2020年7月5日日曜日

Ⅰコリント(34)「今や、キリストは」Ⅰコリント15:20~34

古今東西昔から今に至るまで、あらゆる人々が死後の命について考え、語り、論じてきました。 小畑進先生が「慶弔学辞典」という本の中で様々な人物の考え方を示していますが、大きく四つにまとめることが出来るようです。

人間の命は物質のみから成り立ち、肉体とは別に死後も存在する霊魂はあり得ないと考える死後の命否定派。それに対して、人間の命は肉体と霊魂から成り立ち、肉体が霊魂の正しい活動を妨げていることからこの世での苦しみが生まれる。しかし死によって肉体は土に帰り、苦しみから解放された霊魂は永遠に生きるとする霊魂不滅派。これは古代ギリシャの哲学者プラトンによって唱えられ、盛んになった考え方です。

三つめは死後の命期待派。彼らは道徳的に正しい生活を送る人は幸福に恵まれ、逆に罪深い生活を送る人は不幸であるはず。つまり正しい人は幸福で悪い人は不幸。道徳と幸福とは一致しなければおかしいと考えます。ところが、現実の世界を見ると正しい人が馬鹿を見て、悪い奴ほどよく眠ることが多い。だからこそ善人に幸福が、悪人に不幸がも与えられる。そんな理想の世界がこの世の後になければならない。いやあって欲しい。そうでなければこの世において誰も正しい生活を送ろう等とは思わなくなってしまう。そう主張するのです。

四つ目は判断停止派で、お釈迦さまも孔子もこの立場であることを、先回紹介しました。死後の命はあるともないとも言えない。それは人間には判断できないことだと言うのです。

否定派や霊魂不滅派には確たる証拠がありません。第三の期待派も気持ちはよくわかるけれども、これも証拠を欠きます。つまり、もし聖書がなければ、もし主イエスの復活がなければ、誰も死後の命について確信を持つことはできないのです。

 ところで、今私たちが礼拝で読み進めているコリント人への手紙が書かれた紀元1世紀、ギリシャローマ世界の人々は死後の命についてどう考えていたのでしょうか。勿論、否定派も期待派も判断停止派もいたでしょう。ですが、当時人々に圧倒的な影響を与えていたのは、霊魂不滅論でした。人々は霊魂、精神は重んじても、肉体は卑しいもの、悪しきものと見なしていたのです。

このような世界に生まれた教会に、たとえ洗礼を受けたとしても日が浅く、死者の復活の教えついて消化できていない者、ふとしたことから肉体の復活について疑問を感じる者がいたことはよく理解できます。

ですから、そんなコリントの教会のために主イエスの復活が歴史の事実であることを、これまでパウロは説明してきたのです。復活の主と出会った人々が今もなお沢山生存し、彼らに尋ねればイエス復活が事実と確認できること、パウロを含めた使徒たちが、たとえ苦しめられても、たとえ命を失うことになっても、主イエスの復活を伝えてきたこと。使徒が示す証拠は豊富で多彩でした。

その上で、もし私たちが主イエスの復活に、単なる人間的な望みをおいているだけだとしたら、およそクリスチャン程哀れな人間はこの世に存在しないとまで語っていたのです。

こうして、説明の第一弾を終えたパウロはここで主イエス復活の事実を改めて宣言します。主エスの復活がひとりイエスにとどまらず、主イエスを信じる私たちの復活に通じる重大な出来事だと言うのです。

 

15:20~23「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。」

 

主イエスが十字架に死に三日後に復活した時、ユダヤでは過ぎ越しの祭りが行われていました。その祭りの際神殿にささげられる麦の初穂は、ユダヤ全国の田園にあふれる麦の豊作のしるしでした。それと同じく、主イエスの復活は死者の復活の初穂、やがて起こる主イエスを信じる者たちの復活のしるしなのです。そして、二千年前の復活は、昔からすべての人が屈服してきた死の力に、主イエスが勝利した証拠でもあります。パウロは言います。「死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。」

