2020年11月22日日曜日

ウェルカム礼拝「人生の本当の夜明け」ルカ23:39~43

  今朝は「心に力を与えるもの」というテーマに沿って、先ほどお読みいただいた個所からお話いたします。この箇所には、イエス・キリストが十字架にかけられている場面が描かれています。十字架は3本立っています。そして真ん中にイエス・キリスト、その両隣に犯罪人が十字架にかけられています。そしてその犯罪人の一人はキリストに悪口を言い、もう一人は罪を悔いて、キリストに救いを求めます。そうしますと、キリストに救いを求めた犯罪人に対して、キリストは「まことにあなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」という、信じられないような驚くべき祝福の約束を与えるという出来事が描かれています。

 さてところで、39節で一人の犯罪人が「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え。」と言っているのですが、実は他の福音書を見ると分かるのですが、最初のうちはもう一人の犯罪人も、同じようにキリストに悪口を言っていたということが書かれています。つまりはじめのちは二人とも、キリストをののしって「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え。」と言っていたわけです。別な言い方をしますと、この二人は二人共、人生の最期の最期になっても自分の罪を棚に上げて、キリストをののしっていたというわけです。すなわち、二人共罪人という意味では同等であるということを物語っています。一方が極悪人で、もう一方はそれよりもましな人間であるということではありません。一方が自分の罪に鈍感で、もう一方が自分の罪に敏感だったというのでもありません。一方が死後の世界を信じていなかったけれど、もう一方は死後の世界を信じていたというのでもありません。

 もともと二人共極悪人であり、自分の罪に超がつくほど鈍感であり、死後の世界が存在することなどこれっぽっちも信じていなかったのです。その証拠にこの二人は十字架にかかるまで、罪を犯し続けていたからです。もし死後の世界の存在を少しでも信じていたら、十字架につけられるほどまでには罪は犯し続けなかったことでしょう。そうなる前に、死後の裁きということが罪を犯し続けて生きているときに、きっとブレーキになったことだろうと思うわけです。

 さてところでそもそもこの二人は、なぜにこんなにまで極悪になったのでしようか。いつから悪に染まり始めたのかは分かりませんが、最初はごく小さな罪をドキドキしながら犯したことでしょう。私は一度物を盗んだことがあります。それは小学校の低学年の時、小学校の廊下にあった落とし物コーナーに置いてあった、大きなレンズの玉でした。それを一目見たときに「欲しい」と思って、思わず「あ、これ俺が落としたものだ」と言って、それをポケットに入れてしまいました。そのことを今も忘れていないということは、そういう嘘と盗みという罪を犯す時に、どれほどドキドキしていたことかということの証なのかも知れません。けれどもこの二人はそんな小さな罪から始まって、やがて平気で人を殺してしまうような罪を犯すようになっていったのだろうと思われます。

 

 さてところで、今朝この礼拝にいらっしゃっている方の中には、このように死刑に値するような罪を犯し続けているという生き方をしているという方は、まずいらっしゃらないと思います。そういたしますと、この二人の犯罪人と自分とは関係が何もないと思いますし、またそう思いたいことだろうと思います。けれども聖書が教える「罪」というものが、ただ単に外側に現れた行為だけのことではなく、内面の思いやあるいは口から出る言葉についても、それが「罪」として指摘されることがあるのだということを、今朝是非おぼえていただきたいのです。たとえば、「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。」とか、あるいは「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」という聖書のことばがあります。こういうことばによって自分の心の中を照らしてみるといかがでしょうか。

実際の行為としては、他人の心臓にナイフを突き刺したことはない。けれども憎しみという思いのナイフを突き刺したことは、何度あったことか。そして今もそのナイフを握っていて、どうしてもそのナイフを手放せないことか。また、実際の行為によって不倫はしたことはない。けれども情欲という思いを何度抱いてきたことか。そしてその思いから、今も離れられないでいることか。また聖書のあるところに、「舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。」(ヤコブ3:8)とあります。絶対に言ってはいけないと思っていることばを、どうしても言わずにいられなくなって言ってしまう。そしてそれによって、他人の心に大きな傷をつけて人間関係を破壊してしまう、ということはないでしようか。

これらの例は一言で言いますと、内面の罪を犯し続けることしかできないのだということを物語っているのです。聖書で、「なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。」(ローマ8:7)と言われています。「肉の思い」というのは、生まれながらの人間の心のことで、「神の律法」というのは、今まで言ってきた内面の思いへの神の教え、戒めのことです。「神の律法に服従しない」というのは、「『内面において、憎しみを持ったり欲情を抱いたりするな』とどんなに戒められても、人間の心はそれに服従しないのだ」ということです。「いや、服従できないのです」とまで念を押されているのです。

ですから、いくら外側の行為において紳士淑女であっても、心の中においては前科何犯、いや何十犯であり、それも死刑に値する罪を犯しているのだ。いや、罪を犯すことしかできないのだと、聖書は断言しています。もしこの聖書の断言に反対して、いや、私は絶対にそんなことはないという人がいらっしゃいましたら、ぜひ礼拝後にお話を聞きたいと思います。聖書に「善を行う者はいない。だれ一人いない」(詩篇14:3)とありますので、この断言から逃れることのできる者は一人もいないという断言もされているのです。これまでとてもとても暗いお話をしてしまいましたが、この十字架にかかった二人の死刑になるまで罪を犯し続けた姿というものが、実は神の律法を犯し続けて生きることしかできない私たちの姿を描いているということに通じているのだ、ということを知っていただきたいのです。

 

