2020年4月5日日曜日

レント「十字架と復活へ向けて(4)~この方は神の子~」マタイ27:39~56


2020年度最初の礼拝となりました。私たちの教会は3月第二週から受難節に入り、マタイの福音書を読み進めながら、主イエスの十字架の死と復活に心を向け礼拝を行っています。

3月第二週の礼拝では24章をとりあげ、十字架と復活から主イエスの再臨までの期間、この世界に起こる大規模な混乱と教会が忍耐すべき苦難の預言を確認しました。第三週の礼拝では25章を開き、主イエスの再臨を待ちつつ、主のしもべとして生きるべきこと、主イエスによる最後の審判の預言を学びました。これらの教えが語られたのが、十字架三日前のことです。

第四週の礼拝では26章に入り、十字架前日にどんな出来事が起こったのか見てきました。宗教指導者によるイエス暗殺計画。一人の女性による香油注ぎ。最後の晩餐。主イエスによる弟子たちの裏切りに関する預言。ゲッセマネでの祈り。弟子ユダの裏切りとイエスの逮捕、裁判。ペテロによるイエス裏切り事件。緊迫の場面が連続する章です。

そして、今日取り上げる27章は「さて夜が明けると」ということばで始まります。深夜から早朝にまで及んだユダヤ教の裁判。死刑判決を下された主イエスは、ローマ総督ピラトのもとで今度はローマ式裁判にかけられます。「主イエスに罪はなし」と判断したピラトは釈放を試みますが、ユダヤ人の反対に会い、結局主イエスを兵士の手に引き渡してしまいました。 

兵士たちが主イエスを処刑場に連行し、十字架の木にかけた時、既に朝は明け、時計の針は午前9時を指していたとマルコの福音書は記録しています。


27:39~44「通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。

彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」


 ここに描かれているのは午前9時から12時までの間、人々が口にしたことばです。この間顕著なのは嘲りと罵りでした。39節「通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。」、41節「同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。」、44節「イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」

 原文では嘲りも罵りも一時的なものではなく、ずっと継続していたことを示すことばが用いられています。つまり、主イエスは3時間の間道行く人々、民衆からも、宗教指導者からも、強盗からも嘲られ続け、罵られ続けていたのです。庶民からもエリートからも、善人からも悪人からも、男からも女からも嘲られ続け、罵られ続けていたというのです。。

 皆様は人に嘲られた経験はあるでしょうか。長い時間罵られ続けたことはあるでしょうか。それも一人ではなく周りを取り囲まれ、大勢の人に嘲られ、罵られ続けた経験はあるでしょうか。

嘲られ、罵られる。それは相手が一人であっても、たとえ一時であっても忍び難い事です。それが大勢の人によってたかって嘲られ続け、罵られ続ける。しかも、主イエスの場合十字架に釘づけにされた肉体の苦しみに耐えながらでしたから、どれ程の受難、忍耐であったことか。

 また、これとほぼ同じことばがマルコとルカの福音書にも記録されていますが、それらを比べてみると、人々の嘲りと罵りの内容はひとつであることが分かります。それは「十字架につけられるような者はキリスト、救い主ではない。」「十字架から降りて来られないような者がキリスト、神の子であるはずがない。」ということ。ことばを代えれば「イエスよ。お前は偽キリスト、自称神の子ではないか」との主張です。

 ここに見られるのは、人々が思い描く救い主と、主イエスが目指す救い主との間にある大きなずれです。人々は「十字架から降りてきたら、お前を信じる。」と言っています。彼らが願うのは、たとえローマの兵士たちに十字架につけられても、それをものともせずに打ち壊してしまう。そんな目に見える物理的な力強さをもつ救い主であり神の子でした。

 どれ程悪者に痛めつけられても、最後には秘めたる力を発揮して悪者を倒し、人々を苦しみから助け出す。そんなヒーローの様な救い主を昔から人間は求め続けてきたと言えるでしょうか。