昔から人間は死後の命について考えてきました。否定論、霊魂不滅論、期待論、不可知論。様々な考え方がありました。しかし、そこには一つの共通点があったのです。何故人間は死ぬのか。死の原因は問わないという共通点です。すべての人間にとって死は人生の大前提だったのです。

けれども、聖書は違います。パウロは人間が死ぬようになったのは、ひとりの人アダムが神に背き、罪人となったからだと語ります。死は初めからあったものではなく、人類の先祖アダムの罪を通してこの世界に入ってきたと教えています。そして、ひとりの人アダムによってすべての人が死んでいるように、ひとりの人イエスによってすべての人が生かされると言うのです。主イエスが人間の罪を贖い、死に勝利されたのです。イエスによって世界に永遠の命がもたらされたのです。

とは言え、コリントの教会の中には、こんなことを言う人がいたのかもしれません。「主イエスが死後三日目に復活したのなら、どうして私たちも三日目に復活しないのか。」それに対して使徒は「先ず初穂である主イエスが復活し、次に主イエスが再臨する日私たちが復活する。それが神の定めた順番なのだ。」と答えています。

親は生まれてくる我が子のために最善の環境を準備します。親なら誰でも可愛い我が子を危険な世界で育てたいなどとは思わないでしょう。神も同じです。神は私たちを争いと危険と苦難に満ちたこの世界に復活させたいとは考えておられないのです。この世で十分労苦した者たちには、それにふさわしい世界が用意されているのです。新しい体で復活した者には新しくされた世界がふさわしいと考えておられるのです。そして、主イエスが再臨する時この世界は新しくされ、本来あるべき姿へと回復するのです。それが終わりの時つまり神のご計画が完成する時なのです。

 

15:24~27a「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。最後の敵として滅ぼされるのは、死です。「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。」

 

神に逆らう支配、権威、権力がすべて滅ぼされた世界。主イエスが王として治める世界。アダムの昔から人間を苦しめてきた死が滅ぼされた世界。平和、正義、いのちの喜びに満ちた神の国の完成です。これこそやがて主イエスが確立し、私たちが住むべき国なのです。

紀元1世紀末、最盛期を迎えたローマ帝国は世界の面積の4分の1にも及んだと言われます。文字通りの世界帝国です。当時ローマに並び立つ権威はこの地上に一つも存在しなかったのです。

そんな時代に生きながら、パウロは全世界がキリストの平和によって支配される日を思い、凱歌を挙げています。キリスト教と言ってもまだ始まったばかり。教会もごく少数であり、ローマ帝国の勢いとは比べるべくもない状態にありながら、死者の復活と新しい世界の到来を確信していたパウロ。神と神のご計画に対する信頼がいかに強く、篤かったか。驚くばかりです。果たして、私たちは神と神のご計画をどれ程信頼しているのか。問われるところでもあります。

さらに、使徒の凱歌は続きます。最後は新しくされた世界の王、主イエスが父なる神に従う時、神がすべてのすべてとなるのです。

 

15:27b~28「しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」

 

今も昔も時代、神に逆らう者は大勢います。神を無視する者も大勢います。この世の人々はいつの時代も、主イエスの福音をあざ笑い、主イエスがこの世界の王であることを認めては来ませんでした。しかし、たとえそうであったとしても、主イエスは再臨するのです。その日、神がすべてにおいてすべてとなられるのです。神のみこころが天になるごとく、地上に神の国が完成するのです。すべての人と被造物が神と主イエスをほめたたえるのです。

こうして壮大な凱歌を歌い終えたパウロは、死者の復活がなければ、この世界が新しくされる日が来なければ、コリントの人々の人生も、使徒自身の人生も本当に無益で、虚しいと説きます。

 

