2021年2月14日日曜日

「不信仰な私を」マルコ9:14~29

  聖書には様々な病人が登場します。目、耳、口、手、足、頭、皮膚、骨、内臓、そして精神。老いも若きも、男も女も、社会的立場や人種の別なく、人間は様々な病に侵され、苦しんできました。今日の個所にも病を患う子どもが登場します。病気の子どもは可哀そうです。子どもは幼い時から悪霊に取りつかれていました。一旦発作が起きると火の中であれ、水の中であれ転げまわり、自分の苦しみを説明する口も動かず、人が語る慰めの言葉も聞く耳も開くことはなかったというのです。

父親にも同情を禁じえません。苦しむ我が子を見守ることしかできないその苦しみは察するに余りあります。今日の個所の主人公はこの父親です。注目したいのは、この父親が口にした「信じます。不信仰な私をお助け下さい。」という叫びです。これはキリスト教信仰の核心に触れる言葉ではないかと私は思っています。

最初に、病気と悪霊の関係について、聖書の教えを確認しておきます。聖書は通常の病気と悪霊につかれた病気を区別しています。病気なら何でも悪霊によるとも、病人が医者にかかることは不信仰であるとも考えてはいません。初代教会において、人々はギリシャの医療を積極的に受け入れていました。神は医者も薬も用いて人間の病を癒されると信じていたのです。

その当時、貧しい人々は治療も受けられず、放り出され、見捨てられていました。彼らの多くは怪しげな魔術や呪いに縋るしかなかったのです。キリスト教会は貧しい人々に医療を通して助けの手を差し伸べました。そんなクリスチャンたちの親切から、世界で初めてホスピタル、病院というものが生まれたと言われます。ただ、そうであってもクリスチャンたちは通常の医療の領域ではない、イエス・キリストのみ名による祈りによらなければ治せない人間の精神と体の現実があることも知っていたのです。今日の個所、主人公の父親が連れて来た子どもの病が悪霊によると言われていることを、私たちもそのまま受けとめたいと思うのです。

 

マルコ9:1420「さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか」とお尋ねになった。すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」

イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。」

 

イエス様は「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」と尋ねておられます。イエス様は子どもの苦しみにも、父親の苦しみにも心を向けておられます。それに対して「幼い時からです。私たちをあわれんで、お助けください」と父親は答えます。この「私たち」という一言に、家族の者すべての思いが込められています。子どもはもちろん、父も母も兄弟も家族全員の苦しみを思わされます。

父親はイエス様が近くに来られたことを知り、朝まだ暗いうちに家を出てきたのかもしれません。イエス様とペテロ、ヤコブ、ヨハネ、三人の弟子はまだ山から戻っていませんでしたが、そこにはこれまで悪霊を追い出し、病人を癒してきた他の弟子がいました。父親は彼らに悪霊の追い出しを願いますが、彼らは何もできませんでした。すると、それを見た律法学者と弟子たちの間で議論が始まったのです。

律法学者たちは弟子たちが何もできないのを見て、彼らを遣わしたイエスを批判し、弟子たちも反論したのです。「確かに、私たちには癒すことが出来なかった。でも、あなたがたにはできるのか。できるものならやって見せてくれ。さあ、どうする、どうする。」そんな議論が繰り返されたことでしょう。

弟子たちはいつのまにかイエス様を神と信じて祈るよりも、自分たちに悪霊を追い出し、病を癒す特別な能力が備わっているかのように思い込んでいたのです。神から与えられた賜物を、いつのまにか私のものと思いこみ、思うがままに使うことが出来ると考えて、おごり高ぶっていた様です。

ここにあるのは人間にはどうしようもできない現実です。律法学者も弟子たちも、心を合わせて神に祈らなければ解決できない問題がここにはあります。それなのに、律法学者も弟子たちも、相手を批判し、自分を正当化するために論じ合っています。苦しむ父親と息子のことはそっちのけ。批判合戦を繰り返しては、自分たちのプライド、立場を守ることに心捕らわれているのです。

けれども、これは昔々の弟子や律法学者にすぎないのでしょうか。今この世界でも、身近な社会、学校、家庭、教会であっても、神に祈らなければどうすることもできない現実が現れてきています。皆が協力しあうことがなければ、皆が神に立ち帰らねば、どうすることもできない問題が存在します。それにもかかわらず、世界の国々の間には隔ての壁があります。日本の社会にも、家庭にも、会社にも、教会にも、目に見えない隔ての壁があるのです。こちらが正義なら、向こうは悪。こちらが信仰なら、向こうは不信仰。こちら側と向こう側に分かれて攻撃し合い、批判し合う。そのような関係が様々な至る所に存在します。

ある日の新聞に、今の日本はとても攻撃型の社会になって来たと言う、一人の社会学者の文章が載っていました。インターネットやSNSの発達によって、誰かの失敗やスキャンダルを見つけると、一斉に攻撃する。誰もが簡単に,匿名で、正義の味方になって、言い返せない相手をパッシングする。そういう時代の雰囲気が社会を覆い、学校にも家庭にも影響を及ぼしていると言うのです。こういう私たちの心もこそ祈りによらねばどうすることもできない霊的な現実なのだと思います。

さて、父親から一部始終を聞き終えたイエス様は何と言われたのでしょうか。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。」そう言われたのです。柔和で、優しく、謙遜なイエス様の口から出たこの厳しい言葉を、私たちはどう受けとめたらよいのでしょうか。

