2020年11月15日日曜日

一書説教(64)「ヨハネの手紙第三~大きな喜び~」Ⅲヨハネ1:1~8

  私たち人間は意味を求める存在と言われます。自分の人生に起こることも、自分が為すことも有意義であると願います。無意味であるというのは恐ろしいこと。苦しいこと、つらいことでも意味があると思えば受け入れ易く、楽しいこと、快いことでも無意味であると思えば虚しくなります。周りの人にとって自分の存在が大切であり喜びであると思えるのは幸いなこと。自分の存在が周りの人を傷つけ、悪い状態にしていると思うのは大変苦しいことです。

 ギリシャ神話に出てくる「シーシュポスの岩」の話。シーシュポスに下された罰は大きな岩を山頂に持っていくこと。シーシュポスが岩を持ち上げ山頂へ向かい、あと少しで山頂に届くところまで岩を持っていくと、岩はその重さで山の下まで転げ落ちていく。延々と続く無意味な労働が、シーシュポスに課された罰でした。日本の民間信仰には「賽の河原の石」があります。死んだ子どもは、三途の川の河原で石を積まなければならない。しかし石積みが終わる前に鬼が来て倒すため、完成することが出来ない。延々と続く無意味な作業。シーシュポスの岩にしても、賽の河原の石にしても、このような話が広く知られているというのは、「自分のしていることが無意味であると思うこと」に対する恐れを多くの人が抱いていることを物語ります。

 米澤穂信という作家が書いた「ボトルネック」という本があります。人はどうしたら絶望するのかを描いたもの。主人公が、ある夢を見て絶望する物語です。皆様は、どのような夢を見たら絶望すると思うでしょうか。主人公が見た夢は、現実の世界と同じ世界であるものの、自分の代わりに別な人が生きているというもの。そして、自分の人生を他の人が生きると、現実よりも良い世界となっていくのです。「自分がいると周りの人が不幸になる、自分がいると世界は悪くなる」。そのように思うことが人を絶望へ導くという話。なるほどと思います。

 自分の人生に起こることに意味はない。あるとしても、悪いことしか起こらない。自分は人を傷つけ、悪影響を与えるしか出来ない。そのように思いながら生きるのは大変なこと。恐ろしいことです。

聖書は、世界を造られた神様は、造られた世界を放置しているのではなく、治めていると教えています。私たちの神様は造り主にして支配者である方。そして神様は私たち一人一人の人生に意味を与え、用いて下さる方だとも教えています。「あなたの人生に起こることには意味がある。」「あなた自身が為すことにも意味がある。」というのは、聖書が教える重要なメッセージの一つです。皆様は自分の人生に起こる様々な出来事に重要な意味があると思えるでしょうか。自分自身の為すこと、自分自身に重要な意味があると思えるでしょうか。

 

断続的に取り組んできました一書説教、今日は通算六十四回目となります。一書説教の歩みは今日含めて残り三回、いよいよ終わりが近づいてきました。今日扱うのはヨハネの手紙第三。十二弟子の一人、ヨハネが記した小さな書簡となります。この手紙を、私の人生に起こることにはどのような意味があるのか。私自身が為すことにどのような意味があるのか。私はそれを喜ぶことが出来るのか。考えながら読みたいと思います。

 一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。

 

 手紙自体に入る前に、「私の人生に起こることには意味がある。」「私が為すことに意味がある。」という聖書の教えに注目します。私たちの人生にはどのような意味があるのか。このテーマについて聖書は様々な表現で答えを出していますが、今日は次の言葉から考えたいと思います。

 ローマ8章28節~29節

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。」

 

 聖書中、極めて有名な聖句の一つ。「神を愛する人、神のご計画にしたがって召された人」というのは、イエス・キリストを救い主と信じる者のことです。この世界で起こりくる全てのことが、キリストを信じる者にとっては益となると言われています。多くの信仰者に愛され、同時に多くの信仰者が困惑する言葉。私の人生に起こりくることは意味がある。すべてのことがともに働いて益となると言われて良かったと思える。同時に、受け入れがたい出来事を前にした時、すべてのことがともに働いて益となると言われても、そうは思えない。納得できない。受け入れがたい言葉ともなります。

この「益」というのは、その人にとって嬉しいとか、良いと思えるという意味ではありません。目的に沿っていることを意味します。それでは、その目的とは何かと言えば、キリストを信じる者が、御子のかたちと同じ姿になること。キリストを信じる者が、キリストに似る者となることです。

つまり、キリストを信じる者にとって、その生涯に起こることは、その者がイエス様に似るという目的には沿ったものとして有効に働く。仮に本人にとって、嫌なこと、苦しく辛いことでも、キリストに似るという目的には沿った恵みであるというのです。この世界は、私がキリストに似る者となるために存在している。

