2020年10月25日日曜日

「良い管理者として」Ⅰペテロ4:7~11

 キリスト教は歴史宗教です。歴史上の出来事は偶然に起こるのではなく、神様との関わりでそれぞれ意義があると説く宗教。聖書が示す歴史観は、時間を超越、支配する神様が歴史の舞台である世界を創造し、導き、歴史の目的・終末へと進ませる全歴史を直線とみなします。この全歴史の中心に、神様が遣わされた救い主イエス・キリストの生涯、特に十字架での死と、死からの復活があると観て、そこに歴史を解く鍵を見出します。

このようなキリスト教歴史観が登場した二千年前のローマ地中海世界でよく知られた歴史観には、歴史の意義を一切認めない不可知論、宿命や偶然が支配する運命論、神々が関わる場合でもギリシャ神話のように神々でも歴史に支配されるものがありました。その多くは、歴史は大きなサイクルで繰り返されると考えるものです。

これらの歴史観の共通点は、時間を超越した神の存在を認めないこと。起こりくる出来事に意味があるとは認めないこと。歴史には目的があり終わりへ向かって進んでいるとは認めないことです。そしてこのような歴史観を持つ人が多くいるのは、何も二千年前のローマ地中海世界だけのことではなく、今の日本でも同様でしょう。多くの人が、歴史を支配する神を認めず、出来事の意味を認めず、終わりへ向かっていることを認めず生きています。その中で私たちはどのように生きていくのか。

目的がありゴールがある世界にあって、私たちは何を大切にしつつ生きたら良いのか。皆様とともに考えたいと思います。

 Ⅰペテロ4章7節

「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」

 

 聖書の第一声は「はじめに神が天と地を創造された。」というもので、この世界には始まりがあることが明言されていました。始まりがあれば終わりもある、この世界は終わりへと進んでいる。終わりの時については旧約聖書で予告され、イエス様も語りました。終わりの時が近いというのはペテロだけでなく、パウロもヨハネもヤコブも告げています。「万物の終わりが近づいた」、緊張感ある言葉です。

 

 ところで、この終わりの時には何が起こるのか。ペテロは「万物の終わりが近づきました」という直前に次のように記していました。

 Ⅰペテロ4章5節~6節

「彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。」

 

 終わりの時の一つの側面、重要な側面は、人間は全てのものを裁かれる方の前で申し開きをする時となること。私たちはやがて、人生の大小表裏、すべての申し開きをしなければならないと教えられています。

かつては、どうせ死んだらそれで終わりと考えていた。行いの悪であろうとも、心の中の悪であろうとも、他の人に知られなければ悪ではないと思っていた。しかし終わりがあること、裁き主の前で申し開きをする日があることを知ると生き方が変わります。それも、必ずその日が来ると聖書で教えられて、真剣に生きるようになるのです。

 私たちの信仰告白、ウェストミンスター信仰告白の最後の最後の告白は次のようなものでした。

 ウェストミンスター信仰告白 第33章 3項

「キリストは、すべての者に罪を犯すことを思いとどまらせるためにも、逆境にある信者の大いなる慰めのためにも、わたしたちに審判の日のあることを確実に信じさせることを欲すると同時に、その日を人に知らせずにおかれる。それは、彼らがいつ主が来られるかを知らないから、一切の肉的な安心を振り捨て、常に目をさまし、いつも備えして、「来たりませ、主イエスよ。すみやかに来たりませ」と言うためである。アーメン。」

 この世界には目的がありゴールがあることを覚えることの大切さが如実に教えられる告白の言葉です。

 

 さてペテロは「万物の終わりが近づいた」と言いました。すべての者が裁き主の前で申し開きをする時が近づいた。それでは私たちはどのように生きたら良いのかと言えば、祈るように。心を整え、身を慎み、祈るように。第一に祈ることが挙げられます。世の終わりが近いと気勢を上げる、騒乱するのではなく、静かに祈る。

 イエス様が告げられた終わりの時のしるしは、「民族は民族に、国は国に敵対し、戦争、飢饉、地震、疫病が起こり、多くの偽預言者が現れ、不法がはびこり、愛が冷え、裏切りや憎み合いが起こる」というものでした。世界が大騒ぎ、大混乱する。その中でキリスト者は祈るようにと教えられる。

