良く問われる問いの一つに「人間とは何か」というものがあります。「人間とは何か」、皆様はこれに何と答えるでしょうか。「人間とは社交的動物である」これは哲学者の答えです。「人間とは道具を用いる動物である」これは文化人類学者の答えです。「人間とは文字を使用する動物である」これは言語学者の答えです。そして、宗教を持つ人は「人間とは祈る動物である」という答えを付け加えなければと言うでしょう。
普段は神を否定し、祈りなど無意味と唱える人が一旦窮地に陥ると「神様、助けてください」と祈る。友人知人への手紙には「ご家族の健康を祈ります」等と書いて、余り不思議に思わない。この様に祈り心はあるものの、誰に祈るのか、何を祈るのか、いかに祈るのかについては、漠然としていると言うのがこの世の人々の現実ではないではないかと思います。
それでは、神を信じて生きるクリスチャン、祈りを大切にしているはずの私たちはどうでしょうか。手ごたえのある祈りが出来ない。祈りが形式的だと感じる。祈っても何も変わらないように感じる。祈りが苦手。何を祈ったら良いのか分からない。祈りについて悩むクリスチャンは沢山います。牧師同士の話でも、信仰生活の弱点として祈りを挙げる人は案外多いのです。
しかし、祈りについての悩みを抱えているのは、何も私たちだけではありません。イエス様の弟子たちも祈りについて悩んでいたようなのです。今朝取り上げたのはマタイの福音書の主の祈りですが、ルカの福音書には何故イエス様がこの祈りを教えたのか、その背景が書かれています。
ルカ11:1「さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
イエス様の弟子たちはみな、旧約聖書の伝統に沿って祈りの生活を送っていました。けれど、そんな彼らから見ても、イエス様の祈りは心ひきつけられる祈りでした。だからこそ、弟子の一人が「主よ、私たちにも祈りを教えてください」と願い出たのでしょう。
ここに示されているのは、私たちはイエス様から祈りを教えてもらうべき存在だと言う事実です。確かに人間には祈り心が備わっています。しかし、だからといって、思いのまま祈ればよいと言うものではなかったのです。私たちは、イエス様から祈りについて教えてもらわなければならない者なのです。
それでは、イエス様の教えた祈りとはどのようなものなのでしょうか。今朝の山上の説教の個所で、先ずイエス様は当時の人々の祈りの姿を取り上げ、その問題点を指摘します。一つはユダヤ人の祈り、もう一つは異邦人の祈りです。
マタイ6:5∼8「また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」
最初に描かれているのは、ユダヤ社会で尊敬されていた律法学者、パリサイ人の祈りです。彼らは神を相手として祈っているように見えながら、実は人々を相手として祈っていました。その頃ユダヤでは、断食、祈り、献金といった宗教的な行いに熱心な人々は尊敬の対象でした。彼らはそれを知っていたので、人々が集まる会堂や大通りの角に立って祈りを行っていたのです。
それに対して、イエス様は「自分の部屋に入り、戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と戒めました。本来一対一で神にささげるべき祈りを、人々から尊敬されるための手段として彼らが利用していたからです。イエス様は自尊心を満たすために祈りを行う者を偽善者と呼んでいるのです。
他方、異邦人たちの祈りはどうだったのでしょうか。その祈りは自分たちの願望を満たすための祈りでした。彼らは願いごとを繰り返し、ことば数を多くすれば神が聞いてくださると考えていたのです。その頃異邦人つまりギリシャ・ローマの社会は多神教でした。各々の町に守護神が存在し、人々の礼拝の対象となっていました。学問の神、癒しの神、戦いの神、商売の神、五穀豊穣の神…。人々は自分の願うものを神々に祈り求めたのです。
それに対して、イエス様は「彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」と戒めています。異邦人が求めていたのは神がもたらすご利益だったからです。
