今私が礼拝説教を担当する際使徒の働きを読み進めていますが、今日はその第四回目となります。
新約聖書の第五巻目「使徒の働き」のテーマは、イエス・キリストの弟子たちによる福音伝道と教会形成です。ユダヤの都エルサレムに誕生したキリストの教会がギリシャローマの世界にまで達する様子を描いているのです。
先回と言っても一か月前になりますが、私たちはエルサレム神殿の一角に集る弟子たちに対し天から聖霊がくだされた事、ペンテコステの出来事を確認しました。この日ユダヤでは年に一度の収穫祭が祝われ、エルサレムには様々な国から巡礼者が集まり賑わっていました。すると朝早く激しい音が響き炎の様な舌が現れ、弟子たちに聖霊が下ると、彼らは習ったことのない外国語で人々に神が行った救いのわざについて語り始めたというのです。
それ以来、キリストの教会はこの出来事を記念して、ペンテコステの礼拝をささげてきました。何故、キリストの教会はこの出来事を記念するようになったのでしょうか。何故この日弟子たちに起こった事がそれ程大切なことだったのでしょうか。その日これを見、驚いた人々の中には「あいつらは朝っぱらから酔っぱらってやがる」と弟子たちをからかう者もいたようです。ペテロは彼らの声を遮ると、自ら声を張り上げペンテコステ、聖霊降臨の意味を語り出したのです。
2:14∼21「ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られたことです。『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。』
注目すべきは、ペテロと彼と共に立ち上がった使徒たち11人の大胆さです。ついこの間まで都の人々の目を恐れ、身を隠していた弟子たちが大胆にも公衆の前に姿を現したのです。ペテロは大声を上げると人々を見つめ、「みなさん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい」と語り出したというのです。
何故でしょうか。エルサレムが彼らにとって安全な町に変わったのでしょうか。都の人々が好意的になったのでしょうか。そうではありませんでした。主イエスが十字架につけられたのは僅か二か月前の事。「イエスを十字架につけろ」と叫んだ人々の熱狂は未だ冷めやらず。宗教家も民衆もその多くは反イエス、アンチキリストの状態にありました。都は弟子たちにとって決して安全な場所ではなく、むしろ危険な場所だったのです。
そうだとすれば、何故ペテロは臆することなく人々の前に立ち、彼らの目を見つめ、声を上げ語り出す程大胆になれたのか。一体何がペテロに起こり、彼を変えたのか。これは大切な点ですので、後程取り上げたいと思います。
ところで、ペテロが説教の冒頭で取り上げたのは旧約の預言者ヨエルの預言です。最初に「終わりの日」という言葉が出てきますが、これは二千年前主イエスが到来してから、やがて再臨するまでの期間全体を示す独特の表現でした。その終わりの日「息子も娘も」つまり男も女も、青年も老人も、「しもべもはしためも」つまり社会的な身分や立場に一切関係なく、神を信じるすべての人に聖霊が注がれ、すべての人が神の言葉を語り、すべての人が神の救いに預かる。これがヨエルの預言でした。ペテロはこの預言が今日エルサレムの町で実現したと宣言しているのです。そして、この日から神の救いの言葉は山を越え、海を越え、世界中に広がってゆくと告げたのです。
他方、この時代は苦難や災いがもたらされる時代でもあります。19節から21節「また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。」血と火と立ち上る煙。これらは聖書において、神に敵対する者にもたらされる苦難を示しています。太陽は闇に、月は血に変わるとは、神に逆らう世界に下される災いを指しています。
そして「血」と聞くと思い起こすのは、旧約の昔イスラエルの民を奴隷とし苦しめたエジプトの王パロに対して神がもたらした災いです。神はナイル川を打ち、その水を血に変え、エジプトの経済を混乱させ、奢れるパロを苦しめたのです。また、「火と立ち上る煙」と聞いて頭に浮かぶのは、やはり旧約の時代、神にさばかれたソドムとゴモラの町です。経済的繁栄を誇ったソドムとゴモラは人間の欲望と暴力が横行する悪徳の町であり、そこでは信仰の人ロトが苦しめられていました。神が天から火を降らせソドムを焼き尽くすと、立ち上る煙の中からロトは救出されたのです。
そして、主の大いなる輝かしい日つまり主イエスが地上に戻ってくる日の直前、太陽が闇に、月が血に変わるという天変地異、世界大の災いが起こるとペテロは語っています。
それにしても、神は何故この地上に苦難や災いが起こることを許可されるのでしょうか。それは人間が自らの罪を悟り、神に立ち帰るためです。神が最後のさばきを行う前に、その予兆として様々な苦難や災いをもたらされる。そうペテロは言うのです。しかし、人々が苦難や災いの中で自らの罪を悟り神に立ち帰るとしても、もしこの地上に救いの道を宣べ伝える者がいなければ、誰一人として救われることはできません。だから、神は今日この日、神の救いの道を宣べ伝え、証しする者たちの群れ、キリストの教会を建て上げられた。そうペテロは教えているのです。
こうしてヨエルの預言を説明し終えると、神が主イエスによって開いた救いの道とは何なのか。神は主イエスによって何を行い、あなた方は主イエスに対しどう応答したのか。息つぐ間を惜しむかのようにペテロは語ります。先ずは十字架についてです。
2:22∼23「イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。」
一見すると、ペテロは主イエスを十字架の死に追いやったユダヤ人を批判しているように見えます。しかし、積極的に加担することはなかったものの、イエスの十字架を前に我が身を守るため主を裏切ったペテロが、自分に人を批判する資格があると考えていたとは思えません。むしろ、ペテロの言葉のポイントはユダヤ人の犯した罪にもかかわらず、神は計画通り主イエスを十字架につけ、死に至らしめたという点にあります。神はユダヤ人の罪も弟子の裏切りも、すべてを予め知ったうえで、主イエスの十字架の死を定めていたとペテロは言いたのです。
次は復活です。主イエスの十字架の死が神のみ心であったように、主イエスの体の復活もまた神のみこころであり、神が定めたことだったのです。そして、ペテロは主イエスの肉体の復活が、既に旧約聖書において預言されているとし、ダビデの詩篇から引用しています。ダビデはイスラエルの王として活躍したと同時に神を賛美する詩人としても優れた作品を残していました。その詩篇の中には、やがて神が遣わす救い主に関する預言所謂メシア預言も含まれていたのです。