 これはまた、自分の周りにいるキリスト者にも当てはまります。つまり、私の為すこと、私の存在自体が、周りにいるキリスト者がキリストに似る者へとなるために用いられている。私は、周りにいるキリスト者のために存在している。

 

 神様は世界を治める際の重要な指針の一つは、キリストを信じる者がキリストに似ること。その目的に沿って世界は治められている。この聖句を真実なものとして受け止める時、私たちがキリストに似る者となることに、神様が並々ならぬ思いを持たれていることが分かります。イエス・キリストの十字架で死と復活も、私たちがキリストに似るためのこと。神様の世界を支配される力、全知全能の力は、私たちがキリストに似る者となるように用いられている。人間的な表現が許されれば、神様は何としても、私たちをキリストに似る者としようとされているのです。

 このような神様の思いを、私たちはどれだけ真剣に受け止めてきたでしょうか。私自身、キリストに似る者となることを願ってきたのか。周りにいる信仰の仲間が、キリストに似る者へと変えられることを願ってきたのか。嬉しいことも、悲しいことも、私がキリストに似る者となるように与えられた恵みと受け止めてきたのか。キリストに似る者となるということにどれだけ真剣に向き合ってきたのか。心探られるところです。

 

 ヨハネの手紙第三。この小さな手紙の中には、キリストを信じる者がキリストに変えられていくことを喜ぶ姿がストレートに出てきます。神様の情熱を受け止めたヨハネの筆。書き出しは次のようなものです。

 Ⅲヨハネ1章1節~2節

「長老から、愛するガイオへ。私はあなたをほんとうに愛しています。愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」

 

 ヨハネが残した三つの手紙。第一の手紙は、宛先が記されていない特殊な手紙。一般的な手紙というより説教のような印象でした。第二の手紙は、選ばれた婦人と子どもたちに宛てて記されたもの。選ばれた婦人と子どもというのが、ヨハネのよく知る相手のことなのか、教会を指して使った言葉なのか、どちらの可能性もありました。どちらにしても、内容は具体的というより一般的なものでした。

 この第三の手紙は、ガイオに宛てたもの。ガイオとうのは当時よくある名前で、聖書の中にも、マケドニヤのガイオ(使徒19章29節)、デルベのガイオ(使徒20章4節)、コリントのガイオ(Ⅰコリント1章14節)と出てきます。ヨハネがこの三人の誰かに書いたのか、別のガイオに書いたのか分かりませんが、ともかくヨハネにとってとても親しい人物であることは分かります。三つの手紙のうち第一の手紙は説教的、第二の手紙は一般的、この第三の手紙は個人的な印象です。使徒ヨハネから親しい信仰の友ガイオに宛てた親書。

 

 書き出しから繰り返し愛を伝えます。「愛するガイオへ。」「ほんとうに愛しています。」「愛する者よ。」手紙を書くということは、ガイオとは普段会えない状況だったのでしょう。そのような信仰の仲間に、愛を伝えたくてしょうがないヨハネ。その愛は、ガイオの人生に幸いがあるように、健康でいられるようにと祈ることにつながります。麗しい関係。

 学校の友人や、会社の同僚は仲間であると同時に競争相手にもなる。仲間の成功が羨ましく妬ましい場合もある。しかし信仰の仲間との関係は、一つの体というものでした。手が足と競争関係にはなり得ない。互いに支え合い励まし合う関係。「この人が生活の全ての点で神様からの恵みを受けるように。」心から祈れるのは幸いなことでした。

 皆様は、ヨハネにとってのガイオのような信仰の仲間がいるでしょうか。愛を伝えたくてしょうがない、祝福を心から願う人。あるいはガイオにとってのヨハネのような信仰の仲間がいるでしょうか。自分を愛し、祈り続けてくれる人。私たち皆で、ここに示されるような信仰の仲間との麗しい関係を築きたいと思います。

 

 手紙の内容ですが大きく二つに分けることが出来ます。前半はガイオに対する賞賛の言葉。後半は注意喚起の言葉。

 Ⅲヨハネ1章3節~8節

「兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます。私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。愛する者よ。あなたが、旅をしているあの兄弟たちのために行っているいろいろなことは、真実な行いです。彼らは教会の集まりであなたの愛についてあかししました。あなたが神にふさわしいしかたで彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それはりっぱなことです。彼らは御名のために出て行きました。異邦人からは何も受けていません。ですから、私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです。」

 

 聖書に記録されているキリスト召天後の弟子たちの記録。その多くはパウロに関するものです。パウロがどこで誰と何をしたのか、ある程度聖書から分かりますが、ヨハネについてはあまり記されていません。しかしここに記されていることから分かるのは、ヨハネもパウロと同様に、ヨハネ自身が行くことの出来ない教会を応援し励ますために、何人かの奉仕者を送り出していたこと。派遣していた者たちがヨハネのもとに帰ってきて、ガイオの姿を報告。その報告がヨハネにとって、大きな喜びでした。ガイオの姿、何が喜びだったのか。「真理に歩んでいる」こと。キリストを信じる者として生きていること。キリストに似る者となる歩みをしていること。それが嬉しい。