 しかし、主イエスは降りようとはしませんでした。主イエスの能力からすれば、十字架から降りる等たやすいことです。けれど、それにも関わらず、主イエスは十字架にとどまり続けました。人間の罪を贖うためには十字架の苦難を受けねばならない。これが神のみこころであると知り、みこころに従う道を選ばれたからです。

 マタイの福音書26章には、ゲッセマネの園で父なる神に祈る主イエスの姿がありました。それを見ると、主イエスにとって十字架の苦難は悲しみのあまり死ぬほどの試練であった事が分かります。主イエスの心には、悩みと葛藤の中で父なる神にささげた祈りと決意があったことを、私たち忘れてはならないと思います。

さて、嘲りと罵りに満ちた騒々しさが12時になった途端静寂に変わりました。騒々しさと沈黙、明るさと暗闇。12時からは、これが同じ場所かと思う程様子が一変するのです。


27:45~46「さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」


聖書全体から見ると、暗闇は神を拒む人々に対するさばきのしるしです。昔イスラエルの民がエジプトの支配から助け出される際、神がエジプトを打ち、暗闇が全土を覆ったとあります。また、最後の審判が行われる際も「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ちて、世界は暗闇に包まれる。人々は神の怒りを恐れ、逃げ惑う。」(黙示録6:12~17)全世界を暗闇が覆うと預言されています。

今から二千年前、神は人類の罪を背負った主イエスを徹底的にさばかれました。その為この日この時、ユダヤの全地が暗闇で覆われたと言うのです。出エジプトの際、神が暗闇をもってエジプトをさばかれた時、イスラエルの民は子羊の血を家の門柱に塗りつけました。子羊を屠り、その血を家の門柱に塗る者は神のさばきに会うことなく、救われるとの約束を信じたからです。

同じく、主イエスを救い主と信じる者が神のさばきを免れ、罪から救われるため、主イエスは過ぎ越しの祭りが祝われたこの日、神の徹底的な怒りをその身に受けられたのです。

神のさばきを直接受けることがどれ程の痛み、苦しみであるのか。主イエスが力を振り絞って口にしたことばから、私たちはその一端を伺うことができます。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

信頼する神からさばかれ、見捨てられるという痛み。天の父の愛を全く感じられない世界に落とされるという苦しみ。父なる神による直接的なさばきは、主イエスにとって十字架刑による肉体の苦しみ以上の痛み、人々から嘲られ罵られること以上の苦しみだったと思われます。

しかし、無情にも主イエスの痛み、苦しみを思いやる者、その意味を理解する者はいませんでした。十字架のまわりにいた人々は神のさばきを恐れることもなく、むしろ囚人の苦しむ様を楽しもうとしていたらしく見えます。


27:47~49「そこに立っていた人たちの何人かが、これを聞いて言った。「この人はエリヤを呼んでいる。」そのうちの一人がすぐに駆け寄り、海綿を取ってそれに酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けてイエスに飲ませようとした。ほかの者たちは「待て。エリヤが救いに来るか見てみよう」と言った。」


「エリ」とは「わが神」という意味のアラム語です。それを旧約の預言者エリヤと聞き違えたのでしょうか。「やあ、あのエリヤを呼んでいるのか。エリヤが助けに来ると言うのなら、見てやろう。」と騒ぎだす者たちがいる。かと思えば、飲み残しの安ぶどう酒を飲ませ、主イエスの延命をはかる者もいました。但しこれは、慈悲の心からというより、主イエスがより長く苦しむ様を楽しもうという冷酷な心から差し出されたものと考えられます。

こうして読み進めてくると、十字架の受難と忍耐に意味はあったのか。主イエスの死は私たちにどんな恵みをもたらしたのかと心配になります。しかし、続く出来事は、主イエスの死の恵みが確実に私たちのもとに届けられたことを物語っていました。