ユダヤ人と異邦人の祈り、これは他人ごとでしょうか。私たちの祈りの現実ではないでしょうか。イエス様は、私たち人間が、たとえ祈りの対象は異なったとしも、皆同じ罪を犯していると教えています。ユダヤ人が求めていたのは神ご自身ではなく、祈りによってもたらされる人々からの尊敬、評判です。異邦人が求めていたのも神ご自身ではなく、願い事の実現です。
ユダヤ人も異邦人も、つまりあなた方人間は神よりも神が与えてくれるものを愛しているのではないか。あなた方は祈りを自分が利益を得るための手段にしてしまってはいないか。あなた方は聖書の神ではなく、自分の願望や欲望が造り出した神、自分に都合の良い神に向かって祈っているのではないか。イエス様はそう私たちに問うておられるのです。こうして、祈りにおいて現れる私たちの罪の現実を踏まえると、主の祈りの恵み、豊かさがよく分かるのです。
マタイ6:9「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。…』」
イエス様が祈る相手として教えられたのは、私たちが造り出した神ではなく、私たち人間を創造した神です。イエス様もそう呼んでおられた父なる神です。父という人格的な神、私たちと交わることをこの上もなく喜びとされる天の父なのです。
ローマ8:15「あなた方は人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。」
「アバ、父」の「アバ」とは「お父さんとかパパ」という意味の言葉です。ユダヤの子どもは自分のお父さんをアバと呼んでいたのです。私たちの信じる神は決して恐ろしい方ではなく、私たちが親しくお父さんと呼ぶことのできる関係にある神です。私たちを服従だけが求められる奴隷ではなく、愛する子ども、神の家族に迎えてくださった神様です。
我が家の子どもたちが小さかった頃、長島スパーランド、プールに出かけたことがあります。一日遊んで、お風呂に入って、帰りの車に乗り込むと、子供たちは「波の出るプールで溺れそうになった」とか「滑り台が超楽しかった」とか「お風呂にもっと入っていたかったとか」、もう煩いと言うぐらいよく喋りました。そして、喋りたいだけ喋ると、さっさと寝てしまうのです。
そんな子供たちの様子を後ろに感じながら、「お父さんは全部見てたんだから、全部わかっているんだから、うるさくてたまらないから黙っていてくれ」なんて私は思いませんでした。そういう子どもたちの声を聞き、勝手に寝てしまう位楽しんでくれた子どもたちと一緒に過ごす時間が嬉しいんですね。遊園地は暑く、人が多くて疲れたけれど、行ってよかったなあと思える瞬間です。
神も同じです。私たちの神が父であると言うことは、私たちが祈らずとも神はすべてをご存じであると言えるわけです。しかし、私たちの神は祈りという交わりに私たちが入ってくることをこの上もなく、喜んでくださる神様です。私たちが安心して何かを話す。嬉しかったこと悲しかったことも伝える。私たちがそれをすることをこの上もなく喜ばれる神様なのです。
この様な関係は祈りの中でしか生まれません。私たちは祈りを通して、私たちの存在を喜んでくださる神を知ることが出来ます。私たちは私たちの存在を喜んでくださる神を知ることで、さらに祈り、祈ることで神とさらに親しくなるのです。
また、主の祈りは「我らの父よ」と複数形で祈ります。祈りは個人的なものですが、祈りを通して私たちは同じ父を神とする神の家族なんだという思いを深めてゆきます。父なる神の家族とされたことによって、これまで他人でしかなかった方々を、「あなたは私の家族なんですね。兄弟であり姉妹なんですね」そう呼ぶことのできる交わりに入れられたことを喜ぶのです。私たちは主の祈りを祈る毎に、私たちのために祈ってくれる誰かのことを思い出します。私たちも誰かのために祈ることへと導かれてゆくのです。
人生において、誰しも自分を見失うことがあると思います。思わぬ冷たい仕打ちを受けて怒り、怒りの感情の中で自分を見失うことがあります。仕事に疲れ果て、自分を見失うこともあります。愛する家族を失い、悲しみの中で、自分を見失うことだってあるのです。その様な時、私たちはどうやって自分を取り戻すことが出来るのでしょうか。
それは天の父への祈りしか方法はありません。天の父よと祈る時、たとえ自分を見失ってしまうような出来事の中にあったとしても、私たちはこの出来事を天の父がどう見ておられるのか、天の父のまなざしをもって出来事を見つめることが出来るのです。私たちはとても狭い視野で出来事を見てしまいますが、天の父がこの出来事を見ておられると思う時、私たちは自分の中にある信仰の未熟さを知り、悔い改めへと導かれてゆくのです。
