聖書はこの世界を闇と呼んでいます。神を無視して生きる人間の世界には、至る所に闇があるからです。圧政、争い、差別、貧困、家庭崩壊、いじめ、自殺…。この一年皆様はどんな闇が気になったでしょうか。様々な人々がこれらの問題を解決するために力を尽くしてきましたし、今も尽くしています。けれど、時代と共に闇は広がるばかり、深まるばかりという気がします。
そして、これらの問題の源に一人一人の人間の罪という心の闇が存在すると聖書は言うのです。この罪の問題は世界の始め、神と人間との平和な関係が壊れてしまった出来事に遡ると聖書は教えているのです。
世界の始め神が与えたエデンの園で、人類の先祖アダムとエバは幸せな生活を送っていました。ある日のこと、サタンが蛇の姿をとって現われエバを誘惑します。神に敵対するサタンは、彼らから神を信頼する心を奪い去ろうと、ただ一つ食べてはならないと神が命じた木、善悪の知識の木の実を口にするよう誘惑したのです。そして、最終的に彼らが心を決めた一言が「あなたがたは神のようになれる」とのことばでした。
創世記3:4~5「すると、蛇は女に言った。…それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。」
サタンは間違った神のイメージを植え付けようとしています。「神が善悪の知識の木の実を禁じたのは、あなたが神のようになることを神が恐れているからだ」として、神のみ心を捻じ曲げました。「あなたが思う程、神はあなたを愛してはいない。だから、神は一番大切な善悪の知識の木の実を与えようとしないのだ」として、神の愛に疑いを抱かせました。「神が食べたら死ぬと言ったとしても、死ぬことはないのだから、遠慮せずに食べたらよい。」と語り、神に背かせたのです。そして、神のようになれると思ったその瞬間、彼らの目に禁断の木の実は途轍もなく魅力的なものに見えたというのです。
聖書が教える罪とは、人間が神のようになろうとすることです。人間が神なしで善悪を判断し、神なしで人生を生き、神なしで世界を管理しようとすることです。「人生のことも、世界のことも自分たちでやってゆけますから、神様、あなたは必要ありません」という考え方なのです。この時以来、神と人間との間にあった平和な関係は壊れてしまったのです。
ある人々は経済成長こそが人々を幸福にし、社会を平和にすると考えてきました。彼らにとっては経済成長が救い主なのです。イギリスにケインズという経済学者がいました。今も世界の国々の経済政策に大きな影響を与えている近代経済学の父と言われる人です。
今から100年程前、ケインズは予言しました。「産業が発達するペースから考えて、2030年には人々は一日3時間働くだけで暮らせるようになる。貧富の差は縮まり、飢える者はなく、多くの人が健康的な生活を楽しむことが出来るようになる。肉体労働や家事の殆どは機械かロボットが肩代わりし、人々は残りの時間を芸術、音楽、文化、哲学など、本当に重要なことに時間を費やすようになるだろう。」
しかし、現実はどうでしょうか。現代の社会はケインズの予測よりも10倍も豊かになりましたが、人々は物質的繁栄をこれまで以上に追及しています。労働時間も3時間はおろか、減少すらしていません。鬱病や過労に苦しむ人々も沢山います。社会全体の富は増えましたが、貧富の差は拡大しています。アメリカではわずか1%の富裕層が国全体の富の55%を所有し、経済格差、教育格差、医療格差が大きな問題となっています。自然破壊や飢餓は世界的な問題です。時代と共に豊かさの基準は高くなり、人々は満足を知らず、欲望はとどまることがありません。ある人は「ケインズは人間の中にある限りない欲望という罪を理解していなかったのではないか」と言っています。
また、ある人々は科学こそが人々に幸福をもたらし、社会を良くすると考えてきました。しかし、科学自体は良いものであり、良いものをもたらしてきたとしても、科学もまた救い主ではありません。それを用いる人間によって様々な悪がもたらされてきたのです。
カズオ・イシグロという日本生まれの、イギリス人作家がいます。一昨年ノーベル文学賞を受賞しました。カズオ・イシグロの代表作の一つに「私を離さないで」という作品がありますが、そこに描かれたのは近未来の社会です。主人公は外界から隔離された学校の生徒たちで、彼らは裕福な人間たちに臓器を提供すべく造られたクローン人間でした。子供たちがある年齢に達すると、教師は彼らに言います。「あなた方は一つの目的のためにこの世に生み出されてきました。将来は決定済みです。だから役に立たない夢や希望はもうやめなければなりません。」
