年が明けてから数回の礼拝にて、信仰生活の基本をテーマとする説教に取り組んでいます。信仰生活の基本のうち、先週は礼拝に注目し、今週は伝道となります。
聖書の福音を伝える。世界の造り主、私たちの救い主を伝える。「伝道」。教会の中で、これまで何度も伝道の重要性は語られてきました。私たちは、キリスト者にとって伝道することがいかに重要であるか知っていますが、今朝、再度伝道することの意味に注目します。今一度、キリストを信じることで、私たちはどのような者となるのか、皆で再確認したいと思います。
ローマ10章14節~15節
「しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。『なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は』と書いてあるようにです。」
ある人が主の御名を呼び求めるためには、信じることが必要。主を信じるためには、福音を聞かなければならない。福音を聞くためには、それを宣べ伝える人が必要。宣べ伝える人は、神様から遣わされなければならない。短くまとめると、ある人がキリストを信じるためには、福音が宣べ伝える人が必要である、ということ。
福音を宣べ伝える人がいなければ、信じることが出来ない。言うまでもないこと。当たり前のこと。しかし私たちは、この当たり前のことを当たり前として受け取っているでしょうか。この当たり前のことを日々の生活の中で確認しているでしょうか。
自分の周りにいる人が、キリストを信じるためには、福音を宣べ伝える人が必要。家族、友人、知人、同僚を思い浮かべた時、その人がキリストを信じるためには、福音を宣べ伝える人が必要であり、それは自分の役割であると考えているか。問われるところです。
ところで、この当たり前と思えることを著者パウロはイザヤ書を引用して「良いことの知らせを伝える人々の足は美しい」とまとめました。福音を宣べ伝える人の足は美しい。
足が美しい。面白い表現であり、少し違和感があります。良い知らせを伝えるのは、足ではなく口ではないのかと思います。足は伝えることは出来ないはず。
また日本語で「足」というと悪いイメージが多いように思います。「足が付く」といえば、悪事がばれること。「足を洗う」と言えば、悪事から抜けること。「足が出る」と言えば予算オーバー。「足が早い」と言えば、腐りやすい。「地に足がついていない」と言えば、考えや行動が落ち着いていない。「馬脚を現す」と言えば悪い本性がばれること。どうも「足」はイメージが良くない。そもそも足は、一番汚れやすいところ。
しかし、ここで足は称賛の対象となります。良い知らせを告げる口ではなく、野を越え山を越え、良き知らせを届けた足、それが汚れていても、働きによって汚れた足こそ美しいと。何故、足なのでしょうか。ここで言う「足」とは、良い知らせを運ぶ者の働き、労苦のことでしょう。良い知らせを宣言するのは口でしょう。しかし、宣言するまでのあらゆる働き、その労苦こそ美しいと言われるのです。
引用元であるイザヤ書は次のような内容でした。
イザヤ52章7節
「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神は王であられる』とシオンに言う人の足は。」
これはバビロン捕囚からの解放という良い知らせの預言の箇所です。私たちが持っている様々な通信技術のない古代において、知らせは使者が届けるものでした。知らせを届けることは大変なこと。大変な労力を払い、危険を乗り越えて、使者は知らせを届けます。
バビロン捕囚からの解放。奴隷からの解放という良い知らせを届ける者は、喜び勇んで、何としてでもこの知らせを仲間に届けようと努めたでしょう。重要な良い知らせを届けるという役割につけたことを大いに誇るでしょう。待ちに待った知らせを受け取る者たちは、その使者をねぎらい、その働きは美しいと称賛するのです。
パウロはこのイザヤ書の言葉を引用して、福音を伝える者の働きも美しいと言います。ある人に福音を伝えるという時、私たちは様々なことに取り組みます。顔を合わせて聖書の話をするだけが福音を伝えることではない。良い知らせを伝える「足」として、あらゆることに取り組む。その働き全てが美しいですよ、との励ましです。福音を宣べ伝える働きに携わる時、私たちはとても重要なこと、美しい働きをしていると覚えるべきでした。
それはそれとしまして、イザヤ書に記されている良いことはバビロン捕囚からの解放です。それではローマ書にある「良いこと」とは何でしょうか。(この説教の中で、福音とか、イエス様ご自身として話してきましたが、ローマ書がどのように表現しているのか確認します。)それはこの少し前に出てくる内容です。
ローマ10章11節~13節
「聖書はこう言っています。『この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。』ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。『主の御名を呼び求める者はみな救われる』のです。」
良い知らせの中心は何か。短くまとめるとどうなるのか。それは「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」という知らせです。聖書の中心的なメッセージ。私たち人間にとって最も重要な知らせ。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」。この言葉もパウロが引用したもので、預言者ヨエルの言葉です。ペンテコステの際、ペテロの説教でも引用されたもので有名です。
「御名」とは、その人ご自身や、その業績を示すもの。主の御名を呼び求めるとは、神様が私たちにして下さったこと、イエス様の贖いの御業が、私のためであったと告白すること。主イエスが私の救い主であると告白すること。そのように、主の御名を呼び求める者は、誰でも罪から救われるのです。
また「主の御名」以外に救いはないことも聖書は教えていました。
使徒4章12節
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」との知らせは、積極的な表現ですが、反対の側面もある。つまり、主の御名を呼び求めない者は誰でも滅びるのです。主の御名を呼び求めて滅びる者はいないし、主の御名を呼び求めないで滅びない者もいない。私たち人間の前には二つの道しかない。主の御名を呼び求めて救われる道か、主の御名を呼び求めないで滅びる道か。人はどちらかを選ぶことになる。
このように考えると、聖書の教える良い知らせを伝える働きが、本当に重要であることが分かります。この知らせによって一人の人生が変わる。それも永遠の人生が変わるのです。
ところで、「良い知らせを宣べ伝えるように」と教えられていますが、宣べ伝える者、使者となるのに一つ条件がありました。それは神様から遣わされているということ。「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。」と確認されています。遣わされずに、この良い知らせの使者となることは出来ないのです。
