2021年2月7日日曜日

信仰生活の基本(6)「仕事と経済~富を生み、神に仕える~」創世記1:26~31,ピリピ4:11b~13

 古いユダヤの諺に「金銭は無慈悲な主人だが、有益な召使いにもなる」とあります。いつもお金のことを考え、お金のことを心配し、お金のことで神経をすり減らす。お金に支配されている人がいます。他方、お金を召使いとし、お金を有益に使いながら人間らしい生活を営む。お金を正しく管理しながら生活する人もいます。お金を主人として生きるのか、自分がお金の主人となって生きるのか。私たちはどちらになりうる可能性も持っていることを教えられます。

ところで、富とか金銭と言うと、皆様にとってどんなイメージでしょうか。汚れたものでしょうか、良いものでしょうか。富を求めるのは良いことでしょうか、悪いことでしょうか。

中世のイタリアを舞台にシェークスピアが書いた「ベニスの商人」という作品があります。この作品に登場するユダヤ人の金貸しシャイロックは欲張りで、非情な人物です。親友に結婚資金を援助するため、借金を申し込んだアントニオという青年に対し、シャイロックはもし期限までに返済しなければ「あなたの胸の肉を切り取ることになるが、それでも良いか」と提案します。アントニオはこれに同意しますが、案の定商売の品物を積んだ船が難破し、アントニオは破産。ついに裁判で肉が切り取られるのかと思われたその瞬間、「肉を切ることは許すが、血は一滴も流してはならない」という裁判官の賢明な判決により、アントニオは窮地を逃れるという物語でした。

尤も、この作品には、ユダヤ人に対する悪いイメージと偏見に満ちているという批判もあります。しかし、カトリック教会が支配する中世の時代、金融業が人々からどのような目で見られていたかを示してもいます。もし、金融業が欲張りな人々が営む、汚れた仕事であるなら、キリスト者は銀行員になれないのでしょうか。

聖書にも、一見すると富に対する悪いイメージを抱かせるような教えがいくつかありますが、代表的なものを一つ挙げてみます。主イエスの教えです。

 

マタイ6:24「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなた方は神と富とに仕えることはできません。」

 

これを読むと、富は人間の心を神から離れさせる悪そのもののように見えます。神に仕える人生とこの世の富を求めて働く人生が、矛盾するように見えるのです。しかし、主イエスは富や金銭自体が悪だと教えているのではありません。私たちが心の中で富や金銭を偶像とすることを問題にしています。富や金銭に対する私たちの貪欲、強すぎる願望を戒めているのです。主イエスが求めているのは、私たちがこの世の富を偶像とせず、この世の富をもって神に仕えることなのです。

そもそも世界の始め、人間はこの世界の管理人という仕事を与えられました。

 

創世記1:2631「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」神は仰せられた。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。また、生きるいのちのある、地のすべての獣、空のすべての鳥、地の上を這うすべてのもののために、すべての緑の草を食物として与える。」すると、そのようになった。神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」

 

私たちが読む新改訳聖書には、原文にはない言葉が入っています。「さあ人を造ろう」の「さあ」という言葉です。この「さあ」が原文の息遣いをよく伝える名訳と言われます。「さあ人を造ろう」。これまで神は「何々よあれ」という命令ですべてのものを創造してきました。しかし、人間の場合は「さあ人を造ろう」と言われました。人間を創造するにあたり、神の心には「ついに愛する者を創造することができる」という、わくわくする思いが溢れていたのです。「さあ人を造ろう」。このみ言葉に、私たちの存在を心から喜ばれる神の息遣いを感じられるのです。

この神の愛は、人間が神のかたちに創造されたという事実にしめされています。古代オリエントの世界では、王が神のかたちと呼ばれていました。王が地上における神の代理人という意味です。しかし、聖書においては、王だけでなく男も女も、すべての人が神の代理人として創造されました。私たち人間は神と親しく交わり、互いに愛し合う社会を築き、神が創造した世界を管理する。そんな祝福を受け、私たちはこの世界に生まれてきたのです。

人間は神のみこころに従って働き、食物という富を造り出す。それをもって人々の生活を支えてゆく。音楽や絵画、文学等の作品という富を生み、人々の生活を精神的にも豊かにする。自分たちだけでなく他の生き物も生きられるよう、自然環境を守る。神に与えられた賜物を使って仕事をし、価値あるもの、富を生み出して神と人に仕える。これが人間本来の生き方だと聖書は言うのです。

しかし、人間は神に背きました。神に仕えることを拒み、自分の欲望や利益を満たすために働き、富を用いるようになりました。人間は神のことばを無視し、自らの善悪の判断に従って人生を歩み、この世の富をつかうようになったのです。その結果、どれ程人間の社会は悲惨な状態になってしまったか。聖書は次のように語ります。

 

アモス2:68「【主】はこう言われる。「イスラエルの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らが金と引き換えに正しい者を売り、履き物一足のために貧しい者を売ったからだ。彼らは、弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げている。子とその父が同じ女のもとに通って、わたしの聖なる名を汚している。彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った衣服の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう酒を自分たちの神の宮で飲んでいる。」

 

預言者アモスの時代、南ユダも北イスラエルも政治的に安定し、経済的繁栄を謳歌していました。しかし、繁栄の裏側では富める者が貧しい者を虐げ、神殿を仕切る祭司たちは不品行に耽り、贅沢な生活に溺れ、貧しい者から取り上げた衣服の上に横たわり、取り立てた金でぶどう酒を買い、神殿で酔っ払っていたというのです。不義不正の横行、富める者と貧しき者の不和対立。昔も今も、富は人間の社会を分断してきたのです。

