私が好きな脚本家に山田太一という人がいます。山田太一さんが書いた脚本に「夕暮れて」という作品があり、随分前ですがテレビで放映されました。定年退職をした主人公とその息子夫婦と孫、四人家族の物語です。
ドラマは定年を迎えた主人公の男性が新たな職場に出勤するところから始まります。息子の嫁が玄関まで出てきて「お父さん、初出勤おめでとうございます。また今日から頑張ってくださいね」と声をかけると、主人公は出かけてゆきます。ところが彼が向かったのは新たな職場ではなく、電車で二駅先にある公園でした。実はこの男性、内定した会社から土壇場になって断られ、仕事を失っていたのです。それを家族に打ち明けることが出来ぬまま出勤当日を迎えてしまったのです。以降毎日公園のベンチに座っては夕方になると家に帰り、「充実した仕事をしている」と家族には告げるようになります。名のある会社で仕事をし、家族を養うことに自分の存在価値を見出していた主人公は、肩書も仕事も収入も失った自分を恥じていたのです。
問題を抱えていたのは主人公ばかりではありませんでした。息子夫婦も問題を抱えていたのです。40代の息子は会社で常に成果を求められ、プレッシャーに苦しんでいました。家に帰ると、父親からは「俺が若い頃はもっとバリバリ働いていた」と叱られるわ、子供からはお金を求められるわ。心休まる場所がないと感じていたのです。そこで、ある日ゆっくりできる場所を求めて家を出、アパートで独り暮らしを始めることになります。この男性、会社でも家でも自分の存在価値を見出せずにいたのです。
他方、夫の行動にショックを受けたのは妻です。彼女は「家ではゆっくりできない」という夫の言葉に傷つき、怒りを感じました。彼女は夫を含め家族がゆっくりできる家庭を作るために努力をしてきたのです。夫の行動はそんな彼女の努力を無にするものと聞こえたのです。そんな妻もある日高校の同級生と再会し、その男性とのデートに心満たされるようになる。そんな物語です。
いつから私たち人間は肩書のない自分を恥ずかしく思い、本当の自分の姿を隠すようになったのでしょうか。いつから私たち人間は社会でも家庭でも、ありのままの自分でいられなくなったのでしょうか。いつから私たち人間はたとえそれが道徳的に間違った関係であったとしても、誰かから認められ愛されることを願うようになったのでしょうか。いつそして何故、人間は自分の存在価値を見失ってしまったのでしょうか。それは、私たち人間が神から離れた時であると聖書は教えています。それではもともと神と人間とはどのような関係にあったのでしょうか。
創世記1:27「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」
創世記2:25「そのとき、人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。」
聖書によれば、人間は神のかたちとして創造されました。神と同じく人格を持ち、自由意志を持ち、働くことが出来、人を愛することが出来る存在として創造されたのです。神ではありませんが、神の創造した世界の中で最高の存在として人間は造られたのです。そして、その時人間は裸の自分つまりありのままの自分でを恥じてはいませんでした。神にありのままの自分が愛されていることを知り、喜び、満足していたのです。
しかし、神が与えたただ一つの戒めを破り、神から離れて生きるようになった時、人間の心から神に愛されている喜びは消えさりました。ありのままの自分を恥じ、神と隣人を恐れ、本当の自分を隠すようになったのです。神に信頼することをやめた時、人間は自分の存在価値を見失ってしまったのです。この悲劇は神に敵対する存在、サタンの誘惑から始まりました。
創世記3:1∼5「さて蛇は、神である【主】が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」
女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」
サタンの誘惑は巧みです。神の言葉にほんの少しの嘘を混ぜて人間にささやくのです。サタンはさも人間のためと見せかけて、実は人間を神から引き離そうとするのです。人間の心に「本当の神はあなたが思っているように良い神様でも恵み深い神様ではないのだよ」と語りかけるのです。
最初、蛇の姿を借りたサタンは「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」とエバに語りかけました。神がただ一つ食べてはならないと命じた禁断の木の実の存在をエバに意識させるためです。それに誘われたエバはこう答えます。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」
神は食べてはいけないと言っただけなのに、エバが触ってもいけないと拡大誇張したところに、神への反発心が伺えます。神は必ず死ぬと言ったのに、エバが死ぬといけないからと言い換えたところに、神を侮る心が芽生えているように見えます。サタンの誘惑はエバを崖っぷちの手前まで導くことに成功したのです。
そこにサタンは決定打を打ち込みました。「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」ついにサタンは神の言葉を全面否定して見せます。そして神は、善悪の木の実を食べる事であなたがた人間が善悪を知る者となることを嫌い、それを禁じたと断定したのです。つまり、神はあなたが信じている様な良い神でも、恵みの神でもないと吹き込んだのです。神は一番良いものをあなた方人間に与えたくないと思っている。神にとってあなた方人間はそれ程大切な存在ではない嘘を告げたのです。しかし、この言葉がエバを行動に駆り立てるのです。
創世記3:6∼7「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。」
もともと善悪を知るつまり善悪の判断を下すことが出来るのは、善悪を定めた神おひとりです。それを、神を退け人間が自由に善悪の判断をすることが出来ると言う考え方はここから生まれたのです。しかし、その結果は悲惨なものでした。人間はありのままの自分を恥じ、隣人と神の目から本当の自分を隠して生きることになったからです。
