2020年7月12日日曜日

Ⅰコリント(35)「どのような体でよみがえるのか」Ⅰコリント15:35~49

「生けるもの ついには死ぬるものにあれば この世ある間は 楽しくをあらな」。最後は死ななければならないのなら、せめてこの世にある間は楽しくありたいものだ。万葉集にある大伴旅人の歌です。旅人は酒を浮世の友と思い、この歌を詠んだとされます。この世がすべてであるなら、死をもって人生が終わるのなら、旅人の気持ちはよく分かります。

 「体が死ぬ時には、その作用である精神も同時に消滅するというのが理である。一本の薪が燃え尽きれば、炎と灰が同時に消えるとの同じである。肉体が消滅しても精神は存在し続けるというのは矛盾ではないか。いやしくも宗教に毒されていない、死後の命等というものを勝手に考え出さない、健全な頭脳には理解されるはずがない。体は本体、精神はその働き、作用である。体が死ねば精神、霊魂も即なくなるのである。それがいかに情けない説であっても、真理ならば仕方がないではないか」。無神論者の中江兆民という人が病の床で、死後の命を笑い飛ばした文章の一節です。

 もし、この世界に聖書がなければ、もし、二千年前主イエスが墓の中から復活しなかったなら、死と共に肉体も霊魂も消滅し、人生にピリオドが打たれるというこの考え方に、私たちも同意するしかなかったかもしれません。

 しかし、今から二千年前紀元1世紀のギリシャ社会で、真っ向から死後の命を説いていたのが使徒パウロです。それも当時盛んであった霊魂不滅論、肉体は死をもって消滅しても霊魂は永遠に生きるという教えを否定し、死後における肉体の復活を宣べ伝えていたのです。

 死をもって一巻の終わりと観念するのではない。肉体は滅びるとしても、せめて霊魂だけは生きられればと願うのでもない。主イエスによって霊魂も肉体も新しくされた人間が、主イエスによって新しくされたこの世界で永遠に生活する。それまでどんな宗教も教えなかった復活を、誰一人考えることのできなかった死後の命を、パウロは伝えていたのです。ユダヤ人に迫害されても、ギリシャ人に嘲られても、断固死者の復活を宣べ続けてやまなかったのです。

 私たちが礼拝の際読み進めているコリント人への手紙第一も終盤の第15章。聖書中最も詳しい復活論として有名なところです。この手紙の宛先、コリントの教会には洗礼を受けてキリスト者となったものの、主イエスの復活についてあやふやな者、死者の復活について疑問を感じている者がいたようです。

 そんな人々に対し、パウロは主イエスの十字架の死と復活こそキリスト教の要と伝えてきました。今も生きる多くの証人たちに尋ねれば、主イエス復活の事実を確認できることを示してきました。パウロ自身も他の使徒たちも本当に復活の主に出会ったからこそ、命がけで復活を宣べ伝えてきたと告げました。もし、主イエスが事実復活しなかったら、キリスト者ほどこの世であわれな者はいないとまで語っているのです。 

また、主イエスの復活は主イエスを信じる者の復活の初穂、しるしであり、主イエスを信じる者の復活は再臨の時起こること、もし主イエスを信じる私たちに復活が起こらないのなら、神に従いその結果迫害されるキリスト者の人生は虚しいと告白しているのです。

しかし、それでもまだ肉体の復活について疑問を感じる者がいたのでしょう。彼らは「もし肉体が復活するとして、それはどんな有様でよみがえるというのか」と尋ねたようなのです。

 

15:35~38「しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません。また、 あなたが蒔くものは、後にできるからだではなく、麦であれ、そのほかの穀物であれ、ただの種粒です。しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。」

 

彼らは肉体の復活を否定することがまともな人間の理性的判断だと自らを誇っていました。肉体の復活を信じる者が多かったユダヤ社会にも、それを否定するサドカイ人がいて、主イエスと論争したことが福音書に記されています。ユダヤでもそうなのですから、霊魂不滅論が盛んで、肉体が軽視されていたギリシャ社会では、多くの人が肉体の復活をありえないことと考えていたのです。

そんな社会の影響を受けていた人々に対し、パウロは自然界に目を向けるよう勧めます。「あなた方は地に蒔かれた植物の種が成長し、変化する様を見たことがないのですか」と言うのです。

見栄えのしない、固い種が大地に蒔かれ、土の中に死ぬと、思ってもみなかった瑞々しい若芽を出します。美しい花を咲かせ、豊かな実を結び、大樹へと変わるのです。植物においてそうだとすれば、人間の体も土に葬られ、解体され、やがて思ってもみない優れた体に変わることがないと言えるだろうか。いや、神なら、私たちの死後、私たちの体をも新しくよみがえらせることが出来るに違いない。当然できるはずだとパウロは言うのです。

さらに、使徒は魚、鳥、獣、人の肉体、また天体にも目を向けてゆきます。

 

15:39~41「どんな肉も同じではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違います。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。」

 

パウロが言いたいのは、現在の肉体と復活後の肉体とは同じ肉体でありながら、なお質的な違いがあるということです。人と獣、人と鳥、人と魚体が異なるように、私たちの地上の体と復活後の体も大いに異なると言うのです。

百獣の王ライオンは地上を走り、獲物をとるという点において優れていますが、ライオンの体は水中では無力です。海の帝王サメは水中において凄まじい力を発揮しますが、サメの体も地上では無力です。空の王者である鷲は空中では無敵ですが、鷲の体も地上や水中では力が半減するのです。

