました。全財産500円。
「その500円は誰のものですか?」と聞くと、「僕のものです。」との答え。それはそうです、「あなたの持っているお金はいくらですか?」と聞いて、「そのお金は誰のものですか?」と聞けば、当然自分のものという答えになります。しかし、私はそこで次の聖書箇所を開きました。
詩篇24篇1節
「地とそこに満ちているもの世界とその中に住んでいるものそれは主のもの。」
ここに書いてある視点で言えば、世界中にあるものは全て神様のものです。献金はもともと神様のものを神様にお返しすること。献金は返金とも言えます。
そこで私はその小学生の子に質問しました。「あなたの身体や心は誰のものですか?」すると「神様のものです。」との答え。「あなたの持っているものは、誰のものですか?」すると「神様のものです。」との答え。そこで私はもう一度質問しました。「あなたの500円は誰のものですか?」すると「それは僕のものです!」との答えでした。
自分の身体も心も、自分の持っている物も神様のもの。所有権は神様にあると認めても、500円は自分のものである。小学生の素直な応答に、面白く、微笑ましく思えるのと同時に、「お金」が、小学生の心にも多大な影響力を持つことに驚きます。
皆様は「あなたの持っているお金は誰のものですか?」と聞かれたら、「これは神様のものです。」と答えるでしょうか。言葉だけでなく、実際に神様のものとして生きているでしょうか。
年の始めから信仰生活の基本をテーマに説教を続けてきました。「礼拝」「伝道」「交わり」「祈り」を扱い、今日は「献金」に注目します。聖書はお金について、どのようなことを教えているのか。私たちはささげることにどのように取り組んだら良いのか。ともに考えていきたいと思います。
神様が私たち人間を造られた時、神様を第一として生きる時に最も良い状態となるようにされました。言葉を代えると、神様以外のものを第一として生きる時、私たちは悲惨な状態となります。人生の土台とし、それに向かって忠実に、希望をおいて生きる何か。本当は神様だけしか与えることの出来ない私たちの生きる意味、希望、幸福が、それにあるのではないかと思う何か。それ自体は悪いものではなくても、それが自分にとって「神」となる時、私たちは人生を台無しにすることがある。
「家族」を大事にする。とても良いこと。しかし家族が自分にとって第一となる時、私たちは悲惨な状態になります。「仕事」を大事にする。それも良いこと。しかし仕事が自分にとって第一となる時、私たちは悲惨な状態になる。「お金」も同様でした。金銭は生きていくのに必要なもの、大事なもの。聖書の中にも、神様が祝福して下さった結果として、財産を得る信仰者の姿が多くあります。金銭も神様が下さる恵みの一つ、お金自体が悪いものではない。しかし、お金を第一とする時、金銭を神とする時、私たちの人生は悲惨なことになるのです。
ルカ16章13節~15節
「『どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。』金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。』」
イエス様は二人の主人に仕えることは出来ないと言われます。何を第一にするのか。第一にするものを二つ持つことは出来ないのです。そして、この問題は、富以外にも色々と当てはまります。あなたがたは、神と「成功」に仕えることは出来ない。あなたがたは、神と「地位」に仕えることは出来ない。あなたがたは、神と「恋愛」に仕えることは出来ない。あなたがたは、神と「趣味」に仕えることは出来ない…。色々と考えられる中でイエス様は「神と富に仕えることは出来ない」と言いました。富が多くの人にとって、神様にとって代わりやすいもの、私たちにとって第一となりやすいものだからでしょうか。
注目したいのは「富に仕える」という表現です。本来、富は人が自由に使うもの。富に人格はなく、敢えて主従関係で表現するならば、人が主で富は従なのです。しかしイエス様は、富に仕えることがある、富を主人とすることがあると示唆しています。お金を愛し、お金に信頼を置き、お金を追求する。金銭の奴隷となる、金銭に支配されることがある。いや、そういうこともあるかもしれないという問題なのではなく、はっきりと注意されなければならないほど、身近な問題なのです。