さてでは、こんな罪を犯すことしかできない「心に力を与えるもの」とは何なのだろうかという、今朝のテーマを考えたいと思います。最初に申し上げた通り、この二人は最初、二人共キリストに悪口を言っていました。両者ともまったく同じ極悪人として描かれていました。そして十字架にかけられて死にそうになっても、なおもキリストをのろうことしかできないという姿が描かれているのです。つまり、彼らのそれまでの人生に、その心の中を変えるような力を与えるものが何もないままに、十字架にぶらさげられているということなのです。

 

ところがそのうちの一人が、突然変わってしまったのです。「すると、もう一人が彼をたしなめて言った。『おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことは何もしていない。』」(40節、41)

この人はこの時、2つのことを告白しています。1つは、「おれたちは自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。」と言っています。これは、自分が悪かったのだという告白です。それまでの人生では、決して思わなかったでしょう自分の罪を告白しているのです。もう1つは、「だがこの方は、悪いことは何もしていない。」という、イエス・キリストの無罪性についてです。イエス様は罪が何もないのに、今目の前で刑罰を受けているのだという告白です。

この、自分の罪の告白とキリストの無罪性の告白をして、では彼は次にどう出たのでしようか。この十字架刑は自分のやってきたことへの当然の報いだから、このまま野垂れ死にしようとしたでしようか。またきよいイエス様に対して、あまりにも醜い自分の姿を見ないように、イエス様に目をつむってくれと言ったでしょうか。そのどちらもノーでした。彼はこう言いました。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思いだしてください。」(42)

なんと、「私を思い出してください」と言ったのです。まったく罪を犯していないきよいお方に、これ以上に醜いことはないと思われる自分を、「思い出してください」とです。これはどういうことでしょうか。彼は「あなたが御国に入られるときには」と言っています。つまりイエス様は、この十字架によって死んでも天の王座に座られるお方である、つまり、きよい神であると告白しているのです。そんな方に、「私を思いだしてください」というのは、どういう願いでしょうか。それは、神であるあなたがどうか私をお救いくださいという、彼なりの救いを求める言い方なのです。

つまりこういうことです。自分は今まで罪を犯してきた、いや、犯し続けてきた。その罪に染まった自分が、このように十字架という極刑こそふさわしいと判定されるほどひどい罪を犯してきた。けれどもこの目の前におられるイエス様は、神でいらっしゃる。それも、こんな醜い私を救ってくださる神でいらっしゃる。恵みに満ちておられる神でいらっしゃる。そう信じている信仰告白だったのです。彼がこの時、イエス・キリストの十字架の意味をどれだけ知っていたのかは分かりません。キリストが罪がないのに十字架にかかったのは、この自分の罪の身代わりに死ぬためであるということを、どれだけ分かっていたのかということは分かりません。もしかすると彼の子ども時代に、親から旧約聖書のみことばを教えられていて、救い主の予言について少しは耳に入れていたのかもしれません。それはともかくとして、彼はただイエス・キリストが恵み深い神であり、こんなに罪深い者をも救ってくださる方なのだと信じたのです。

 

さて彼のそんな信仰にたいして、イエス様はあっと驚く祝福のみことばを彼に語られるのでした。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(43)

地上で何一つ良いことをせず、またできなかったこの男性に、イエス様はこれ以上にない祝福を約束されました。単にその罪を赦すというだけではありません。キリストと共にパラダイスに、天国に共にいるというのです。キリストを信じると信じた今日、今、あなたは神と共にいるのです、とです。ある人はこのキリストの約束があまりにも素晴らしいので、この箇所は金色で印刷すべきだと言うのです。聖書の中にこんなにも祝福に満ちたことばが語られている箇所は、他にどこにあるだろうかということでしょう。最悪の極悪人に、最上の祝福のことばが浴びせられたのです。まさに「福音」、グッドニューズ、良い知らせというものを、これ以上になく表しているキリストのみことばですので、金色で印刷しても足りないくらいに祝福に光り輝いています。

 

今日の礼拝のテーマは、「心に力を与えるもの」でした。罪を犯すことしかできず、神の律法に対してはまったく力のなかった者が、やがて神と共にいる祝福された者に変えられたその力は、どこから来たのでしょうか。それはこの時十字架にかかって、死んでいかれたイエス・キリストから来ているのです。このイエス・キリストこそ、罪を犯すことしかできない者に、その罪を赦し神と共に生きるという祝福を与える力をお持ちなのです。そしてそのキリストを信じる信仰によりまして、そんな驚くべき恵みをいただくことになるのです。

それも、このまま死んでやがて死後の裁きを受けてもしょうがない者を、キリストは何も裁かず、ご自分と共にいてくださる神であるということをこの43節によって私たちに知らせておられるのです。きっと彼は死んで天国に行ったとき、この時のキリストの十字架が、他でもないこの自分の身代わりに刑罰を受けるためだったのだと知らされて、どれほど驚き、そして感激し、そしてキリストを賛美しキリストに感謝をささげることになったことでしょうか。

彼はそんな祝福にあずかり、そしてこのあと間もなく死んでしまいました。けれども私たちは、特に今日死ぬ予定があるというわけではありません。ですから、このキリストが自分に恵み深い神であるということを信じてから死ぬまでの地上の生涯を、キリストと共に生きる喜びをいただいて生きていく祝福があるのです。罪を犯すことしかできない魂が新しく造りかえられて、心の中に「愛」という実を神様がならしてくださいます。そうやって「人生の本当の夜明け」を迎えることができるのです。そんな恵み深い救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、心に力を与えられて、祝福された人生を賜りますようにとお勧めしてお話を終わります。

0 件のコメント:

コメントを投稿