2020年10月18日日曜日

一書説教(63)「ヨハネの手紙第二~真理と愛のうちに~」Ⅱヨハネ1:1~6

 私が小学生の時のことです。離任式にて、別な学校に移る何名かの先生方が児童の前で挨拶をしました。その中の一人の先生が言われたこと。「マザーテレサは素晴らしい人。病気、貧困、身寄りのない人を受け入れる施設を造り、最後を看取ることで、多くの人から称賛を受けています。ところでヒンドゥー教徒の人は、ガンジス川がとても大切です。あるヒンドゥー教徒の人が病気になり死を覚悟して、最後はガンジス川に行きたいと願いました。何とかガンジス川に着き、川のそばで死を待っている。そこにマザーテレサの施設の人が来て、その人を施設に運び入れ、身体をキレイにし、看病しました。その人は最後、施設で死ぬことになりました。この場合、マザーテレサや施設の人は、良いことをしたことになるのでしょうか。ガンジス川で死ぬことと、ベッドの上で看取られるのと、どちらが良いのか。誰が決めるのでしょうか。世界には様々な価値観があります。多くの人から称賛されているから、だから素晴らしいと思うのではなく、皆さん一人ひとり、何が良いことかよく考える人になって下さい。」というものでした。(実際にマザーテレサの施設の人が、本人の意思とは関係なく施設に入れていたかどうか、私は把握していません。)当時の私は、小学生なりに考えました。自分がヒンドゥー教徒の人であれば、川で死にたい、施設に運ばれるのは嫌なこと。しかし川で死にそうな人がいるのを見る側だった場合、そのまま放っておくことは出来ないのではないか。難しい問題です。皆様はどのように考えるでしょうか。

 この問いは、世界には様々な価値観があり、何が正しいことなのか、何が幸せなのか、簡単には決められないこと。自分が正しいと思っても、他の人にそれが当てはまるか分からないことを示しています。さらに言えば、皆に共通する「正しさ」とか「善」というのは、存在するのかという問いを投げかけています。「正しい」とか「善」というのは、歴史や文化に依存している。普遍的な「正しさ」や「善」などないと考えるのか。歴史や文化に依存している正しさや善もあるが、だからと言って普遍的な正しさや善がないわけではない。全ての人に共通の正しさ、善、いわゆる「道」とか「真理」と言われるものはあると考えるのか。

離任式で挨拶された先生のことは名前も憶えていないのですが、巨大なテーマを小学生に考えさせるのに、とても良い投げかけだったように思います。

 全ての人に共通の正しさ、道とか真理と言われるものはあるのか。この問いについて、聖書は明確に「ある」と答えています。いくつもの箇所を挙げることが出来ますが例えば、

 詩篇86篇11節

「主よあなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。」

  詩人の祈り、願いに示されているのは、普遍的な正しさ、普遍的な善はあるということ。それは神様が持つもので、私たちは神様に聞かなければならない。自分一人ではなく、皆で真理を知り、道を歩みたいと歌われます。

 偶然の積み重ねでこの世界があると信じるならば、普遍的な正しさ、普遍的な善はないと考えるのが妥当でしょう。正しさとか善というものは、歴史や文化が造り出すもの。しかし世界を造られた神様がおられると信じるならば、普遍的な正しさ、普遍的な善があるというのは当然のこと。創造主を信じるというのは、道や真理があると信じることにつながります。

  聖書は道や真理があると教える書。しかしそれだけでなく、道や真理がないと考えることの危険性、それぞれの考える正しさを追求する世界は悲惨なものになることも教えていました。

 士師記の終幕に記された悲惨な事件をご存じでしょうか。事件は神に仕える特権を与えられたレビ人が逃げた妾を追いかけるところから始まります。レビ人に妾がいた、しかも逃げられた妾を実家まで追いかけるというありさま。このレビ人は、妾を連れ帰る途中、ベニヤミンの町で襲われそうになると妾を犠牲にします。悲惨極まりない女性。逃げ帰った実家から連れ戻される最中で殺された。不条理で暴力的な世界です。生き残ったレビ人は殺された妾の遺体を切り刻み、イスラエルの各部族に送り付け、凄惨な事件があったことを告げます。連絡を受けた各部族はベニヤミン部族に戦いをしかけ、最終的にベニヤミン部族は大減少。この一連の事件の最中、各部族はベニヤミン部族に娘を嫁がせないと誓いを立てました。人数が減り、結婚相手もいなく存続の危機に陥ったベニヤミン部族。しかし、このままベニヤミン部族が消滅するのは良くないと考えた各部族は、ベニヤミン部族は女性を誘拐して妻にしても良いというルールを定めます。一体何なのか、目を覆いたくなるような、混乱に混乱を重ねたような記録。この悲惨な事件を聖書は次のようにまとめていました。