神は各々の動物にその境遇にふさわしい体を与えています。同じく、神は私たちに地上の生活ではそれにふさわしい体を、新しくされた世界ではそれにふさわしい体を与えてくださるのです。

続いて使徒は天上の体、つまり天体へと目を向けます。地上に生きる人間、獣、鳥、魚の体の相違はこれまで見たとおりです。しかし、これらを一まとめにして地上の体とすれば、太陽、月、星々といった天体の栄光、輝きは一段と異なり、これもまた多種多彩だと言うのです。

古代の占星術では土星は黒、木星はオレンジ、火星は緋色、太陽は金、水星は藍色、月は銀、金星は白というふうに、各々の輝きが分けられていたそうです。地上の体が多種多彩であるように、個々の星の輝きも多種多彩なのです。こうして、地上にも天にも多種多様な体を創造した神が、主イエスを信じる私たちのために、現在の体とは別の、より優れた体を創造できないはずはない。そうパウロは確信しているのです。

私たちは葬儀の際遺体を火葬します。焼かれた体は骨と変わり、灰と化します。私たちはそれを教会の墓に埋骨するのです。けれど、聖書によれば、埋骨は体の処分や廃棄ではありません。種まきなのです。再臨の時来れば、私たちの体はこの地上のとは異なった姿でよみがえるのです。

ここにパウロは四つの対句を用い、地上の体と復活の体の特徴を描きだします。

 

15:42~44「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」

 

朽ちるもの、卑しいもの、弱いもの。これらが地上の体の特徴で、地上の体は「血肉の体」と呼ばれています。それに対して、朽ちないもの、栄光あるもの、力あるもの。これらが復活の体の特徴で、復活の体は「御霊に属する体」と呼ばれています。

血肉の体は病み、衰え、様々な弱さを抱えています。それに対して、御霊に属する体は病むことなく、常に美しさと健康を保ち、力に満ちているのです。勿論、現在の人体も神が創造した作品であり、傑作です。しかし、この地上の肉体でさえ卑しく、弱いものと思えるほどの素晴らしい体を、神は私たちに与えてくださるのです。

注意したいのは復活の体も私個人の体であることです。神が与えてくださるのは、私とは別の体ではなく、新しくされた私の体なのです。個性は失われず、人格をきよめられた私たちは再臨の時、すべての点で現在の体よりも優れた、良い体を与えられるのです。

復活した主イエスと弟子たちが交わした会話に興味深いものがあります。

 

ルカ24:36「これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。」

 

ご自分を幽霊と思い込み、震えあがった弟子たちに、主イエスは言います。「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」私たちは天国で体なしに生活するのではありません。神が与えてくださる体をもって生活するのです。朽ちることなく、栄光にあふれ、力に満ちたその体は私たち自身の体なのです。天国で私たちは、私の手で親しい者と握手し、私の手で愛する者を抱きしめるのです。天国でも私たちは自分自身であり続けるのです。

ところで、パウロはこれが自分勝手な想像ではなく、神のご計画であることを旧約聖書の創世記から確認してゆきます。念には念を入れているのです。

 

15:45~49「こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。」

 

ここでパウロは人類の先祖アダムを「最初の人、第一の人、土で造られた人」と呼び、主イエスのことを「最後のアダム、第二の人、天に属する方」と呼んでいます。聖書は、アダムを代表者とする血肉の体を持つ者のグループと、主イエスを代表者とする御霊の体を持つキリスト者のグループの二つに人類を分けています。

そして、各々のグループには、各々に異なった定めがあるのです。神から命を受けたアダムが神に背いて死ぬべき者となったように、アダムの子孫はみな罪のゆえに死に、神のさばきを受ける定めにあります。しかし、二千年前主イエスはこの世界に来て人類の罪を贖い、永遠の命を与える者となりました。ゆえに、主イエスを信じる者は誰であれ、神のさばきを免れ、主イエスと同じ復活の体を持つことになるとパウロは言うのです。

以上、肉体を不潔なもの、悪いものと考えるギリシャ風の霊魂不滅論に流されず、神の教えと主イエス復活の事実に基づき復活を確信するパウロ。その人生観は次の言葉に示されています。

 

コリント6:19~20「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」

 

私たちキリスト者が永遠に行うべきことは何でしょうか。それは地上でも、天国でも自分の体をもって神の栄光をあらわすことです。地上であれ、天国であれ、私たちは食べるにも飲むにも、何をするにも神の栄光をあらわすのです。

 私たちは復活があるからと言って、地上の体を軽んじてはなりません。地上の体も神の尊い作品、聖霊の宮なのです。この体を用いて神の栄光をあらわすべきなのです。私たちは家庭でも、教会でも、社会においても、この体を用いて神のわざに励むべきなのです。

他方、地上のわざをすべてとし、主イエスの再臨を忘れてはならないとも思います。地上で私たちがなすわざはことごとく不完全です。私たちの働きでこの世界を新しくすることはできないのです。私たちの心とわざをきよめ、この世界を新しくする主イエスの再臨を謙遜に、熱心に待ち望む必要があるのです。また、この地上は神を無視する世界です。正義よりも悪が勝利し、平和よりも争いが支配する世界です。神のわざに励む者が軽んじられ、苦しめられる世界なのです。そして、私たちはこの世界でしばしば失望し、落胆し、無力を覚えるのです。しかし、そんな時弱き私たちを支えてくれるのが、主イエスの再臨と復活の希望なのです。

私たち四日市キリスト教会が、自分たちの体をもって神の栄光をあらわす歩みを、地上でも天国でも進めてゆきたいと思うのです。


0 件のコメント:

コメントを投稿