2020年5月10日日曜日

「神が私たちの味方なら」ローマ8:31~39


新型コロナウィルスの感染が続いてます。日本では緊急事態宣言が継続していますが、感染者増加のペースは落ちてきたように見えます。いくつかの国では経済活動も再開されました。しかし、まだ気を緩めるわけにはいかない状況が日本と世界を覆っているとも感じるのです。私たちも一日も早く教会に集まって礼拝できる日を望みつつ、オンライン礼拝をおこないます。
こうした中、先週の礼拝でローマ人への手紙8章を学びました。キリスト教の福音を整理し、全体的に理解するうえでこれに勝るものなしと評価されるローマ人への手紙。中でも8章は福音の頂点とされ、困難の中に置かれたクリスチャンたちを励まし、希望を与えてきたのです。
今朝私たちが読み進めるのは第8章の終盤31節から39節です。ここは、論理的と言うより感情的、説明的というより詩的な表現が連続し、使徒パウロ渾身の信仰告白となっています。

8:31~32「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」

「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。」とパウロは語りだします。「これらのこと」とは何でしょう。それは福音です。これまでパウロはキリスト教の福音について順番に、全体的に教えてきました。そして、福音の説明は830節で終わったのです。
その福音の頂点について、先週私たちは確認しました。主イエスを信じる者は罪赦され、神の子となる。主イエスを信じる者は神の相続人でもあり、やがて新しくされた世界を相続する。主イエスを信じる者の人生に起こることは、喜びも悲しみも、労苦も災いも、すべてのことが相働いて益となる。私たちが受け取っている恵みは、大きくこの三つにまとめることができます。
しかし、そうだとするなら、何故パウロは「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。」と、なおも言葉を続けているのでしょうか。もし福音についての説明を終えたのなら、何故それ以上のことを福音を信じる者たちに語る必要があったのでしょうか。
それは、私たちクリスチャンが弱い存在だからです。常に堅く神の言葉に立って生活することができない存在だからです。むしろ、私たちは現実の自分と聖書が教える神の子の姿との違いに悩みます。現実の世界と聖書が約束する世界との余りの落差に不安を感じます。現実の人生と聖書が示す人生との間に矛盾を感じてしまうのです。
神の子とされながらも日々罪を犯す自分を見て、神はこんな自分を愛してはくださらない、神はこんな自分を見捨てるのではないかと悩むことがあります。神がこの世界を新しくされると言うけれど、現実の世界で戦争、災害、迫害、感染症などが繰り返し起こるのを見ると、本当に神がこの世界を導いているのだろうか、神の計画は進んでいるのだろうかと不安になることもあります。聖書にはすべてことが相働いて益となるとあるけれど、人生は苦しみばかり、良いことなど一つもないと落胆することだってあるのです。
そんな人間の弱さをよく知っていたからこそパウロは語ります。「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」力こぶを握りしめながら、愛する兄弟姉妹に語りかける使徒の姿が目に浮かんでくるようです。
パウロは私たちの生きる世界が理想的な世界だ等とは考えていません。私たち神の子どもにはバラ色の人生が待っているなどとは思っていません。むしろ、この世界にはキリスト教信仰に敵対する悪の力が存在し、戦争、災害、迫害、疫病、様々な悩み、苦しみを用いて、私たちの信仰を倒そうとしていると警告しています。
けれども、このような世界で生きなければならない弱い私たちのために、神が味方となられた、そして、神が味方であることを疑う者のため、神は御子イエスを私たちに与えてくださったと言うのです。
親にとって自分の命より大切なものと言ったら、子どもをおいて他にはありません。銀行預金も、家や土地も、社会の肩書も、子どもに比べたら何程のものかと多くの親は考えます。
神も同じだとパウロは言うのです。神が私たちの味方であることは、神が御子イエスを十字架の死に渡したことから明らかだと語るのです。御子イエスを死に渡したからには、神がすべて良いものを私たちに恵んでくださると確信するのは当然ではないかと教えているのです。
しかも、神は嫌々ながら、仕方なく、御子イエスを死に渡したわけではありません。私たちのために惜しみなく御子イエスを与えてくださったのです。そんな恵みの神が日々罪を犯してしまう私たちをきよい者へと造り変えて下さらないことがあるだろうか。争いや災いに満ちたこの世界を新しくしないことがあるだろうか。人生に起こりくる様々苦難を用いて、私たちを世界の相続人として整えて下さらない等ということがあるだろうか。いや、断じてあるはずがない。
これが、使徒パウロの確信でした。さらにこの確信をすべてのクリスチャンが持てるようにと、パウロは言葉を重ねます。

8:33~34「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」

 ここで考えられているのは天の法廷だと言われます。サタンが私たちを罪ありと訴える。すると、主イエスがその兄弟に罪はないととりなし、弁護する。それを見て、神が私たちを義と認めてくださる。これが天の法廷で起こっていることなのです。
 聖書において、サタンは私たちクリスチャンの告発者です。サタンは良心を用いて私たちを責めるのです。「日々罪を犯すようなお前のことを、神が愛しているものか。お前は神の子にふさわしくない。」そう責めたて、悩ませるのです。
しかし、主イエスは悩む私たちに語ります。「わたしがあなたの罪のために死に、あなたの代わりに神のさばきを受けたのだから、あなたは神に義と認められ、受け入れられている。」罪を責めるサタンの攻撃から私たちを救うのは、十字架の主イエスのみです。
 けれども、サタンは良心を用いるだけではありません。この世界に存在する様々な苦難をも利用して私たちの信仰を倒し、神から引き離そうと努めているのです。