 士師記21章25節

「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」

皆が悪を行おうとしたとは書いてありません。それぞれが自分の目に良いと見えることを行った結果が、聖書の中でも最悪な事件を引き起こしたとまとめられています。それぞれの考える正しさを追求する世界は悲惨なものになる、この世界には共通した正しさ、道や真理が必要であることを物語る出来事です。

  長い前向上になりました。聖書は真理があることを教え、私たちに真理を追い求め、真理に生きるように教えています。では、その真理とは何なのか。真理に生きるとはどのような生き方なのか。聖書からともに考えたいと思います。

 断続的に取り組んできました一書説教、今日は通算六十三回目となります。聖書の中には一章だけの書が五つありますが、今日扱う第二ヨハネはそのうちの一つ。使徒ヨハネが記した美しく小さな手紙。ヨハネと言えば詩的表現を多く使う人でした。福音書も第一の手紙も、単語や文法としては比較的簡単な言葉で記しつつその意味するところは深遠でした。この第二の手紙も同じ特徴を持ち、「真理」「愛」という言葉が多く出てきます。今日はイエスに愛された弟子であるヨハネの言葉に注目します。

 一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。

  書き出しは次のようなものです。

 Ⅱヨハネ1章3節

「長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ。私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています。真理は私たちのうちにとどまり、いつまでも私たちとともにあるからです。父なる神と、その御父の子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安が、真理と愛のうちに、私たちとともにありますように。」

  ヨハネ文書の特徴が存分に表れている書き出し。真理、愛という言葉が溢れています。差出人は長老。ペテロも自分のことを長老と名乗ることがありましたが、ヨハネも自分を長老と記しています。教会を建てあげる者、教会を守る者という意識でしょうか。相手は選ばれた婦人と子どもたち。これはヨハネがよく知っていた相手で、名前を書かなくても問題なかったということなのか。それとも教会、全てのキリスト者を指して婦人と子どもたちと表現したのか。親しい者たちに宛てた個人的な手紙か。全てのキリスト者に宛てた普遍的な手紙か。どちらの可能性も考えられます。

 手紙の内容は大きく二つに分けられます。まずは前半。

 Ⅱヨハネ1章4節~6節

「御父から私たちが受けた命令のとおりに、真理のうちを歩んでいる人たちが、あなたの子どもたちの中にいるのを知って、私は大いに喜んでいます。そこで婦人よ、今あなたにお願いします。それは、新しい命令としてあなたに書くのではなく、私たちが初めから持っていた命令です。私たちは互いに愛し合いましょう。私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。あなたがたが初めから聞いているように、愛のうちを歩むこと、それが命令です。」

 言語や文化の問題がありますが、私たちからするとややこしい言い回しです。「御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。」と言いつつ、その直後に「愛のうちに歩むこと、それが命令です。」と言う。命令と愛は同じ。さらに命令のとおりに歩む者は、真理のうちに歩む者とも言われます。命令と愛と真理は同じ。

神様が命じた通りに生きること。それは互いに愛し合うこと。それが真理のうちに歩むこと。子どもたちが、神様の命じた通りに生きる者、互いに愛し合う者、真理のうちに歩む者となっていることが嬉しい。そして私たちも神様の命じた通りに生きる者、互いに愛し合う者、真理のうちに歩む者として生きましょう、という内容です。

 「真理」を、普遍的な正しさ、普遍的な善、全ての人に当てはまる幸いな生き方、人間としてのあるべき生き方として考えれば、ここでヨハネが教えていることは次のようにまとめられます。「神様は私たちに完全に正しく、良く、幸いな生き方を教えて下さいます。それは互いに愛し合うことです。これまでも互いに愛し合うことに取り組んできましたが、これからもますますそうしましょう。私たちだけでなく、子どもたちも互いに愛し合う歩みをすることを大いに喜びます。」神様の言われたように互いに愛し合うこと。それが私たちにとってどれだけ大切なことなのか。熱意をもって訴えるヨハネの筆です。

 イエス様は律法の中で最も大切な戒めは何かと聞かれた際、二つの戒めを上げました。「神を愛すること」と「隣人を愛すること」です。(マタイ22章)しかし山上の説教で語られた時には、これこそ聖書の教えとして一つだけ挙げています。