しかし、富や物質に心捕らわれていたのは、富める者だけではありませんでした。庶民にも、貧しき者にも、経済の問題は切実な悩みだったのです。主イエスは山上の説教で、そんな人々に語りかけています。

 

マタイ6:2634「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」

 

一説によれば、主イエスの時代ユダヤでは約70%の人々が一月先の暮らしの心配をしながら生活していたと言われます。主イエスの故郷ガリラヤには、その日暮らしの人々も大勢いたと言われます。今日は何とか食べられても「明日はどうなることやら」と心配する人々が主イエスのもとに集まっていたのです。

主イエスは「空の鳥を見よ。野の花をみよ」と語り、貧しさに悩む人々を励ましています。天の父が貧しい者のためにどれ程心を砕いているかを伝えているのです。この言葉は主イエスの生活から生まれたものであり、実感でした。主イエスは貧しい家に生まれ、育ちました。生涯の殆どを大工として過ごし、大工の仕事を通して母や兄弟たちの生活を支えたのです。

主イエスは貧しき生活を送りながら、必要なものすべてを天の父に養われていると感じ、天の父を信頼してきたのです。たとえ生活は貧しくあろうとも、主イエスは食べ物、着る物のことで思い煩うことはなかったのです。この様な生き方は、主イエスが神の国と神の義を求めて歩み続けたことの結果でした。神の国と神の義を求めるとは、明日の心配事は天の父にお任せして、今日の仕事に全力を尽くすことです。今日神から与えられた糧に感謝し、満足して、眠りにつくことなのです。

「な~んだ、そんなことか」と思われるかもしれません。しかし、今日健康に恵まれ、力を尽くして仕事が出来たことに感謝し、今日与えられた糧に満ち足りて眠る。こんな単純な生活がどれ程難しいか。主イエスの時代より豊かな時代に生きる私たちも感じているのではないでしょうか。

今から百年程前、ケインズという経済学者が予言しました。「産業が発達するペースから考えて、2030年には人々は一日3時間働くだけで暮らせるようになる。飢える者はなく、多くの人が健康的な生活を楽しむことが出来るようになる。肉体労働や家事の殆どは機械かロボットが肩代わりし、人々は残りの時間を芸術、音楽、文化、哲学などに時間を費やすようになるだろう。」

しかし、現実はどうでしょうか。現代の社会はケインズの予測よりも10倍も豊かになりましたが、人々は物質的豊かさをこれまで以上に追及しています。労働時間も3時間はおろか、減少すらしていません。鬱病や過労に苦しむ人々も沢山います。社会全体の富は増えましたが、時代と共に豊かさの基準は高くなり、人々は満足を知らず、その欲望はとどまることがありません。

それでは、この様な人間の欲望が渦巻く社会で、私たちキリスト者はどのように生きるべきなのでしょうか。多くの富を得る仕事が良い仕事とされる時代、多くの物を消費することが良い事だと考えられているこの時代、どうしたら、私たちは仕事と経済において満ち足りることが出来るのでしょうか。使徒パウロの言葉を参考にします。

 

ピリピ4:1113私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」

 

パウロは福音を伝える伝道者であり、教会を建て上げる牧師でした。新約聖書に残る多くの手紙を書いた神学者でもあります。しかし、パウロはすべての時間を伝道者、牧師、神学者としての仕事にささげることはできませんでした。パウロを経済的に支える教会は少なく、生計のためテント作りの仕事をせざるを得なかったのです。

しかし、その様な人生の中で、パウロはどんな境遇にあっても満足することを学んだのです。富むことにも乏しい事にも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得るようになったというのです。

パウロの仕事を尊敬する人々もいましたが、非難する人もいました。しかし、自分の仕事ぶりを評価されようと、非難されようと、神と人に仕える事の出来た恵みにパウロは感謝し、満足していたのです。貧しさの中にあっても富める者を羨まず、神に与えられたもので満足できたのです。豊かさの中にあっても、すべては神の恵みであることを忘れず、感謝をささげることが出来たのです。

何故でしょうか。それはイエス・キリストの恵みによって養われていたからです。パウロも私たちと同じように弱い人間であったと思います。最初からどんな境遇にあっても満足することのできるような強い人間ではなかったのです。パウロは主イエスの十字架に示された神の愛に慰められ、励まされながら、神に与えられたもので満足する生活を徐々に学んでいったのです。神の御子があの十字架に命をささげるほど、罪人に仕えてくださったその愛に満たされるなら、たとえ人から認められなくても、貧しさの中に置かれたとしても、私の心には平安があり喜びがある。そうした経験を積み重ね、一歩一歩キリスト者らしい生き方を身につけていったのです。

私たちも、この主と共に歩みたいと思います。たとえ、私たちが将来への不安に悩んでも、「あなた方の必要をすべて備えてくださる天の父がいるから心配しなくてよい」と、主イエスが教えてくださいます。たとえ、私たちがこの世の富に対する欲望に負け、罪を犯したとしても、その罪を悔いる私たちの祈りを、主イエスは聞いてくださるのです。たとえ、私たちが力を尽くしてなした仕事を誰一人認めてくれなくても、主イエスは見ておられ「よく頑張ったね」と励ましてくださるのです。私たちも主イエスによって強くされ、養われる歩みを進めてゆきたいと思います。

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