ペテロはそれらメシア預言の中から二つをイエスの復活の預言として、一つをイエスが天に挙げられたことの預言として引用しています。それによって自分たちが目撃した主イエスの復活と昇天が夢でも幻でもなく、神の定めであり、歴史の事実であると説いているのです。この点を踏まえ、この方、私とある所をイエス、主とある所を父なる神と置き換え読んでみます。
2:24∼32「しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方(イエス)が死につながれていることなど、あり得なかったからです。ダビデは、この方について次のように言っています。『私(イエス)はいつも、主(父なる神)を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も、望みの中に住まいます。(父なる神よ)あなたは、私(イエス)のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者(イエス)に滅びをお見せにならないからです。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。』兄弟たち。父祖ダビデについては、あなたがたに確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日に至るまで私たちの間にあります。彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人(イエス)を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼(イエス)はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」
こうして読み直すと、主イエスが十字架の死に際し、肉体の復活を確信し喜んでおられたことを私たちは確認できます。同時に、主イエスを信じる私たちの将来の復活も確心することが出来ると思います。三つ目は昇天です。主イエスが天に挙げられることも神のご計画であることがダビデの預言によって再度確認されています。
2:33∼36「ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。ダビデが天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。『主(父なる神)は、私の主(イエス)に言われた。あなた(イエス)は、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。』ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
「神はあなた方の罪を赦すためにイエスを十字架の死に追いやり、あなた方に永遠の命をもたらすためにイエスをよみがえらせ、あなた方に聖霊を与えるためにイエスを天に挙げられた。イエスこそ神があなた方のために遣わした救い主であるのに、あなた方は神のみ心を悟らず、イエスを拒んだ。しかし、今あなた方はイエスにどう応答するのですか。再びイエスを拒むのですか、それとも信じるのですか。」こうして、神が主イエスによって私たちのために行った救いのわざを説き終え、ペテロは説教を閉じたのです。人々がどう応答するのかは次回に扱うことにします。
さて最後に考えたいのは、人を恐れ身を隠していた、ペテロと11人の使徒たちが大胆かつ確信に満ちて生きる者へと変わった理由です。その最大の理由はペテロ自身が説教で語った事、神が主イエスによって彼らのためにしたことの意味を理解し、それを信じたからです。復活の主イエス地上にいた間、弟子たちのために行ったのは聖書を開き、ご自分の死と復活にどの様な意味があり、どれ程の神の恵みがあるのかを繰り返し教えたことです。
ルカ24:45∼48「それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。」
弟子たちは、聖書を通して主イエスが自分たちに代わり自分たちが受けるべき神の怒りを受け、十字架で死なれたこと。主イエスが自分たちに永遠の命をもたらすために復活してくださったことを確信した時、神の犠牲的な愛に捕らわれて心を変えられ、大胆な行動へと導かれたのです。
信仰の仲間の存在も大きかったと思います。この場面、説教を語るのはペテロ一人でしたが、ペテロと共に立ちあがった11人の仲間がいました。神殿には他にもペテロのために祈る兄弟姉妹たちもいました。ペテロは彼らの存在によって支えられていたのです。福音を伝え福音を証する働き、それは教会全体が協力しておこなうわざであったし、そうあるべきなのです。
私たちも同じではないでしょうか。神を離れ、神に背いて生きて来た私たちのために、神はイエス・キリストを与えてくださいました。私たちも主イエスを信じ、自らの罪を告白して罪の赦しと永遠の命を受け取る時、神の愛が私たちの心を捕え、私たちは新しく作り変えられていくのです。
私たちはペテロたちと同じく終わりの時を歩んでいます。そして、ペテロが語った様に、私たちが歩む時代は決して明るく希望に満ちた時代ではありません。私たちが生きる世界は平和な世界でもないのです。かってのエジプトがそうであったように、力ある者が弱き者を支配し、虐げ、時には命さえも奪う。そんな時代なのです。かってのソドムとゴモラがそうであったように、経済的には繁栄を謳歌するとしても、人々は神を無視して欲望のままに生き、悪徳がはびこる世界、神を信じる者にとっては心を痛めるべき世界なのです。この世界は神が警告としてもたらす大規模な災いに繰り返し悩まされる場所なのです。そして私たちキリスト者もこれらの苦難と災いを免れることはできません。しかし、それでも神がこの世界をあわれみ、この世界を新天新地へと造り変える計画を着々と進行していることを私たちは知っています。この世界のために、神がイエス・キリストを通してただ一つの救いの道を開いてくれたことをキリスト者は知っているのです。だからこそ、主イエスの福音を証し宣べ伝えることが教会の使命、私たち四日市キリスト教会の使命なのです。
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