今朝はイエス様の復活をお祝いするイースターの一週間前、受難週の礼拝です。金曜日の夜には聖餐礼拝をおこないます。皆様と一緒にイエス様の十字架の苦しみを思い巡らし、聖餐を通して、十字架の恵みを味わうひと時がもてたらと願っています。この様な状況ですので、無理をなさる必要は全くありませんが、可能な方はぜひご参加ください。聖餐礼拝では、大竹海二先生が説教をしてくださいます。
また、来週のイースターの礼拝では、二人の姉妹が受洗、森家の常喜さんが幼児洗礼、伊藤節郎兄が転会されることになります。私たちとともに、イエス様に従う人生を歩み始める方々、歩んでこられた方を心から歓迎し、祝福する時になればと願っています。
さて、今年の受難節の礼拝では、イエス様が十字架上で語られた七つの言葉を取り上げ、説教してきました。今朝取り上げるのは十字架上の第四の言葉です。
15:33,34「さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」
イエス様が十字架につけられたのは紀元30年の春、ユダヤ人が最も大切にしていたお祭り、過越しの祭りが始まる前の金曜日午前9時のことでした。3時間の苦しみの後、12時に突然全地が暗くなり午後3時まで続きました。その時暗闇に包まれた十字架から、イエス様が大声で叫ぶ声が聞こえて来たんです。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」
実はこの言葉、人々に戸惑いをもたらしてきた言葉でもあります。キリスト教会の歴史には殉教したクリスチャンが沢山います。しかし、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死んでいった殉教者は記録にありません。クリスチャンがこのように叫んで、死ぬことがあるでしょうか。もし、あったとして、人はそれを記録に残し語り伝えるでしょうか。ある人々が言うように、イエス様は弱音を吐き、悲鳴を挙げて人生を終えたということになるのでしょうか。
ギリシャの哲学者ソクラテスは、イエス様と同じように不当な裁判を受けて死刑にされました。しかし、少しも慌てふためくことなく、「悪法と言えども国法なり。」と言って、自ら毒杯を仰いで死んでゆきました。このソクラテスの見事な最後に比べて、イエス様の最後は何と未練がましいことか。そう言ってキリスト教を批判する人もいます。しかし、本当にそうなのでしょうか。
イエス様が地上に来られた理由、それは父なる神が創造されたこの世界が、人の罪のゆえに堕落した状態に落ち込んでいたからです。本来礼拝されるべき神を礼拝する者は僅かしかいない。本来愛し合うべき人間が憎み合う。本来平和であるべき世界から争いが絶えない。本来皆が豊かな生活を送れるはずなのに、貧富の差は広がるばかり。
しかし、罪の中に陥ったこの世界を、父なる神は決してあきらめたりはしなかったんです。その神の思いを知っておられるイエス様は、ご自分が神の御子であるという栄光を捨ててでも、人となることを選ばれたんです。人々がみな神のことばに従う世界になるように、私たちが罪から救い出されるように、一生懸命福音を伝えて歩かれました。泊まる家がなく、石を枕に眠ることがあっても、疲れ果てて船底で眠りながらも、飢え渇くことがあっても、それでも病人を癒し、福音を語り、人々を罪から救い出すために、イエス様は仕えて来られたんです。
しかし、その労苦のすべてをイエス様は否定されました。ユダヤの指導者も、宗教家も、民衆も、ローマの総督も兵士たちも、十字架につけられていた犯罪者も、みながイエス様を嘲ったんです。「お前が本当に救い主なら、十字架から降りてみろ。自分を救え。俺たちのことを助けてみろ。」イエス様はご自分が愛した者たちによって、ご自分が仕えた者たちによって裏切られ、馬鹿にされ、罵られたんです。こんなに悔しいことがあるでしょうか。
しかし、そうなることをご存じで、イエス様は地上に来てくださったんです。人々から捨てられ、十字架につけられる道が父なる神のみ心であると知り、その道を進みゆく覚悟を持たれていたんです。それは、弟子たちが「あなたは神の子、キリスト」と告白した時のことでした。
マルコ8:31「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」
