一般的に作品は作者の素晴らしさを表します。音楽、絵画、彫刻、小説、映画…この世界には様々な作品がありますが、素晴らしいものに触れる時、私たちはその作者を称賛します。
聖書は、この世界は神によって造られたと教えます。キリスト教の基本的であり中心的な教えの一つ。神様によってこの世界は造られた。それはつまり、この世界は作者である神様のすばらしさを示すために存在しているということです。私たち人間含め、造られたあらゆるものは神様のすばらしさを表すもの。これを信じるかどうか、その人の人生に大きな影響があります。
「作者なし」としてこの世界があると考えれば、この世界がどれほど美しく、面白く、興味深いとしても、だからどうということもない。偶然によって自分が存在しているとすれば、自分の価値や生きる目的を見出すことも困難です。神様が世界を造られたと信じて生きる時、作者である神様のすばらしさ、恵み深さを知ることが出来る。私を造られた方がいると知って、私の価値や生きる目的を見出せることになります。
また、世界を観て神様のすばらしさ、恵み深さを知るということは、人間にとっても世界にとっても重要なことでした。
創世記1章27節
「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」
「神のかたち」に造られた人間。それは神を知ることが出来る、神を愛することが出来る存在であるということ。この神様を知り、愛することが出来る存在がいることは、この世界にとって極めて重要なことでした。何故重要なのか。もし神を知ること、愛することが出来る存在がいなかったとしたら。この世界がどれほど素晴らしい世界であっても、素晴らしいと分かるものがいないことになる。この世界が、鑑賞者のいない博物館のようになってしまう。このような意味で全ての被造物にとって、「神のかたち」に造られた人間は重要な存在でした。
ところで「愛することが出来る」というのは、選択出来ることを意味します。凶器で脅された人が「あなたを愛している」と言ったところで、愛していることにはならない。ロボットに「あなたを愛している」と言わせても、愛していることにならない。愛するというのは、愛することも出来るし、愛さないことも出来る者が、自分の意志で愛することを選びとることです。「神のかたち」に造られた人間は神様を愛することが出来るということは、神様を愛さないことも出来るということです。
神様を愛することも、愛さないことも出来る存在として、人間は造られた。そのため、聖書は繰り返し、私たちの前には二つの道があることを教えています。神様の愛を受け取る道と、受け取らない道。神様を愛する道と、愛さない道。私たちは日々、どちらの道を歩むのか選択する者として生きていると言えます。
これまで自分は、どちらの道を歩んできたのか。今、私たちが神様を愛する道を進むとは、具体的にどのような生き方になるのか。皆様とともに考えたいと思います。
世界が造られた時、神様は最初の人、アダムとエバに一つのことを禁じました。善悪の知識の木の実を食べてはならない、という戒め。何をしても良い状況で、一つだけ定められた禁止事項です。なぜ、神様はこのような戒めを定めたのでしょうか。これも「愛すること」と関係があります。「何をしても良い、何をしても神を愛することになる」というのでは、愛することにならないのです。神様を愛さないことを選択出来る状況の中で、それを選択しないことが、神様を愛することになる。このように考えますと、善悪の知識の木はとても重要な意味のあるものでした。
この善悪の知識の木は、住まいとしたエデンの園の中央に植えられていたこと。しかし園の中央には、もう一つ木があったことが聖書には記されています。
創世記2章8節~9節、16節~17節
「神である主は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。…神である主は人に命じられた。『あなたは園のどの木からでも思いのまま食べて良い。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」
善悪の知識の木の実を食べるというのは、神様を愛さない選択をすること。それは人間にとって死を意味することが教えられています。この死を司る善悪の知識の木は園の中央に生えていましたが、同じところにもう一つ木が生えていました。「いのちの木」。園の中央には、いのちと死のシンボルがあったのです。
神様は園の中央にいのちと死を並べました。その結果アダムとエバは、園の中央に行く度に自分たちの前には二つの道があることを意識することになりました。神様を愛するいのちの道か。神様を愛さない死の道か。人間は造られた当初から、神様を愛するのか、愛さないのか、問われる存在だったのです。