27:50~56「しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子たちの母がいた。」


「すると見よ」と書いたマタイは、主イエスの死とともに起こった出来事に私たちが眼を向けるよう促します。ここには、主イエスがもたらした恵みが三つ記録されていました。

一つは、主イエスを信じる者は神といつでも親しく交わることができるようになったことです。都エルサレムにある神殿の幕は聖なる神と罪人を隔てるシンボルでした。旧約聖書の時代、ただ一人イスラエルを代表する大祭司が、年に一度だけ神のご臨在を示す至聖所に入る際、通ることが許されていた幕。他の人すべてを神から遠ざけていた幕が、この日主イエスの死によって完全に裂けたと言うのです。

主イエスを信じる者は大人も子どもも、富める者も貧しき者も、健康な人も病人も、社会的立場があってもなくても、神を父と呼び、親しく交わる恵みを与えられたこと、確認したいところです。

主イエスの十字架の死がもたらした恵みの二つ目は、すべての人が恐れる死に対する勝利でした。この日神のさばきによって地震が起こり、都にある墓が開きました。そこから聖徒即ち神を信頼する死者が、主イエスの復活の後復活し、都の人々の前に現れたと言うのです。この事実を記録しているのはマタイの福音書だけです。

主イエスの十字架の恵み、その三つ目は罪人の心にもたらされる信仰です。主イエスの死は、十字架刑の執行人であるローマ軍団の百人隊長とその部下数名を神聖な告白者へと導きました。彼らは自らの手で十字架につけた主イエスに対し「この方は神の子であった」と告白したのです。

百人隊長とその部下と言えば占領軍の勝利者です。属国の民ユダヤ人を見下していた誇り高き帝国軍人です。彼らから見れば十字架につけられた主イエスの存在など虫けら同然、同情心のかけらさえ持ち合わせてはいなかったでしょう。

それがどうしたことでしょうか。十字架上の主イエスの忍耐と謙遜、ご自分を嘲る者たちへの愛、父なる神に信頼する姿などを見るうちに高慢な心が砕かれ、ついに「この方は神の子であった」という信仰が芽生えたのです。

この時、十字架のまわりにいた都の人々は主イエスを嘲るばかり。主イエスの弟子でさえ、三人の女性はその恩を忘れず、主イエスの姿を遠くから見守っていたものの、男の弟子ときたら十字架の場にいたのはヨハネただ一人、他はみな離れ去っていました。ですから、余計に百人隊長とその部下に与えられた恵みが際立つ場面です。私たちも十字架の主イエスを自分の救い主と告白する信仰を与えられた恵み、感謝したいと思います。

以上、主イエスの十字架の死の場面を読み終え、皆様は何を思われるでしょうか。どの様な恵みを受け取ることができたでしょうか。私が受けた恵みは、十字架に示された自分の罪の悲惨さと、それにも関わらず注がれる神の愛です。

ウェストミンスター大教理問答第152問は罪について語ります。「問、すべての罪は、神の御手にあって何に価するか。答、すべての罪は、最も小さい罪でも、神の主権、慈愛、きよさに逆らい、神の正しい律法に反するものであるから、この世でも来世でも神の怒りと呪いに値する。私たちの罪はただキリストの血による以外に贖われることはできない。」

父なる神は主イエスを徹底的にさばきました。十字架刑による肉体の痛みや人々の嘲りによる精神的苦しみだけでなく、直接御手を下して主イエスを神の愛のない世界に落とし、見捨てたのです。主イエスが受けた神の怒りとのろいは、本来私たちが受けるべきものでした。

父なる神には愛する御子イエスをさばき、見捨てなければならない苦しみがありました。御子イエスには愛する父にさばかれ、見捨てられる苦しみがありました。何故父なる神も、主イエスもこれ程の苦しみを引き受けられたのでしょうか。それはひとえに、全く愛される理由などない者、愛されるに値しない私たちへの愛の故なのです。

今週は特に受難週となります。神の聖なる眼から見る時、私たちの罪がいかに酷いものであるのか。それにもかかわらず、神にとって私たちの存在がどれ程かけがえのない、大切なものであるのか。そのことを思い巡らしつつ、主の行かれた道を進む者でありたいと思います。

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