2020年4月12日日曜日

イースター「十字架と復活に向けて(5)~いつもあなたがたとともに~」マタイ28:1~20


 今年の受難節「十字架と復活へ向けて」と言うテーマのもと、私たちはマタイの福音書の終盤を読み進めてきました。第一回は「耐え忍ぶ」という題で24章を取り上げ、神がこの世界を新しくしてくださる希望を抱きつつ、世界規模の混乱や苦難を忍耐する必要があることを学びました。
第二回は「小さな者たちの一人にしたこと、しなかったこと」という題で25章を開き、主イエスの再臨を待つ間私たちには、貧しい者、飢え渇く者、虐げられる者、迫害される者に仕える使命が与えられていること確認しました。第三回は「激しく泣いた」という題で26章を読み、十字架の苦難を目前にしながら、ご自分を裏切る弟子たちを思い、彼らに愛を注ぐ主イエスの姿を見ることができました。先週の第四回は「この方は神の子」という題で27章を扱い、十字架で父なる神にさばかれた主イエスが私たちにもたらした三つの恵み、神との親しい交わり、死に対する勝利、信仰を覚えることができたのです。
そして、今朝読み進める28章は主イエスの復活を記す章。「さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方…」ということばで始まります。

28:1~4「さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。」

二千年前の春四月、主イエスが死より復活した朝、墓にやって来たのは女たちです。マタイはマグダラのマリアともう一人のマリア、これは主イエスの弟子ヤコブとヨハネの母のことですが、二人の女性の名をあげています。ルカはこれに加え数名の女性の名をあげていますから、恐らくこの二人のマリアが女性たちのリーダーだったのでしょう。
女性たちはアリマタヤのヨセフの協力によって、主イエスの遺体を十字架から降ろし、埋葬するのを見守りました。しかし、その埋葬は慌ただしく行われ、花飾りも賛美歌もない、侘しいもの。その一部始終を見守ると、彼女たちは夜道を帰り、安息日は一日中家に閉じこもっていましたが、日曜日となるのを待ち、墓に戻って来たのです。三日前には、遺体に香料もかけず葬ったので、今日こそはと思い、急いで墓に来たらしいのです。
道を急ぐ女性たちには一つの心配がありました。それは、墓の入り口を固く閉ざす大きな石の扉のこと。「男の手だって動かすのが大変な石の扉を、女の手で動かすことができるだろうか」との心配です。
しかし、墓に到着した女性たちは驚き、息をのみました。突如地震が起こり、天から降った主の使いが墓の石を転がし、その上に座ったというのです。姿は稲妻の如く、着物は雪の様に白い主の使い。それを見た兵士たちは震え上がり、死人ようになったとありますが、恐ろしさを感じたのは女性たちも同様だったでしょう。
けれども、み使いが語りかけたことばは彼女たちの心に希望をもたらしました。

28:5~8「御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。」

主の使いは「あなたがたが、十字架につけられたイエス(の遺体)を捜しているのは分かっています。」と語りかけました。女性たちにとって、主イエスは既に死者でした。三日前に死んでしまった存在です。語り合ったり、食事をしたり。主イエスはもはや現実の世界でともに生きることのできないお方へと変わってしまいました。愛する者を失い、彼女たちの心は悲しみと失望にふさがれていたのです。
この日の朝、彼女たちが墓に来たのは主イエスの復活を信じていたからではありません。主イエスの復活を期待してからでもありません。「イエス様の遺体に香料をかけ、香油を塗り、せめて人並みの埋葬をしてあげたい。そうすることで、少しでも恩に報いることができたら…。」これが彼女たちのささやかな願いだったでしょう。
しかし、「主イエスはここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。」と告げられた時、実際に墓がからであるのを確認した時、彼女たちは復活の証人となるよう命じられたのです。そこに主イエスが現れます。

28:9~10「すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」

主イエスの復活という最も大切な出来事の証人として最初に選ばれたのは、当時ユダヤの裁判において証人の資格なしと考えられていた女性でした。そんな世間から見下されていた女性の弟子を励ますため、主イエスは親しく近づき、「おはよう」と声をかけたのです。
懐かしい主の声を聴き、安心した女性たちは主イエスの体に触れ、礼拝し、勇気を与えられました。死んでしまったイエスを思い、悲しみと失望の中に沈んでいた女性たちが、復活の主イエスとともに未来に向かって歩み出したで瞬間です。
他方、この出来事に慌てふためいたのが主イエスを十字架刑に定めた張本人、祭司長や長老らユダヤの指導者たちでした。彼らは自分たちの権威を危うくしかねないこの出来事を封じるべく計略を練ります。

28:11~15「彼女たちが行き着かないうちに、番兵たちが何人か都に戻って、起こったことをすべて祭司長たちに報告した。そこで祭司長たちは長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。「『弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」そこで、彼らは金をもらって、言われたとおりにした。それで、この話は今日までユダヤ人の間に広まっている。」