この言葉はそこにいた律法学者、弟子たち、群衆、すべての人々に向けられています。神に祈らねば、どうすることもできない問題を前にして、祈るよりも自分たちを守るため議論ばかりしている私たち人間に対して語られています。

それでは、悪霊につかれた息子の父親はこれをどう聞いたのでしょうか。父親の語る言葉を見ると、父親はイエス様と同じ立場に立っています。イエス様と同じ側に自分を置いて、弟子たちの不信仰を批判しているのです。

 

9:21~22「イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」

 

「イエス様、あなたの言う通りです。あなたの弟子たちは不信仰で私の息子から悪霊を追い出すことはできませんでした。私はがっかりしました。御覧の通りです。でも、もしイエス様あなたがお出来になるのなら、私たちをあわれみ助けてくれませんか。」父親はそう言っているのです。

この父親は思い違いをしています。「ああ、不信仰な時代だ」というイエス様の言葉が、実は自分に対しても言われていることに気がついていません。イエス様と一緒になって、弟子たちの不信仰を嘆いています。「あなたの弟子たちにはできませんでしたが、先生であるあなたにはできるのですか。もし出来ると言うのなら、助けてください。」イエス様はそんな父親に問い返します。

 

マルコ9:23~24「イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

 

「あなたは弟子たちの不信仰を責めている。そしてわたしに、『あなたの弟子たちにはできないとしても、もしあなたにできるなら助けて欲しい』と言う。しかし、そう言うあなたの信仰はどうなのか。」私たちも心を探られる言葉です。

私たちも、まるでイエス様と同じ立場にあるかのような思いで、他の人の不信仰を嘆くことはないでしょうか。イエス様と同じ側に立って、他の人の失敗や罪を責めていることはないでしょうか。イエス様はそんな私たちに問いかけているのです。「人の不信仰を嘆いている。そんなあなた自身の信仰はどうなのか」「人の罪を責めている。そんなあなた自身に罪過ちはないのか」。

心刺された父親はすぐに答えます。「イエス様、あなたを信じます。」そして、次の瞬間、「私は不信仰な者です」と叫びました。「私は今まで不信仰でしたが、今は信じています」ではありません。「信じます。信仰のないこの私をお助け下さい」と声を挙げたのです。父親は気がつきました。「不信仰なのは弟子たちではない。イエス様の前に、神様の前に、私こそが不信仰なのだ」と。父親はイエス様を信じました。信じましたが、イエス様が助けて下さらなければ、到底イエス様を救い主と信じることのできない自分の弱さを認め、告白しているのです。

私たちは神様の恵みに触れて、「神様感謝します。どんな時にもあなたを信じ従ってゆきます」そう告白できる時があります。しかし、苦しみと不安の中で、「私は心から神のことばを信じてられない。私は本当に救われているのだろうか」と不信仰を嘆く時もあるのです。しかし、そんな不信仰な私たち、信仰なき私たちを神は信じる者へと助けてくださるのです。

信仰の決断、洗礼の決心をためらっておられる方にもお伝えしたいと思います。揺るがない信仰がなければクリスチャンになれないと思ってはいないでしょうか。「自分には本当に小さな信仰しかない、そんな者が洗礼を受けても大丈夫なのか。信仰の歩みを続けることが出来るのか」。そう考え、ためらっておられることはないでしょうか。

今日の個所で確認できるのは、私たちの信仰の大小によってイエス様の恵みは左右されないと言うことです。たとえからし種一粒ほどの小さな信仰でも、それは神の恵みによって与えられたものなのです。不信仰な私たちの中にある小さな信仰、揺れる信仰を、イエス様はしっかりと見ておられるのです。事実、イエス様はこの父親の信仰を受け入れると、汚れた霊を叱りました。

 

マルコ9:2527「イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは「この子は死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。」

 

私たちの内側にも、口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊が働いています。「イエス様を救い主と信じます」と告白させない霊、「主イエスの十字架に罪の赦しと永遠の命がある」という救いの福音を聞こえなくする霊が私たちのうちには働いているのです。イエス様はこの子どもにしたように、私たちのうちに働く不信仰の霊を追い出し、私たちの信仰を支えてくださるのです。今朝も、私たちの手を取り、信仰の杖を与え、一週間の歩みへと導いてくださるのです。

人の不信仰や罪を責める思いが心に満ちる時、私たちは高ぶりの中にいます。「神の前にあなたの信仰、あなたの罪はどうなのか」と問われるイエス様の声に耳を傾ける必要があります。逆に「私なんか」と自分の不信仰と罪ばかりを見つめる時、私たちは自己憐憫のなかに落ちてしまいます。私たちは十字架の福音に耳を傾け、自分に与えられた小さな信仰や罪の赦しの恵みに、心から感謝をささげたいと思うのです。

「信じる者には、どんなことでもできるのです」とイエス様は言われました。完全に天の父に信頼し、心から神のみ心に従いとおした人間はイエス様おひとりです。「どんなことでもできる信じる者」はイエス様ただ一人なのです。私たちにはイエス様の様な完全な信仰もなければ、服従もありません。私たちの信仰は不完全で、小さく、弱いのです。

しかし、そんな私たちのために、イエス様は十字架に命をささげてくださいました。主イエスはご自分にとって最も苦しく、最も忍耐を必要とする神の罰を、私たちに代わり受けてくださいました。十字架に示された主イエスの愛こそ、私たちの信仰を励まし、養い、支えてくれるものです。私たちのうちに生きて、働いておられる十字架の主を見つめつつ、ただひたすらに神を信じ、神に従う道を歩む者でありたいと思うのです。

 

ガラテヤ2:20今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」

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