2021年2月21日日曜日

一書説教(65)「ユダの手紙~自分自身を築き上げる~」ユダ1:17~21

 「信仰生活」を何かに例えると、皆様は何に例えるでしょうか。自分にとって楽しいもの、喜ばしいものに例えるでしょうか。それとも大変なもの、苦しいものに例えるでしょうか。聖書の中に信仰生活を例える表現が出てきますが、競走や、拳闘、戦闘と、その多くは大変なもの、苦しいイメージです。

キリスト教は恵みの宗教。行いが正しいから救われるのではない。何か出来るから恵みを受けられるのではない。私たちがすることではなく、神様がして下さることが大事。私たちは無条件に愛され、価無しに救われたのです。この視点だけであれば、信仰生活は楽しいもの、喜ばしいイメージなはず。しかし、私たちは何も取り組まなくて良いと教えられているわけではありません。信仰を守り、信仰のために戦うように。信仰者として意識し、取り組むべきことが多くあることも示されています。そして、それは実に大変なもの。信仰生活が大変なものに例えられているのは、むしろこの部分に焦点が当たっているからでしょう。

 

 ところで信仰生活において「神様がして下さること」と「私がすること」を、聖書の教える通りに受け取り続けることは意外と難しいことです。

神様の愛は変わらない、キリストによって何をしても罪赦されるのであるから好きなように生きるという放縦、自堕落の道か。あれもしないといけない、これもしないといけないと信仰生活を義務、責務に感じる。自分の正しさを示すために信仰生活を送る律法主義の道か。私たちは、どちらかに傾きやすいものです。

恵みを受けるために良い行いをするのではなく、恵みを受けたらから良い行いをする。良い行いが出来ること自体も恵みである。このことは頭では理解出来ても、実際の信仰生活の歩みの中でその通りに生きることは難しいものです。いかがでしょうか。自分自身の信仰生活を振り返った時、どちらかに傾いた歩みとなっていないでしょうか。

 

 六十六巻からなる聖書のうち、一つの書を丸ごと扱う一書説教。今日は通算六十五回目、新約篇の二十六回目、ユダ書となります。

 新約聖書は大きく四つに分類出来ます。イエス様の生涯を記した福音書が四つ。弟子たちの活躍を記した歴史書が一つ。新約聖書唯一の預言書が一つ。残り二十一は書簡でした。実に新約聖書の九分の七が書簡、これまで二十の手紙を読み残りは最後の一つとなりました。一章だけの小さな手紙、手のひら書簡、豆粒書簡、ユダ書。ユダを通して語られる言葉から、自分の信仰生活がどのようなものか、私たち皆で考えたいと思います。一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。

 

 ユダ書は次のように始まります。

 ユダ1章1節~2節

「イエス・キリストのしもべ、ヤコブの兄弟ユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストによって守られている、召された方々へ。あわれみと平安と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。」

 

 ユダとは「ほめたたえる」という意味で、よくある名前の一つ。この手紙を書いたユダはどのユダかと言えば、ヤコブの兄弟ユダと名乗っています。ヤコブという名前も多くありますが、ただ「ヤコブの兄弟ユダ」と名乗るだけで誰だか分かるとすれば、イエス様の肉の兄弟、ヨセフとマリアの子どものユダと考えられます。

聖霊によってイエスを産んだマリアは、その後で子どもを男子だけで四人産みました。ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ。この中のヤコブが、やがてエルサレム教会の重鎮となり、ヤコブ書を書いたと考えられ、この中のユダがこのユダ書を書いたと考えられます。

ユダは、イエスキリストの兄弟とは名乗らず、イエスキリストのしもべと名乗る。幼い時から、最も身近にイエスを見てきた自負を出さず、キリストによって救われたしもべとして手紙を記す。ユダの清々しさを感じます。

宛先は、「神に愛され、キリストに守られている方々」となっています。これまで確認した手紙は教会宛てでも個人宛てでも、特定の相手に記されたものが多かったですが、この手紙は全てのキリスト者へ向けて記されたもの。一つの教会に当てはまる内容というより、全てのキリスト者に当てはまる内容。普遍性の高い内容となります。

 