けれども、人々から捨てられ、十字架につけられる苦しみを受けとめ、覚悟を決められたイエス様にも、受け入れがたい神のみこころがありました。それは父なる神に捨てられること、罪人として神の裁きを受けることでした。この世界が創造される前から、父なる神と子なる神イエス様は愛の交わりの中にありました。神のみこころに従って、イエス様はこの世界に下り、人々を愛し、仕え、十字架への道を選ばれたんです。
しかし、その十字架において、人々に否定され、嘲られる、その苦しみには耐えられるとしても、愛する天の父から捨てられる苦しみには耐えがたい。それが最後の最後までイエス様の悩みでした。天の父のみこころには従いたい、しかし、天の父から裁かれることは耐え難い。悩みに悩むイエス様は十字架前夜、ゲッセマネの園で祈りを捧げています。
14:32∼36「さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
「この杯」と呼ばれた苦しみ、天の父から捨てられ、裁かれるという苦しみが、どれ程イエス様を悩ませていたことかが伝わってくる場面です。いつも天の父に従うことを喜びとして来られたイエス様が、十字架を前に「この杯だけは取り去ってください」と祈られた。これほど悲しみもだえるその姿に、神に捨てられ、裁かれることの底知れない恐ろしさを、私たちは覚えます。
そして、翌日の昼12時全地が暗闇に包まれました。聖書において、暗闇は神の裁きのシンボルです。イエス様があれ程恐れ、悲しんでおられた神の裁きが、この時イエス様に下りました。イエス様は捨てられたのです。
私がクリスチャンになって三年目のクリスマス。キャンドルライトサービスで一人の兄弟が証しをしてくれました。立派な社会的な肩書をお持ちでありながら、いつも教会の玄関で来会者に気を遣い、そっとスリッパを差し出す奉仕を黙々とささげる兄弟でした。そんな兄弟がですよ、「イエス様が十字架でこの叫びを叫んでくださらなければ、僕の罪は赦されなかった。」と告白したんです。残念ながらその時の私にはよくその意味が理解できませんでしたが、今なら分かる気がします。
本当なら、罪人である私たちが裁かれて、神様に捨てられなければなりませんでした。それが、罪のない神の御子が人となられ、私たちの罪をすべて背負って、私たちに変わって裁きを受けられました。世界で最大の罪人として神様に捨てられたんです。もし、イエス様があの叫びを叫んでくださらなければ、私たちの罪は赦されることはなかったということです。
イエス様が罪人の一人として苦しまれたところ、そこは底なしの暗闇です。一筋の光さえさすことのない闇の世界です。しかし、その様な暗闇の世界から、イエス様はご自分を見捨てた神に向かって、「わが神、わが神」と叫ばれました。これ以上はないという絶望的な状況の中にありながら、それでもなお神様を「私の神」と呼び、神様への信頼を捨てることはなかったのです。
イエス様の地上の生涯は神様に従う歩みでした。神様のみこころから外れることのない、完全な歩みでした。その完全な従順は十字架の死の瞬間、神様に見捨てられるという状況においても変わることはありませんでした。つまり、イエス様だけが神様から見てただ一人の義人だったんです。
ただ一人の義人であり、神様の祝福を受けるにふさわしいイエス様が、何故自ら神様の裁きを受けられたのでしょうか。聖書はこう教えています。
コリント第二5:21「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」
罪のないイエス様が、私たちの代わりに、罪人として神様に捨てられるという苦しみを忍び通してくださいました。神様は私たちに下すべき裁きをイエス様に下し、イエス様にこそふさわしい義の祝福を私たちに与えてくださいました。だからこそ、私たちは罪あるままで神様に義と認められ、そんな資格は全くないのに、神様の家族に迎えられたのです。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」今朝、私たちはこの主の言葉を静かに思い巡らしたいと思います。今朝だけでなく、生涯をかけて思いめぐらすべき言葉でしょう。多くの人が言うように、この言葉に込められたイエス様の思いを理解しつくすことは、人間には不可能とも思えます。