他方心ある教師たちはクローン人間にも心があり、ちゃんとした教育を受ければ普通の人間と同じであることを示そうと音楽や絵の教育に励みますが、それを知った科学者によって学校は閉鎖されてしまうのです。未来に希望を抱くことを許されず、ただ繰り返し臓器を提供して死んでゆかねばならない。人間に利用されるべく定められたクローン人間の悲しみを描いている作品です。
富を貪る者と貧しさに喘ぐ者。利用する者と利用される者。経済活動も科学の営みも、それが神を無視した人間によって行われる時、社会を分断し悪をもたらしてきたし、これからももたらしてゆくのです。どれ程経済が成長し、多くの富が生み出されようとも、どれ程科学が発達しようとも、それを用いる人間の罪の問題が解決されない限り、この世界は決して良いものにはならない。そう聖書は教えているのです。
しかし、人間がいかに心の闇を見ようとはしないか。罪に支配された自分の心の闇を認めようとしない存在であるか。神はそれ良く知っておられました。だから、神は私たちの心の闇を照らす光を与えてくださったのです。
今から二千年前イエス・キリストがこの世界に誕生されました。イエスは神の御子ですから立派な宮殿の清潔なベッドを誕生の場所として選ぶこともできたはずです。しかし、イエスが選んだのは暗い家畜小屋の汚い飼い葉桶でした。何故なら、それが罪ある人間の心を示すシンボルだからです。それ以来、イエス・キリストは光として、私たちの心の闇を照らし続けているのです。
ヨハネ1:1~3「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」
ティム・ケラーという牧師は罪についてこう説明しています。「私たちが神を礼拝せず、この世にある良い物を礼拝すること、この世にある良い物で心を満たそうとすることである。」果たして、皆様は神以外の何を礼拝しているでしょうか。神以外の何物によって心を満たそうとしているでしょうか。ケラー牧師は、人間が礼拝し、心を満たそうとするものを三つ挙げています。第一に力と成功、第二に人に認められ、愛されること、第三に快楽です。
ところで、皆様はアマゾンを利用したことはあるでしょうか。私は本や音楽を買う時によく利用しますが、よくアマゾンからメッセージが送られてきます。「山崎様、あなたの好きな本を選んでみました」とか「今なら無料で使用できる、あなたにぴったりのサービスがあります」。そんなメッセージです。別にアマゾンが私に対して親切なわけではありません。彼らは私の欲望を刺激し、必要ではないかもしれない商品を買わせようとしているのです。彼らにとって私という人間は利益の対象でしかありません。
しかし、今世界中の人々の欲望を満たし、成長した巨大なIT企業アマゾンとかグーグルとかアップルという会社が世界の市場を独占する状態を規制しようと各国が動き始めています。彼らは自分達が手にした支配力を守るため、ライバルになりそうな会社を次々に買収したり、潰したりして価格を高く保ち、利益を独占してきたと言われます。結託して労働者の賃金を低く抑え、経営者が収入を貪ってきたと言われているのです。
勿論、努力して能力を高め、勤勉に仕事をし、その結果成功するなら素晴らしいことです。しかし、自分の力や成功を礼拝し、心を満たそうとし続けるなら問題が起こります。家庭にも、職場にも、教会にも、至る所にアマゾンの様な人間は存在するのです。妻を支配する夫、子供を支配する親。出世のために部下を利用する上司。権威を示したくて信徒をコントロールしようとする牧師。この様な人が恐れているのはライバルや敵と思える人々の存在なのです。
また、快楽で心を満たそうとする人々もいます。勿論、心も体も快適で心地良い状態を望むのは良いことです。私も温泉に入ったり、大好きなラーメンを仲間と食べたり、友人と一緒に山に登ったり。様々に喜べる時間を満喫しています。
しかし、快楽を礼拝し、常にそれで心を満たそうとするなら、私たちは大切なものを切り捨てることになるのです。快適で心地よい生活を保つため、貧しさに悩む人々の存在を知りながら、助けの手を差し伸ばすことをしないかもしれません。気の合う仲間とだけ交際すること好み、自分が苦労を負うことになる人間関係を避けているかもしれません。快楽を求める心に支配され、道徳や法律を破る人もいます。この様な人々が恐れるのは、何よりも自分にとって快適な生活、心地よい状態を失うことなのです。
人から認められ、愛されることも、すべての人が願うことでしょう。互いに認めあう友、互いに愛し合う人間関係は何物にも代え難いものと考える人は多いと思います。しかし、そうだとしも、いつでも、誰からも認められ、愛されるという人は稀でしょう。