 これがペテロの勧めであることも印象的です。ペテロと言えば動の人。沈着冷静というより血気盛ん。イエス様が十字架を予告すれば「そんなことはない」と直言し、イエス様を捕えに来た者には剣を振るい、復活のイエス様だと気づけば湖に飛び込んで馳せ参じる。あのペテロが、心を整え、身を慎み、祈るように勧めている。落ち着いて祈ることが、キリストの到来を待つ信仰者にとって、いかに大事なことであるのか教えられます。私たちは祈りの生活をどれほど大切にしているでしょうか。

 万物の終わりが近づいた。祈るように。まずは神様に向くように。続いて私たちは何に取り組んだら良いのか。

 Ⅰペテロ4章8節

「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」

 

 祈りに続いて勧められるのは、互いに愛し合うこと。「何よりもまず」と最優先事項として互いに愛し合うことが挙げられます。祈る者、神に向き合う者、神を愛する者は、隣人を愛する者となる。イエス様が最も大切な戒めとして、神を愛し、隣人を愛することを挙げたことが思い出されます。

 また「愛は多くの罪をおおう」とも言われています。美しい表現。罪を贖うのは、救い主のなすこと。私たちが互いに愛し合うことで、誰かの罪が赦されるわけではありません。しかし罪の結果の痛み、傷、損害は、互いの愛で覆うことが出来る。人の罪の結果、傷ついた世界、傷ついた者たちを、互いの愛で覆っていく。神様の愛を受けた者として、愛し合うことこそ、再臨のイエス様をお喜ばせする姿とみます。

 万物の終わりが近づく。この世は狂騒、混乱を増す中で、静かに祈り、熱く愛し合う者たち。暗闇が増す中で光を灯す者たち。私たちはかくありたいと思います。

 

 このように万物の終わりが近づいた際に私たちがすべきこととして、祈ること、互いに愛すること、神を愛し隣人を愛することを命じたペテロは、続けて愛することの具体例を挙げていきます。

 Ⅰペテロ4章9節~11節

「不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。」

 

 互いに愛することは、互いにもてなし合うこと。家を開放し招くこと。食事を用意し歓迎すること。寝床を用意し休んでもらうこと。ペテロもパウロも、旅先でもてなしを受けた人でした。聖書の中には自宅を開放する、旅人をもてなすことで活躍した信仰者も出てきます。パウロは長老の資質の一つに、もてなす人であることを挙げています。もてなすことで、特に印象的な聖句に「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました。」(ヘブル13章2節)があります。イエス様も終わりの日に「あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸した」(マタイ25章35節)と言われる幸いを教えていました。愛することの具体的な表れの一つはもてなすこと。自分の生活を分かち合うことでした。私たちはどれだけもてなすことが大切なことだと思っているでしょうか。どれだけもてなすことに取り組んできたでしょうか。

 また互いに愛することは、互いに仕え合うこと。神様から頂いた良いもの、賜物を他の人のために用いること。無理をしたり、背伸びしたりするのではなく、すでに与えられている賜物で仕え合うように。

大事な点の一つは、私たちはみな、賜物が与えられていると明言されていることです。隣人を愛するように、隣人に仕えるように私たちに教える神様は、命じるだけでなく、その力も与えて下さっている。このように考えますと、自分には他の人に仕える良いものはないと言ってはならないのです。

 また良い管理者となるようにも教えられていることも重要です。所有者と管理者は違います。私たちの賜物の所有者は神様。私たちは委ねられた賜物を管理する者。管理する者は、所有者の意向に沿ってそれを用いるのです。自分のために用いるのではなく、他の人のために用いる。それが隣人を愛することであると教えられるのです。

 

 ところで、賜物といっても様々なものがあります。ペテロ自身、ここで「様々な恵み」と表現していました。しかし具体例としては二つ選ばれています。神の言葉を語る賜物と、奉仕をする賜物の二つ。「語る」と「奉仕する」。これは、ペテロが教会を意識しているのではないかと考えられます。

 もてなすという個人的、家庭的な事柄も、教会を建てあげるという公的、共同体的な事柄も、賜物を用いて他の人に仕える。生活のあらゆるところで、隣人を愛することに取り組む。それこそ、万物の終わりの時に相応しい歩みであると教えられます。

 

 この世界は始まりがあり、終わりがあります。目標がありゴールへ向かう世界です。今や終わり、ゴールが近づきました。全ての人が、裁き主である神様の前に立つ時が近づいています。この世界は狂騒、混乱を増します。しかし、あなたがたは身も心も整えて祈りに専念しましょう。互いに愛し合いましょう。互いにもてなし合いましょう。互いに仕え合いましょう。家庭においても、教会においても、賜物の良い管理者として、自分の人生を他の人のために用いましょう。その生き方こそ、イエス・キリストを通して、神があがめられる生き方です。