絶えず祈りの中でこの父の前に立つ時、私たちはどんなに人から認められなかったとしても、天の父は私のことを見守っていてくださると知るのです。たとえ、どんなに自分が自分のことをさばき、責めたとしても、天の父は私を子として愛しておられると知るのです。どんなに私たちが罪の中にあったとしても、天の父は私の罪をイエスの十字架において赦してくださったと信じることが出来るのです。そして、私たちがどれ程心の余裕を失い、生きる意味を見失ったとしても、そんな私たちを我が子よと呼びかけてくださる神に、私たちは主の祈りの中で出会うことが出来るのです。父の神と出会うその時、私たちは見失っていた自分自身を取り戻し、「私の本当の姿は神の子どもであった」と安心することが出来るのです。
さらに、イエス様が神様に対し「天の父よ」と呼ぶよう勧めていることにも注目したいと思います。私たちは何故神様に向かって「父よ、お父さん」と呼ぶことが出来るのでしょうか。
聖書によれば、本来私たち人間は罪のゆえに、聖なる神に近づくことも、呼びかけることもできない存在でした。神に近づくことによって人間は滅びに落とされるべき存在だったのです。
しかし、神様はイエス・キリストを地上に送り、十字架の死に追いやりました。イエス様は自ら十字架にかかり、私たちが受けるべき神のさばきを受けられたのです。罪なき神の御子が、本当なら私たちが受けねばならないはずの苦しみ、痛み、辱めを忍耐し、尊い命を犠牲にしてくださったのです。私たちはあの十字架において示された神様の愛ゆえに、神様を「父よ」と呼ぶ恵みに預かっているのです。私たちが父よと呼びかけないことを、神様は何よりも悲しみ、私たちが父よと呼ぶことを神様は何よりも喜ばれるのです。
イエス・キリストを信じる私たちは、天の父から完全な救いを与えられています。しかし、この地上において私たちの救いは完成しません。私たちの体と心は、救われた喜びで満たされる時もあれば、罪のゆえに苦しみ呻く時もあります。それが私たちの現実です。祈りにおいても然りです。
私たちは祈れる喜びを感じる時もあれば、どう祈って良いのか分からず悩む時もあります。天の父の存在がはっきり信じられる時もあれば、信じられない時もあるのです。神様のみ心に従いたいと思う私がいるかと思えば、と、自分の願望、欲望に流されてしまう、どうしようもない私もいるのです。兄弟姉妹のことを赦さねばと思う私もいますが、許せないと思う私も生きているのです。
しかし、この主の祈りはそんな私たちのための祈りなのです。「み名があがめられますように」と祈ることで、私たちは自分の名誉より、神様の名誉を求めるようになります。「御国がきますように」と祈ることで、私たちは自分の人生をコントロールしなければと言う思いを砕かれ、天の父の支配に人生を委ねることを学ぶのです。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈る時、私たちの願いは自分の利益、自分の願いの実現から、神のみ心の実現へと変わってゆくのです。
また、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈ることで、私たちは自分の生活の糧だけでなく、貧しい人々の糧のことを覚えます。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人を赦します」と祈る時、自分のプライドを砕かれ、受け入れるべき兄弟姉妹の存在を覚えるのです。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈ることで、試練に悩む兄弟姉妹の存在を覚え、彼らのために労苦する生き方を選んでゆくのです。
自己中心に生きる者から神中心に生きる者へ、自分のために生きる者から兄弟姉妹と共に生きる者へ。祈りを通して、神様は私たちを造り変えて下さるのです。この一年主の祈りを祈り続けることで、神様が私たちをどのように造り変えて下さるか。皆で祈りの生活の恵みを味わいたいと思うのです。
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