 マタイ7章12節

 「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」

 黄金律、ゴールデンルールと呼ばれるもの。神様が私たちに命じていること、その中心中の中心は隣人を愛することでした。

 ところで最も大切な戒めは何か問われた際、イエス様は二つ挙げていたのに、ここでは一つにしている。何故でしょうか。神を愛することと、隣人を愛することを比べれば、隣人を愛することが勝るのでしょうか。それではありません。本当の意味で隣人を愛するとは、神の愛をもって愛することであり、それは神を愛する者でないと出来ないことだからです。神を愛することと、隣人を愛することは一つのこと。

 ヨハネは、神の命令に歩むことが愛すること、愛することが神の命令を守ること言いました。それは神を愛することと、隣人を愛することは一つのことという意味です。つまり互いに愛し合う、隣人を愛するというのは、神様の愛を受けて為すことでした。

 聖書が繰り返し教え、命じる「神様の愛を受け取り、隣人を愛する」こと。それが私たちにとってどれほど大切なことか。自分の人生で取り組むべきこととして、隣人を愛することをどれだけ大事にしてきたのか。ヨハネの言葉を前に再確認したいと思います。

 手紙のもう一つの側面、後半は次のような内容です。

 Ⅱヨハネ1章7節~9節

「こう命じるのは、人を惑わす者たち、イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。気をつけて、私たちが労して得たものを失わないように、むしろ豊かな報いを受けられるようにしなさい。だれでも、『先を行って』キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていません。その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています。」

 惑わす者たち、反キリストに気を付けるように。前半で愛する者として生きるように勧めたヨハネは、後半で愛さない者とならないように勧めます。積極的表現の前半に対して、否定的表現の後半。しかし勧めていることは同じで、神の愛を受け取り、隣人を愛する者として生きるように。表からも裏からも繰り返し、神の愛を受け取り、隣人を愛する者として生きることが、私たちにとっての極めて大切であることを教えるのがこのヨハネの手紙第二でした。

普遍的な正しさ、普遍的な善、全ての人に当てはまる幸いな生き方、人間としてのあるべき生き方はあるのか。聖書は真理があることを教え、私たちに真理を追い求め、真理に生きるように教えています。では、その真理とは何なのか。真理に生きるとはどのような生き方なのか。考えながら見てきましたヨハネ第二の手紙。この手紙から真理とは何か、真理に生きるとはどのような生き方なのか、どのようにまとめられるでしょうか。

この手紙が示す真理とは「神様の愛を受け取り、隣人を愛していくこと」と言えるでしょう。これが正しいことであり、善であり、幸いな生き方、あるべき生き方。私たちが目指す生き方です。

しかし問題なのは、どのようにしたら真理のうちに歩めるのか。どのようにしたら、神様の愛を受け取り、隣人を愛することが出来るのか、ということです。この答えを、ヨハネは手紙の中で明確に記していません。何故なのか。既に伝えているから。既に知っている者に宛てた手紙だからでしょう。それでは、ヨハネは真理について、これまでどのように伝えていたでしょうか。

 ヨハネ1章14節

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

 イエス様の誕生の記録。「ことば」としてイエス様を紹介したヨハネは続けて、神の一人子の栄光を持つ方であり、恵みとまことに満ちていたと言います。この「まこと」と訳されているのが真理という言葉です。イエス様こそ真理に満ちている方であるというのがヨハネの主張です。

 また十字架直前、イエス様が次のように言われたこともヨハネだけが記しました。

 ヨハネ14章6節

「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。』」

 私たちが正しく、良く、幸いに、あるべき生き方を歩むのは、どうしたら良いのか。その答えはイエス様が持っている。神様の愛を受け取り、隣人を愛するために、どうしたら良いのか。その答えはイエス様が持っている。どのようにしたら真理のうちに生きることが出来るのか。その答えはイエス様が持っている。真理に関する問いの答えは、全てイエス様のもの。私たちの救い主は真理を教える方ではなく、真理そのものである方。

 神を神と思わず、人を人とも思わない。自分の考える正しさに沿って生きることが最上と思って生きてきた私たち。神様の愛を受け取り、隣人を愛することが幸いと言われても、それが出来ない私たち。その私たちのために、正しく生き、罪を背負い十字架で死なれ、復活された救い主。このイエス様を自分の救い主と信じるかどうかで、私たちの人生は決定的に変わるのです。

 以上、ヨハネの手紙第二の一書説教でした。美しい小さな手紙。ぜひともご自身で読んで頂き、ヨハネの情熱を味わって頂きたいと思います。

 イエス様を信じる者は真理を持つ者、真理のうちに歩む者。その生き方は隣人を愛する歩みでした。これからの一週間、自分は何を大切に生きるのか。何を中心に生きるのか。そのためにイエス様をどのように信じるのか。よくよく考えたいと思います。私たち一同で、真理そのものであるイエス様を信じ、互いに愛し合う歩みを全うしていきたいと思います。

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