2020年5月31日日曜日

ペンテコステ「ペンテコステの恵み~悔い改める~」使徒2:36~41


 今日はペンテコステを祝う聖日です。約二千年前、イエス様が十字架につけられる時、散り散りになったあの弟子たちが、キリストの証人として打って出て行く日。キリストを信じる者には聖霊が与えられることを覚える日。キリストを信じる私たちも、キリストの証人という使命を頂くこと、私たちも造り変えられることを覚える日です。


 使徒1章8節~9節

「『しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。』こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。

 

 弟子たちに聖霊が遣わされる。それが実現する時は、本人にも、周りにいる人たちにも、それが明確である必要がありました。目に見えないお方、聖霊なる神様が来て下さると言われて、ある者は来たと言い、ある者は来ていないというのでは混乱を招く。皆が明確に約束の実現と分かる必要がありました。

 そのために、神様が用意して下さったのは、風のような響き。炎のような舌。耳でも目でも分かるように。さらに響き(音)と舌は何を象徴しているかと言えば、「言葉」ですが、まさにこの時、弟子たちは他国の言葉で話すという、「言葉」についての顕著な力が示されることになります。

 使徒の働き2章1節~4節

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

 

 他国のいろいろなことばで話すことが出来た。誰もが認める明確な変化、言葉についての顕著な力です。しかし、キリストの証人となったことの本質は、外国語を話せることではなく、キリストを宣べ伝えることに現れます。この時、弟子たちが語った言葉で、イエスこそ救い主であると信じた者たちは三千人。つい五十日前に、イエスを十字架につけろと騒いだ者たちの中から、この日の説教に応じてイエスこそキリストであると信じる者がおこされた。一大事件となります。


 

 使徒2章14節~15節

ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。『ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。』

 

 弟子たちに聖霊が臨む。その時に起こった物音を聞き、弟子たちが様々な言語で話し始めた様子を目の当たりにした者たちは、二つの応答をしました。一つは「いったい、これはどうしたことか。」という当惑の応答。もう一つは「新しいぶどう酒に酔っている。」という嘲りの応答です。ペテロの説教は、この二つの応答に応えることから始まります。

 突如、様々な言葉で話しだした弟子たち。姿格好は自分と同じユダヤ人。しかし、聞いたことのないことばを話し始めた。これは何か。そうか、呂律が回らなくなったのだ、酔っているのに違いないとの見立て。この嘲笑に対して、ペテロは「朝九時から酒を飲むことはない。酔っていない。」と答えます。「酔っている!」との嘲りに、「酔っていない!」との返答。当然、これだけでは答えになりません。酔っていないのであれば、これは一体何のか。ペテロは、これは旧約聖書の預言が成就したことだと宣言するのです。

 

 使徒2章16節~21節

「これは、預言者ヨエルによって語られたことです。『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。』」

 

 「弟子たちに聖霊が臨んだ」ことを、ペテロは聖書が告げた約束の成就であると見た。これは非常に面白いところです。使徒の働きを読む私たちは「弟子たちに聖霊が臨んだ」のは、当然のこと、イエス様の約束の成就と考えます。何しろ弟子たちはイエス様の約束の成就を待ち、イエス様の約束通りのことが起こったのです。しかし、ペテロはこの出来事はイエス様の約束の成就であると同時に聖書の約束の成就であると受け取っていた。それもヨエル書の約束の成就であると。聖書に対する洞察力、人前で語り出す行動力。これが五十日前に、真っ青になりながら三度もイエスを知らないと言った者の姿であることに驚くところ。聖書を理解せしめ、福音を語らせる。聖霊なる神様が人を造りかえる方であることを再確認します。

 ここでペテロが引用したヨエル書は何を語っているでしょうか。極々簡単にまとめると「神様が老若男女関係なく、主に仕える者たちに霊を注ぐ日が来る。神の霊が注がれた者はどうなるのか。預言する、神様のメッセージ、聖書の福音を語る。太陽が闇、月が血に変わるという恐ろしい時代、恐ろしい状況になっても、語られた福音によって主の御名を呼び求める者たちは、みな救われる。」ということです。

 このヨエル書が告げる、神様がしもべたちに霊を注ぐ約束が今実現したというのがペテロの主張です。酒に酔っているのではない、神の霊に満たされている。そうだとすれば、神の霊が注がれた者たちは、預言をするはず。皆を救う福音を語るはずです。

 

 そこでペテロは続けて「みな救われる」ことの中身について語り始めます。

 使徒2章22節~24節

「イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。」

 


「イエスが復活したこと。」「復活したイエスは神の右に挙げられたこと。」ペテロはこの二つを伝えるのに、聖書から、とりわけ詩篇を引用して説明します。聖霊を受けた者が預言する。その預言とは、何か全く新しいことを言うのではなく、聖書を説明するものであったということが印象的です。「聖書が示しているのはあのイエスである。」という主張。さらに復活については自分たちがその証人であると言い、神の右に挙げられたことは、だからこそ聖霊が下り、聖霊が下ったことの証人はあなたたちだと詰め寄る。聖書の証言と目撃証言と、そして目の前で起こっていること。これら全てを用いて、イエスが約束の救い主であることを論証する。圧巻の説教。(二十二節から三十六節まで続く、この説教の本論を本当は詳しく見たいのですが、時間の都合で今日は省くことになります。ここは是非ともそれぞれで読んで頂きたいところです。)

 

 この説教の冒頭で、「神はナザレ人イエスを証された」と言います。(そして神によって証された人をあなたがたは殺したと告げるのです。)ナザレのイエスは神によって証明された人。通常、証明されたと言う場合、何を証明されたのか言うものですが、それには触れず説教が続きます。語られる中心は「イエスが復活したこと。」「復活したイエスは神の右に挙げられたこと。」それでは、この「復活」とか、「神の右に挙げられる」とか、これは何の証明でしょうか。何を意味しているのでしょうか。このまとめが、説教の最後の最後に出て来ます。