そして、この時から今に至る迄私たちは同じことを繰り返しているのではないでしょうか。我が家の子どもたちが小学生の頃のことです。家に帰るとリビング一面にごみ箱のごみが散乱していました。その時家にいたのは三人の子どもたちのみでしたから、私は子供たちに「誰がやったのか」と大声で問いました。しかし、誰も何も答えません。そこで、子供たちを床に正座させると「パパは絶対に怒らないから、正直に言って欲しい」と伝えたのです。
すると恐る恐る次男が手を挙げました。それを見た私は「何でこんなことをしたんだ。どうしてさっき正直に言わなかったんだ」と思わず大声で責めたのです。するとそれを見た長女が「パパ、絶対に怒らないって言ったのに、怒ってる~」。鋭い視線を向けてきました。その時私は「いや、パパは怒ってるんじゃない。ただ理由を聞いているだけなんだ」と言い、怒りを隠そうとしました。約束したにもかかわらず怒ってしまった自分を恥じていたからです。
しかし、神は違います。神はご自分に背いたアダムとエバに対し大声を上げることも、責めることもなく、優しく語りかけたのです。
創世記3:8∼11「そよ風の吹くころ、彼らは、神である【主】が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。神である【主】は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」主は言われた。「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」
逃げる人間と呼びかける神。隠れる人間と探す神。人間が恵みの神を見失っても、神は人間を見失うことはない。たとえ人間がどんな罪を犯しても、どれ程神から遠く逃げようとも、どこに隠れようとも、神にとって私たち人間がいかに大切な存在であるのか、愛の対象であるのか。その真理をこの個所は示しているのです。
神は彼らが善悪の木の実を食べたことも、その理由も知っていました。どこに隠れているかも、罪を犯した自分を恥じていることも、神を恐れていることも、それらすべてを知っておられました。知ったうえで問いかけているのです。彼らが神に対して何をしたのか。何故自分を恥じているのか。何故隠れているのか。彼らが自らの言葉で語るのを待っておられたのです。そして、今も神は私たちが自ら罪を告白し、ご自身に立ち帰ることを願っているのです。しかし残念なことに、アダムとエバは自分の罪を認めず、責任を隣人と神に転嫁しました。
創世記3:12∼13「人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。神である【主】は女に言われた。「あなたは何ということをしたのか。」女は言った。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」
ついこの間まで「私の肉の肉、骨の骨」と告白し、喜んでいたエバを「この女が」と言い捨てたアダムは、妻と妻を与えた神に責任を転嫁しています。自らの意志をもって木の実を食べるたにも関わらず、エバは「サタンに誘惑されたから」と責任逃れをしたのです。言い訳、責任逃れ、自己正当化。政治家も役人も学校の先生も、父親も母親も子供も、善悪の判断は神ではなく、自分が行うという高慢さに基づいて行動しているのです。
ここまで来ると、さすがに神も人間を見捨てるのではないか、見捨てられ当然ではないかと思いきや、3章21節にはこうあります。
創世記3:21「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を造って彼らに着せられた。」
何と神は見捨てるどころか、皮の衣をもって罪人を守り、生かしたのです。しかし、その為には罪なき動物が屠られ、血を流す。そんな人間の身代わりとなる尊い命の犠牲が必要であったと創世記は語るのです。そして、実はこの屠られた動物こそ来るべき救い主イエス・キリストの影なのです。このことを使徒パウロは次のように教えています。
Ⅱコリント5:21「神は、罪を知らない方(イエス・キリスト)を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方(イエス・キリスト)にあって神の義となるためです。」
二千年前、神は罪なきイエスを私たちの代わりに罪人としてさばき、十字架で死に至らしめました。それは私たちの罪を赦し、私たちを義と認めるためだったのです。本当なら私たちが受けるべき神の怒りと罰をイエスが受け、本当なら私たちが受ける資格等ないイエスの義を神は私たちに与えてくださったのです。これこそ神がイエス・キリストの尊い命の犠牲をもって開いてくださった罪からの救いの道、福音なのです。
イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪の赦しが私たちの行いとは関係なく、既に完了していることを示しています。私たちが隠している罪も告白できないでいる弱さや失敗も、そのすべてを知りながら、それでも私たちを愛し、受け入れてくださる神が生きておられることを教えています。エデンの園でサタンがエバに吹き込んだ神のイメージ、「神は一番大切なものを与えるほど良い神でも恵みの神でもない」というあの神のイメージが全く間違いであること、神は一番大切な御子イエスを私たちに与えてくれた恵みの神であることを、今も十字架は語っているのです。
そして、十字架の福音を信じる私たちは何が善で何が悪なのか、何が良いことで何が恥ずべきことなのか、その判断を下す立場から下りなければなりません。そこに立つべきお方は私たちではなく神であると認め、神にその立場を空け渡さなければならないのです。神が尊いと言っている自分を恥ずべき者と考えてはいけないし、神が罪と示しているものを罪と認め、悔い改めなければなりません。神が赦したと言われる罪を自分が赦さないと言うのも不信仰なのです。
十字架の福音は自分を恥じ、神と人とを恐れる思いから私たちを解放してくれます。肩書があろうがなかろうが、何が出来ても出来なくても、どんな過ちや罪を犯そうとも、もう本当の自分を隠さなくても良いのです。私たちの存在がイエス・キリストと等しく大切でかけがえのないものであることを、神が示してくださったからです。
また十字架の福音は、私たちを罪の悔い改めに導いてくれます。私たちに代わり神のさばきを耐え忍ばれた主イエスの愛を受け取り安らぐ時、たとえ何度失敗したとしても、私たちは神のみこころに従って歩み続けることができるのです。
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