2020年6月7日日曜日

Ⅰコリント(32)「復活~人を造り変える神の恵み~」Ⅰコリント15:1~11


これまで私たちは様々な問題を抱えるコリント教会の様子を見てきました。経済的な繁栄においてはギリシャ第一を誇るコリントも、繁栄の裏では貧富の差が広がり、悪徳や不品行がはびこる。当時「コリント人のように生きる」という言葉が不品行の代名詞となる程、コリントは欲望と快楽の町としても知られていたのです。
そんな町の風潮に影響されたのでしょうか。使徒パウロが建てた教会であるにもかかわらず、この教会は実に多くの問題を抱え、パウロを悩ませていたのです。分裂、性的不道徳、離婚、富める者と貧しい者の対立、偶像にささげた肉を巡る争い、礼拝の混乱等。「これが本当にキリストの教会なのか」と思う程の混乱ぶりを、私たちは1章から14章で見てきました。
そして、今日から読み進める15章。これまでは教会生活の実際的な問題を扱い、処方箋を示してきたパウロが、最後に取り上げたのが復活の問題です。福音書に先んずること十年余り、新約聖書中最初の復活論として熟読すべき個所とされます。
ところで、何故コリント教会で復活が問題となっていたのでしょうか。当時ユダヤ社会においては、多くの人々が世の終わりの時義人の復活があることを信じていました。しかし、ギリシャローマの社会においては霊魂不滅論が盛んで、肉体は死とともに消滅するとする考えが一般的でした。肉体は霊魂の正しい活動を妨げる邪魔者、悪とみなされていましたから、霊魂が肉体から解放される死の瞬間はむしろ歓迎されたのです。
そんな人生観に馴染んできた人々がクリスチャンになったとして、復活の教え特に肉体の復活についてなかなか理解できず、消化できなかったとしても無理はないという気がします。実際、愛する者を死によって失い、悲しみに沈んでいたテサロニケ教会の人々に対し、パウロはこう書いていました。

テサロニケ第一4:13~14「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。」

テサロニケ教会には主イエスの復活は信じるものの、主イエスを信じる者の復活については無理解な人々がいたのでしょう。パウロは「主イエスが死んで復活したように、主イエスを信じて死んだ者も将来復活します。あなたがたは彼らと再会することができますよ。」と慰めています。
ですから、コリントの教会においても、主イエスを信じる者の復活についての無理解や誤解、主イエスの復活や再臨に関する論争があったと考えられるのです。
しかし、使徒が手紙の最後に復活問題をとりあげた理由はそれにとどまりません。コリント教会が抱える様々な問題の根本には、彼らの自己中心的な生き方がありました。彼らは主イエスやパウロが示したような愛をもって兄弟姉妹に仕えてはいなかったのです。
そんな彼らが考え方、生き方を変え、本当の意味でキリストのからだとしての教会となるために必要なことは何か。それは福音を信じることだとパウロは言うのです。主イエスやパウロのように人を愛することができない、自分中心にしか生きられない、罪の影響を強く受けている。そんなあなたがたのために主イエスが十字架に死に、復活したこと、その意味をよく理解し、信じるように。その福音にしっかりと立って生きるようにと勧めているのです。

15:1~2「兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。」

「私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。」パウロは、人はその知恵によって救われるとは言っていません。人はその賜物によって救われるとか、人はその富によって救われるとか、人はその努力や行いによって救われる等と言ってはいないのです。
知恵、賜物、富、宗教的な行い。これはみなコリント教会の人々が誇ったいたものですが、それらには人を救う力はない。それらの内のどれも人に罪の赦しをもたらし、人を罪の力から解放することはできない。ただ福音にのみ人を救う力があると言うのです。だからこそ「私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。」と使徒は語るのです。
福音を理解し、信じることで始まる私たちの信仰の歩み。それは何度でも私たちが福音に立ち返り、福音に立って生きることで成長し、完成する。そう教えられるところです。
それでは、パウロ自身もこれを受け取り、コリントの教会に伝えた福音の核心とは何だったのでしょうか。それは、主イエスの死と埋葬と復活でした。

15:3~4「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、」

注目すべきは、「聖書に書いてある通りに」との言葉が繰り返されていることです。パウロは、主イエスの十字架の死も、埋葬も、復活も聖書の預言通り、神の予定通りであると言うのです。すべては神の揺るぎない救いの御業であり、本当に起こった事、歴史の事実だと語るのです。
先ず主イエスの死と埋葬についてはイザヤの預言が代表的です。

イザヤ53:6~9a「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。

主イエスが私たちの罪を負って死なれたこと、それが同時代の人々に理解されなかったこと、主イエスが悪者即ち強盗と一緒に十字架につけられ、富む者即ち富裕な弟子アリマタヤのヨセフの墓に葬られたことが予告されていると考えられます。
主イエスの復活についてはダビデの詩篇をあげることができます。