このイエス様の発言に、金銭を好むパリサイ人たちはあざ笑いました。富に仕える歩みなどするわけないという嘲笑でしょうか。パリサイ人といえば信仰生活に熱心で、生活の細部にいたるまで厳格に聖書の教えを守ることに取り組んだ人たち。聖書を読み、奉仕をし、祈り、礼拝する。人々から称賛されるような信仰生活を送った人たち。その人たちをして、自分の心がどのような状態にあるのか分からなかった。心を知る神様の前で、忌み嫌われる状態にあることに気づかなかったのです。
聖書を読み通しますと、お金に気を付けるようにという注意は、実に多く記されています。いくつも挙げることが出来ますが、イエス様の注意喚起には次のようなものがあります。
ルカ12章15節
「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
人のいのちは財産にはない。言うまでもない、当たり前のこと。しかし、このように注意されないと、財産こそ自分のいのちと思う人が多くいる。財産を土台として人生を築き上げ、財産を失うと自分自身を失うかのように感じる人が多くいるということでしょう。そして、それが自分にとって危険である、悲惨であることになかなか気づかないのです。(この言葉の後でイエス様は「愚かな金持ち」のたとえ話をされます。イエス様のたとえ話の中には、理解しづらいものもありますが、この話は非常に分かりやすいもの。人のいのちは財産にはないことを簡潔明瞭に示すたとえ話でした。)
パウロの注意は牧会者として胸を痛めながらの言葉となります。
Ⅰテモテ6章8節~10節
「衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。」
金銭に気を付けるように。とはいえ、金銭自体が悪なのではなく、生きる上で必要なもの。それではどれくらいあれば良いのかと言えば、パウロは衣食があれば、それで満足すべきですと明言しています。それ以上欲する人、金持ちになりたがる人は、大変な状態に陥る。これまで、金銭を追い求めた結果、信仰から迷い出て、苦しんだ信仰者を見てきた牧師パウロの必死な注意。
ヤコブはとても強い言葉で注意します。
ヤコブ5章1節~3節
「金持ちたちよ、よく聞きなさい。迫り来る自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐り、あなたがたの衣は虫に食われ、あなたがたの金銀はさびています。そのさびがあなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財を蓄えたのです。」
聖書に記された歴代の信仰者の中には、様々な金持ちがいました。アブラハムも、ダビデも金持ち。ソロモンは人類史の中でも、極めて富が多かった人。お金が多いこと自体が悪ではないと思います。しかしその上で、ヤコブは「金持ちたちよ、泣き叫べ」と一刀両断します。財を蓄えるとは、終わりの日に裁きに会うことなのだと叱責します。とても強い言葉。
他にも色々な箇所を挙げることが出来ますが、このように聖書は繰り返し金銭に気を付けるように教えていました。
ところで、金銭に気を付けるというのは、他のことに気を付けるより難しいと思います。たとえば聖書は繰り返し、自分の「言葉」に気を付けるように教えています。そして、私たちは言葉で失敗する時に気が付きます。言うべきでないことを言う。言葉で自分も周りの人も傷つけてしまう。その時、自分の罪や悪、自分の問題に気が付きます。
また聖書が繰り返し警告する問題には情欲、不倫の問題もあります。仮に不倫しているとして、自分が不倫しているのか、していないのか分からないということはありません。自分で悪を行っているという自覚はあるのです。
ところが多くの場合、金銭について私たちは鈍感です。自分の心が富に仕えているのか、そうではないのか判断がつかない。聖書で繰り返し、お金に気を付けるようにと言われても、それは特別なお金持ちに対する言葉であって、自分には関係ないと思いやすいのです。いかがでしょうか。皆様は自分が富に仕えているかどうか、どのように考えてきたでしょうか。
具体的に金銭にどのように気を付けたら良いのか。どのように自分の状態を判断したら良いのか。その一つの方法は、「喜んでささげること」が出来るかどうかです。
今日の聖書箇所、第二コリントの8章、9章は、コリントの教会に献金を勧める内容となっています。献金を勧めるにあたって、パウロは丁寧に言葉を記しました。
Ⅱコリント8章7節~8節
「あなたがたはすべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちからあなたがたが受けた愛にもあふれています。そのように、この恵みのわざ(献金)にもあふれるようになってください。私は命令として言っているのではありません。ただ、他の人々の熱心さを伝えることで、あなたがたの愛が本物であることを確かめようとしているのです。」