残念なことに、アダムとエバは善悪の知識の木の実を食べてしまう。神様を愛さない選択をしました。その結果、死ぬ存在となり、人間も世界も悲惨な状態になりました。
しかし、その後も人間の前には二つの道があることが示し続けられます。聖書の様々な箇所で確認出来ますが、例えばモーセを通して神の民は次のように言われました。
申命記11章26節~28節
「見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福とのろいを置く。祝福とは、私が今日あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従った場合であり、のろいとは、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道から外れて、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行った場合である。」
神の民の前には祝福とのろいという二つの道。主の命令に聞き従う、つまり神様を愛する者には祝福が与えられる。反対に、主の命令に聞き従わず、他の神々に従う者、つまり神様を愛さない者にはのろいが下される。
創世記では「いのち」と「死」と並べられた二つの道が、ここでは「祝福」と「のろい」として並べられます。私たちの前には二つの道。「いのち」か「死」か。「祝福」か「のろい」か。果たしてどちらを進みたいと思うのか。
この二つの道は「詩」の中にも登場します。
詩篇1篇1節~4節
「幸いなことよ、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。悪しき者はそうではない。まさしく風が吹き飛ばす籾殻だ。」
神様を愛する者、幸いな者とは、悪から離れ、主の教えを喜び口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木と表現されます。片や、神様を愛さない者、悪しき者は、風が吹き飛ばす籾殻にたとえられています。「いのち」と「祝福」の道は、流れのほとりに植えられた木につながり、「死」と「のろい」の道は、風が吹き飛ばす籾殻につながります。自分は木と籾殻、どちらとして生きたいのか、考えたいと思います。
いのちと死、祝福とのろい、木と籾殻と並べられれば、当然のこと「いのち、祝福、木」の道を選びたいと思うはず。しかし、イエス様は二つの道について次のように言いました。
マタイ7章13節~14節
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」
いのちと死、どちらを選ぶのか問われれば、当然いのちを選ぶはず。祝福とのろい、どちらを選ぶのか問われれば、当然祝福を選ぶはず。しかし、必ずしもそうではない。むしろ多くの人は滅びの道へ進んでいく。イエス様による恐ろしい言葉です。これは山上の説教の最後の段落。イエス様は私たちの前には二つの道があることを、狭い門と広い門、良い木と悪い木、岩の上に建てた家と砂の上に建てた家と三つの対比で語りました。
大先輩カルヴァンが記したキリスト教綱要のタイトルページには(1561年版)、二つの門の絵がついています。一つは、入口に花が一面に咲き乱れている広々とした門ですが、その頂きには焔が燃え上がっている。もう一つは、いばらが生い茂った狭い門ですが、その頂きには冠が描かれている。このイエス様の言葉を絵にしたものですが、私たちの前には二つの道があるということこそキリスト教の「綱要」ということでしょうか。
いのちか、滅びか。私たちは、どちらかを選ばなければならないのです。
このように私たちの前にある二つの道は様々な表現で繰り返し語られますが、神様にどのように向き合うかだけでなく、隣人にどのように向き合うかで比較されることもあります。
マルコ10章42節~45節
「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。』」
十字架直前、エルサレムに向かう途上。ここでもイエス様は二つの道を示します。
神を愛さない者、神様から離れた人間、異邦人の思いの一つは、自分を高くしたいというもの。人を従え、仕えられる立場に着きたいというもの。仕えるよりも、仕えられたい。自分を低くするとは考えない。神を愛さない歩みは、隣人に権力をふる、支配しようとする者となる。しかし神を愛する者の歩みはそうではない。地位がある、力があるというのは、仕えるためのもの。偉いというのは、仕える者であること。先頭に立つというのは、しもべとなること。
私たちの前には二つの道。仕える者か、支配する者か。しもべとなるか、支配者となるのか。どちらを選ぶのか。
神を愛する者の歩みは、仕える者、しもべとして生きるということでした。ここは、とても大事な点です。