 キリストのしもべでありヤコブの兄弟であるユダから、全てのキリスト者へ。祝福の挨拶が記された後、手紙を書いた目的が記されます。

 ユダ1章3節

「愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。」

 

 ユダはもともと手紙を書こうとしていた。それも「救い」について、救済論をテーマとした手紙を書こうとしていたと言います。興味深い、読んでみたいと思うところ。しかし、その手紙は聖書になく、ユダがどのようなことを書こうとしていたのは天国での楽しみとなります。

 書きたいことがあった。しかし、それよりも緊急に書くべきことが出来た。何かと言えば、「信仰のために戦うよう」に勧めるというのです。「戦いに備えるように」ではなく、「戦いに出るように」。「合戦の招集」ではなく、「進軍の号令」。緊張感があります。一体、どのような戦いに出るのか。何が問題となっているのか。

 

 ユダ1章4節

「それは、ある者たちが忍び込んできたからです。彼らは不敬虔な者たちで、私たちの神の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定しているので、以下のようなさばきにあうと昔から記されています。」

 

 信仰の戦いに出るように、その理由をユダは「ある者たち」が忍び込んできたからと言います。異端の問題、偽教師の問題。ユダが戦うように号令をかけているのは、聖書の教えから外れるように働きかける者たちに対してでした。

その特徴は、不敬虔であり、恵みを放縦に変える、イエス・キリストを否定すること。この「不敬虔に生きる、恵みを放縦に変える、キリストを否定する」ことが教会の中に入りこむことを許さないように。その影響を受けないように。そのような考え方とは戦い抜くようにと言われます。誤った教え、偽教師の問題の中でも、特に不敬虔や放縦が問題となっているのです。

(ユダ書は5節以降、手紙の中盤部分で、不敬虔な者たち、恵みを放縦に変える者たちに対する裁きがどのようなものか、様々なものを引用しつつ取り扱います。今回の一書説教で、その部分は割愛します。)

 

 ところで二十一ある手紙を読み比べてみますと、早い段階で書かれた手紙が問題とする中に、割礼の問題がありました。救いにはキリストを信じる以外にすることがあるのか、割礼が必要なのか。救いには割礼が必要であるという考えに、パウロは徹底的に戦いました。ガラテヤ書は、特にこの問題を扱った書ですが、次のように記されています。

 ガラテヤ5章3節~8節

「割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたの邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。そのような説得は、あなたがたを召された方から出たものではありません。」

 

 大変強い調子。救われるのにキリストを信じる以外にすることがあるという考え方に徹底抗戦するパウロ。ガラテヤ書はパウロが書いた初期の手紙の一つですが、この時代の教会は、自分のすることが大事ということに傾き過ぎていた。

 ところがパウロが書いた最晩年の手紙では、次のように記しています。

 Ⅱテモテ3章1節~5節

「終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒瀆し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい。」

 

 後輩牧師テモテへ記した牧会指南書の中に、「困難な時代」が来ることの勧告がありました。不敬虔の者、恵みを放縦に変える者たちが現れる時が来る。言葉多く、注意喚起していました。

教会、信仰者はある時には、自分の力で信仰生活を成し遂げようとする律法主義の道に傾き、ある時には放縦、自堕落の道に傾く。右に左にフラフラしてしまう様が、二十一の書簡を見渡すことで確認出来ます。自分の力に頼る歩みをしてしまう、と思うと、神様の恵みの上にふんぞり返り好き勝手に生きてしまう。この問題は二千年前から続く信仰者の課題であることが確認出来ます。

 パウロは「困難な時代」が来ると告げていましたが、ユダ書では「ある者たちが忍び込んできた」と告げています。緊迫感が増しいよいよその時が来ている、戦いに臨むようにというユダの筆です。

 

これが、一つの教会に向けて書かれた手紙ではなく、全てのキリスト者に向けて記された手紙であることに注目します。キリストを信じる全ての者に、不敬虔に生きる、恵み放縦に変えるという危険性があるということです。

もし私たちが、「神様は無条件に私を愛して下さる」「キリストによって全ての罪が赦される」ことを理由に、不敬虔に生きることを良しとする、放縦に生きることを良しとするとしたら、それはイエス・キリストを否定する状態となっている。教会に恐ろしい問題を引き起こそうとしていることになっているのです。くれぐれも気を付けるようにと教えられます。