自分達が十字架にかけた主イエスが復活したら、いや実際に復活しなくても噂が流れるだけでも絶体絶命、万事休すと考えたのでしょう。指導者たちはこの出来事をなかったことにすべく、番兵に金を握らせました。総督に対し、もっともらしい弁明をするよう知恵を授け、いざとなれば自分たちも説得に協力することを申し出たというのです。
しかし、よく見ると、この弁明は不自然でした。墓泥棒が活動している間番兵が眠り込み全く気がつかないという状況は不自然です。また、それ程熟睡していたのなら、遺体を盗んだのが弟子たちであることに気が付くというのも極めて不自然でしょう。
けれども、こんな辻褄の合わない話が真実であるかの如く、ユダヤ人の間に広まっているとマタイは書いています。当時の人々にとって、主イエスが死者の中から復活したという事実がいかに受け入れがたいことであったか。それを物語るエピソードです。
今も書店に並ぶキリスト教の本の中を見ると、「主イエスは十字架で死んだのではなく気絶していたにすぎず、墓の中で意識を回復し墓から出て来た」とか、「弟子たちがイエスの遺体を持ち去り、復活をでっち上げた」とか。主イエスの復活が歴史の事実であることを認めたくない人間たちの理屈は後を絶ちません。
しかし、そんな指導者たちの努力もむなしく、復活を信じた男の弟子たちが主イエスに会い、主イエスを礼拝すべく、皆でガリラヤに向かったとマタイは語るのです。

28:16~20「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

ヨハネの福音書によれば、主イエスが復活した記念すべき朝、彼らは「ユダヤ人を恐れて(家の)戸に鍵をかけていました」(20:19)。何故でしょうか。
マタイの福音書26章で確認しましたが、十字架の前日弟子たちが逃げ去ることを主イエスが預言した時、彼らは何と言ったでしょうか。皆が声をそろえて「たとえ他の者が躓いても私は躓きません。あなたから離れません。」と豪語したのではなかったでしょうか。それなのに、ペテロときたら大祭司の庭で三度「イエスなど知らない」と主を否定し、他の弟子たちもそれ以前いち早く逃げ去るという情けなさでした。
 彼らは主イエスを裏切ってしまったことに対する自責の念に苛まれていました。悔やんでも悔やみきれない過去に捕らわれ、自分達が犯した過ちから抜け出すことができずにいたのです。
 しかし、主イエスに言われた通りガリラヤに行き、主イエスと出会い、礼拝した時、彼らは過去から解放されました。何故なら彼らの罪を負い、十字架にかかり、死んで葬られ、復活した主イエスが彼らに生きる目的を与え、「世の終わりまであなたがたとともにいる。」と語りかけてくださったからです。
 但し、「中には疑う者たちもいた」とあることばが気になるという方もいるでしょう。しかし、この「疑う」ということば、完全な疑いとか不信仰というより、ためらいがちな信仰、半信半疑で確信のない信仰を意味すると考えられています。そうだとすれば、これはむしろ私たちにとって慰めです。復活に確信が持てない者をも、主イエスは「わたしの兄弟」と呼び、礼拝に招いておられるからです。
以上、マタイの福音書28章を読み終え、皆様は何を感じられたでしょうか。この箇所を通して、受け取ったメッセージは何でしょうか。私は、私たちを悲しみと苦しみの過去から解放し、未来に向かって歩み出す恵みを与えてくださる主イエスが、今も生きておられるのを確認し、覚えることができました。
皆様も二人のマリアのように愛する者を失い、悲しみと失望に落ち込んだ経験がおありかと思います。すべてがむなしく、生きる意味すら感じられない時を過ごした方もあるでしょう。また、男の弟子たちのように、悔やんでも悔やみきれない過ちを犯してことはないでしょうか。自責の念と後悔に捕らわれ、立ち直れないという経験はないでしょうか。人は誰しも過去に捕われてしまうことがあるのです。
しかし、私たちはその過去に戻り、やり直すことはできません。けれども、やり直すことはできなくてもその過去から解放されることはできるのです。何故なら、事実二千年前ユダヤの都エルサレムで主イエスが私たちの罪を負い、十字架にかかり、死んで葬られ、三日後に復活したからです。
私たちの救い主は死にとどまってはいませんでした。主イエスは過去に捕らわれてはいないのです。主イエスは復活し、今も生きておられるのです。そして、主イエスを信じる私たちも主イエスとともに生きてゆくのです。
悲しみと失望の過去から解放され、自責の念と後悔の過去から解放され、過去にではなく未来に向かって私たちは生きるのです。悲しみではなく喜びを胸に、嘆きではなく感謝に満たされ、さばきではなく罪の赦しを手にして、復活の主イエス・キリストとともにこの世界を歩んでゆくことができるのです。
私たちが歩む道は決して平坦ではありません。マタイの福音書24章で主イエスが語られたように、今回のコロナウィルスの様な世界規模の混乱を繰り返し経験しなければなりません。教会に対する苦難をも忍耐しなければならないのです。
しかし、そうであったとしても、やがて主イエスが到来して、すべての罪、すべての争い、すべての苦しみを取り去り、必ずこの世界を新しくする日が来る。これが私たちの確信です。
「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」今朝私たちはこの困難多き世界を、復活の主イエスと主イエスを信じる兄弟姉妹ととともに歩む恵みが与えられていること、心から感謝したいと思うのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