 8:35~37「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」

 苦難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣。この世界は決して安全な場所ではありません。私たちが歩む道は決して平坦ではないのです。政治的安定も、経済的繁栄も、平穏な生活も、いつ崩れ去るのか分からないのが現実です。教会を迫害する為政者も絶えることはありません。
また人間の生命を支えるべき自然が、いつ、どんな形で牙をむくのか、どれ程の人間の命を奪うのか誰にも分からないのです。
 苦難、苦悩、迫害、裸、危険、そして剣。サタンはこれらを用いて、私たちに神の愛を疑わせます。神に背かせ、私たちから永遠の命を奪い去ろうと試みるのです。
 ところで、ここで引用されている詩篇4422節「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」は、旧約の信仰者の言葉です。
この詩人も戦争、敗北、貧しさの中で、世の人々から「こんな時に救ってくれない神なら、捨ててしまえ」と嘲りを受けていました。神に信頼する者が何故侮辱されなければならないのかと、苦しんでいたのです。そして、自分を常に死の危険と隣り合わせで生きる羊、屠られるべき羊にたとえ、殉教をも覚悟していたようです。パウロも同じ覚悟を持っていたのです。
この世の人から見れば、神を信じていながら、苦しみの中死にゆく者は敗北者かもしれません。しかし、たとえどれ程苦しめられ、迫害され、病に倒れ、死に至ろうとも、最後まで神の愛に信頼し、神の愛の中に守られて生きる者こそ勝利者、それも圧倒的な勝利者なのだ。、断固神の愛に立つパウロの姿がここにあります。さらに、その確信はとどまることを知りません。

8:38~39「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
 
 ここにある言葉の解釈には様々なものがあり、難しいところです。但し、これらが神の愛からクリスチャンを引き離す可能性があると、人々から思われていたものであるという点においては一致しています。
 先ず使徒が挙げているのは「死といのち」です。人間にとって恐れの対象である死も、危険と苦しみに満ちたいのちも、神の愛から私たちを引き離すことはできないという意味でしょう。次の「御使いたち、支配者たち」については、御使いたちが人間を守る良い存在、支配者たちは悪霊と考えられます。たとえ御使いの守りがなくても、悪霊が働いても、神の愛から私たちを引き離すことはできないと言うのです。
 また、「今あるものも、後に来るものも」は、地上の人生で起こることも、死後の人生で起こることもという意味であり、「力あるもの」はこの世の権力者を示しています。最後の「高いところにあるもの、深いところにあるもの」とは当時盛んだった占星術のことばで、人間の運命に決定的影響を与えると信じられていた星を指すと考えられます。
 死もいのちも、み使いも支配者も、今あるものも、後に来るものも、権力者の迫害も、はるか天空を動く星々も、とにかく被造物がいかに苦しめ、恐れさせたとしても、人々の愛は離れたとしても、神の愛から主イエスを信じる者を引き離すことはできないと、パウロは断固告白し、揺らぐことはなかったのです。
 果たして、今のこの世界にパウロが現れたとしたら、何と言うでしょうか。感染症の拡大を恐れ、「私の生活はどうなるのか、私の健康はどうなるのか、私たちの国、私たちの世界はどう変わってしまうのか。」そんな不安を感じている人々に何と語りかけるでしょうか。
 間違いなく、神の前に自分の罪を認め、イエス・キリストを信じるように勧めるでしょう。イエス・キリストを信じる者には神が味方であると伝えるでしょう。御子イエスさえも惜しむことなく死に渡された神が御子とともにすべてのよきものを、私たちに恵んでくださると励ましたに違いありません。
 そして、パウロがするであろうことを実際に行うのは私たちです。私たちはこの世界の様々な苦しみの源に人間の罪があることを知っています。その罪を取り除き、人間を罪から救うお方を知っています。人間以外の被造物が苦しみから解放するお方を知っています。本当に人々の心を恐れから解放し、人々に希望をもたらす福音を、私たちは信じ、経験しているのです。
 そんな私たちが、この状況の中でどう生きるのか。神を味方とする私たちの生き方が、不安を感じている人々の励ましとなるのか。労苦している人々に希望をもたらすのか。神は私たち神の子どもに目を留め、期待しておられるのです。
 今様々な人々が声を上げています。これから人間は新たな世界観、新たな人生観を模索し、身に着ける必要があると語る哲学者がいます。弱者を守り、支える社会体制の必要を説く経済学者がいます。対立をやめ、国々が一致協力することの重要性を主張する政治家がいます。科学と医学の力を結集して、新型コロナを終息させなければならないという科学者がいます。
 もちろん、哲学も、経済活動も、弱者を支える社会も、国々の協力も、科学と医学の発展も必要なことです。しかし、気になるのは、多くの人々が人間の罪を認めず、神を無視していることです。この世界を創造し導く神の存在を認めていないことです。神がいなくとも、人間の知恵と力で世界を良くしてゆけると考えていることです。
 しかし、聖書によれば、神を無視する世界に救いはありません。聖書によれば、自分の罪を認め、自分の弱さを認め、神の愛に頼る者こそ勝利者なのです。私たち皆で神を味方とする人生を歩み続け、人々に神の存在と神の愛を証ししてゆきたいと思います。
 「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。しかし、これらすべてにおいて、(私たちは弱いのですが)、私たちを愛してくださった方(主イエス)によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」

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