 使徒2章36節

「ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

 

 「復活」とか「神の右に挙げられる」というのは、イエスが主であり救い主であることの証である。神が送って下さった約束の救い主を、あなたがたは十字架につけたのだ。これがこの時の説教の結論でした。十字架と復活から僅か五十日後のこと。まだあの事件の熱が残るエルサレムに響き渡るペテロの叫び声。約束の救い主をお前たちが十字架につけたのだ。

 この説教はそもそも「主の御名を呼び求める者はみな救われる」とは何かを語るものだったはずです。良い知らせ、福音を伝えるものだったはずです。ところが結論は最悪のメッセージ。約束の救い主をあなたがたが殺してしまった。

 聖書を通して繰り返し語られた、救い主を送るという最重要の約束。その約束を受けた者たちが、送られてきた救い主を殺した。罪人を救うために来た救い主を、罪人が殺した。考え得る中で最悪も最悪。救いようのない悪。罪人からすれば万事休す、絶体絶命、これで終わり、為す術なし。この最悪の自体を、あなたたちが引き起こしたのだと宣告する。恐ろしい説教です。

 

 これを聞いた人たちはどのように受け止めたのか。

 使徒2章37節

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。

 

 聖書と証言と目の前の出来事。この全てでイエスが約束の救い主であることを知った者たちは、心を刺され「どうしたらよいでしょうか。」と声を挙げます。「どうしたらよいでしょうか。」これは、聞きようによっては、ふざけた言葉です。どうしたら良いも何もない。手遅れも手遅れ。あとは裁かれるのみ。約束の救い主を殺しておいて、何がどうしたら良いでしょうかだ。何か手立てがあると思うだけでもひどいもの。本来ならば、ここで「どうしたらよいでしょうか。」などと言う輩には、罵詈雑言が浴びせられるはずのところ。

 しかししかし、ここから信じられない福音が告げられるのです。これぞキリスト教、これぞ福音、これこそ恵みという言葉。

 

 使徒2章38節~39節

そこで、ペテロは彼らに言った。『それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。』

 

 約束の救い主を十字架につけて殺した。自分を救う方を殺した。その者が、なおも救われる道がある。ヨエル書が告げていた「みな救われる」とは、このことでした。

何をしたら良いのか。悔い改めること。イエスを救い主と信じること(イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける)。これだけ。他に無い。いや、これこそが救いの道で罪人に用意されたものでした。

 そしてこのメッセージは、語るペテロにとっても重要なものでした。何しろ、つい五十日前、死ぬことになってもイエス様を裏切らないと言ったその夜に、呪いを誓いながらイエスを否定したのがペテロです。イエスの十字架を前に、大失敗した人物。また復活も当初は信じていなかった。あれだけ復活を予告されていたのに信じていなかった。その自分が、罪赦され、約束通り聖霊が与えられている。ペテロ自身のことを考えると、このメッセージを告げる時に、どれ程の喜びと確信をもって語っていたでしょうか。

 どのような罪でも、悔い改めてイエスを救い主と信じれば救われる。キリスト殺しという罪ですら、悔い改めれば赦される。私たちはこのメッセージをどれだけ真剣に受け止めているでしょうか。

 

 つい五十日前、イエスを十字架につけろと騒ぎ立てたエルサレムにいた者たち。しかし、ペンテコステの日に聞いた説教を受け入れた者たちは、三千人にものぼったとまとめられます。

 使徒2章40節~41節

ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、『この曲がった時代から救われなさい』と言って、彼らに勧めた。彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。

 

 ペテロは、ここに記されていないことでも、多くのことばをもって証をし、勧めたと言います。一体何を語ったのか。興味深いところ。それはそれとして、今の私たちが受け取るべきことは、すでに十分記されていました。

 二千年前のペンテコステの日。ペテロを通して語られた重要な知らせは、誰でも悔い改めて、イエスを自分の救い主と信じる者は救われるということ。私たちがこれまで何度も聞いてきたこと。しかしこのペンテコステの聖日に、改めてこのメッセージに真正面したいと思います。

 この一週間、皆さまはどのような罪を悔い改め、告白してきたでしょうか。今、この場所で自分の歩みを振り返り、悔い改めるべき罪を考えるとしたら、それはどのような罪でしょうか。主なる神様以外のものを第一として生きる。自己中心に生きる。あるいは悪を考え実行したことが思い浮かぶでしょうか。ねたみ、殺意、争い、欺き、悪だくみ、不品行、好色、陰口、そしり、神を憎む、人を人と思わない、自分を正しいとし勝手な判断をする、わきまえがない、約束を破る、情けしらず(ローマ1章参照)。積極的に悪を考え行うことだけでなく、善を行わない問題もあります。愛すべき人を無視する。すべきことをしない。与えられた賜物や機会を用いない。自分の罪には目を向けず、人の悪や社会情勢ばかり批判する。このような内容を挙げると、私ではなく、あの人こそ悔い改めるべきと考える問題もあります。

 一日の終わりに、礼拝に来る度に。私たちは神様の前で、悔い改めるべき罪を告白し、私の罪のためにイエス様が死に復活されたことを信じること、確認したいと思います。どのような罪でも赦される。どのような罪深い者でも造り変えられる。この恵みを味わう者こそ、キリストの証人となることを覚えます。
 罪を悔い改め、イエスこそ私の救い主と信じる者には聖霊が与えられる。この知らせをしっかりと受け止めて、そのことに生涯取り組みつつ、キリストの証人として生きていきたいと思います。

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