15:29~32「そうでなかったら、死者のためにバプテスマを受ける人たちは、何をしようとしているのですか。死者が決してよみがえらないのなら、その人たちは、なぜ死者のためにバプテスマを受けるのですか。なぜ私たちも、絶えず危険にさらされているのでしょうか。兄弟たち。私たちの主キリスト・イエスにあって私が抱いている、あなたがたについての誇りにかけて言いますが、私は日々死んでいるのです。もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。」

 

「死者のためにバプテスマを受ける」とはどういうことなのか。新約聖書中難解なところの一つです。尤も有力とされる説は5つ程に絞られ、中でも死者の身代わりに受けるバプテスマ、死者の代理として受ける洗礼を指すというのが妥当な説のようです。

このような洗礼は聖書には教えられていません。ただ紀元2世紀の記録に「主イエスを信じていた人が突然の病等で亡くなった場合、その友人が死者に代わって洗礼を受け、死者が教会員名簿に載せられる」。そんな風習が記されているそうです。断定はできませんが、恐らくこれがコリント教会で行われていた洗礼とされます。勿論、この洗礼をパウロが良しとした訳ではありません。しかし、もし死者の復活がないのなら、あなたがたが行っている様な洗礼に、一体何の益があるのかと言うのです。

また、パウロ自身も苦難の連続、日々死の危険と隣り合わせの生涯を送っていました。中でも代表的な出来事として挙げられているのは「エペソで獣と戦ったこと」です。これが文字通り競技場に引き出され、獣と戦った経験を指すのか。それとも、獣の様に獰猛な人間たちの攻撃に苦しめられた経験を指す、比喩的表現なのか。意見が分かれるところですが、後者の説が有力です。その際の恐怖、苦しみを物語る言葉がコリント人への手紙第二に記されています。

 

1:8~9「兄弟たち。アジアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。」

 

非常に激しい苦難、耐えられないほどの圧迫、生きる望みを失い、死刑の宣告を受けるに等しい恐怖。しかし、そんな経験が益になったとパウロは言うのです。その様な出来事を通して、私は自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者になれたと告白しているのです。

私たちが願うのは平穏無事な人生です。私たちにとって苦難も危険も圧迫も恐怖も受け入れ難く、喜ぶことのできないものばかりです。しかし、私たちの神はその様な時ともにいてくださるのです。神は必ずやともにいてくださり、私たちを復活信仰へと導いてくださるのです。私たちにとって受け入れ難い出来事にも、復活信仰の確立という尊い意味があることを教えられます。

 

15:34「目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。神について無知な人たちがいます。私はあなたがたを恥じ入らせるために言っているのです。」

 

神について無知な人たち、神が死者をよみがえらせることを信じられない人にとって、正しい生活を送り、罪を犯さないようにするのは容易なことではありませんでした。何故なら、当時コリントの町には死者の復活を否定する人々が大勢いたからです。たとえ肉体で罪を犯しても、死と共に肉体は滅びてしまうのだから、霊魂の救いには関係なしとする異端的な教えがコリントの教会には存在したからです。そんな人々を友とし、親しく交わることによって感化され、罪を犯し、キリスト教信仰から離れてゆく者がいたのです。

だから、この世の人々との交際に注意しなさい。神を否定する人々の考え方や価値観に流され、信仰の道からそれてしまわないように。そうパウロは警告しているのです。

果たして、今この日本で、死者をよみがえらせることのできる神に対する信頼から私たちを引き離すものは何でしょうか。この世の富でしょうか。この世の快楽でしょうか。この世の栄誉でしょうか。安定した、快適な生活を追い求める心でしょうか。死者の復活を否定するキリスト教会の教えでしょうか。

しかし、それが何であれ、私たちは復活の信仰に堅く立ち、正しい生活に励み、神の栄光をあらわしてゆくのです。私たち四日市キリスト教会はこの世の風潮に流されず、正しい教理から逸れず、復活の主イエスとともにこの世を歩んでゆくのです。行く手に体の復活と新しくされた世界が備えられていることを確信し、皆で主イエスに従ってゆきたいと思うのです 


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