しかし、そうであったとしても、この言葉は私たちの罪の深さを示しています。私たちが自分の罪を軽く見ることを戒める言葉です。たとえ、私たち人間の目にはどんなに小さな罪に思えても、イエス様の血が流されねば、罪の赦しはありません。同時に、この言葉は天の父の愛、イエス様の愛を教えてくれます。愛する御子を見捨てた天の父の苦しみ、愛する父に捨てられたイエス様の苦しみ。人間には測り知ることのできない苦しみを伴う愛が、今朝礼拝に集う私たちに注がれていることを、確信したいと思います。
最後に確認したいのは、今朝このイエス様の叫びを聞いた私たちの生き方です。十字架への道を歩む決意を語った時、イエス様は弟子たちにこう教えています。
マルコ8:34,35「それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」
イエス様の歩まれた道、それは自分を捨てる道です。イエス様は神の御子としての栄誉を捨て、罪人の一人となりました。完全に神様に従った者が受けるべき祝福を捨て、それを私たちに与えてくださいました。イエス様は私たちにも「自分を捨ててみたらどうか」と勧めています。
私たちの人生を苦しめているものは何でしょうか。それは自分を巡る問題です。私たちはどれ程自分にこだわっているでしょうか。イエス様は「自分の命を救おうと思う者はそれを失う」と言われました。私たちは今日もいつも自分を巡る戦いをしています。自分がどうみられているのか。自分がこうあるべきと思うことをやらない人たちに腹が立つ。自分の思うように生きられないことに腹が立つ。この進路に進むことが出来ないなら、自分の人生はダメになる。家の子どもは最低現これ位の人生を歩んでくれないと、私が恥ずかしい。なぜ自分ばかりがこんな目に会うのか。自分の状況、自分の健康、自分の進路、自分の家族、自分の人生を自分で受け入れられないんです。
何故でしょうか。深いところで私たちは思っているんです。自分はこんな者じゃあないと。人から批判されると何故腹が立つのか。自分はそんなことを言われる人間じゃあないと思っているんです。自分が握りしめているプライドが、実は私たちの人生を損ない続けているんです。逆に自分の人生は意味がない、価値がないと落ち込んでいるとしても、私たちは自分の人生を無駄だと感じ、踏みにじっているんです。
イエス様は「そんな自分を捨ててごらん」と語ります。しかし、悲しいことに私たちは自分の努力で自分を捨てることはできません。一度は捨てたはずのプライドを、一度は捨てたはずのやり方を、もう一度拾って、また握りしめている自分がいます。だから「自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」。そうイエス様は命じておられるんです。
自分の十字架を負うとは、どういうことでしょうか。イエス様の様に十字架にかかって死ぬことでしょうか。違いますね。むしろ、イエス様に赦された命、与えられた命に生きることです。自分の十字架を負うとは、十字架の主の前に日々出てゆくことです。イエス様から愛され、赦されている喜びを味わいながら生きることです。
自分を捨てるとは何もなくなることではありません。自分を捨てる時、私たちはイエス様の愛に生かされている自分を見出すことができます。愛のない、人を赦せない、自分にだけ甘く、自分に取っての損得をすぐに考えてしまう私たちが、神の御子であることを捨ててまで仕えてくださったイエス様と共に歩む時、本当の自分が見えてきます。「わたしはあなたのために自分を捨てた」と言われる十字架の主の前に出る時、私たちは「ああこんなにも自分のことこだわらなくても良いのではないか」と思えてくるんです。もう自分の思い通りに生きてゆけなくても、自分の握りしめていたものを手放すことになったとしても、精一杯目の前にあることに生きてゆこう。背負うべき仕事、背負うべき家族、背負うべき生活を、向き合うことを避けてきたあの人との関係も、自分の弱さでさえも背負ってみようと思えてくるんです。十字架の主イエスの愛に包まれる時、私たちは自分に与えられた命の本当の使い方が、分かって来るんです。私たち皆で自分を捨て、自分の十字架を負う歩みを進めてゆきたいと思います。
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