コリントの教会と言えば、パウロの伝道によって立ち上がった教会。繰り返し手紙のやりとりがあり、何度も行き、長く留まった教会の一つ。手紙の中で、〇〇をしなさい、〇〇をしてはいけない、と命令として記す言葉も多くあります。しかし、この献金については、命令としては言わないと明言します。「命令として、献金してもらいたくない。言われたからやるものとしてもらいたくない。あなたがたの愛が本物であるように。」と言います。
困窮している人に経済的な支援がいくことが目的であれば、命令でも強制でも良いところ。「使徒であり、教会をはじめた私の言うことを聞きなさい。」と言って、献金を促し、困窮している人を助ける方法もあります。しかし、それはしたくない。何故なのか。それは、コリント教会のことを思ってのことでした。
命令として献金してもらいたくな。では、どのように献金してもらいたいと言うのか。
Ⅱコリント8章6節~8節
「私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。」
神様は私たちを無条件に愛するお方。私たちが、何が出来るとか、出来ないで、その愛が変わることのないお方。私たちが神様から離れたのに、私たちを救うために一人子を送って下さった方。聖書は繰り返し、神様の愛が無限であり不変であることを教えています。そのうえでパウロはここで、「神は、喜んで与える人を愛してくださる」と言います。
そしてここに、命令ではなく、献金を勧めていた理由があります。お金に支配されない生き方の一つが、喜んでささげることだからです。いやいやながらでもなく、強制されてでもなく、喜んで自分のものを分かち合う。神様から与えられたものを、他の人のために使う。それこそ、富を支配する生き方であり、神様に愛される生き方なのです。
このように考えますと、富に仕えるとは、自分のために富を使うこと。富を第一とするとは、結局のところ自分を第一とすること。そして、これは罪の性質そのものでした。私が良いように生きる。他の人よりも私が優先される。この思いが富の分野であらわれると、富に仕える者、富を第一にする者として生きることになります。
罪の奴隷とならないように。富の奴隷とならないように。神の子として生きるように。「豊かに撒く者は豊かに刈り入れます。喜んでささげる者は神様に愛されます。」と勧めるパウロの言葉をしっかりと受け止めたいと思います。
それでは私たちはどのようにしたら、喜んでささげる者として生きることが出来るのか。コリント教会へ献金を勧める中で、パウロが告げた言葉に注目して終わりにしたいと思います。
Ⅱコリント8章9節
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
神であるイエス様が人となり十字架で死ぬ。それは、富んでおられた方が貧しくなることだと言います。もしイエス様が富を手放さなければ、つまり人となり十字架での死を選ばなければ、私たちは貧しさの極み、罪の中で死んだままの者でした。イエス様が貧しさを選ばれたので、つまり人となり私たちの身代わりに十字架で死なれたので、私たちは富の極み、天国を継ぐ者となったのです。
パウロは献金の勧めの件で、この言葉を記しました。つまり喜んでささげる者となる歩みは、イエス様がその富を私のためにどのように用いたのか考えることから始まると言えます。この主イエス・キリストの恵みを知る者は、金銭のことで心配する必要はありません。神の一人子の十字架の死が、神様がどれ程私たちを愛し、守ろうとしているか証明しているからです。もはや、誰かの富をうらやむ必要もありません。神の子とされた私たちは、イエス様の富を受け継ぐ者となったのです。
主イエス・キリストの恵みを知ること。イエス様が下さる救いとはどのようなものなのか。私は何者とされたのか。神様は、この知識と理解と経験を通して、私たちをいつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者と変えて下さるのです。
以上、お金について、ささげることについて、聖書が教える一側面を確認しました。聖書は繰り返し、金銭に気を付けるように教えていました。いつの間にか、富に仕える歩みとなってしまう。富に対する思い、金銭に対する思いについて、皆で自分の状態を確認したいと思います。
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