いのちと死、どちらを選びたいか問われたらいのちと答えるでしょう。祝福とのろい、どちらを選びたいか問われたら祝福と答えるでしょう。木と籾殻、どちらを選びたいか問われたら木と答えるでしょう。それでは、人に仕える者となることと、人に仕えられること、どちらを選びたいか問われたら、皆様はどのように答えるでしょうか。自分の思い通りに人を支配することと、人のために徹底的に仕えること、どちらも出来るとしたら、どちらを選ぶでしょうか。
ところで「仕える」と聞いて、皆様は具体的にはどのようなことをイメージするでしょうか。仕える者として生きることを願うとしたら、どのような生き方になるのでしょうか。
申命記15章7節~11節
「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みの中ででも、あなたの同胞の一人が貧しい者であるとき、その貧しい同胞に対してあなたの心を頑なにしてはならない。また手を閉ざしてはならない。必ずあなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。あなたは心によこしまな考えを抱き、『第七年、免除の年が近づいた』と言って、貧しい同胞に物惜しみして、何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで主に叫ぶなら、あなたは罪責を負うことになる。必ず彼に与えなさい。また、与えるとき物惜しみをしてはならない。このことのゆえに、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからである。貧しい人が国のうちから絶えることはないであろう。それゆえ私はあなたに命じる。『あなたの地にいるあなたの同胞で、困窮している人と貧しい人には、必ずあなたの手を開かなければならない。』」
ここにも二つの道が出てきます。手を開く者と手を閉じる者。手を開く者とは、自分の持っている良いものを他の人のために使う者。手を閉じる者とは、自分のものを他の人のためには使わない者です。ここに、仕える者と支配する者の姿が如実に表れていると思います。仕えるとは、自分の人生を隣人のために使っていくこと。神様が下さった良いものを、他の人のために使うこと。支配するとは、自分の持っている良いものは握りしめ、自分のために使うこと。他の人の状態よりも、私が生きたいように生きることを優先すること。
私たちの前には二つの道。手を開く者と手を閉じる者。皆様はどちらの道を歩みたいと思うでしょうか。
以上、二つの道について聖書が記す様々な表現を確認してきました。神様を愛する歩みは、いのちがあり、祝福があり、流れのほとりの木のようであり、狭い門へ続く細い道であり、仕える歩みであり、手を開く者としての人生。神様を愛さない歩みとは、死があり、のろいがあり、風が吹き飛ばす籾殻であり、広い門へ続く広い道であり、支配する歩みであり、手を閉じる者としての人生。
このように見ていきますと、一つ一つの表現は神様を愛すること、また愛さないことの様々な側面を教えていることに気づきます。いのちがあり、祝福があるから、仕える者として手を開く者として生きることが出来ること。支配する者、手を閉じる者として生きるというのは、それ自体が本来の生き方ではない死の状態であり、のろいの状態であること。
神様を愛することも愛さないことも出来る存在として、人間は造られました。私たちは日々、神様を愛するのか、愛さないのか選択する者として生かされています。そして聖書は繰り返し、神様を愛する者として生きるように。仕える者、手を開く者として生きるようにと勧めていました。私たちは、この勧めにどのように応じるでしょうか。
どのようにしたら、神様を愛する者として生きることが出来るのか。仕える者、手を開く者として生きることが出来るのか。一つの鍵は、イエス様を見ることです。
マルコ10章45節
「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
イエス様はただ、私たちに仕える者となりなさいとは言われませんでした。まずご自身が仕える者となられた。それも贖いの代価として、自分の命を与える仕え方。つまり私たちの身代わりに十字架で死なれる。それ程まで徹底的に仕える。これ以上ないほど、低くなり私たちに仕えるというのです。
聖書は、神様を愛する者として生きるように勧めます。しかしその前に、神様から愛されていることを受け取るように言います。仕える者として生きるように勧めます。しかしその前に、仕えられた者であることを覚えるように教えます。世界を造り支配されている王の王である方に、私は仕えてもらった。手を開くどころか、いのちまで下さった。このイエス様を皆で覚えたいと思います。
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