 

 このようにユダ書は信仰のために戦うように教える書ですが、それでは信仰のために戦うとはどのようなことでしょうか。

 ユダ1章17節~21節

「愛する者たち。あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語ったことばを思い起こしなさい。彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、嘲る者たちが現れて、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう。」この人たちは、分裂を引き起こす、生まれつきのままの人間で、御霊を持っていません。しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」

 

 「戦う」と言うと、敵対者がいて、打ち倒す印象です。不敬虔、放縦と戦うとなれば、不敬虔な者、放縦を勧める者と戦うイメージとなります。

しかしここでユダが言う具体的なことは、敵対者を倒すのではなく、自分自身に関することでした。「最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げる」「聖霊によって祈る」「神の愛のうちに自分自身を保つ」「主イエス・キリストのあわれみを待ち望む」こと。これがユダの提示する信仰における戦い方です。

 

 ところで興味深く、またどのように考えたら良いのか難しいと思うのが、ここでユダが言う「最も聖なる信仰」ということが、具体的にどのようなものか、この手紙の中に出てこないことです。「最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい」と言いながら、その「最も聖なる信仰」が何か触れていない。皆様は、この「最も聖なる信仰」とは何だと思うでしょうか。

何故ユダは、「最も聖なる信仰」が具体的に何なのか記さなかったのでしょうか。それは最も聖なる信仰がどのようなものか、知っている相手に書いているからでしょう。ユダは手紙の読者に対して「愛する者たち。あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語ったことばを思い起こしなさい。」と言いました。読者は、キリストの使徒たちが語った言葉を聞いている者、思い起こすことが出来る者。私たちに当てはめて言えば、聖書を知る者、信じる者ということ。つまり「最も聖なる信仰」とは、聖書の教える通りに信じる信仰。聖書の教えから外れない信仰という意味です。

 信仰の戦いの中心にあるのは、聖書の教える通りに信じる者として生きること。聖霊、神、キリストと三位一体の主との関係の中で、キリストに似る者となる歩みをすること。これが、不敬虔や放縦の歩みから、あるいは律法主義の歩みから、私たちを守るものでした。

 

 ところで、信仰の戦いに臨むように、「最も聖なる信仰の上に自分を築き上げるように」勧められた私たちが、それを自分の力で果たそうとしたら、結局のところ、律法主義的な歩みとなってしまう。ユダは最後の最後まで配慮して、次のように手紙を閉じていました。

 ユダ1章24節~25節

「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン。」

 

 ユダは私たちに信仰の戦いをするように。「最も聖なる信仰の上に自分を築き上げるように」と言いました。しかし同時に、私たちがつまずかないように守ることが出来る方、傷のないものとして神の御前に立たせることが出来るのはイエス様なのだと言います。

 信仰の戦いをすること、自分自身を建て上げること、キリストに似る者となること。これらは私たちが取り組むことであり、同時に神様がして下さること。どちらかだけではなく、そのどちらもというのが、ユダの視点であり、聖書の視点でした。

 「神様がして下さること」と「私がすること」、どちらかだけに重きを置くと、律法主義的な信仰生活になるか、自堕落、放縦の信仰生活になる。聖書に記された教会の歩みを確認しても、自分自身の信仰生活を振り返ってもそう思います。くれぐれもどちらからだけでなく、両方の視点を持つように。神様から頂いた多くの恵みに目を留め、その恵みに応じる者として信仰者の歩みを全うしていきたいと思います。

 

 以上、書簡の最後の最後に位置するユダ書を確認しました。あとは是非とも、ご自身で読んで頂きたいと思います。

新約聖書に含められた二十一に及ぶ書簡を読み進め、多くのことを教えられてきた私たち。その最後のユダ書にて、「最も聖なる信仰の上に自分を築き上げるように」、「聖書の教える通りに信じる者として生きるように」と確認しました。しかもその歩みは自分で取り組むことであり、神様がして下さることだと受け取ることで、この書簡の歩みの総まとめとしたいと思います。

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