 

 キリストに似る者となる歩みというのは、ヨハネ自身もしていることです。ヨハネと言えば、イエス様と旅をしている時、自分たちを受け入れなかったサマリヤの村に対して、「天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と言った人(ルカ9章54節)。あまりの気性の粗さから、イエス様から雷の子と名付けられた人(マルコ3章17節)。イエス様が、十字架に架かることを予告された際、やがてイエス様の隣の座に着きたいと願い出た人。復活を告げられていても、信じていなかった人。しかし、神様はヨハネを造り変え、長らく使徒の働きをする者、五つもの書を残す聖書記者とし、その記述から愛の使徒と呼ばれる人となります。全てのことを働かせてキリストに似る者とされる恵みはヨハネ自身も頂いているもの。ヨハネは自分に与えられている恵みを喜んだでしょう。

同時に、ガイオの姿を聞いた時、その恵みがガイオにも与えられていることを大いに喜びます。罪人が神の子とされる。自分中心にしか生きられなかった者が、神を愛し隣人を愛する者へと変えられる。人を作り変える神様の御業を感嘆する喜びです。

 

 またヨハネは、「私の子どもたちが真理のうちを歩むことが嬉しい」と言っています。この「私の子ども」とは信仰の子どものこと。ヨハネの伝道によってキリストを信じた人のこと。おそらくガイオもその一人なのでしょう。ある人が、キリストを信じ、キリストに似る者となる歩みを始めた。その歩みに自分の人生が用いられていることの喜び。ヨハネからすると、ガイオがキリストに似る者となる歩みをしていることが喜びであり、その歩みに自分が用いられていることも喜びでした。

 

 このようにガイオの様子を聞き、称賛し、その姿を喜ぶヨハネは、後半では注意喚起をします。

 Ⅲヨハネ1章9節~11節

「私は教会に対して少しばかり書き送ったのですが、彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちの言うことを聞き入れません。それで、私が行ったら、彼のしている行為を取り上げるつもりです。彼は意地悪いことばで私たちをののしり、それでもあきたらずに、自分が兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人々の邪魔をし、教会から追い出しているのです。愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことのない者です。」

 

 派遣していた者たちがヨハネのもとに帰って来てなされた報告には、ガイオのような嬉しい報告もあれば、デオテレペスのような心配な報告もありました。デオテレペス。ここにしか名前が出てこない人で、どのような人かよく分かりません。かしらになりたがっている人。ヨハネの言うことを聞かず、意地悪い言葉でののしり、兄弟を受け入れようとしない。それどころか、正しい歩みをしている者を教会から追い出している人。残念な人。とはいえ、私たちはデオテレペスが聖書に登場することに励ましを受けます。キリストに似る歩みは、決して順風満帆ではない。罪の性質がむき出しになることもあるのです。私たちの歩みは、称賛されるばかりのものではない。ガイオのような姿を見せる時もあれば、デオテレペスのような姿を晒すこともあります。

 ヨハネはデオテレペスに手紙を書いたものの、受け入れてもらえなかった。そのためデオテレペスのもとに行き、彼のしている行為を取り上げると言います。無視するのではない。見捨てるのもない。何とかデオテレペスと関わろうとするヨハネ。かしらになりたがっているデオテレペスからすれば、していることを取り上げられるのは、つらいこと、嫌なことでしょう。しかし、デオテレペスがキリストに似るためには、それもまた必要なこと。

 信仰者の歩み、キリストに似る者となる歩みには、励まし合い祈り合う関係だけでなく、注意し合うこと、正しくあるように働きかける関係も必要であることが教えられます。

 

 以上、個人的な小さな手紙、ヨハネの手紙第三を見てきました。読むとなればすぐ読める書。是非とも、今日はヨハネの手紙第三を手にとって頂きたいと思います。

 私の人生には起こることには意味がある。神様がこの世界に起こる全てのことを通して、私をキリストに似る者へと変えて下さる。また私が為すことにも意味がある。私が為すことを通して、周りにいる人がキリストに似る者へと変えられていくように神様が用いて下さる。この世界観に立って、今の自分の歩みを見たいと思います。

 この手紙に示されたヨハネとガイオの姿に励ましを受けて、私たちにも同じ時代、キリストに似る者へ変えられていく歩みをともにする教会の仲間が与えられていることを大いに喜びたいと思います。私たち皆で、互いに愛し合い、仕え合い、祈り合い、励まし合う関係を築き上げたいと思います。

罪人が神の子とされる。自分中心にしか生きられなかった者が、神を愛し隣人を愛する者へと変えられる。人を作り変える神様の恵みが私にも与えられ、教会の仲間にも与えられていることを、大いに喜ぶ者でありたいと思います。

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