 手紙を書いていたことを忘れたかのように、いきなり「すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。」と賛美を口にするペテロ。キリスト者が、神を愛し隣人を愛する時、どれほど神様のすばらしさを表すことになるのか。胸を熱くするペテロの姿が印象的です。

 

 このようにペテロの勧めを聞きまして、皆様は熱心に祈りたいと思えるでしょうか。もてなしたい、仕えたいと思えるでしょうか。賜物の良い管理者として、自分に与えられた情熱や賜物を、教会を建て上げるために用いたいと思えるでしょうか。思えるとしたら幸いなこと。喜びつつ祈りに専念し、喜びつつ隣人を愛することが出来るほど幸いなことはありません。しかし、そうしたいと思えない時。聖書の勧めを素直に受け取れない時、どうしたら良いのか。

 私たちの信仰生活は愛に基づくもの、愛に導かれることが大事であると聖書は繰り返し教えていました。しかし、「認められたい、尊敬されたい、好意を得たい。あるいは義務感を感じながら。あるいは正しく生きないと悪いことが起こるのではないという恐怖に駆り立てられて。」という「愛」以外の理由で信仰生活を守ろうとすることがあります。それは、どれほど苦しく、重く、つらい歩みとなるのか。しかもそれはつらいだけでなく、意味のないもの、価値のない歩みとまで聖書は明言します。

 Ⅰコリント13章1節~3節

「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」

 

 隣人を愛する行為として、持っている者を全て分け与える、からだを引き渡すというのは、これ以上ない行為。それ以上、取り組みようがない愛し方です。しかし、それが愛に基づくものでなければ、価値がない、何の役にも立たないと言われる。衝撃的な言葉。今日のペテロの手紙に合わせて言えば、身も心も慎み祈りに専念し、互いに愛し合う、互いにもてなし合う、互いに仕え合うとしても、愛がなければ何の意味もないということです。それでは、どうしたら私たちの信仰生活は愛に基づくもの、愛に導かれる歩みとなるのでしょうか。

 

 イエス様がパリサイ人シモンの家に招かれ食事をした時のこと。そこに招かざる客の罪深い女が来て、泣いてイエス様の足を濡らし、髪の毛でぬぐい、口づけして香油を塗ります。その場面でイエス様が言われたこと。

ルカ7章47節

「ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」

 

 「多くの罪を赦された者は多く愛する。赦されることの少ない者は愛することも少ない」と出てきます。私たちの信仰生活が愛に基づくものであることの秘訣が、ここにあるように思います。

 私たちはイエス様によって、全ての罪が赦されました。その全ての罪を、多いと見るのか、少ないと見るのか。どこかで自分のことを立派な人間だと思っている。どこかで自分のことを罪人と言ってもたいしたことはないと思っている。それでは、私を救うイエス様の愛が正しく分からないのです。多く赦された者として生きるということは、自分がいかに罪深いか十分に味わうということです。

 

以上、目的がありゴールがある世界にあって、私たちは何を大切にしつつ生きたら良いのか、考えてきました。ペテロは万物の終わりが近づいたと宣言しています。私たちも、漠然といつかはイエス様が来られるだろうと思うのではなく、今日なのか、明日なのか、いつイエス様が来られても良いように備えていきたいと思います。しかし、その備えるというのは、浮足立ち、騒ぎ経つような歩みではない。むしろ地に足をつけ、毎日の生活を大切なものとして生きることでした。身も心も整え、祈りに専念する。互いに愛し合い、互いにもてなし合う、互いに仕えある歩みをすること。自分に与えられた良いもので他の人に仕える。自分の人生を他の人のために用いていく。教会を建て上げることに取り組む。

 これらの取り組みのおおもとに、神様への愛があるように。そのために、自分の罪深さをよく味わうように。「神様、どうぞ私の罪深さと、それを救うイエス様の愛の大きさを教えて下さい。」と祈る大切さを覚えます。

 私たち一同で、ペテロの勧めを前にして、どのように身も心も整えるのか。何を祈るのか。誰をもてなすのか。どのようにもてなすのか。自分に与えられた賜物は何なのか。それを用いて人に仕えるとはどうすることなのか。教会を建て上げるために何が出来るのか。真剣に考え取り組む歩みをしていきたいと思います。

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