親から良い子だと認められたくて、一生懸命勉強する子供がいます。男性から愛されたくて、整形する女性もいます。そうかと思えば、肩書を失い、職を失い、収入を失った男性が鬱病になったり、生きがいを感じられなくなったり、自殺することもあるのです。肩書も仕事も収入もない人間は誰にも認められないと考えるからです。
随分古い映画になりますが「ロッキー」という映画がありました。主人公のロッキーはランキングの外にいるボクサーで、気力を失い、体はぶよぶよ、引退しても誰にも惜しまれないようなボクサーです。そんなロッキーに世界チャンピオンとの対戦というチャンスが巡って来ます。勿論人々の関心はどちらが勝つかではなく、いかにチャンピオンがコテンパンにロッキーを打ちのめすのかにかかっていました。
人々に馬鹿にされ、嘲られながら、暑い日も寒い日もハードワークに取り組むロッキーを見ながら、恋人が「何故そこまでして戦うのか」と尋ねる場面があります。するとロッキーは「俺がただのゴロツキじゃないって証明したいからだ」と答えるのです。
どうでしょうか。私たちにもロッキーと似たところがないでしょうか。親から褒められたくて勉強する子ども、自分の能力を認められたくて夜遅くまで働き、出世の階段をのぼろうとする男性。恋人に愛されたくて、自分の弱さを隠し、本音を言わず、相手の望むままに行動しようとする女性。役に立つ者と認められたくて、奉仕に励むクリスチャン。誰もが人から認められ、愛される自分を礼拝し、大切にしているのです。だから、自分を認めてくれない相手を攻撃したり、自分を愛してくれない相手を責めたりするのです。
しかし、私たちの罪の問題はイエス・キリストにおいてすべて解決しました。イエス・キリストは光として私たちの心の闇を照らすだけでなく、私たちに罪の赦しと永遠の命をもたらす救い主です。私たちにとって命の光なのです。イエス・キリストによって、私たちは人を支配する力ではなく、人に仕える力を与えられます。自分の快楽や快適さよりも、弱き人々のために労苦する愛を与えられます。人に認めれようと認められまいと、何が出来ようとできまいと、肩書あろうとなかろうと、この世界を創造した神の子どもとして愛される、そんな神の愛を与えてくださったのです。
なぜ、イエス・キリストにすべての解決があると言えるのでしょうか。それはイエスが私たちに代わり、十字架で神のさばきを受け死なれたからです。
今年大ヒットした映画といえば「鬼滅の刃」でしょうか。皆様の中にもご覧になった方がおられることでしょう。「とても良い。感動した。先生も見るべき」という人が多いので、私もアニメ版、劇場版二つを観ました。私が心惹かれたのは、主人公の生き方とイエス・キリストの十字架とが重なる部分です。主人公の炭次郎は鬼によって家族を殺され、生き残った妹禰津子も鬼と化してしまうという苦難の中にありながら、妹を守りつつ鬼と戦う少年です。
そんな炭次郎が、鬼を倒すため共に戦う鬼滅隊の隊員が死にゆく鬼の顔を踏みにじり、嘲ろうとした瞬間こんな言葉を語るのです。「殺された人の無念を晴らすため、これ以上被害者を出さないため、勿論俺は容赦なく鬼に刀を振るいます。だけど鬼であることに苦しみ自らの行いを悔いているものを踏みつけにはしない。鬼は人間だったんだから。俺と同じ人間だったんだから。足をどけてください。酷い化け物なんかじゃない。鬼は悲しい生き物だ。」
憎んで当然の存在である鬼を可哀そうに思い、自らの行いを悔いる鬼を侮辱し、踏みつけることを赦さない。自分を善、相手を悪として区別して、悪なら倒しても、踏みにじっても、あざ笑っても当然と考える。これがこの世の論理です。その様な中にあって、鬼も自分と同じ人間だったのだからと鬼を可哀そうに思う。そんな炭次郎の生き方に心動かされる人がいるのはよくわかります。
しかし、イエス・キリストの愛はそれよりも遥かに大きいのです。罪なきイエスは自分を十字架につけ、嘲り、非難し、苦しめる人間たち、しかもその行いを少しも悔いていない罪人達のため十字架に登りました。人間が受けるべき神の怒りとさばきを代わりに受け、痛みと苦しみを忍耐し、その死によって私たちに罪の赦しと永遠いのちをもたらしたのです。私たちの罪がいかに深刻か、同時に罪ある私たちの存在が神にとってどれ程大切なものか。十字架は私たちに示しているのです。
ローマ5:8「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」
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