ここまで、信仰生活の基本として「伝道」を挙げてきましたが、そもそも「伝道」するのは、神様から遣わされた者がすること。私たちは神様から遣わされた者なのでしょうか。
神様から遣わされるとはどのようなことなのか。誰が遣わされているのか。私たちは、神様から遣わされた者なのか。このことを、イザヤが預言者として遣わされる場面から確認していきたいと思います。
イザヤ書6章1節~4節
「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。』その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。」
イザヤが預言者として召される場面。(再召命とも考えられています。)神殿にいたイザヤが幻を見たのか。神殿ごと幻だったのか。どちらか分かりませんが、イザヤは高くあげられた王座に座しておられる主を見ます。神を見るという経験。それとともに、その主を礼拝する御使いセラフィムの姿です。
「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」御使いの賛美は、凄まじいまでの迫力でした。何しろその賛美の声のために、神殿の敷居のもといはゆるぎ、煙で満ちあふれたといいます。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。」神様が神様だから素晴らしい。神様が、神様としておられることが素晴らしい。足も顔も隠す御使いたち。己を隠し、ひたすらに主を賛美する御使いたち。圧巻の場面。
ところで罪ある人間が神様を見る、神様と交わるという時、いったい何が起こるのか。イザヤが経験したことは、まさにこのこと。罪人が神様と交わると何が起こるのか。
イザヤ6章5節
「私は言った。『ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。』」
イザヤは、自分が汚れたもので、その自分が万軍の主を見たために「私は滅ぶ」と言いました。罪ある者、汚れた自分が神を見た、「私は滅ぶ」という感覚。これはイザヤ特有のものかというと、そうではありません。聖書に出てくる何人もの信仰者が同じ告白をし、実際に死んだ記録もあります。(Ⅱサムエル6章など)罪人がそのまま神様と交わるならば死ぬというのが、聖書が教えるところです。
しかし、罪ある者が神様と交わっても死なない方法がありました。イザヤはこの時、その経験をします。
イザヤ6章6節~7節
「すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。彼は、私の口にそれを触れさせて言った。『見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。』」
死を覚悟したイザヤのもとに、御使いの一人が飛んできます。手には祭壇の上にあった燃えさかる炭をもち、それをイザヤの口に触れさせる。イザヤが「私はくちびるの汚れた者」と言ったことに対応して、口に炭を触れさせたのでしょうか。この時、御使いは「あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」と宣言します。罪が赦される。これこそ人間が神様と交わっても死なない方法でした。
つまり、罪ある者が神様と交わるという時、次のうち、どちらかが起こると言えます。一つは「死」。罪ある者が、聖なる神様を見ようものなら死ぬということ。もう一つは「咎が取り除かれる」。罪が赦され、聖なる神様と交わるのに相応しいものにされる。このどちらかでした。そして、イザヤはこの時、罪の赦しを宣告されたのです。
この罪が赦されるという経験がイザヤにとって極めて重要なことでした。罪を赦された者として、イザヤは遣わされる者として生きていくことになります。
イザヤ6章8節
「私は主が言われる声を聞いた。『だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。』私は言った。『ここに私がおります。私を遣わしてください。』」
罪が赦されるとは、どのような意味があるのか。
その一つの意味は、神様と交わることが出来る存在となること。罪ある自分が主を見たために「もうだめだ」と言っていたイザヤが、罪を赦された結果、どうなったでしょうか。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」という主の声を聞き、それに「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と答えます。この近さ。主の声を聞き答える、この交わり。罪が赦されることの一つの意味。それは、神様と交わることが出来るということでした。
そしてもう一つの意味、もう一つの側面は、使命が与えられること。死を覚悟していたイザヤが、「私を遣わしてください。」と願い出る。何故なのか。罪が赦された者は、神様のことを伝える者、聖書を伝える者となるからです。
イザヤが預言者として召されていく場面が示しているのは「罪が赦された者は、神様と交わる者となり、神様と交わる者は、神様を伝える者となる」ことでした。
ペテロは、このことを簡潔に、次のようにまとめています。
Ⅰペテロ2章9節
「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」
私たちは「良い知らせを宣べ伝えるように」と教えられていますが、宣べ伝える者、使者となるのに一つ条件がありました。神様から遣わされているかどうか。では私たちは神様から遣わされているでしょうか。はい、遣わされています。なぜ遣わされていると言えるのでしょうか。キリストを信じているからです。
キリストを信じる者は、イエス様の御業によって罪から赦された者。私たちは、イエス様によって完全に罪を赦された者です。罪を赦された者というのは、神様と交わり者であり、神様を宣べ伝える者なのです。キリストを信じることで、私たちはどのように変えられたのか。これから何者として生きていくのか。新たな年を迎えて、今一度思いを新たに信仰者の歩みを進めていきたいと思います。
以上、ローマ書、イザヤ書より伝道することの重要性と、キリストを信じる私たちが遣わされた者であることを確認しました。
今、自分が信じている聖書の中心的なメッセージ。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」という福音を、知り、信じることが出来ていることは、とても大きな恵みであることを、改めて味わいたいと思います。自分が、聖書の福音を信じることが出来たのは、私のもとにこの知らせを届けてくれた立派な「足」があったから。私が福音を信じるために、多くの働きがあったのです。次は私たちの番。良い知らせを告げる美しい「足」となる決意を今日、新たにしましょう。私の周りにいる人を覚え、祈り、教会に誘い、福音を伝える。
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