詩篇16:10~11「あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。」

これは主イエスだけでなく、主イエスを信じる者の復活を示す預言と考えられてきました。主イエスが死からよみがえり、永遠の命を得た如く、主イエスを信じる者も同じく死からよみがえり、永遠の命を得ると言うのです。言葉を代えれば、主イエスの死も埋葬も復活も、すべては私たちの罪のため、永遠の命のためであったのです。もし主イエスが十字架で私たちの罪を負っていなかったとしたら、私たちの罪はまだ赦されぬまま残っているのです。もし主イエスが埋葬されず、死から復活しなかったとすれば、私たちに永遠の命の望みないのです。
しかし、福音の力を証明するのは聖書の預言だけではありません。福音を信じ、福音に立って生きる人々の存在と人生の変化が、福音の力を証しするのです。ここに復活の主に出会った人々のリストが挙げられます。

15:5~11「また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。
私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。」

ケファ、他の12弟子たち、500人以上の兄弟たち、ヤコブ、そしてパウロ自身。実に多くの人々が復活したイエスの目撃者としてあげられています。これらの人々は皆主イエスに出会い、その後の人生が大きく変わったのです。今日は名前で紹介されている三人に注目してみたいと思います。
先ず5節のケファつまりペテロです。ご存じの通り、彼は主イエスの一番弟子でありながら、イエスが捕えられると、「私はあんな男なんか知らない」と三度もイエスを否定しました。そして三度目に「あんな男は知らない」と否定したその時、耳に入ってきた鶏の鳴き声にふと我に帰ると、後悔の涙を流したのです。
ではそのペテロ、その後どうなったのでしょうか。もうペテロの生涯は終わった。もう使徒として働くことはできないのだと周囲の人々も、ペテロ自身も思っていたのです。ところが主イエスはガリラヤ湖の畔で彼を見出すと、再び使徒として任命したのです。「わたしの羊を飼いなさい。」こうしてペテロはローマで殉教するまで、福音を伝える働きを続けました。
7節にはヤコブが登場します。ヤコブは主イエスの弟です。しかし、灯台下暗し。兄を救い主と信ぜず、母マリヤと共に主イエスの伝道活動をやめさせようとした、そんな過去が彼にはありました。そんなヤコブも復活のイエスに出会い、その歩みが変えられます。使徒の働きにはペンテコステの直前、他の弟子たちとともに祈りをささげるヤコブの姿が描かれています。ヤコブは後にエルサレム教会の指導者として活躍。新約聖書にヤコブの手紙を書き残しました。
そしてパウロ自身はどうなのか。9節でも告白している通り、彼は教会を迫害する者でした。キリスト者をとらえエルサレムに連行し、牢に入れる。それが生き甲斐でした。使徒の働きによれば、キリストの弟子ステパノ殉教の際は、彼もステパノを殺すことに賛成していたとあります。
パウロはペテロの様に、単に主イエスを否定したのではありません。ヤコブのように、単に主イエスの働きをやめさせようとしたのでもありません。彼は教会を迫害し、何人ものキリスト者の命を奪ってきた男なのです。
しかし、そんなパウロに復活の主は現れました。いつもの様にキリスト者逮捕のためダマスコへと向かっていた途中、彼もまた復活の主イエスに出会い、身も心も捕えられたのです。この時からパウロの歩みは変えられたのです。福音を拒む者から福音を伝える者へ、教会を迫害する者から教会を建て上げる者へ、キリスト者を苦しめる者からキリスト者を励ます者へと、彼もまた変えられたのです。
ペテロにもヤコブにもパウロにも打ち消したい過去がありました。できるものならやり直したい暗い過去がありました。悔やんでも悔やみきれない過去がありました。しかし、復活の主イエスに出会い、福音を理解し、福音を信じた時、彼らの人生は変わり始めたのです。
あんな男は知らないと三度主を否定したペテロも、主イエスの伝道活動をやめさせようとしたヤコブも、教会を迫害し、キリスト者を捕らえることに執念を傾けていたパウロも、復活のイエスに出会い、新しい歩みを始めたのです。彼らはみな罪の赦しと永遠の命に預かっただけではなく、他の人々に希望と励ましを与える。そんな新しい存在へと変えられていったのです。
そして、福音を理解し、福音を信じ、福音にしっかりと立つ時、私たちにも同じことが起こるのです。私たちにも打ち消したい過去があります。悔やんでも悔やみきれない過去もあるでしょう。口にしなければよかったあの一言。上げるべきではなかったあの手。大切な信頼関係を壊してしまったたった一度のあの行動。繰り返し陥っていた悪しき習慣。
しかし、主イエスは私たちの罪を赦し、過去を悔いる思いから解放してくれます。復活の主によって、私たちはいつでも新しい歩みへと踏み出すことができるのです。「神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。」
パウロが誇るのは自分が過去を克服したことではありません。他の使徒より多く働いたことでもありません。自分を暗い過去から解放し、喜んで神と人に仕えて働く者へと造り変えた復活の主の恵みなのです。私たちも私たちを造り変える主イエスの恵みを誇る者でありたいと思うのです。

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